新・伊野孝行のブログ

2025.7.22

人はなぜ風景を描くのか

暑中お見舞い申し上げがてら個展のお知らせをば。
来たる8月22日(金)〜8月27日(水)表参道のHBギャラリーで個展「人はなぜ風景を描くのか」が開催されます。

前回の展示が、4月に開かれた「ぼくらの好きな画家」(南伸坊さんとの二人展@外苑前のスペースユイ)だったので、たったの4ヶ月しか経っていない。場所も近い。
前回のテーマは「肖像画」で今回は「風景画」。大きく言えばどちらも美術をテーマにした展示なので、前回と似たような絵にならないようにするのが一番苦心したところです。またやるの?また同じような絵?と思われたくないんじゃー。


DMデザイン:B GRAPHIX

風景画はセツ・モードセミナー時代にはよく描いた。前にも書いたと思うけど、セツには毎年6月に学校あげての写生会があった。千葉の外房、大原漁港に点在する小さな民宿にセツの生徒が大勢泊まり込み、数日かけての写生三昧。

当時は朝、宿を出るやせっかちに港を歩き回り、午前中には一枚描き上げていた。なぜあんなに描き急いでいたのか。
もし今行っても、宿で朝食を食べた後、のんびり散歩でもしながら場所を見つけ、本格的に描き出すのは昼ごはんを食べてから……くらいのペースでしか取り組めない。

風景画を描く長沢節。写真は大原漁港ではありません。

そもそもイラストレーターになりたくてセツに行ったのに、なぜ風景画なのか。

長沢節先生は、生徒がいきなりイラストのようなコマーシャルアートに熱中するのは嫌だったのだろう。絵画の方に興味が向くよう生徒たちをいざなった。

実際、やってみると机の前で何かを創り出す作業より、自然を相手に絵を描く方が断然面白かった。絵を描きたいと思ってセツに行ったけど、単なる憧れと衝動だけで、何か表現したいものがあったわけではなかった。だいたいの生徒はそんな感じだ。
「自分が何かを主張しなければならぬ」という作家としての意識(邪魔なだけ)はひとまず置いておいて、自分の外にあるものから描きたいものを見つけてくる。そうすると絵は出来上がる。頭の外にある自然世界を見ることによって、今度は自分の頭が拡大されていく。

セツを卒業してからは、人物の背景としてしか風景を描かなくなった。
美術史を振り返っても、風景画が独立したジャンルになるのはそんなに昔じゃない。モナリザの後ろには風景が広がっているがあくまでオマケとして描かれている。背景にあった風景画が、本格的に主役に躍りでるのは、持ち運びに便利なチューブ入りの絵具が開発された、印象派の画家たちによってだろう。実際に見て歩いて、「なんかここいいな〜っ」という景色を描くようになった。

風景を探しに行く画家

風景が主役ということでいえば、西洋より中国の方が早かったかもしれない。日本の文人画家たちは、心の中にある憧れの中国の景色を描いた。それらは写生とは違う。ゴッホが夢中になった歌川広重だって、自分が行っていない場所の風景画を描いている。

風景画は写生ばかりとは限らない。

しかし頭の中だけで絵を作ろうとするとどうしても観念的になる。最後の狩野派にして近代日本画の立役者である狩野芳崖は、風呂敷を投げて偶然できる形を元に山水画を起こしたという。なかなかの名案だと思う。

風呂敷山水図、私もやってみた。さてどんな絵になるか?

セザンヌはサント・ヴィクトワール山をなんべんも描きに行っているが、セザンヌの絵と、禅寺の枯山水は同じことを言ってるように、ぼくには思われる。

「自然を円筒形と球形と円錐形で捉えなさい」とセザンヌは言った。

盆栽もミニチュア の風景だ。広重の『東海道五十三次』を盆栽にした『鉢山図絵』というのが楽しい。今回のDMの絵はセザンヌはサント・ヴィクトワール山を鉢山図絵にしてみたのです。

歌川芳重『東海道五十三駅 鉢山図絵』より

司馬江漢が乏しい洋画の知識で描いた七里ヶ浜の絵の、青空の気持ちよさよ。浮世絵でも空間は表せるが、江漢は空の成分まで描きたかったのだろう。江漢の絵を見て、空はなぜこんなに青いのだ⁉︎と彼と感動を等しくする。

司馬江漢『七里ヶ浜図』

犬も猫も鳥も、おそらく風景は見ていない。人間だけが風景に心を打たれたきた。
自然を見ることの快感から生まれた印象派の風景も、想像で描かれた山水画や東海道の風景も、絵を見る楽しみにおいては同じだ。

