お問い合わせは 03-3324-7949

メールソフト起動

伊野孝行のブログ

残す、残る、残らない

日経ARIAというWEBメディアで、小川さやかさんの「その日暮らし」の幸福論という連載に絵をつけています。

「その日暮らし」の幸福論

毎回、タンザニア商人たちの日本人とは真逆の価値観におどろきです。

今日はブログを更新するのが甚だめんどうな気分なので、以上で終わり!
……にしようと思ったけど、もう少しダラダラ書いておくかな。
最近まわりのイラストレーターの友人たちがipadを買おうとしている。
ノートパソコンよりもさらに持ち運びに便利な板状のipadは、お絵かきに特化したソフトもあって、これがアナログと見分けのつかない出来栄えに仕上がるらしい。直接画面に描けるのがそこらのパソコンとは違うところである。昨日ちょっと試しに使わせてもらったら「あ、近々買うかも」と思った。
僕にはまだ原画信仰が根強くあり、実際、展覧会でデジタル出力を見ても感動は薄い。原画の持つ力はまだまだ大きいと感じるのだが、自分が死んだ後それらの原画はどうなるワケ?
歴史に名を残すほどの絵描きなら、遺作は売り買いの対象になり、常にどこかでだれかが持っている状態になる。だが完全に歴史に名を残している木村荘八を例にあげると、知名度がマイナーなこともあって、また作品数も多いこともあってか、新聞小説の挿絵原画は2万円くらいで買える。もっとも油彩の大作などはすごく高いと思うけど。木村荘八でその値段なんですよ。
僕のようなイラストレーターが残したイラストの原画なんてどれほどの価値があると言うのでしょう。
いや、子どもがいれば、価値はなくてもお父さんの形見だと思って押し入れに入れておいてくれるかもしれませんが、子どもがいなければ、いったいおびただしい数の絵を誰が保管しますか?
だから、ipadで絵を描いておくと、遺族や遺品整理の人に感謝されますよ。
……しかし、そんなことはどうでもいいな。死んだ後も「助かったわ〜、みんなデータで残してくれて」って感謝される生き方なんてさ。人に好かれていい子になって生きていくなんて、生きてる間だけでたくさんだ!
ところで残る残らないで言えば、ソクラテスも孔子も釈迦もキリストも、みんな共通して自分では文章を書いて残さなかった。なんかワケがあるのでしょうか。ムハンマドは文盲であったらしいけど。
対話こそ大事だから?当時は偉人たるものは自分で書かない、書いたら偉人じゃないとかあったり?
書き残す側から考えたら、自分の大好きな先生が亡くなった後、先生の言行を伝えるためには、多少は“盛る”と思いますね。あそこは取ってあそこは捨てたり、順番入れ替えたりの編集もするでしょう。生身の先生に触れたことがない人たちに、より面白く魅力を伝えるためにね。
仏教とかお釈迦さまはそんなこと言ってないのに、後世いろんな思想や世界観が後付けされて、多種多様な仏教が存在してるじゃないですか。他の宗教もそういうことあるんでしょうけど。
でも、もし、本人の文章が残ってたら、逆に広まらなかったかもしれないなぁ。あの人すっごい面白いのに、文章書いたら意外とフツーなんだよなぁ、ってパターンもありますよね。みんななぜ書き残さなかったのか?ではなく、書き残さなかったから残ったのかもしれない……んなことないか。
おわり。

新訂 日本の歴史

今日から消費税が10%に!……なんてことは誰でも知ってるけど、このブログは私の週間日記でもあるので、あとで読み返したときに、そうかこの日か、と思い出すように書いておきます。バカヤロー!

さて、韓国の話になると俄然盛り上がる大学の先輩のKさんという友達がいるのだが、Kさんは「歴史というのは例えるなら、山の稜線と、その山自体を形作っている全体だ」とよく言う。

我々が教科書なんかで知る歴史というのは、山の稜線の部分だ。今日消費税が上がったこともそこに記されるだろう。稜線の下にある山の形を作っている全体の中には、我々が生きている今の暮らしが入っている。個別にすべてを見ていくことは難しいし、仮に見れたとしてもそれだけで解明できるものでもないかもしれない。人間の人生が虚実がないまぜになって作られているように、歴史の稜線もまた生き物のように……いや、この話の広げ方は失敗だ。

今日は下書きなしで、ブログにそのまま書き込んでいるので、普段なら消去して書き直すところだが、このまま続けよう。そう、今週は歴史関係の連載を紹介したかったので、歴史に関するエピソードで導入したかったのだ。だが、失敗しました。

えっと、UCカードの会員の方に送られてくる「てんとう虫」という雑誌があるのですが、小和田哲男さんの新連載「新訂 日本の歴史」に絵をつけています。

歴史の授業で習ったことも、その後発掘調査や新史料が発見されたりして、今は違うとされてることが色々あります。この連載では、現在の歴史の”常識”を時代を下りながら紹介していきます。

第一回目は、縄文時代にすでに稲作が行われていた、という事実。

弥生時代になって稲作は始まったと習ったけどね。
縄文時代は紀元前1万年から始まってて、めちゃ長いので、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つに分けられているが、前期にはすでに稲作(陸稲)が始まっていたようです。
縄文時代、弥生時代って区切りがあるけど、実際「はい、今日から弥生時代です」ってなったわけではないので(縄文時代、弥生時代っていう呼び方も当時ないし)ゆっくりゆっくり変わって行ったんだろうね。
可能性としては親子の世代間で、縄文から弥生に変わった家族もいるかもしれないじゃん。
人間という生き物は、今も昔も「最近の若いやつは……」って絶対言うに決まってるんだから。「こんなつるつるした土器作っちゃって」とか絶対言ってたって。そんで若者は「おやじ、米は水田で作った方がいいんだよ」と言ってたと思うね。
2回目は、聖徳太子はたぶんいなかった、という事実。
すでに最近の教科書では厩戸王(聖徳太子)と書かれているらしい。もっとも厩戸王は実在の人物なのだが、我々が知る数々の業績を残した聖人、聖徳太子というのは、お札の肖像画も含めてのちに作られたものだったのだ。
たぶん、聖徳太子が実在したかしなかったかの釈明記者会見を開いたらこうなったりしてね。
聖徳太子は信仰にもなって歴史の中で一人歩きし、我々の時代まで生き長らえてきたわけだが、では誰が最初になんのために聖徳太子像を作ったんでしょう。気になりますねぇ。
1回目と2回目のタッチが違うのは、「この連載は毎回タッチを変えて描きます」と宣言したからです。

70年代なんて知らない

10月3日からはじまるグループ展「70年代なんて知らない」に参加します。

グループ展の主催者の阪口笑子さんに「70年代をテーマにした展覧会をするから参加しない?」と誘われた時に「ぼく、70年代って知らないんですよ、70年代なんて知らない、というタイトルだったら参加できるかも…」と答えたら、それがそのまま展覧会の名前になってしまいました。

僕は1971年生まれなので、70年代は小学2年の時に終わっています。実質「70年代なんて知らない」んです。小学校の学区域の中だけで生きてましたので。いや、それだって立派な70年代体験ですけどね。

そういうものを描いてもいいんですけど、DMは一応わかりやすい70年代的なものにした方がいいかなと忖度して、結局いつものポンチ絵です。万博と三島由紀夫割腹事件は1970年なので、幕開けですね。

だいたい我がイラスト界も80年代リバイバルブームだっていうのに、そんな最中になぜか70年代。
高校生の頃、『1970年大百科』(JICC出版局)という本を買ってしげしげと見ていた記憶があります。
古臭いと思ってたわけではなく、一種の憧れを持って自分の知ってるようで知らない世界を見てたんですが、当時は60年代70年代がプチリバイバルしてたのかなぁ。田舎にいてもよくわからなかったけど。大学の頃にベルボトムのジーンズが流行りだしました。
中学高校時代は80年代だったから、80年代は知ってるんです。それが、30年以上すぎた今、リバイバルブーム。
でも80年代リバイバルブームも最近はやや食傷気味。
ブームに乗っていないので、なるべくなら終わって欲しいんですが、かと言って70年代ブームがきて欲しいとも思いません。ぼくがきて欲しいのはイノ・ブームなんですけど、来ないっすねぇ。
ルネサンスはギリシア・ローマ時代をもう一度!ということだったし、鎌倉時代の運慶は、奈良時代の仏像が持っていた写実性に再び挑みました。
リバイバルブームも、現在に欠けているものを過去に探しに行ってるということなんでしょうか。
それとも単なるファッションなんでしょうか。ズボンの裾が広まったりすぼまったりすることに理由なんていりません。流行は人間社会の健康を維持するためにも必要なことだと思います。だからファッションだとしても批判する気はないんだけど。
どんな絵が並ぶのかわかりませんが、参加メンバーはこの方々です。
【参加作家】
吉岡里奈/中村幸子/ごとうえみこ/高田理香/水上多摩江
井筒りつこ/メグホソキ/スガミカ/山崎綾子/櫻井砂冬美
小池アミイゴ/早乙女道春/山崎杉夫/伊野孝行/阪口笑子
珍しく、年齢的に下から2番目!(先輩方は70年代をよくご存知でしょう)最年少は吉岡里奈さんで、ぼくよりグッと若いですが、知ったような顔をして昭和のナツエロを描いています。
「ギャラリー自由が丘」というところで10月3日から9日までやっています。
オープニングパーティーはありませんがたぶんメンバー達も顔を出していると思います。

『切字と切れ』と俳号

先日、カバーの絵のお礼に一献、ということで俳人の高山れおなさんに浅草の牛鍋屋でご馳走になりました。

カバーを描いた本は『切字と切れ』。平安時代の俳句前史から現在に至るまでの切字と切字説をとりあげ、「切れ」とは何かを問いただす論考であります……と、そんな説明であってるでしょうか。帯にもそんなことが書いてあるし。

