新・伊野孝行のブログ

2023.1.26

湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を(前編)

好きな絵の話をするのは楽しい。嫌いな絵の話をするのも楽しい。好きな絵のどこをどうして好きなのか、嫌いな絵のどこがどうして嫌いなのか。なんとなくで済ませるところをしゃべりあったらもっと楽しい。
昨年12月に西荻窪の今野書店で行われた、伊野孝行×南伸坊『いい絵だな』刊行記念おしゃべり企画「湯けむり絵画論!好きに見ようよ、好きな絵を」の様子をダイジェストでレポートします。司会は今野書店の花本武さんです。(なお、話の順番や発言は当日と全く同じではありません)

見れば見るほど不思議な彫刻

花本武 今日は『いい絵だな』の二人の著者、伊野孝行さんと南伸坊さんをお招きしています。もうこの本ほんと良くて、人間それぞれの「私にとってこういうのがいい絵なんだよな」を巡る語らいが興味深いんです。きっとお二人にはまだまだこの本で語ってない絵があるに違いありません。というわけで、どのへんからいきましょうか。

伊野孝行 朝倉文夫の『滝廉太郎君像』とかどうですか。『いい絵だな』のトークなのにいきなり「絵じゃねえじゃん! 」って思ってる方もいるかもしれませんが(笑)、この彫刻はある意味、絵画的なんです。

南伸坊 前に「朝倉彫塑館」に行った時にね、『滝廉太郎君像』を見て、すごく興奮したんですよ。「これ彫刻の大発明じゃん!」て。朝倉文夫すごいよ、朝倉世界一だよって(笑)。どこに驚いたかって言うとさ、眼鏡をかけた人を彫刻で作る時って、普通はメガネだけを別に作ってかけさせますよね。でも滝廉太郎の眼鏡はちょっと妙な感じなんですよ。眼鏡が顔と一体化してて、その眼鏡に透明なレンズがはまっているように見える。

『瀧廉太郎君像』 朝倉文夫

花本 ほんとだー。

伊野 僕もこのあいだ、上野の「旧東京音楽学校奏楽堂」に見に行ったんですよ、調べたらそこにも複製があるらしいんで。で、確かにレンズが入ってるように見えるんですよ。

伸坊 レンズを通すとその向こう側が歪むよね。あの感じをそのまま立体にしてる感じなの。自分の目がおかしいのかな?って思ったんだけど、何度見てもヘン。

伊野 特に左側は角度変えて見ても、レンズが反射してるように見えますよね。


伸坊 だけど朝倉彫塑館の人に聞いてみても「それは知りませんでした」って感じなんですよ。普通だと、もし朝倉文夫にそういう制作意図があった場合、キャプションに説明が書いてあるもんなんですが、なかったんで、俺の勝手な思い込みかもしれないけど(笑)。でもとにかく不思議なんですよ。

伊野 伸坊さんに言われなきゃ、全く気にして見なかったと思いますね。むしろ眼鏡と目の間に粘土が詰まってるよ、くらいに思ってたかも知れません。角度変えて見ていくとまた面白いんです。「あ、ここが一番レンズっぽさが出る!」とか。彫刻は360度どこからでも鑑賞できるはずだけど、透明なレンズとして見るにはある程度、角度が限定されますから。「絵画的な彫刻」と言ったのはそういうことです。

伸坊 昔の大理石の像なんかでも、瞳の一番中心部分を少しくり抜いて、上から光が当たると、瞳の真ん中が黒く見える。計算して作ってるんですね。だから彫刻の世界ではそういう工夫は案外あるのかもしれない。彫刻ってあまりマジマジと見たことないけど、朝倉彫塑館はものすごく近くで見れるんですよ。だからなんかヘンだなって気がついたの。

伊野 僕が見に行った時も、誰もこの彫刻見てないのでマジマジ見れました。

花本 人にもそれぞれありますもんね、「私は横顔がかっこいいから、この角度から見てとか」(笑)。そういう彫刻なんでしょうね。『いい絵だな 彫刻編』もどうですか。

伊野 いや、どうだろう(笑)。今日お見せしたのは写真ですけど、人間の目だからこその見え方っていうのもあるのかな。皆さんもぜひ実物をご覧になってください。

ピカソの秘密

伸坊 ピカソが12歳で描いた石膏デッサンがあるんですけどね。

伊野 はい、そのデッサンはピカソの著作権がまだ生きてるということで、見せられないらしいんですが(笑)、「ピカソ Torso」で検索するとフツーに出てきます。いや、検索する必要はないかな。この『シャルル・バルグのドローイングコース』の右側の絵と全く同じ絵が出てくるので。