木の間の家

しかし「人はなぜ風景を描くか」なんてちょっとタイトルが大きく出すぎて暑苦しいですね……ただでさえ暑い時期なのに。自分の個展の中で比較すると、わりと気持ちのよい絵が多いと思うので、良かったら見に来てください。一応毎日フルタイムの在廊予定です。

2025.3.22

ぼくらの好きな画家

このブログも展覧会をやるか、本を出すかの時にしか更新しなくなりました。
今回は展覧会にあわせて本も出るので、更新しないわけにはいきません。

【まずは展覧会のお知らせ】
3月31日〜4月12日外苑前のスペース・ユイで南伸坊さんと「ぼくらの好きな画家」という二人展をやります(日曜休廊なのでご注意を)。

上:南伸坊さんの「本人術」によるマン・レイ。下:私の作品『馬鈴薯を食べるゴッホ』。パレットに油絵具で描いてます。

2010年に原宿にあったリトルモア地下というスペースで「画家の肖像」という個展をやったのですが、伸坊さんに今回の展示のテーマを相談すると、どちらの口からも「画家の肖像を二人で」と意見が一致しました。
読んで字の如く、画家たちの肖像画を描くというテーマです。
音楽家や小説家と違って画家には画家の絵がある。肖像画を描くときに、どうやってその画家の絵や気分を取り込むのかが考えどころ。私や伸坊さんが画家たちと混じり合う様をご覧ください。

【お次に本の紹介です】
前述の2010年の個展を元に、2012年に『画家の肖像』という作品集が出ました。もう品切れ絶版状態になっていたのですが、この度、増補改訂版『Portraits of Painters 画家の肖像』が出ることになりました。40点近い作品を追加し、32P増えた96Pの上製本。ブックデザインは初版に引き続きB-GRAPHIX(赤波江春奈さん+日下潤一さん)にお願いしました。

『Portraits of Painters 画家の肖像』は、版元の888ブックスのサイトで先行予約がはじまっています!

また、全国の書店のみなさま、『Portraits of Painters 画家の肖像』はツバメ出版流通さんでも取り扱っております。amazonでも買えるようになると思います。よろしくお願いします!

画家の肖像シリーズは、ゴッホの『タンギー爺さん』の絵をもじったゴッホの肖像画から描きはじめた。タンギー爺さんはパリの画材屋の店主で、まだ売れない印象派の画家たちの面倒を見てやった奇特な人である。『タンギー爺さん』では背景に浮世絵が描かれている。
描きはじめたものの「これっていわゆるパロディじゃないんだろうか」という思いが頭から離れず、自信を持って進められなかった。いつもは一回の集中力が続く間(長くても五時間)に描き終えるのに、この絵は四、五日かかった。ゴッホ風にゴッホを描いただけで、自分の絵ではないような気がしてしかたなかった。
「自分の絵」だと思いこんでいる絵ってなんだろうか?やっと自分のスタイルができても、そいつを手放した途端、言いたいことの散漫な絵になってしまう。自分は絵についてほんの一部しかわかってないんだ、と心細くなった。そんなことを繰り返してきた。
手慣れた描き方をやめてまったく違う描き方をしても、ちゃんと絵が描けるだろうか。その絵は自分らしい絵になっているだろうか。いや自分の絵なんてない。描けばなんでもそれが自分の絵だ。これは一つの真実。
……そうやって不安になったり、励まされたりしながら描いたのが、この『画家の肖像』だ。画家のタッチや作風を意識しながら、いろんな方法で描いてみる。実験にもなるし、いつもと違う絵が描けるかもしれない。どうすればその人らしい肖像画になるのだろう。
(増補改訂版まえがきより)

ちなみにゴッホの『タンギー爺さん』はこの絵。

なんか気張ったこと書いてますが、基本笑っていただきたいと思っています。陽気も良くなる頃です。バカの季節です。会期中の在廊はSNSなどでお知らせします。みなさまのお越しをお待ちしております。

『おやすみダリ』

2024.9.25

歩いているうちになんとなく

軽井沢の酢重ギャラリーで個展があります(10月11日〜11月5日)。
タイトルは「歩いているうちになんとなく」。歩いているうちになんとなくいいなと思った風景を描きました。