いや、本が届いてからちゃんと読みましたよ。私は俳句に関しては完全な素人なんですけど、この読み応えある本を一日で読み切ったね。

とてもおもしろかった。

ブックデザインは日下潤一さん。寺子屋の子どもたちが「切字」をお習字しています
素人がどんだけ読み込めてるかはさておき、読みやすかったというのは、問題の立て方、論じ方、くすぐりの入れ方に素人をも惹きつけるうまさがあるからですね。さすがは編集者。そう、高山さんは芸術新潮の名物編集者(本人のいない飲み会でよく話題に上がるタイプ)でもあるのです。
しかも今は、朝日俳壇の選者もやってる、著名な先生です。
そんな立派な先生が身近にいるなら、いっちょ弟子入りしとこうかなと思って、牛鍋屋で
「高山宗匠の弟子になりますから、俳号をつけてください」と酔いまかせに言ってみました。
その時はワイワイ飲んでてどういう返事をもらったか忘れてしまいました。酒の席の冗談としてお互い忘れてしまうだろうと思っていました。ところが案に相違して、帰り道にスマホがショートメッセージを受信したのです。
「早速ですが、蛾王はどうですか?伊野蛾王。画王とガオーを掛ける趣向です。画そのまんまだとなんなので他の字に置き換えたいわけですが、雅も違うでしょう。蛾の語なら伊野さんの情念にも合っているかと」
なんと、先生は私の俳号を考えてくださったではないですか。
のんきに生きてるつもりだけど、私にも情念らしきものがあるのでしょうか。確かに過去に高山さんに食ってかかった醜態もなきにしもあらず。ルサンチマンをエネルギーにしてきたところもなきにしもあらず。
他には「画報→蛾砲」「画工→蛾公」というのもありました。
「師匠!ありがとうございます。いきなり名前負けしちゃいそうですけど、師匠のつけてくれた名前ならありがたく頂戴いたします。ガオーが高貴でいいですね。王様ですし。でも自分には高貴な感じないですけど。セコくて庶民的なキャラですけど」
と、送った後で、ふと思いついたので、さらにこう返信してみました。
「蛾吐で画伯はまんまですかね?」
名前をつけてくださいとお願いしておきながら、あつかましいですね。
師匠はこう言われた。
「吐を「と」と読ませるならともかく「はく」と読ませるのは汚いですね。王は遠慮するということなら「蛾伯」または「蛾白」でいいのでは。曾我蕭白が好きなんだからどんぴしゃりでは」
「なるほど、それなら我ながら納得できる余地はあります。蛾白という字は綺麗ですね。なんか妖艶で。気に入りました」
「その屈折した受容の仕方がまさに「蛾」的な情念を感じさせます。グッドラック!」
というわけで、私は伊野蛾白になった。
自分で画伯って言うなって。
山本健吉『現代俳句』(昭和20年代の末に角川新書で2冊本で出て、その後も増補版が角川からいろんな形で出ています。新書だったことでもわかるように、入門的な名句鑑賞案内なのですが、現在から見ると入門書とはとても思えないいかつさです。文学とか芸術というものに権威があった時代の本という言い方もできるでしょう。by師匠)もちゃんと新品で買いました。
でも、まだ1ページも読んでいません。
ガオー!

手のひらサイズのテキトー

今週金曜日からはじまる「手のひらサイズのオブジェ展」という84名も参加するグループ展に、テキトーに作ったオブジェ(?)を出しますので宣伝します。適当というのは、学校の時にテストにあったでしょ、「適当な答えを書きなさい」というのが。そっちの適当ではなく、いい加減な意味での適当です。いい加減も「あら奥さん、お塩、ちょうどいいお加減よ」という意味でのいい加減ではなく、「あいつってほんといい加減なやつだよな」のいい加減です。植木等的な意味です。植木等の歌や映画はご覧になったことがありますか?無責任にテキトーに生きて、しかもうまいこといっちゃう植木等を見てどう思いますか?サイコーじゃん!と思いますよね。

植木等(演じる、歌うところの主人公)はいい塩梅をねらって何かをやったわけではないのです。本当に適当に生きてるだけなのです。いつかそんな風に生きれたらいいよな、とか言って真面目に生きていると、単に年をとってゆるくなるだけで終わるでしょう。私なども常にテキトーな絵を描くことを心がけております。

ところが、絵というのは、いくら絵がいい加減であっても、紙はいつもピシーッと平らなのです。仙厓さんのひたすらゆるい禅画も、ピンと軸装されているのです。
そこで今回の出品作は、絵を描く前のカタチもいい加減に作ることにしました。粘土で作っていますが、いい加減を装ってるわけじゃなくて、本当にヒョイヒョイとやってます。絵付けも超テキトーです。
今回は販売もありなので、売る予定ですが、こんなに適当に作って一体いくらの値をつけるのでしょう?
植木等ならめっちゃ高額にするだろうな〜(笑)
会場にはこのおじいさんたちは連れて行きませんが、数年前に作った幽霊のモビールも飾る予定です。季節外れだけど。
というわけで、暇な人は見てやってください。暇でなかったらいいです。
昨日おとついと、京都に行って灼熱の中を歩き回ってたので、今日はバテてます。
昨日、京都の秘境で出会った仙人の写真です。
ではみなさんさようなら〜。

日本画誕生!

いきなりクイズです。この写真の人物は誰でしょう?

答えは後ほど。

さて、数年前にある有名小説家の文庫のカバーを描いたことがありました。

その本は最初単行本になり、次に文庫化され、今度は出版元が変わって2度目の文庫化でした。

ゲラに目を通していると若い女性のTシャツの描写のところで目がとまってしまいました。〈Tシャツの胸には、浮世絵のプリント。伊藤若冲の像の絵というのが、強烈だ。〉と書いてあったからです。

いや、若冲は浮世絵ではないぞ。

この本は3度は校閲されている。いや、雑誌で連載されていたら4度はチェックされているはずです。

イラストレーターが口を出すのも僭越だと思いましたが、幾度となく校閲をかいくぐってきたマチガイを担当編集者に伝えておきました。

ひと月後、カバーを描いた文庫が届きました。どう直っているか確認してみると〈Tシャツの胸には、日本画のプリント。伊藤若冲の像の絵というのが、強烈だ。〉となっていたのです。

いや、若冲は日本画でもないのだ〜!

では「日本画」とは何でしょうか?

今発売の「芸術新潮」にはこう書いてあります。
〈日本の伝統と西洋美術のハイブリッドから生まれた新たなる日本絵画、それが「日本画」である〉
そうなのです。
日本画は明治になって西洋画に対抗すべく作られたジャンル(概念?)なのです。
美術の教科書などでは、日本画の成立は、プロデューサー役のフェノロサと岡倉天心、画家の狩野芳崖や橋本雅邦たちによって、そして東京美術学校で彼らに学んだ横山大観や菱田春草たちによって「日本画」は作られたと書いてあるんじゃないでしょうか。
今特集においては、それよりも約100年前に「写生」を武器に京都絵画界を制した円山応挙とその系譜につらなる絵師たちに「日本画」の出発点があったのだ!という、もう1つ別のルートが示されています。
実際に、明治40年に文展(文部省美術展覧会)が発足して、横山大観や菱田春草ら東京美術学校出身者と、京都の竹内栖鳳、木島櫻谷らの作品が一つの会場に並んだ時、両者の絵にたいした違いがなかったらしいんすよ。
へぇ〜、へぇ〜。面白いね。
是非お買い求めくださいな。
特集では京都の画家たちをメインに記事にして、東京の出来事はマンガでまとめて見せています。
そのマンガを担当しました。
まだ売り出し中の雑誌ですのでチラッとしか載せませんが、自分のフェノロサに対する気持ちが少しマンガに入り込んでしまいました。
フェノロサと岡倉天心が大事にしなかった画家の方が今は人気者なのです。
そのことは以前「天心が埋めて惟雄が掘る」というタイトルでブログに書きました。
奇想VS正統派ってことでしょうが、今の時代は奇想の方に軍配を上げてますかね。
でも、天邪鬼な性格の私は、だったら今の時代に正統派が本当に正統派か確認しに行くのもいいんじゃないかなと思います。
ま、京都の豪華な料亭や商家やお寺を飾る絵として描かれたりしてたんだからね。あんまり気が狂ったような絵は描かないよね。
まだ観に行ってないけど藝大の美術館でやってる展覧会「円山応挙から近代京都画壇へ」を楽しみにしています。
戦前にピークをむかえた「日本画」も、今となっては概念がよくわかりません。
金ピカの額縁で絵の具コテコテでも「日本画」だったりするし。もう「洋画」なんて区別も無意味ですしね。でも日展とかまだ「日本画」と「洋画」ってわかれてるんですね。
さてクイズの答えですが、正解は岡倉天心。
岡倉天心といえばこういうエラっそうな写真のイメージですけど、若い頃は歌舞伎役者のようなイケメンだったんですね。
もし興味があればこっちもお読みください。
おわり。

直木賞、朱肉の蓋の思い出

いや〜涼しいとどんだけでも眠れますね。春になって寝まくっていたことを思い出します。

先日、都内の某一流ホテルで第161回芥川賞・直木賞の贈呈式が開かれ、私も招待していただいたので行ってまいりました。もちろん直木賞を受賞した大島真寿美さんを寿ぐために。

いったいどんなに盛大なパーティーなんだろうと想像するとそわそわしてきて、気がつくと、家を出る予定の時間よりもずいぶん早くに用意を整え終えてしまいました。

仕方なく、近所のカフェ(週に2回、ここのおじさんとジョギングしている)に行き時間を潰しました。カフェのおじさんも、会社員時代に芥川賞・直木賞のパーティーに出たことがあると言ってました。今「日曜美術館」のホストをやっている小野正嗣さんが受賞した時に仕事終わりにかけつけたそうです。

「今月のオール讀物で、『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』がまた掲載されるんで、挿絵を描いたんだよ」
とおじさんにオール讀物を見せましたが、
おじさんはろくに見もしないで、「パーティーに行くとさ、バッヂみたいな、シールになってるやつをもらって胸に貼るんだよ。わたしは捨てないで、朱肉の蓋に貼ってある」と店の奥から朱肉を持ってきて見せてくれました。
シールは文藝春秋のマークでしょうか。日本文学振興会のマークなのかな。
それはさておき、挿絵の中の劇場の看板に注目。なんて書いてあるでしょう。
  
会場となっているホテルに着くと、ロビーでひふみん(加藤一二三名人)が談笑していました。さすが超一流ホテル。
受付をすませると、おじさんの言うようにマークのシールをもらいましたので、シャツに貼りました。
アナウンスが流れ、受賞作家の方を個人で撮影するのはNGです、SNSなどに載せないで、ということだったので授賞式の写真はありません。
ま、この氷の白鳥くらいはいいでしょ。
贈呈式が終わったあと、大島真寿美さんにご挨拶しようと思って列に並びました。実はお会いするのは初めてなのです。担当編集者の方とも。
この時にはじめて知ったのですが、2年ほど前に「小説すばる」で連載していた素人丸出しの退屈な私のエッセイ『ぼくの神保町物語』も大島さんに読んでいただいたみたいで、恥ずかしさで胸がつかえてしまいました。ゴホッゴホッ。今回の挿絵も大島さんのご指名だったと聞き、心の中で喜びの舞を踊りました。
担当さんがお三輪ちゃんの前で記念写真を撮りましょう、と言ってくれてはいパチリ。
大島真寿美先生、改めておめでとうございます!
国立劇場で文楽を見るときは、いつも後ろの方の席なので、人形を近くでまじまじと見たことはありませんでした。よく見ると、お三輪ちゃんの口から針のようなものが出ています。なんでしょう?かわいい顔に似合わない凶器。後で友達に「針は手ぬぐいや袂を咥えさせるためのものだと思う」と教えてもらいました。しかし、きれいに作られていますよね〜。
一回くらい一番前の席で観たいもんだわ。
大島真寿美先生に誘われて、来月開かれる「豊竹呂太夫師匠発声教室」というのにも申し込みました。私もうなるんでしょうか。うなってみたい気もする。
華やかな世界から貧乏くさい家に帰って、まず私がしたことはシャツの胸からシールを剥がし、朱肉の蓋に貼りなおしたことです。請求書にハンコを押すたびにこの夜のことを思い出すでしょう。
おわり。

新 弘法大師行状絵詞

30代の半ばくらいまでは、挨拶の時に「いい天気ですね〜」とか「雨がよく降りますね〜」などと言うのに抵抗があった。

そんな当たり前のわかりきったことを言いたくない。

しかし最近はその一言をつけ加えるのがむしろ好きだ。当たり前のことを言っているのではなく、それは単なる挨拶の一部だってことに気づいたからである。

近年の夏の「暑いですね〜!」は挨拶でもあるが、わかっているけど黙っていられない心の叫びだけど。

暑い暑い!