『シャルル・バルグのドローイングコース』

伸坊 これは有名なデッサンの教則本なんですね。ゴッホなんかも使ってたという。ここでは影の形を平面的に大まかに捉えて描きなさいってデッサンの描き方が示されているんです。こういうやり方は日本の学校じゃ教えない。自分でわかるまで描けって感じで。大づかみに捉えろとは言われるんだけど、影の形を見ろとは言われない。人間の目で見てる立体のものを、平面に置き換えるのはすごく難しいんですよね。

伊野 ピカソはデッサンがうまかったのは確かですけど、実はすでに平面になってる教則本を写してることもあったということですね。それを知らないと必要以上に神格化しちゃう。

伸坊 つまりね、人間の目は見るたんびに違うところを見ちゃうんですよ。だから不正確になる。本当はポラロイド写真を横に貼り付けておいて、それを見ながら描いた方が上手く描ける。でも、それじゃ勉強にならないって考え方なんだよね。

伊野 そう、今の藝大や美大を受験する学生さんは、スマホで一回石膏像をパシャって撮って、それ見ながら描くほうが理にかなってる。そんなことやったら失格になるかもしれないけど。向こうの人は平面から平面に写すやり方もやってたんですよ。そもそもこういうデッサンは人間の目をカメラの目にするための訓練で、カメラが発明されたら本当は必要ないんです。日本の場合は悲しいことに「受験産業」として残っちゃってて。ま、私は美大にも行ってないし、石膏デッサンで苦労したこともないんですけどね……。

花本 あら、急にひがみみたいになってますけど。

伊野 ひがんでないよ!(笑)

ルーベンスのビーナスを好きになってみる

伸坊 オレ中学生の時からルーベンスの裸が嫌いでさ(笑)。「なんでこんな太ったおばさんをビーナスにして描いてるんだろう?」って思って見てたんですよ。

伊野 いや、僕も伸坊さんにこの絵を教えてもらって、「うわ~っ、すごいな」ってある種、ヘンタイを見る目つきで眺めてたんですけど、昨日、この絵をじっくり見て、好きになろうとしてたら、だんだん好きになってきたんですよ。

伸坊 それは伊野くんもヘンタイだったってことだね(笑)。

『三美神』(1630年~1635年)ピーテル・パウル・ルーベンス

伊野 絵って最初大まかに描いていって、細部を描くときが、画家にとってもお楽しみの時間なんです。真ん中の人のお尻に薄物のレースみたいなのが挟まってるじゃないですか。痩せてるお尻だっら挟まらないでしょう。ここを描いてる時、ルーベンスは幸せだっただろうな……って。あと左の人の腕を掴んで「あら、あなたもいいお肉ついてきたわね」って見てる顔なんですよ。そういうのに感心してるうちに、だんだん好きになってきて、星「4.5いい絵だな」くらい行ってます。それはアングルの絵と見比べてたから、っていうのもあるんですけどね。

伸坊 確かにアングルに比べたら、面白いよね。

『泉』(1820年~1856年)ドミニク・アングル

伊野 この『泉』はすごく有名な絵で、アングルの傑作って言われてて、制作期間も長い。だけど、なんにも面白くないですよね。画面のどこを探しても「好きの衝動」がないってうか。理想的な裸体ってことで描いてるけど、個人の好みを排除したそういう非人間的なとこがやらしいと言えばやらしい。壺から流れる水も池に落ちて、ポンプで汲み上げてまた壺から出てくるみたいな生気のなさっていうか(笑)、飲みたくない感じ。花にしても、ルーベンスは自分のビーナスたちが脂の乗ったブリのお刺身だとすると、ツマの役割果たしてるけど、アングルのこの水仙の侘しさたるや。

花本 嫌いじゃないっすけどね、この水仙の感じ(笑)。

伊野 僕は「セツ・モードセミナー」って学校に行ってたんですけど、校長の長沢節が痩せた人が好きで、ゴツゴツした骨っぽい人ばっかり絵に描いてたし、エッセイでも、例えば細い足首のことを執拗に褒めるんです。「くるぶしのトンガリ!靴を脱いだ時に現れるかかとが、まるで小さな玉ねぎみたいでセクシー!」みたいなことを。それまで、僕は人間の顔くらいしか好みってなかったんだけど、だんだんこっちも洗脳されてきて、そういうところに目がいっちゃう。それくらい作家の情熱的な「好き」が人をいざなう力ってすごいんじゃないかって。だから「ルーベンス・モードセミナー」に行ってたら、僕はこういう女性が好きになってた可能性もある(笑)。