20代の頃は印象派なんてとっくに終わった芸術運動で、いまさらあんな絵を描いてるのはカルチャースクールの生徒さんだけだ、くらいの思い違いをしていた。

印象派の後からキュビスム、シュルレアリスム、抽象、ポップアート……と覆い被さるようにいろんな流派が出てきたせいで、印象派は過激さの少ない善良な絵のように思われているが、やはり極めて前衛だと思う。

無意識が面白いとなったのはシュルレアリスムだが、非言語の世界に最初に飛び込んだのは印象派だ。
それまで風景画として描かれてきたのは、名所かピクチャレスク(まるで絵のようなエモい)な場所だった。印象派の画家たちは、歩いているうちになんとなくいいなと思った風景を描き出した。

なんとなくというのは言葉ではなかなか説明できない「なんかわからんけどいい!」というやつだ。
印象派やその少し後の絵描きたちの風景画には、ここにもここにも描かれてない絵があるぞ、と場所を見つける嬉しさがある。

ウチの近所の生垣
小石川植物園

ゴッホが拳銃を撃った日(最近は、自殺ではなく子どもの悪戯に巻き込まれて撃たれた説もある)、一番最後に描いた絵の場所が特定されたという記事を読んだ。
これがまさしく、歩いているうちになんとなくいいと思ったところなのよ。
もしもその時、ぼくがゴッホと一緒にいて、彼が急にイーゼルを立てはじめたら「え、フィンセント、君はどこを描くの?」と思っただろう。でもゴッホには「おー、ここいいじゃん」というのがあるんだ。

ゴッホ最後の作品《木の根と幹》が描かれた場所を特定。「非常に信憑性高い」(美術手帖のWEB記事)

セツ・モードセミナー時代、毎年6月に千葉の外房、大原漁港で学校を上げての写生会があった。
「もうどこでも絵になるし、どこでも描けちゃう……こんなにたくさん絵になりそうなモチーフがそこらじゅうに転がっているところなんて、おそらく日本中探してもここくらいではなかろうかと思うのである」と長沢節先生は言っていた。
先生がイーゼルを立て始めたら「先生、どこを描くんだろう?」と思う。それは友達に対しても同じだ。
ぼくがさっき素通りした風景から、先生や友達、そしてゴッホは絵を見つける。眼の前の風景の色、形、空間に絵になりそうな手応えを見いだしたわけだ。でも絵になるかどうかは描いてみないとわからない。

ゴッホの最後の絵の現場写真だけを見てもなぜここにピンと来たのか掴みづらい。でも描き上げた絵を見て納得する。ゴッホの眼と手が風景画を作り出した。喜びがみなぎっていて見ていると興奮する。とても自分に絶望している人間の描く絵じゃない。
そんな他人の眼差しに今また興味がある。

大原漁港写生会の様子

個展をやる時は、なるべく仕事で描かないような絵を描きたい。
風景画はセツ時代に描いていたが、あれから四半世紀が過ぎ、なんと50歳も通り越した。その間、試行錯誤したのか、同じところをグルグル回っていただけなのかわからないが、いろんな絵を描くように努めてきた。でも風景画は描いていなかった。
今、自分印の得意技をすべて捨てて、印象派のような眼になって風景を描いてみたらどんな絵が描けるだろう。

おそらくフツーな絵になってしまうだろう。フツーであることはつまらない……いや、それだと印象派を甘く見ていた昔と一緒じゃないか。白湯がうまいと感じる年頃になったのだ。お客さんを白湯でもてなす勇気を持とう。今までのぼくの絵と比べたら面白いところを全部ぬいたような絵なのだが、このマイナスは冒険のつもり。

会期中はずっと滞在しているわけではないので、お越しの方は一報いただけると嬉しいです。軽井沢はもう紅葉がはじまっているのではないでしょうか。去年の11月3日に訪れた時はこんなに美しかった。

2023.2.7

湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を(後編)

好きな絵の話をするのは楽しい。嫌いな絵の話をするのも楽しい。好きな絵のどこをどうして好きなのか、嫌いな絵のどこがどうして嫌いなのか。なんとなくで済ませるところをしゃべりあったらもっと楽しい。
昨年12月に西荻窪の今野書店で行われた、伊野孝行×南伸坊『いい絵だな』刊行記念おしゃべり企画「湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を」の様子をダイジェストでレポートします。司会は今野書店の花本武さんです。(なお、話の順番や発言は当日と全く同じではありません)