先日、寄った京都の東寺も猛烈に暑かった!東寺が暑いのではなく、京都が暑いのだが。とある仕事のために近江八幡と大津に取材に行ったついでに(京都に比べると琵琶湖からの風が気持ちいい)足をのばしてはじめて東寺に寄ってみた。

琵琶湖の南端、大津から京都へはJRでふた駅、時間にしてたったの10分で着く。東寺は京都駅の近くです。「芸術新潮」の去る5月号で東寺の特集があって、私は空海の絵伝を描いたのだ。

せっかくだから空海のお寺、東寺へ行っておかなくてはと思ってね。

空海も密教もうすらボンヤリ知っているだけだった。編集部にレクチャーを受け、北大路欣也主演の『空海』をDVDで鑑賞し、東博で開催されていた「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅」も観た。
↑東博の東寺展で見た帝釈天像
桓武天皇(映画『空海』では丹波哲郎が演じていた)の平安遷都にともない、計画された東寺は京都の数あるお寺の中でも抜群に古い。
以下、うすらボンヤリ知識で書くけど、今と違って、古代において仏教は国家運営に必須な、五穀豊穣を保証し、疫病神を追い払い、朝廷を脅かす敵を降伏させる威力があると信じられていた、と〜ってもありがたいものだったのである。(民を救う個人救済の側面が強調されるのは鎌倉時代まで待たねばならない)
「鎮護国家」という言葉を昔学校で習った覚えがあるでしょ?それですよそれ。祈祷することがマジで威力あると信じられていた時代です。
いやいやバカにしていけないよ。
「信じる」とは「考える」とも「感じる」とも違う特別な心の働きであって、今の人間にはなかなか難しいことなのです。
奈良平安時代の仏像と江戸時代の仏像を比べてみれば、その差は歴然としている。やはりこれは技術やセンスの違いじゃなしに、マジで信じているかどうかの違いではないでしょうか。近世の江戸時代はもうマジでは信じていないと思うね。
ま、信心だけでなく、世界最新最高の中華帝国を経てやってくる仏教は、新しい文化や技術ともセットになっていたわけですしね。
さて空海。
弘法大師空海はどのような生涯を送られたのでしょう。
芸新に描いた『新 弘法大師行状絵詞』で見ていきましょう。
空海は幼名を真魚(まお)と言い、774年に讃岐国(香川県)に生まれた。
母親が、天竺より聖人が飛来して自分の懐に入る夢を見て、空海を懐妊したという伝承もあるという。
15歳頃に都に上り、18歳頃大学に進学。秀才はメキメキ勉強してより秀才になり、大学を辞めて仏教を志す。
各地で修行に励むうち、土佐の室戸岬で明けの明星が口から体内に入り込んだ。
なんぞめでたいことの吉兆だろうか。絵伝では飲み込んだ星を海に向かって放出しています。
空海は日本にあって密教について調べられるだけ調べた。
いやしかしこれではまだまだ足りん、ぜひ唐に渡って直に密教の真髄を学びたい!と決意し、804年に遣唐使の船に乗る。正式に僧になったのはその直前、31歳の時、東大寺でだったんだって。
遣唐使船は暴風雨にあおられるもなんとか漂着。海賊かと怪しまれたが、そこは我らが空海、自分で書いた書状の字を見せたら役人が驚いた。
こいつは只者ではないあるね!
空海の後ろで瀕死の状態の日本人がいるが、これにはモデルがいる。誰か忘れたが映画の中で石橋蓮司が演じていた人です。どうでもいいですが。
↑本物の「弘法大師行状絵詞」に描かれた空海の書の書き方!中国人もびっくらこいた
長安では、まずインド人の僧に梵語を習った。語学の天才はあっという間にマスターし、準備は万全。いざ真言密教の第一人者、恵果阿闍梨を青龍寺に訪ねる。
ちなみに高知県にある青龍寺は横綱朝青龍の四股名の元である。どうでもいいですが。
さてさて空海は恵果阿闍梨に大歓迎されて、密教の全てを授かった。恵果阿闍梨は異国の若者になぜそこまで?と思ったけど、密教を伝えなきゃいけない使命感もあるし、日本からやって来た優秀でエネルギッシュな空海を見て、彼なら!と思ったんでしょうな。
また空海もこの密教の真髄を早く日本に伝えねばという使命感により、たった2年で日本に帰るのでした。
本当は20年間留学していなきゃいけなかったのに…。
日本に戻った空海だったが、20年留学してこなかったので平城天皇(映画では中村嘉葎雄が演じていた)にプンプンされて筑紫に留め置かれる。
しかし809年、新帝嵯峨天皇(西郷輝彦だった)から許しが出て帰京。
密教の先輩、最澄(加藤剛であった)に密教の経典を見せて欲しいと頼まれ交流も生まれる。
映画では北大路欣也演ずる空海はいつも自信満々で、加藤剛にもマウンティングしていたように見受けられたが、きっと素人目にそう見えるだけで、密教の密な交流があったのでしょう。でも、なんか感じ悪かったな。あくまで映画の話ね。
823年、西郷輝彦、いや嵯峨天皇より東寺を預かる。
私の絵伝では講堂を建立し、立体曼荼羅を納めるところを想像して楽しむ空海を描いてみました。
↑これが東寺の講堂です
813年、加藤剛、いや最澄からお経の借用の申し入れがあったが断る。最澄から預かっていた弟子が、空海の元にとどまることを希望したこともあって、二人は絶縁状態に。
821年には生まれ故郷、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の堤防を修築。
映画では、空海は堤防を弓なりに築くことで「強さが三倍になる」と合理的なアドバイスをしていた。最新の工学知識もちゃんと伝えて、あとは不眠不休で加持祈祷。
実際に人夫に混じって陣頭指揮したり、手伝ったりはしない。
ひたすらひたすら加護を祈祷する!
そのおかげで難航していた工事も短期間のうちに終えられたのである。まさに空海の祈祷のおかげなのです。
ここに疑問を持ってはいけない。疑問を持つのは密教を理解していない人だ。疑問を持たず信じることで密教は密教なのだ。でも、空海は最新の知識も伝えているので、単なる呪術ではないですね。
私は密教の説明を読んでもむずかしくて全然よくわからないです。
とてもわかったような口はきけません。ごめんなさい。
835年、死期を悟った空海は高野山に向かい、3月21日午前4時頃、同地で入定。50日後にお体は奥之院の御廟にうつされる。
空海はいまなおここで生きて世の太平を祈願していると信じられている。
921年には朝廷から弘法大使の諡号を贈られた。
で、東寺ですが、あいにく宝物館は閉館中で、東博で見た美仏たちとも再開できなかった。
食堂に入ると、奥に異様な仏像が立っていた。
3メートルはあろうかと思われる真っ黒に焦げた四天王像。
昭和5年の食堂の火事で焼けたそうだが、きっと焼ける前より恐ろしさは倍増している。そのお姿に暑さも忘れてしばし見入ってしまいました。
下は食堂で売っていた般若心経手ぬぐい。
300円也。
とても安くてありがたい手ぬぐいです。
はい、おわり。

抽象画の是非

抽象画には、すげー面白い抽象画とまあまあ面白い抽象画とぜんぜん面白くない抽象画があって、私には一目瞭然なのだが、その差を言葉で言い表すことができるのだろうか?いやできない。
ここに2枚の抽象画と1枚の画板がある。
作為的に作ったものと、自然に出来たものである。
こんなものを載せていったい何を論じようとしているのか?
抽象画を言葉で論じるなど不毛なことだと前置きしておきながら……。
『するどさもうつくしさもないみじめなどうぶつ』Takayuki Ino / 2013
『まばたきに用いる幾度かの闇さえ不安だ』Takayuki Ino / 2013
『金魚鉢のポスターをじっと見つめる黒猫と白猫』Takayuki Ino / 2019
さ、今日は午前中から取材旅行に出かけなければいけないのだ。
滋賀と京都に行くので、ついでに今まで口にしたことのない鮒寿司を食べてこよう。
もう出かける時間だ。
そんなわけで、前振りに対して何も回収しないまま、ブログは終わりだ。
絵と言葉について、考えたい人は考えたらよい。
言葉でコミュニケーションできない人だって素晴らしい絵を描く。
非言語的な質を有する絵画を言葉で考えることの意味はなんなのだろうか。
え?…今週はネタがないのにブログを無理に更新してる状態じゃないかって?
…そうです。
…おわりです。

猫と猛暑

前にもこのブログで書いたかもしれないけど、猛暑日が来るたびに思い出すので、また書いてしまおう。

今朝は、火曜と金曜の朝にやっているジョギングの日だった。近所で小さな喫茶店をやっているおじさんと走っている。走っている時間は20分ほど。おじさんの店はものすごく狭いので、喫茶店をやっているといえども、おじさんは慢性運動不足。もちろん、座り仕事の僕も運動不足。そんな二人にとって唯一の運動が週に2回のジョギングなのだ。一人だったら絶対に3回で走るのをやめているが、相手が待っていると思うと続けられる。かれこれ走り始めて1年半が経つ。

そして一年を通して同じ時間に外に出ると、季節の移ろいゆく様子がわかるのである。季節ごとに入れ替わる植物の栄枯盛衰物語も、カラスの出勤時間の変化も、そんでカラスに荒らされまくったゴミを(火曜と金曜はちょうど燃えるゴミの日で、生ゴミが散乱しているのをよく見かける)、人知れず近所のおばちゃん達が、向こう三軒両隣の精神で掃除していることも、走り始めるまでは知らなかった。
美しい国ニッポンはこのおばちゃん達(年齢でいうとおばあちゃん達)によって保たれているのだ、間違いなく。おばちゃん達が掃除をやめれば、たちまち道路は、生卵の殻や、キャベツの芯や、濡れた紙くずが放つすえた匂いで満ち、それを目にしてモラルが下がった住民がゴミをポイ捨てして、街はスラム化するだろう……て、この話も前に書いたのだが、この話をするつもりじゃなかったんだ。また書いてしまおうというのは「気温の話」だ。
昨日、東京も梅雨明けして、巻き返しをはかるかのように急に暑くなった。猛暑、猛暑、猛暑。朝のジョギングですでに30度は軽く超えている。去年は危険を感じたので、集合時間を7時半集合から1時間早めた。ジョギングじゃなくても、昼間に歩いて5分ほどのスーパーに買い物に行って帰ってくるだけでも、ダメージがでかい。そんな時に思い出すのが、10年ほど前にバイト先の喫茶店で小耳に挟んだ会話だ。
誰だかわからないが、ウチの店で取材を受けている先生のような人がいた。いつもライターか編集者を前に、動物の話をしていた。だから動物に詳しい先生だと思う。この先生が語っていたことを小耳に挟んだ。
先生は「動物の進化に一番関係しているのは気温なんだ。気温の網が全ての種に覆いかぶさり、網をかいくぐれた種が繁栄し、かいくぐれなかった種が滅ぶということなんだね」みたいなことを言っていて「なるほどなー」と納得したのだ。
確かに気温の変化は全ての生き物に一様に影響を持っている。平均気温が、2、3度上がるだけで、生きられない種はいるんだろうな。逆に気温が変化したことで勢力を増す種もいる。
猛暑日の炎天下を歩いているだけで死にそうになるたんびに、私はこの先生の話を思い出してしまうのである。
猛暑は人間という種に覆いかぶさる真っ赤な網なのだ。
……はい、以上が「思い出す話」で、これで終わりなのだが、随分前に「チコちゃんに叱られる!」を見てたら、この先生が出ていた。
動物学者の今泉忠明さんという方だとわかった。
「猫はなぜ魚が好きか?」という回だったと思う。猫は小さい時に食べていたものを好んで食べるようになるので、世界にはトウモロコシを好んで食べる猫もいれば、パスタを食べる猫もいるらしい。らしいというか実際にパスタを貪り食う猫の映像が流れていた。日本はまわりが海だから人間の手から魚を与えられ、猫は魚好きになるのだ。
そういえば、高校の頃、校庭に住み着いていた猫にバッタをやったら、バリバリ何匹も食べていたので「猫ってバッタも好きなんだ〜!」と驚き、家に帰って自分とこの猫にバッタをあげても、食い物とは認識せずに、ただバッタをいじめていたことがあったが、それもそういう理由なのだろう。
ひょっとして、この話も前に書いたかも知れない。
しかし、遡って調べたりはしないことにしている。
人生も後半戦に入れば、誰しも、同じ話を繰り返すだけになるので、許されることになっている。
仕事じゃないし。