花本 好きだなって気持ちがこのお尻にさせたんですね。

伸坊 うん、それはわかるね。ルーベンスはカメラオブスクラを使ってない描き方だよね。イタリアに憧れて、8年くらい滞在して向こうの彫刻なんかをいっぱいデッサンして、影のつき方とかは、見ないでも描けるようになったと思いますね。

伊野 見ないで描く方が自由に絵が作れる利点もあります。カメラオブスクラを使った絵はどっか固いんですよね、印象が。

伸坊 デイヴィッド・ホックニーが『秘密の知識』って本でも明らかにしてるけど、アングルは明らかにカメラオブスクラを使ってるね。クラーナハは洋服とか装身具の質感がすごくキレイ。そういうのは忠実に描いてる。おそらく注文主を喜ばしてやれって、そこが売りだったと思う。でも人体のプロポーションは歪めてて、それがエロくなってる。エロティシズムでフェティシズム。

『三美神』 (1531年) ルーカス・クラナッハ

伊野 同じ『三美神』でもえらい違いますね(笑)。

花本 さっきからお話に出てる「カメラオブスクラ」ってどういうものですか?

伊野 カメラオブスクラの原理をイラストに示したものが下の絵なんですが、まだ写真のようには印画紙に図像を定着できないんですけど、プロジェクターのように写すことができる。こういう装置はルネサンスの頃から使われるようになったみたいです。よく伸坊さんは、カメラオブスラを説明する時に、雨戸の節穴を通って外の景色が映る話をされますが、雨戸がサッシだったんでそういう経験がなくて。

『カメラオブスクラの原理』伊野孝行

伸坊 ああ(笑)。外の道に人が歩いてたりするの光景が、雨戸の節穴を通って逆さに映るのね。そういう現象っていうのはものすごい昔から知られてたみたい、紀元前とか。それを光学装置にしたのがカメラオブスクラなんです。それまでは人間が両目で見てる3次元の世界を平面に写すのがすごく難しかったんですよ。カメラオブスクラによって3次元が一つのレンズを通して平面になったわけですから、要は写真ですよね。それを手がかりに絵を描き始めると、そこからガラッと写実的になるんですね。

光の詩情を描く

花本 カメラオブスクラを使ってる画家はズルしてるっていう気持ちはあったんですかね?

伸坊 ズルというか、人を驚かせるための道具っていうか、手品のタネみたいなもんすよね。だから秘密にされてたみたい。

伊野 ピンホールカメラやカメラオブスクラが映し出す図像って、ちょっとボーッとして光が柔らかくて、独特の雰囲気ありますよね。このフェルメールとハンマースホイの絵、どちらもとっても光が美しいです。伸坊さんは前に「カメラアイの光の詩情に反応している」と書いてて、うまいこと言うなあと。

伸坊 そんなエラそうに書いてたっけ(笑)

花本 ちょっと恥ずかしそうですね(笑)

『ヴァージナルの前に立つ女』(1670年~1672年ごろ)ヨハネス・フェルメール

『背を向けた若い女性のいる室内 』(1903年~04年) ヴィルヘルム・ハンマースホイ

花本 フェルメールとハンマースホイもカメラオブスクラ使ってた派ですか?

伸坊 ハンマースホイの時代はもう写真が発明された後だから、わざわざカメラオブスクラは使わないと思うんだけど、「光の詩情」っていうのも、カメラで写真を撮って、印画紙に定着できたことによって、光の階調の美しさがわかったってことがあると思うんです。フェルメールはカメラオブスクラですが、光の微妙な移り変わりに気が付いた。カメラオブスクラはデッサンの補助道具として利用されてたんだけど、みんな形を追う事に精一杯で、光の微妙な移り変わりを気にしてる暇がないっていうかね。

伊野 よく、印象派が光を感じ、光を描き始めたって言われるけど、西洋美術はもともと光と影。フェルメールのように敏感な人もいた。人気の理由はその辺にあるのかもしれないですね。

伸坊 ハンマースホイはピンボケの写真も絵にしてるんですよ。ピンボケの状態って近眼の人はボヤけてそう見えるってのはあるわけだけど、それを絵にしようと思ったのはやっぱり定着したものがあったからだと僕は思うんだけどね。

伊野 『いい絵だな』の感想として「伊野さんと南さんはヘタな絵が好きで、リアルな絵が嫌いなんですね」というのもあったんですが、そんなことはないですよね?

伸坊 そんなことないですよ(笑)、形が取れたことで安心しちゃってるような絵が面白くないってことで。

(後編につづく)