浮世絵というシステム

伊野孝行 歌川広重の『東海道五十三次』なんかに出てくる旅人や宿屋の女とか、好きなんですよ。あの人たち見てるとスーッと江戸時代に行けちゃうみたいな。で、鈴木春信も大好きなんですけど、春信の絵に出てくる人を見ても、江戸時代にスーッと誘われる感じにはならない。なんだか自分の知らない江戸時代なんです。むしろ異文化の人が描いた絵を楽しむようなところがあります。春信と広重は70年以上差があるからですかね。

南伸坊 浮世絵って見慣れないうちはみんな同じように見えるけど、浮世絵が描かれた時代って長いんだよね。歌麿が古今亭志ん生だとすると北斎がタモリ、写楽がたけし、広重と国芳は、又吉直樹や千鳥の大悟くらいの齢の開きがある(笑)。

伊野 それだとわかりやすい(笑)

『東海道五拾三次之内・赤阪 旅舎招婦ノ圖』(部分)歌川広重

『若衆に笠を手渡す鍵屋お仙』鈴木春信

伸坊 版元があって、絵師がいて、彫り師がいて、刷り師がいるっていう浮世絵の体制や仕組みが面白いよね。前にさ、写楽は実在してなくて、歌麿とか、他の有名な絵描きが描いてたんじゃないかってさ。

花本武 はい、そういう説がありましたよね。

伸坊 今は斎藤十郎兵衛っていう能役者が写楽の絵を描いてた、っていうのが定説になってるけど、その時分に出たいろんな説の中で、僕が面白いなと思ったのは、まったくの素人で面白い絵を描くやつがいて、版元と職人たちが結託して、そいつを「写楽」という絵師に作り上げたんじゃないかっていう説。斎藤十郎兵衛ってのがまさにその素人なんだ。

伊野 それは愉快ですね。

伸坊 素人の描いた線でも、彫り師が浮世絵っぽい線にできちゃうわけだからね。

結果的に現代美術(笑)な浮世絵師

伊野 素人をプロにしちゃえる浮世絵のシステムのすごさというか。今回取りあげる人も、そんな中で生まれてきた絵師かもしれません。歌川広景(うたがわひろかげ)という人の絵です。

伸坊 そうそう歌川広景は最初、伊野くんに教えてもらった時は、そんなに興味を持ってなかったんだけど、後でよく見たらヘンなの。浮世絵ってどんな人の絵でも、いわゆる浮世絵っぽくなってるもんだと思ってたんだけど、この人、絵の構成とかがめちゃくちゃで、ものすごくヘタなんだ(笑)。でも色とかさ、部分部分はちゃんプロっぽくなってるんだ、職人たちのおかげで。

伊野 これとかまさに。

『江戸名所道外尽 四十三 いひ田まち』歌川広景

花本 本当だ、すごいヘーン!ヘンすぎる!

伊野 建物の中に小さい人がいます(笑)。でも一回遠近感が身についちゃうと、二度とこうは描けないんですよね。

伸坊 こういうの見ると、他の浮世絵にはちゃんと遠近感があるんだなって思うよね(笑)。絵心はないけど、アイデアのある人だったんだ、広景は。

伊野 こっちも広景の絵ですが、けっこうちゃんと描けてると思いませんか?あんなにヘタな人が。

花本 普通にうまいですねー。

『江戸名所道戯尽 四 お茶の水の釣人』歌川広景

伸坊 これはね、もう「現代美術」なんですよ。

花本 え、どういうことですか?

伊野 背景は歌川広重『東都名所 御茶ノ水図』っていう絵の右半分なんですよ。で、僕はこの釣り針が鼻にひっかかってアチャチャチャチャ~!ってなってるところは広景が描いたと思ってたの。でも、実はここは『北斎漫画』にある絵なんですよ。

『東都名所 御茶之水之図』歌川広重

『北斎漫画』十二編 「釣の名人」 葛飾北斎

花本 ハハハ、パクってたんだー(笑)!

伊野 本人は何も描いてなかったりして。

伸坊 うん、おそらく……描いてないんじゃないかな(笑)下書きも描いてないかも。

伊野 広重と北斎の浮世絵を彫り師に渡して、指示だけ出すみたいな。

伸坊 パクリというより「コラージュ」や「引用」の発想なんですよ。本人は上手く描けないからパクってなんとかしたいと思ってたのかも知らないけど、結果としてウォーホルやリキテンスタインたちが発明するずっと前に「現代美術」を先取りしてたんだ。