笑ってなんぼじゃ!(終)

日本農業新聞で連載していた島田洋七さんのハートフル自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』。連載が終わったのは去年の秋でした。あれからすでに半年以上経ちましたが、アップしないまま宿便のように残っていた挿絵をアップします。下手な挿絵は臭いものに蓋で、アップしません。まあまあうまくいったのだけ。吉本芸人も何人か描いていますが、昨日の吉本興業の記者会見を見て、そうだ今週のネタはこれにしようと思ったわけではありません。でも、挿絵を最後まで紹介し終えてスッキリしました。ちなみに島田洋七さんは漫才ブームの時は吉本を辞めていて、その後新幹線の中で偶然会った林会長直々に「ぼちぼち帰って来いひんか?」と言われて戻り、そのあとまたお辞めになり、今はオスカープロモーション所属です。
澤田さんは、俺らに声を掛けてくれた。「いつかゴールデンタイムで漫才やろな。そのときは、絶対に出してあげる。いや、ほんま。約束するよ」澤田さんといえば、あの有名な番組「てなもんや三度笠」を演出されたことでも知られている人。その澤田さんにそんなふうに言うてもろて、俺らは舞い上がった。 夜9時になり「花王名人劇場」が始まった。3組しか出てないから、1組の持ち時間が長い。20分近く何度も俺らの顔がアップで映る。周囲のお客さんがだんだん、テレビと俺らの顔を見比べるようになった。「ちょっと、あれ、あんたらやんか」「何してんねん、こんなとこで」「いや、あれ録画ですから」「おもろいな! あんたら売れるでー」戸崎事務所に入って3カ月後の給料日のことやった。当時、給料は手渡しやったんやけど、社長が「お疲れさん」と俺に差し出した封筒が、やたら分厚い。中を開けてみたら、なんとなんと、504万円も入ってたんや!「帯って何? 着物の?」ボケたんちゃうよ。月曜日から金曜日まで、同じ番組を同じ時間帯に放送する番組を「帯番組」て言うなんて、ほんまに知らんかったんや。後の「笑っていいとも!」の前身となる「笑ってる場合ですよ!」の総合司会に抜てきされた。俺は緊張しまくって何を話したんか覚えてないんやけど、俺らがしゃべっている間、裕次郎さんの後ろでずっと直立不動で立っていたのが渡哲也さん。「哲ちゃん、コーヒー入れてあげて、もう冷めているから」えええっー。渡哲也さんが哲ちゃん?
俺は急に売れだしてお金がいっぱい入ってきたけど、経理のことなんかさっぱり分からん。銀行にいくらお金があるのかも分かってないくらいやから、お金のことはほったらかしにしていた。そんなとき、テレビ局で会った加藤茶さんから聞かれた。「売れてるねえ。税金対策、ちゃんとしてる?」一生忘れられんのが、たけしと会ったころの話。「もし今、金がいっぱいあったら何に使う?」と、たけしが聞いてきた。「サバ丸ごと一匹買うて、食いたい」。子どもの頃からずっと貧乏してた俺は、サバといえば切り身しか見たことなかったから、とっさにそう言うた。たけしとの思い出は山ほどあるけど、やっぱり強く印象に残っているのが、石垣島かな。あのときたけしは、世に知られる”フライデー事件”の裁判中やった。マスコミの目を避けるために、あいつは沖縄の石垣島に身を隠してたんや。俺は何度も石垣島に足を運んだ。そうや、俺はもう頂上を十分に堪能した。写真もようけ撮った。自分で下りてきたらええんやな。そう思たら気持ちが楽になって、洋八と相談してみたら、あいつも俺の気持ちを分かってくれた。「またチャンスがあったら、一緒にやろう」たけしが先にシャワーを浴びたときに、俺はわざと湯船にお湯を入れんと「湯、沸いてるで」と言うてやった。しばらくして風呂をのぞくと、入っている。「ああ、いい湯だなー」とタオルで顔を拭いている。そして、「……入ってねえじゃねえか、このバカヤロ!」あるとき島田紳助から留守番電話が入っていた。「弟弟子の俺がこんなこと言うのは生意気やって分かってますけど、兄さんは楽してるんや。でも、もう一回売れなあきませんで。なあ、もう一回、俺と勝負しましょ。兄さんはおもろいんやから、絶対にできるって!」 最後の方は涙声やった。仕事で出会った評論家の塩田丸男さんが、さらに俺の活動の幅を広げてくれた。「洋七さんは講演はやらないの?」「講演? そんな難しい話はようしませんよ」「講演は、別に政治とか経済とかの堅苦しい話じゃなくてもいいんだよ」「え、そうなんですか?」
結局、40社以上の出版社を回ったけど、採用してくれるところはどこもなかったよ。半分近くの会社は返事すら、もらえんかった。「どこもあかんのやったら、自分で出したれ!」。俺は自費出版をすることにした。タイトルは、たけしが考えてくれた。「『振り向けば哀しくもなく』って、どうだ? メロドラマみたいでいいだろ?」「うーん、そうかなあ。まあええかも」
俺は漫才が終わると、誰もおらんようになった楽屋で一人、新喜劇が終わるのを待って、それから劇場の表にテーブルを出して本を並べて売った。俺とたけしと、たけしのかあちゃんの3人で食事したことがあるんやけど、いつもはようしゃべるたけしが、恥ずかしそうに、ずっと下向いて何もしゃべらへんねん。電話するときも「こづかいやろうか」としか切り出せない、不器用なたけし。あいつ、大好きなかあちゃんやのに、素直になれへんねんよ。ばあちゃんの葬式は豪雨の日やった。近所の公民館で葬式をしたんやけど、集まった人はみんな「ばあちゃんらしいにぎやかな日ばい」と言うてた。ものすごい雨音で、しんみりするはずの葬儀の場がにぎやかやったらしい。それに外に出ると人と会う。会話をする、刺激を受ける。うちのばあちゃんみたいに、生牡蠣をおすそ分けしてもらえるかもしれん。とにかく年をとれば取るほど、外に出てうろうろするべきなんや。当時、東京には広島のお好み焼きの店は、ほとんどなかったころやから、かあちゃんの店は大流行した。最初は、「B&Bの島田洋七の母親がやっている店」として来る人も多かったみたいやけど、そのうちに味の良さで人気が出たんや。かあちゃんは、日に日にやつれていった。見た目にも衰弱して、素人目にも、もう長くはないのが分かる。ほんまつらかった。意識が薄れているようなこともあって、そんなときは、枕元で聞いた。「かあちゃん、俺、分かる?」俺はかあちゃんが危篤とも言えず、気の利いたせりふも思いつかんまま、勧められるままに中に入れてもろた。観客席に行くと、ちょうど広島カープのチャンスやったみたいで、球場は大歓声に包まれていた。「おお!洋七さん。旗、振ってよ!」トレインマーケットも楽しかったけど、俺の一番の楽しみは、晩ご飯の後、じいちゃんとばあちゃんの話を聞くことやった。印象に残っているのは、アメリカ人がなんで、あんなにオーバーアクションなのかについての話。カウボーイといえば、アイダホのバーは、そのまんま西部劇の世界やったな。「近くのバー」と言われて、これまた20キロくらい車を走らせた所にあるバーに連れて行ってもらった。夜は真っ暗で人の気配もない。いつ動物に襲われるかもしれん。そんな中で、「銃があると寂しくない」という感覚は、経験したことのない俺には実感はできんけど、お守りのような存在やったんやろなあ、というのは想像できた。俺がまた吉本に戻ったのは、あれは漫才ブームが終わったころかなあ。新幹線でばったり、吉本の林会長に会うたんや。「ぼちぼち帰って来いひんか? 若いもんに漫才教えてやってくれ」と言われて、また吉本にお世話になることになった。その後は契約満了ということで離れることになるんやけど、俺が今あるのは吉本のおかげやと思てるよ。中田カウス・ボタンのカウスさんが、オチを言うた後で、一瞬の間を空けてから自分で笑わはるねん。そうするとお客さんもつられて笑う。あれは、カウスさんの師匠の中田ダイマル・ラケットさんの芸なんやな。それをついこないだ、カウスさんに言うたら「おまえは細かいとこ、よう見てるなあ」と感心されたよ。楽屋に届いたチャーシュー麺とラーメンを前にしたやすしさんは、そこで初めて「間違えた!」と思たんやろな。けど、動揺も見せんとラーメンをチャーシュー麺につけて食べ始めた。「こういう食べ方もあるんや」新聞を読んでたら、福岡の三越で鶴太郎の絵の個展が開かれることが書いてあった。ちょうどそのとき、俺も佐賀にいるスケジュールやったから鶴太郎に連絡して、福岡で飯を食うことになった。すし好きな俺やから、当然すし屋に行く。そこで鶴太郎に言うた。「おい、カニ食え」「変わってませんねえ」と言うた鶴太郎は大爆笑。
若手芸人が漫才するバーというのは分かるんやけど、俺が女装してたとこだけぱっと見た、明石家さんまとフジテレビの三宅ディレクターがやって来た。「兄さん、何してはりますのん。女装までして。そんなに金に困ってはるんやったら貸しますよ」とか言いよる。「よし、これならいける!」と、所沢にラーメン屋「まぼろし軒」を開店した。店の名前は、ビートたけしが「夕方まぼろしのように現れて、明け方まぼろしのように消えていく。いつ消えてもいいように」という意味を込めてつけてくれた。そしたら、映画の評判がよかったこともあって、「テレビドラマにしないか」という話が持ち上がったんや。話を持ってきたんは、佐賀の民放テレビ局・サガテレビを系列局に抱えているフジテレビ。メインロケ地は、市長さんが中心になって誘致を進めた佐賀の武雄市が選ばれたんやけど、武雄市には「佐賀のがばいばあちゃん課」まで設置されたんやで。
そんなわけあらへんやろ! と思たんやけど「周りを全部、うまい役者さんでそろえるので大丈夫ですよ」とか言われて、断るに断れんようになって、俺がばあちゃん役として舞台に立つことになった。
まあ、なんとかなるやろと思て迎えた舞台の初日。そもそも、俺はどんな舞台や収録でも緊張というもんはせえへんのやけど、幕が開く3分前に突然不安になった。
この連載は、自分の集大成やと思て臨んだ仕事やから、これまでどこにもしゃべったことない話や、書いたことのないエピソードも、正直に全部書かせてもろた。    俺自身も今までの人生を丁寧に振り返る機会になったよ。何十年ぶりに思い出したエピソードもたくさんあって、ほんまにいい経験になりました。
以上で 『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵紹介もおわりです。
で、日本農業新聞では週一で『笑ってなんぼじゃ!世相編』と題して主に時事問題を取り上げたエッセイが始まっています。そこでも挿絵を描いてます。

開巻一笑

これは6月28日の早朝にツイッターに投稿したものです。

ご覧のとおりバズっています。

そしてツイートから5時間後に、なんとこの置物を持っている方が現れました。

おお〜っ!色は違って、欠けたところもあるが、まさしく同じもの。さっそくこの方に連絡を取り、ゆずってもらうことになりました。
ツイートに何という置物か?読んでいる本は何か?という質問が入っているので、それをお題にして、いろんな人がふざけて大喜利がはじまりました。これも拡散された要因で、結果的に置物が見つかったのだからお礼を申し上げたいです。どうもありがとう!
まじめに推測、回答くださった人も多かったですけどね。
実を言うと、この置物は京都のギャラリーカフェ「隠」というお店にあります。
ガラスに写り込んでいる右の方は芳澤勝弘先生です。禅学・禅宗史研究家で白隠研究の大家であります。
カフェの2階に白隠禅画が並ぶギャラリーがあり、その上の階が先生の研究室にもなっていたはず。カフェの名前が「隠」なのも納得していただけると思います。
カフェ自体は先生の知り合いの方がやっているのだったか、詳しいことは忘れてしまいましたが、お店で先生と仕事の打ち合わせを終えて、外に出た時、壁面のディスプレイに見つけたのがこの置物でした。
「わ〜、先生これめちゃいいじゃないですか!この置物なんなんですか?誰が作ったんですか?」私は一目見てトリコになってしまいました。
「これはな、かいかんいっしょうというやつだよ」
「かいかんいっしょう…?」
漢字で書くと「開巻一笑」。
でも、それがこの置物の題名なのかなんなのかはよく分からずじまいでした。カフェをプロデュースしている人が見つけてきたのか、骨董品屋が先生のところに持ってきたのか…ちょっとの間の立ち話で、根掘り葉掘り聞くのも悪いと思って、写真をとるだけにして後で家に帰って調べることにしました。
「開巻一笑」を調べると中国の明代の笑話集らしい。日本でも訓訳されて読まれていたようです。
「開巻一笑」で検索して出てくるのは笑話集のことだけで、置物の情報は出てきません。
この置物の名前ではないかもしれません。ハゲ三老人が読んでいる本が「開巻一笑」なのか、この状態が「開巻一笑」なのか。置物の本には題がついていないから、状態のことを差して先生は言ったのでしょうか。
見たところ一点ものではないと思いました。先生の口から作者名が出てこなかったことからして、工房かどこかで作られた職人の仕事だとにらみました。
欲しいには欲しいが、本気で探すとなると玄人(骨董屋)の手を煩わすことになると思ったし、その筋に親しい人もいないし、早々にあきらめました。基本、物欲がないのでね。
あれからそろそろ1年が経とうとしていた時に、スマホの中の写真を見返していて、ふと思い出したようにツイートしたというわけなんです。もっとも本気で見つけようと思っていたわけではないし、単なる暇つぶしのつぶやきにすぎなかったのですが…。
しかし見つかるとはね〜!
7月7日、ついに我が家におじいさん達がやってきました。
置物は私に譲ってくださった方(くじらのとけいさん)の義理のひいおじいさんの持ち物だったらしい。
ひいおじいさんは今はない阪和鉄道という会社で設計士として働いていらしたようです。古い家を取り壊す時にこの置物の存在を思い出したものの、事情を知る者はもうおらず、新しい家にはこの置物を飾る場所もなく、埃をかぶったままだったということです。
さて、丁寧に梱包された箱の中から取り出した置物は大方の埃は掃除されていましたが、長年積もってこびりついた埃や黒ずみが取れなかったので、歯ブラシに水をつけてこすってみました。一番右のおじいさんからです。するとハゲ頭の地肌が見えてきました。
さらにこすっていると、アレ?色も落ちてない?とヒヤッとしたのも手遅れ、右のおじいさんの着物の襟元が消えてしまいました。
僕はてっきりこの置物は焼き物だと思っていたのですが、どうやら粘土か石膏でできた塑像のようです。
叩いてみると焼き物のような高く乾いた音がしません。それにさっきから水をかけても流れ落ちるだけでなく、いくぶんか染み込んでいるような気がしないでもなかったのです。
部屋中に独特の匂いがしはじめました。たぶんこれは石膏の匂いでははなかったかな。
とりあえず、水で掃除できる黒ずみや汚れを全体的に落としてから、乾かしました。
洗浄後。右のおじいさんの襟元の色がハゲてしまいました。
もともと元どおりに復元するのではなく「隠」で見た置物に印象を近ずけるつもりでしたので、とんでもないことやっちまった!とは思いませんでしたが、びびったことは確かです。焼き物じゃなかっとはねぇ。
ちなみにこれくらいのスケール感です。
ひっくり返してみると、中がくりぬいてない。焼き物は中をくり抜かないと、焼く時に破裂すると聞いたことがあります。
裏には銘もなければ社名もない。左上から少し斜めに割れた跡?が見えますね。
水洗いした後の、この土人形のような素朴な感じも悪くないですね。迷いましたが、でもハゲ頭は光っていて欲しい。
乾いてから、指でおじいさんの頭をこすってみますと、指の油で頭が光り出しました。
なるほど。
全体的に磨き上げて光沢を戻し、欠けたところを粘土で継ぎ足して、油絵の具で色を補なったのが下の写真です。
左のおじいさんの欠けている指は粘土で補修しましたが、右のおじいさんの持っている手あぶり火鉢の取手は復元しませんでした。
でも、なかなか「隠」で見た雰囲気に近づけません。
あちらの肌の色は古びた感じも含めて自然で超絶妙。塗り直した頭部がどうもフィギュアっぽい。これから古色をつけるべきかどうか悩みどころです。
おじいさんは何を読んでいるかって?本は白紙でしたね。
でも、本の表紙の模様は芸がこまかい。
色もだいぶ違うので、何人かの職人さんが塗っていたのでしょう。
私の置物では、左のおじさんの羽織の紐がないのですが、代わりに金具がついています。羽織の紋も「隠」とは違います。
火鉢の柄も違う。私のはラーメン丼の模様。でも芸が細かいのは、火鉢の表面が焼き物のように細かく亀裂が走っているところ。ここだけ焼き物かと思いましたが、そうではなく、ここも石膏?のようです。炭もちゃんと入っています。
毎日、ちょこちょこ手を入れながらこの置物を眺めています。
何が好きかって、ま、この雰囲気が好きなんだけど、ある種自分の理想のような世界です。この仲間に入りたい。
私の髪型はまもなくこのおじいさん達と同じになるのですが、ハゲも悪くないと思わせてくれます。そういう意味でも好きかな。
置物のお礼として、くじらのとけいさんには、つまらぬものを色々お送りしたのですが、一枚、置物がこっちにきた代わりに置物の絵を描いてお送りしました。
のぞいているのは一休さんと蜷川新右衛門さん。ま、いつものお得意のってやつですが、実は芳澤勝弘先生、アニメ「オトナの一休さん」の監修もされていて、去年打ち合わせで行ったのも田辺の酬恩庵一休寺から頼まれた頂相(禅僧の肖像画)を描くための打ち合わせだったのです。
今度先生に会うことがあったら報告しなければ。あ、そうそう、くじらのとけいさんも京都にお住まいだということで、この置物は京都のどこかで作られていたのかもしれません。
以上、「開巻一笑」後日談でした。
おわり。
追記。ブログを読まれた芳澤勝弘先生より連絡をいただきました。「開巻一笑というのは小生の命名です」「10数年前にパリで出会ったあるご婦人からいただいたもの」とのことです。

あっちをとればこっちをとれず

不思議と、さあブログを書こう!というモチベーションの日がたまにあるのだが、あいにく今週もそうじゃない。

このブログはWordPressというソフトで書いている。それとは別に、ホームページのリニューアルに向けて、毎日まだ公開されていない新ホームページ内にコツコツコツコツ作品をアップしている。これもWordPressというソフトを使っている。そのせいか、もうWordPressの管理画面を見るのがイヤになっているので、それも原因かもしれない。

今のホームページはちょうど12年前、2007年に作った。当時は最新式だったのに今ではすっかり古くなってしまった。すでにスマホでは作品ページがうまく表示されない。テレビが今後4Kになるように、最近はスマホやパソコンの画面の解像度も上がってきているので、これからは低い解像度だときれいに見れない。

今までブログを更新し続けてきたのでウェブ用の画像はいっぱいあるのだけど、どれもサイズが足りなくて、また全部用意しなければいけないのだ。スキャンし直して画像補正するのが超めんどう!チッキショー!