伊野 現代美術の元祖、デュシャンの『泉』は、既製品の便器を持ってきた「レディメイド」ですから。作ってない。

花本 逆に素晴らしいですねー。いいじゃないですかー。坂口恭平さんの「建てない建築家」みたいな(笑)。

伊野 師匠の歌川広重のこともリスペクトしてなくて、単なる素材として使ってるし。

伸坊 そうそう、弟子じゃない説もあるみたいね。名前も「重」と「景」って見た目が紛らわしくて、広重って読めるようなサインなんですよ。

花本 わー、悪い奴っすね。

伊野 なりすまし、名前を騙る、ってのも現代美術的でしょ(笑)。

ヘタの進化系がうまいではない

花本 徳川家光の絵ってどうですか。やけに可愛いですよね。

伊野 可愛いですよね。何年か前に府中市美術館で初めて見た時に、将軍様の絵なのに、掛け軸がシワシワで。大事にしてこなかったんだなって。

伸坊 「こんなのもらってもなぁ……」って感じが出てたよね(笑)。

『兎図』(部分)徳川家光

伊野 伸坊さんの姪っ子のイラストレーターの下杉正子さんがInstagramに、伸坊さんのお母さん(つまり祖母)の作品を上げてらしゃるんです。お母さんが最初、自発的にへんなものを作ってるのを見た伸坊さんが褒めて、いろいろリクエストして、そのうちリクエストなしでもどんどん作るようになったという。

花本 これ素敵ですよね。

『金太郎と鬼』南タカ子

伊野 もう、ぜんぶ素敵でどれにしようか迷ったんですが。

伸坊 これはリクエストした覚えないから、自分で作ったんでしょうね。

伊野 僕はうちの父親とはまったく会話がなくて、芸術のゲの字も興味がない人なんですが、去年の正月に実家に帰った時に、絵でも描かせてコミニュケーションを図ろうと、干支の絵を描かせたんですよ。「う~ん、虎ってどんなんやったけな……」と言いながら描いたのがコレです。そして次の干支のウサギまで勝手に描いてた(笑)。

『寅』伊野勝行

『卯』伊野勝行

会場(笑)

伸坊 メガネをかけてますね、虎(笑)。

伊野 ウサギの下のまんじゅうみたいな猫はなんでしょうね。描いてて「あ、失敗した」と言っても、そのまま描いてっちゃうんですよ。

伸坊 そこがいいよね、失敗に驚かない。

伊野 顔とか、単体のものなら描けるんですけどね。「猫が堤防で釣りしているところ」って状況でリクエストすると、筆がしばらく止まってしまって、こうなっちゃうんですよ。

『釣りをする猫』伊野勝行

花本 ちょっと歌川広景的な感じありますよね。

伊野 こういうのを見せるとさ、「血筋だね」とか言われるんですけど、まったくそんなことないんですよ。ほんと、絵なんて今まで描いたことない人なんだから。皆さんもご実家に帰った時に親に絵を描かせたら、こういうものできると思います。

伸坊 大人になると、大人みたいな絵を描かなきゃいけない、こういう絵を描くと恥ずかしい、と思っちゃうようになるんですよ。

伊野 うちの母親はそっちの方で、カルチャースクールが好きで、今は水彩画教室に行ってるんですけど、けっこう器用なもんだから、どこに行ってもすぐに優等生になるんです。それでみんなからは「うまい」と褒められてる。僕もうまいと思うんですよ。でも、今じゃ、伊野家に新星が現れたので、母親の絵はすっかり霞んでます(笑)。

伸坊 みんなこういう風に描いていいんだって、思うようになればいいよね。お父さんはどうして自由になれたのかな?

伊野 自由っていうのは、知らず知らずに身に付けてしまっている考え方や技術から自由になるということだと思うんですけど、親父にはそもそもそれがないっていうか(笑)。

伸坊 最初は自発的に猫の餌皿の台に、絵を描き始めたんだよね。

伊野 そこは何か、無意識的に「描いてみたい」という気持ちがあったんでしょうね。伸坊さんのお母さんもそうですよね。

伸坊 そうなんだよね、どうして描く気になったのかってところが面白いよね。

伊野 そうやって描いた絵を見て、「俺には描けないなー」ってはじめて親父のことをリスペクトしましたね。

花本 あ、なんかいい話になってきたぞ。

伊野 いやいや(笑)ま、ヘタの進化系がうまいじゃないと思うんですよ、絵の場合。子どもの進化系が大人でもないと思う。なんか自分はそこからやってきたような、でもそこには戻れないような場所。ヘタな絵は僕にそんな気にさせますね。

伸坊 なんでこういう絵をおもしろいとか、いいなとか思うのか。そこはものすごく重要なとこだよね。

 

(おわり)