リニューアルについては「あっちをとればこっちをとれない」問題がいろいろあって、果たして今の終わりの見えない作業がむくわれるかどうか疑問に思うこともある。
「あっちをとればこっちをとれない」問題というのは、たとえば、ホームページやブログを自前で作るのではなくて、Tumblrやscrapboxなどの既存のサービスを使った方が、シェアされやすく広がりがいいだろう。このブログだって僕は独自ドメインを取得して自前ではじめたけど、今はnoteというサービスを使った方が広がると思う。ただ、ホームページに足を踏み入れたときの第一印象やいかに効果的に見せるかということも大事なので、既存のサービスでは物足りない。
常々「他のヤツとは全然違うから素晴らしいのだ!」ということが大事だと思い、何でもかんでも自分の色をつけようとしてきたが、そんなことを言っているとリニューアルをお願いしているウェブデザイナーのOさんに「伊野さん、ウェブの世界は古いやり方でやってると存在してないのと同じですから…苦しいだけです」とたしなめられるのだ。
リニューアル後はもう一つ「対談」というページを増やすのだが、そこではnoteを使うことにした。改心します。
なんかフツーのこと書いてるなぁ。こんなことは書くほどのことでもないし、読むほどのことでもないじゃないか。
よし、ついでに普段は書かないお金の話でも書こうかな。こういう仕事もしたことだし。
去年、「日経おとなのOFF」で仕事をもらって打ち合わせをした時に「フリーの人は絶対絶対イデコに入った方がいいですよ」と言われた。
ちょうどお金の特集だった。
50歳までならイデコ、50歳超えてたらニーサがおすすめらしい。どちらも運用して増えた利益が非課税なのがポイント。
これは「年金で面倒見きれないので自分でなんとかしてください、その代わり税金はいただきません」という国の方針のようだ。もちろん運用するということは元本割れする可能性もなきにしもあらずだが、そんなことよりも、イデコがいいと思うのは、掛け金が全額控除になるので、確定申告の時に収入金額から堂々と差し引ける。
毎月イデコのためにお金を用意しなければいけないのはきついかもしれないが、もし当面使う予定のない貯金があるのなら、そこから月々イデコに移すという風に考えれば、自分の貯金が全部控除扱いになるわけだ。貯金が必要経費に変身!みたいなもんだ。ということは万が一、元本割れしても節税分だけでけっこう得すると思って、私も入ったのだ。
金の話をしてブログの品格を下げてしまった。ちなみに私はバイト時代も無職の時も貯金がゼロになったことがないケチで用心深い男なのです。あしからず。
今週アップした仕事は<NewsPicksのもう一つの編集部、NewsPicks Brand Designから、新媒体「NewsPicks Brand Magazine」が誕生した。Vol.1のテーマは「新時代のお金の育て方」。金融庁発の「老後2000万円問題」が紛糾する中、お金に関する不安から自由になるために若手ビジネスパーソンは何をすべきかを、徹底的に考え抜いた一冊だ>というものです。
知的でもありお茶目でもあるような誰でもない外国人というオーダーで、例えとしてあげられた人物の中に、ウッディ・アレンがいた。だからこの絵は断じて微妙に似てないウッデイ・アレンの似顔絵ではない。
あと、誰もわからないとは思うがこの絵は油絵の具で描いた。
実に四半世紀ぶりに油絵の具を使ったが、めちゃくちゃ描きやすい。
アクリル絵の具はすぐ乾くので、グラデーションを作るのが難しいが、油絵は簡単にできる。絵の具ののびがとてもいい。乾いても色が変わらない。
というわけで、イデコと油絵の具をオススメして今週は終わるよ。

さぼるための更新です

今週はわけもなくブログさぼりたい。それでも10年間毎週更新しているので、間を開けるのが気持ち悪かった。さぼるための更新です。なさけないです。寝転びながら描いた絵でもご覧ください。来週は立ち上がるんだ〜、亀よ〜!

『私のイラストレーション史』

〈この本は、私が生きた時代に目撃した「日本のイラストレーション史」を記録しておこう、と企画して書きはじめたのです。〉
南伸坊さんの『私のイラストレーション史』のまえがきの書き始めです。
もちろん、イラストレーション以外の話もたくさん盛り込まれています。
「絵びら」屋さんの店先で手描きポスターのできるのをジッと見つめる南伸坊(当時は伸宏)少年。
いろんなきれいな色が作業的に塗られていく。はじめのうちは何が描いてあるのかよくわからない。そのうち、墨が入って輪郭ができ、何が描いてあるかわかるようになると、伸宏クンはこう思うのです。
〈最後に使うのが赤と黒で、目鼻やリンカクが描かれて絵が完成していくのだったが、コドモ心に、そこに本日開店だの、出血大売り出しだのと文字が書き加えられていくと、なんだかせっかくのキレイな絵が台無しになってしまうのがとてもザンネンだった。〉
う〜ん、とてもよくわかる!わかるよ!とオニギリ頭を思わずナデナデしたくなります。
デザイナー志望のきっかけは小6の時に行った、親戚の家の床の間に飾ってあった明朝体のレタリング。
それはその家の娘さんの作品で、彼女は年上の美人だったので、お姉さんへの憧れとともについデザイナーになろう!と思ったのです。
のせられて立候補することになった中学校の生徒会長選挙では、15枚のポスターを全部違うデザインにするという凝りようで、結果、教育的な意味合いは別にして断トツで当選してしまい、いまだにこれを超える効果のあるデザインやイラストの仕事はできていない……なんてエピソードも可笑しいが、早々と本質的なイラストレーション体験をしているのがスゴイなぁ。
イラストレーションのことを語ると自然に他のものも引きずってくるのは個人の体験が核になっているからですが、逆にそれがない「イラストレーション史」なんて面白いのかな?と思います。
確かに『私のイラストレーション史』は個人的な話には違いないんですが、この本に書かれる伸坊さんの少6からガロの編集長時代というのは、ちょうど60〜80年代のエポックメイキングな時代がまるごと入っているんです。
貸本屋で借りてきた水木しげるの『河童の三平』の一コマが心に焼き付いた話。
〈お茶漬けなんかを、サラサラサラと食べた後、三平がだだっぴろくなってしまった座敷で、ゴロンと横になってるところ、寝返りをうって横向きになったりしてるところの、絵の完成度はどうであろうか。すばらしい!こんな絵は水木しげるでなくてはゼッタイ描けないし、何度見ても釘付けになってしまう。〉
伸坊さんは小学生の時にお姉さんとお父さんを亡くされているので、この『河童の三平』を読んだ中学生の時、コマの中の三平を昔の自分を見るように見つめていたようです。
これぞまさしく名画との出会いじゃないですか!
『河童の三平』って友達探しの旅みたいな感じもして、ぼくが読んだのはずいぶんな大人になってからですが、ちょっとさみしくて、なんかジーンときちゃうんですよね。
高校の先生が教えてくれるデザインのセンスはもう古臭いと思ってたし、その生意気な鼻っ柱をクスクスくすぐって嗅覚を刺激する、新しい時代の絵やデザインは、もう本屋さんやポスターの中に出てきつつあったのです。
何しろ時代は60年代。
そして1966年『話の特集』が創刊されます。
〈話の特集』創刊号を買って、勇んで教室へ行った日のことは、いまでもよく覚えている。遅刻ぎみに教室へ入ると、人だかりがしている。のぞき込むと、人だかりの中心に、秋山道夫がいて『話の特集』を机の上で開いていた。〉
おー!!なんかすごいっすね。
『河童の三平』の一コマが水木しげるでなくてはゼッタイ描けないように、それは和田誠さんでなくてはゼッタイ作れない雑誌だったのです。
まさに新しい時代の若者たちの表現。
新しい時代は新しい表現を選ばせるのです。
出来たて一番アツアツのときに、腹をすかせてガブッとかぶりついてる感じが、こっちまで伝わってきて、お腹が空いてきます。
ぼくは自分が生きていない時代のことは、つまみ食い程度にしか知らないんだけど、案外つまみ食いがそのまま自分の大事な部分の血や肉になっている気がする。
つまみ食いって腹にしみわたるんですよね。
もっとちゃんと食べたくなっていたので、この『私のイラストレーション史』は待ちに待ってた本でした。
とっても満足感あります。それだけでなく、さっきも言ったようにまたお腹が空いてくるのです。
〈結局、傑作を作らせるのはいつも傑作なのだ。優れた作品に出会うというのが一等強力なモチベーションである。〉
というのもすごく納得できますね。自分もこんな世界を作ってみたい!と激しくそそのかされてぼくもはじめたんだと思います。
〈芸大をめざして、都立高の入試を受けたが失敗、定時制にもぐり込んで夏休みに転入試験を受けたが失敗、やっとこ翌年に工芸高校にギリギリ入学したものの卒業時には赤点で追試、追々試でお情けの卒業はしたものの、芸大入試を失敗、失敗、失敗と、あらゆる試験に落ちまくり、結果、試験のない「美学校」へ入学することになったこと、その学校がめちゃくちゃおもしろかったこと、その時期があったからこそ、無試験で『ガロ』の編集者になれたこと。
とすべての一つ一つは、承知していたことだけど、そのすべてがそれぞれに有機的に関係していて、そのすべてがムダじゃなかったばかりか、少しのムダもなく、まるで予め決められていたかのように推移していったのだ。〉
めちゃクレバーな頭の伸坊さんですが、意外にも試験という試験に落ちまくりなのところが勇気づけられるじゃないですか……っていうか試験ってなんなんだろね?
この本を読んでいると、伸坊さんの人生はこうやって、つまづいて、曲がって、伸びて、絡まって……とそれにしてもうまいことできてんな〜と思わずにいられない軌跡を描いています。
誰しも海図のないまま海に漕ぎ出だすのが人生だけど、自分が好き、面白いということで舵を切って行けば、そして『ガロ』の編集部に入って長井勝一さんに学んだという「優れた作品に対する感謝」の気持ち、「楽しませてくれた人を尊敬する」気持ち、を持ち続けていれば、自然に導かれる必然性のようなものがあるのかもしれないですね。
〈ほんとなら『私のイラストレーション史』なんていう地味なタイトルじゃなく『読めば3分で運がよくなる本』としたいくらいですが、そこは人柄が奥床式だから……。〉
はははは。
この本の中の最重要登場人物、和田誠さんと赤瀬川原平さん。伸坊さんが尊敬するこのお二人の直接の交流は少ないと思うし、作物には相反する(?)ようなところもありますが、南伸坊さんには和田さんと赤瀬川さんの両方が色濃く入っていて、伸坊さんの中で合体している。これは後で生まれた人の中でしか起こらないことです。このことを考えるとけっこうグッとくる。
自分はそんなこと出来てるのかなって反省もする。
ご存知のように、イラストレーターでもあり、デザイナーでもあり、編集者でもあり、エッセイストでもある伸坊さんでなくては書けない本だし、「私の」と断っていますが、最も大切な要点を押さえたスタンダードな日本のイラストレーション史だと思います。
マンガ史やサブカルチャー史とも交わっている点においてもね。
そう、マンガとイラストが交わるということにおいては、伸坊さんが『ガロ』の編集長をやってる時に、安西水丸さんや湯村輝彦さんにマンガを描いてもらったのなんか、外すことのできない重要な歴史なんですよ。
イラストにとっても、マンガにとっても、メディアにとっても。
ぼくだったら自分のお手柄にしちゃうところだけど、そこは伸坊さん、人柄が奥床式だから……。
いや〜、いつもは適当にブログを書いているのですが、ちゃんと書かなきゃと思うとかえってうまく書けないもんですね。
ま、ぼくの紹介が面白くなくても、本を読んだら絶対に面白いと思うので、必読中の必読図書、オ・ス・ス・メです!
おわり。

妹背山婦女庭訓魂結び

南伸坊さんの新刊『私のイラストレーション史』はもうお読みでしょうか。今週は誰にも頼まれていない書評を書こうと思ったのですが、準備ができずに来週以降に繰り越しました(笑)。
となるとどうしましょう。
また実家の猫の写真でも載せようか。瞬く間に体重も1キロほど増え、ぬいぐるみ状態からすっかり子猫らしくなってきている。いやいや、ネコの写真はもう載せないと決めたんだ。
そうそう、6人の候補者が全員女性ということで話題になっていた直木賞ですが、6人の中に大島真寿美さんがいらっしゃるじゃないですか。大島さんの新作『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』が候補作です。読めないでしょ?タイトル。渦は「うず」だけど、その後は、「いもせやまおんなていきんたまむすび」と読みます。
私はこれ最初っからスラスラ読めました。実はこの小説が連載されたときに挿絵を担当してたんですが、だから読めるんじゃなくて担当する前から読めてたの。
もう何年前かな?5 、6年前かな?それくらい前から国立劇場でやってる文楽公演に通っているのですが、一番最初に観た演目が「妹背山婦女庭訓」だったんですよ。後半の三段目と四段目を見たんだと思います。
はじめての文楽鑑賞の感想は、イヤホンガイドを聞きながら、目は舞台上の人形と人形遣い、舞台の袖でうなってる義太夫さんや三味線奏者を行き来して、で、ときどき舞台の左右に出る字幕やパンフレットも見てたんで、なんだかいそがしく、「……しまった、最初から全部キチンと見ようとしすぎだ。こんな見方は間違っている」と後悔しました。今はイヤホンガイドだけで観てます。
この「妹背山婦女庭訓」の作者、近松半二の生涯を描いたのが『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』であります。
まあ、ざっと挿絵を見てください。この人形浄瑠璃の芝居小屋の建物は間違っている。明治以降の資料を使ってしまったようだ。なので真似をしてはいけません。

江戸時代の人形浄瑠璃の芝居小屋はこういう感じだったようだ。たぶん正解。小説誌の挿絵くらいでは時代考証の専門家はついてくれないので、絵描き任せなのだ。僕も含めて挿絵には間違いは多いと思う。しかし、時代考証など全く無視してるのが文楽や歌舞伎なのでした。

〈江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、芝居小屋に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
近松門左衛門の硯を父からもらって、物書きの道へ進むことに。
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった半二。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した長編小説。
筆の先から墨がしたたる。
やがて、わしが文字になって溶けていく──〉
文藝春秋のサイトからの引用ですが、このような内容です。文楽を作った人のことまで考えたことなかったけど、半二やこの時代に人形浄瑠璃を作ってた人たちに共感するぜ。工夫ですよね、工夫。大事なのは。大島真寿美さんのこの小説もすごく工夫されてます。

先月の文楽の東京公演は「妹背山婦女庭訓」の通し狂言でした。第1部と第2部を通しで観ると丸一日かかるのですが、僕が観たのは第1部の方。最初の文楽鑑賞で「妹背山婦女庭訓」を観たのは後半だったので、まだ未見の前半を観たのです。これで一応通して観たことになりました。
天智天皇と中臣鎌足、蘇我蝦夷に蘇我入鹿親子が出てくるので、時代は大化の改新、飛鳥時代かと思いきや、奈良の都はすでにできており、描き割りには興福寺も描かれている。と思いきや、登場人物の衣装は江戸時代で、話の舞台が町や村に移ると完全に建物、調度品なども江戸時代。これは「妹背山婦女庭訓」に限ったことではなく、文楽も歌舞伎もみんなそうだし、昔は時代考証という研究自体が進んでいなかったし、逆に時代考証をやったところで当時のお客さんには響かなかったかもしれない。また忠臣蔵のようにあえて他の時代に置き換えなければやりにくい事情もあったでしょう。
忠義のために自分の幼い子供を殺すなんていうのもよく出てくる場面で、今の時代からすると共感度ゼロなんだけど、この全体通して滅茶苦茶な感じが、物語にロケットエンジンを搭載させてるようでもあり、昔の人は基本今よりぶっ飛んでるなぁと妙に感心します。でも、今の我々の胸を打ったり締めつけたりしてくる人情への働きかけもあり、ご先祖さまたちと同じように感動してしまうこともあります。
我々にとって奇異であり、今もどこかで繋がっている古典芸能。
今でも上演できるってことはすごいことだよ。
しかし、僕は文楽を見に行くと必ず1回は居眠りをしてしまいます。
原因は退屈なのか気持ちいいのかよくわかりませんが、退屈の質もまた現代とは違うんじゃないかなという気はします。
『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』として単行本になった時は、カバーの絵は頼まれなかったので、結局、縁はあんまりなかったというか、ま、これはよくあることなんで気にしてませんが(だったら書くな 笑)、直木賞取ったら、マジ嬉しいっす!

祝・国際エミー賞最終候補

先週、ブログをちゃんと書く時間がなかったんで、実家で飼い始めたネコの写真をアップしたところ、普段の記事よりはるかに多い「いいね」やコメントをいただき、アクセス数も伸びていました。

…………ったくさぁ、なんなのよ、ネコってやつは。というか、普段の自分のブログ記事はなんなのよ、って話ですけどね。

いやいや、単なる数字の話でしょ。ネコの写真をあげる方が数字が伸びると言って、そんなことばっかりやってたら仕事なくなっちゃうんですから。

しかし、会う人会う人、「ネコかわいいね」って言ってくるんですよ。いつもはブログの感想なんて言わないのに。

まだ僕も写真で見てるだけだから、思い入れは他の人と変わらないと思うんですよ。だから、飼い主ならではの贔屓目で見てない。冷静に判断できると思ってるんですよね。

客観的に見て……やっぱりウチのネコはかわいいよね?

それは置いといて。もうネコの話しませんから。
本業の話をしましょう。
先日、NHKの近くの某レストランで「昔話法廷」スッタフの打ち上げ的な会がありました。
知らない人に手短に説明すると、「昔話法廷」は裁判員制度導入で一般人も裁判員になるかもしれないというこの時代に、作るべくして作られた傑作番組です。
昔話の登場人物動物が裁判に出廷。それを裁く裁判員はキミだ!ということで、教室で大いにディスカッションしてもらうために作られた教材でもあります。ウェブの「NHK for School」でいつでも番組は見ることができます。
で、この番組は優秀で、第1シリーズでは、グッドデザイン賞(一応、私も対象デザイナーになっているのよ)。そしてドイツ・ミュンヘンで2年に一度行われる子ども番組のコンクール「プリ・ジュネス」で国際子ども審査員賞も獲得しているのです。
で、またまた今度は第3シリーズが国際エミー賞( 世界の優れた番組に贈られる歴史ある賞)の子ども番組部門のファイナリストに選出され、ま、結果は惜しくも受賞には至らなかったんですが、ディレクターのHさん(番組の企画者でもある)がカンヌから持ち帰ったワンセットしかない表彰状とメダルをみんなで変わりばんこに記念撮影したんです。
この写真だけ見ると受賞しました感が溢れちゃっていますが、ファイナリストに選出された賞状とメダルですので。
僕はカンヌに行ってるわけじゃないですよ、渋谷です。
この絵は「アリとキリギリス裁判」から。アリとキリギリスは幼少の頃は仲が良かった。二人で虫のくせに虫取りに出かけるの図。アリのTシャツにはANT(アリ)と書いてある。
「伊野さんはすきあらばこういうネタをぶっこんでくる人です」とディレクターのHさんはみんなの前で紹介してくれたけど、打ち合わせの時に毎回乗せてくるのはHさんなのでした。
我々スタッフはお互い初めての人もいるので、自己紹介タイムや質問タイムがありました(胸に名札シールをつけてたのもそのため)。みんなのエピソードなどを面白おかしくいじりつつ紹介し、進行をしてくれたのもディレクターのHさんでした。
この番組をやっていた4年間、僕はHさんとしかやりとりしてなかったんですが、打ち上げでは、ぬいぐるみを作った方々、ぬいぐるみの中に入っていた役者さんたち、脚本家さん、監修の弁護士さん、編集さん、音効さん……たちと一堂に会することができました。
あと、番組を仕上げる前に学校で模擬放送みたいなことをして様子を見る(判決が一方にかたよらないようにするため、生徒たちの反応を見る)らしいのですが、そこで協力してくださった小中高大学の先生たちもお見えになりました。
この絵は「さるかに合戦裁判」より。人間でこれを描写したらエライことになるが、カニならオッケー。サルに柿を思いっきりぶつけられたらカニはどうなるか?絵本で描かれないリアルドキュメント描写ができるのもこの番組ならではのところです。またこういった描写がなければ裁判の判決が一方に片寄る可能性もあるのです。
実際に完成したこの番組を使って、授業でディスカッションしてるところもディレクターのHさんが取材に行って、その様子を映像で流してくれました。
感激でしたね。
「ああ、こうやって見てくれてるんだ」って。
ディスカッションを重ねると途中で意見が変わる生徒も出てくるらしいんですよ。それっていまの分断化が進む社会に一番必要なことじゃん?
ほんと有意義ないい番組に関われたと思いましたよ。
そして、もうひとつおもしろいVTRがありました。
この番組が大好きだっていう小学生の女の子が、番組宛になんとオリジナル「ピーターパン裁判」の脚本を送ってきたんだって。
将来は弁護士になりたいというその子の家にもHさんは取材に行って、彼女の脚本でプチ昔話法廷「ピーターパン裁判」を作っちゃったんだから。それは彼女へのサプライズであると同時に、我々へのサプライズでもあったんです。
僕は内容を知らされないまま、頼まれたピーターパンのワンシーンを描き下ろしました。
ビデオ映像を見ながら、みんなマジ感激&感心。
単なる打ち上げではない素敵な宴を開いてくれたHさんと、このあったかくなってたまらない気持ちを分かち合いたい。お礼を言いたい。
さあ、もう一度乾杯だ!
と僕は歓談タイムに席を立って、Hさんのところに行き、
「いや〜どうもどうも、Hさん、ありがとうございます!お疲れ様です!」
って言って、グラスをカチンとしました。
で、その後にHさんなんて言ったと思います?
「伊野さんのネコかわいいですね」
って(笑)。
ああ、もう……どんだけネコなんだよ。ネコは仕事の邪魔してくんじゃないよ!
というわけで、ネコの写真、もう上げないですから。

ネコ教に入信しました

ついにネコ教に入信してしまいました。

しかも通信教会です。

うちの実家(年老いた両親の二人暮らし)でインコを飼ってたんだけど、去年逃げちゃって、心の隙間を埋めるためにか、今度はネコを飼おうかと話していたらしい。

うん、それいいんじゃない。老人の会話のネタになるだろうし。実家に帰って来た時にネコがいるのも悪くないね。ネコは僕が実家暮らしをしていた時に通算5匹?くらい飼ってたことあるので、ネコのだいたいはわかっているつもり。

で、両親が保護ネコをもらいに行ったら、猫より先に死ぬおそれあり、ということで年齢制限に引っかかって、もらえなかったんだって。でも一度飼うと心に決めたから、あきらめられずに知り合いに頼んでたみたいで、ついに子ネコがもらえそうという連絡があった。

聞けば最近流行りのブサカワ顔のエキゾチックショートヘアという種で、画像検索したら、んー、なんかこれは思ってたネコと違うなー、ふつうのそこらにいるネコがいいんだけどなーと思いました。ちょっとガッカリでしたね。

そしてつい先日、エキゾチックショートヘアとかいう名前の種の子ネコがやって来て、写真が送られてくるようになったのですが、これが……なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……ヤベェ♡……こいつはなんなんの、こいつは、こいつは……もう……と気づいたらネコ教に入信してました。

もっと写真を送ってくれと本部に言って、届く写真を見ては、なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……とお経を唱えています。10年間ブログを更新して来て、ついに絵とはなんの関係もないネコブログになってしまいました。まるで人が変わったよう。

そう、それが宗教というものなんだニャ〜。

興福寺火事絵巻その4

南 いま展覧会に行くと、人がすごいじゃない。最近は、何かで人気に火がつくと、集まりすぎ。イヤホンつけて、ひとっところにじっと溜まる。あれはなんとかしてほしいな。あれも、ちょっとね。あれ、最初に別室で映像見ながらイヤホンガイドで言ってるようなこと勉強して、それから実物を見るようにしてほしい。
伊野 なんとか混まない工夫をして欲しいですね。美術館は、空いてるのがいいんですから。空いてなければ美術館じゃないっていうか、美術館に行った気がしないというか。以前、阿修羅展に行ったら、阿修羅像のまわりがぐるっと三六〇度ライブハウスみたいにすし詰め状態でした。
編集部 混雑がすごいときは、一時間以上並んだりすることもあるみたいですね。
伊野 動員数のランキングが出たりして、人が来るのがいい展覧会みたいな風潮が最近はありますよね。
 若い人よりも、年配の人のほうが多いんじゃない? オレと同じくらいの(笑)。
伊野 阿修羅展は高齢者のすし詰め状態だったから、ヤバかったっすよ。
(「望星」4月号掲載、南伸坊さんとの対談「絵?好きに見てください」より)
この対談で話題に出した阿修羅展というのは、2009年に東京国立博物館で開催された興福寺の創建1300年記念「国宝・阿修羅展」のことです。マジで具合が悪くなっちゃう人が出ちゃうんじゃないの?という混みようで、国立の博物館の商いって、こんなのでいいのか?って呆れました。
ところがこの展示、とにかくいっぱいお客さんに見てもらわなきゃいけない切実な理由もあったんですね。
さて、NHK「歴史秘話ヒストリア」のために描いた絵を元にお届けしている「興福寺火事絵巻」も今回が最終回。
七転び八起きの7回目の火災です。
奈良時代に建てられた興福寺は、平安から室町にかけて6回焼けて7回建て直しているのですが、意外にも戦国時代は焼けていない。
あーよかった、よかった。確かにそれはよかった。でも戦乱の世が過ぎ、徳川の世になる頃にはすっかり興福寺の威光は衰えていたのです。
7回目の火事が襲ったのはそんな時代。
1717(享保2)年、正月4日、中金堂の背後の講堂に盗賊が忍びこみました。
灯した蝋燭を落として引火。
 「まずい!」
「逃げろッ! 」
講堂の内陣から上がった炎は 、たちまちのうちに中金堂へと燃え広がった。
火付盗賊改の長谷川平蔵?
んなわけない。火消装束に身を包んで駆けつけたのは大和小泉藩の藩士たち!
「あっ!中金堂がッ!!」
「東金堂にも火の粉がかかっておるッ!」
東金堂にかかった火を必死になって止めます。
時代は江戸まで下ったといっても、消防技術はこんなもの。江戸の町の火消たちも燃えそうな家を破壊することによって火事の広がりを防いでいたわけですが、さすがに興福寺をぶっ壊すわけにもいきません。
「なんとか消えたか…」
「いかん!今度は西金堂じゃッ!」
やばいっす、やばいっす。西金堂には阿修羅像もあります。実際に興福寺に行くとわかりますが、中金堂、東金堂、西金堂はけっこう離れてるんですよ。火事の熱風というのは恐ろしいですね。
「手をお貸し下され!」
「承知!」
阿修羅像などの十大弟子像は乾漆造で軽いので、救出は容易です。だから今まで残っているわけですが、今でこそ仏像界のスーパースター阿修羅像も、当時は脇仏の一つに過ぎません。阿修羅よりも大切なのは御本尊。でも御本尊は中が空っぽの乾漆造ではなく、木像なのでとてもじゃないけど持ち出せない。
「残るは御本尊さまだッ」
「ああ、お堂の中に火がッ!」
近所の町人も駆けつけています。
「こんな大きな御像をどうやって!?もう間に合いませぬ!」
「なんとかして、なんとかして、お顔だけでもお助けするのだッ!」
この時に救い出されたのが、運慶のデビュー作だった西金堂仏頭です。これですね。
7回目の火災では中金堂・西金堂・講堂・南円堂などが焼失。鎌倉再建の北円堂・三重塔・ 食堂、そして室町再建の東金堂・五重塔は無事でした。
ところがっすな、興福寺の力は衰えてますから再建は難航します。
当時の将軍は徳川吉宗。享保の改革をはじめ、財政を引き締め出したところ。
なにとぞお力添えを〜と頼んでも、にべもなく断られます。
「ならぬ。寺より財政の立て直しじゃ」
興福寺は藤原氏の氏寺でありますが、藤原の末裔、京都の公家たちも…。
「助けて欲しいんは、まろたちの方や」
幕府も朝廷もあてにできない中、 興福寺は民間から資金を集めるため、当時流行していた「出開帳」を行います。
出開帳とは寺の外に仏像や寺宝を持ち出し、公開して寄付を募ること。
江戸の浅草寺の境内で80日間行ったけれど、集まったお金は再建費用には程遠かった…。
火災から百年以上経って、 ようやく中金堂の基壇の上に仮堂が作られました。 本来の中金堂とは規模も質も違うので「仮堂」ね。
まーったく覚えてないけど、興福寺は小中学校の間に修学旅行か社会見学で行ってるはず。
私はたぶん、この仮堂を見てる気がするんだけど。
で、時代は明治になり、廃仏毀釈で興福寺的にはさらにさらに厳しい状況になります。
天平の栄華を誇った興福寺もついに断絶!
鎌倉時代に建てた食堂も取り壊され、こんなもんあったてしょうがねえだろってことで塀や門も撤去、境内が奈良公園になり、仏像が撤去された仮堂は役場として使われ…。
その後、1881年に「興福寺再興願」が内務省に受理され、14年ぶりに復活。
時は流れて平成に。
2000年に仮堂が解体され、 翌年から発掘調査が始まりました。出てきた礎石66個のうち、なんと!ナント!南都!64個が天平創建当時のものだったのです。
天平の夢をもう一度見たい!!
でも、文化財の修復には国から補助金が出るけど、新しく中金堂を作るのには出ないらしいんっすよ。
つーわけで、このブログの冒頭を思い出してください。
平成の「出開帳」をということに相成りまして、開かれたのが「国宝・阿修羅展」なんですね〜!
そっか、そっか、それなら仕方ないや。我慢しよう。入場券など、わずかばかりのお金ですが、私も中金堂の再建に役立ったわけですね。一昨年やってた「運慶展」も見にいったな。そこでも少し貢献してたわけだ。
ついに去年、興福寺は七転び八起きして中金堂は完成!
9年前に「阿修羅展」を見にいった時は、興福寺は名前くらいしか知らなかった。修学旅行で行ったかなぁ?程度。そんな私が興福寺の火事絵巻を描くことになるとはねぇ。明日の天気はわからない。人生、先のことを考えるのはやめよう。
ちなみに阿修羅像がふだん展示されている興福寺の「国宝館」は空いててすんごく見やすいですよ。オススメ〜。(完)

興福寺火事絵巻その3

興福寺火事絵巻、今週はその3!
5回目の火災は、運慶たちが参加した再建からおよそ80年後に起こりました。
健治3年(1277年)7月26日の夕刻、ビカビカ!ドンガラガッシャーンガラガラガラ!雷の閃光が中金堂の近くの僧坊に落ちました!たちまち上がる炎!
「た、助けてくれ!」「ああ!中金堂が燃えている!」
自然災害による5回目の火災では伽藍の中央が焼け、北円堂などは残りました。
火災から6年後、建設中の中金堂の前庭を裹頭(かとう)した衆徒が埋め尽くしております。再建の中心に立ったのは、衆徒堂衆たちでした。
ここで豆知識。武蔵坊弁慶やいわゆる僧兵たちがかぶっているのは、実は袈裟なのです。それを裹頭と言います。
議題は再建工事に必要な人夫の確保でした。時は鎌倉、武士の時代。平安時代のように朝廷や藤原氏が全面支援してくれる時代ではありませんでした。

「伽藍再興 のための土打役を大和国一国すべてに課すべし」
「もっとも!」
「権門勢家の領土だろうと気にせず、催促せよ」
「こっちの言うことを聞かなかったら、どうする!?」
※このシーンは使い回しに見えてそうではありません。人数が増えているよ!
村が燃えていますね。あら、人々が襲われている。
そうなのです。人夫を出すことを拒否した寺社の荘園は、決議どおり、衆徒たちによって焼き打ちされたのでございます。ベンベン。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
これが5回目の火災の顛末でした。
しかしその27年後、またまたまたまたまた6回目の火災が起こるのでございます。
鎌倉時代末期、興福寺では内部抗争が激化。堂衆の武力が寺の中の勢力争いに使われたのです。
そしてなんと!ナント!南都!あろうことか興福寺の境内で合戦が始まったのでございます!ベンベン!
1327年のことでございます。
「かくなるうえは中金堂へ…」
「籠城じゃ!奴らもここは攻められまい!」

そこに追っ手が現れます。
「罰当りどもめ!中金堂に立てこもるとは…」
「かまわん!攻め込めぃ!」
さあさあ、中金堂で合戦がはじまった!

攻め手が矢を放ち、守り手も応戦!
矢に打たれた衆徒が「アッ…」とたいまつを落とす。その火が楯に燃え移る!
「いかん!!火が…!」
「いくさしてるばあいかッ!火を消せッ!」
「ええぃッ!消えぬ!」
「なんとしたこと。わしらが中金堂を焼いてしもうた…」
6回目の火災は僧自らが燃やしてしまうという…あぁ、後悔先に立たず。興福寺後に建たず。
いや、それでも悔いた衆徒堂衆たちの尽力で、まもなく再建工事が始まりました。
しかし時代は急速に変化します。火災の6年後1333年に鎌倉幕府が滅亡。やがて続く南北朝の戦いで再建作業は進みません。
1392年足利義満が南北朝の合一を果たし、ようやく平和の日々が戻ってまいります。
3年後、再建工事の続く興福寺に義満がやってきました。
これは寺にとっては援助を頼む絶好のチャーンス!
「義満おもてなし計画」のひとつには世阿弥の舞もありました。
世阿弥は義満のお気に入りの役者だったのです。興福寺の衆徒たちは義満の歓心を買おうとしたのかもしれません。しめしめ。将軍様はご満悦じゃ。
世阿弥の舞のパートはパラパラ漫画みたいに描いたので、試しにGIFアニメにしてみました。ただつなげただけなので本当はこういう動きじゃないけどね。
さて、宴の後、衆徒代表が世阿弥に声をかけます。
「三郎、さきほどの舞、見事じゃった」
「猿楽師は、神事をつとめ、貴人の御意に従いまする。その心得ゆえ、当たり前のことをしたまで」
世阿弥の肖像画は残っていませんが、ものすご〜くイケメンだったとのこと。
度重なるおもてなしが功を奏したのか、義満が興福寺の再建を積極的に支援してくれたおかげでついに1399年再建工事が終わり、まってました落慶法要!合戦による消失から実に72年ぶり!
はい、この絵は使い回しじゃございませんよ。前回の絵と見比べてください。中金堂の屋根が大きくなって、勾配もきつくなっているのです。屋根の高さも高い。気づかなかったでしょう?気づいたら相当の興福寺マニアだぜ。
このお坊さんは誰であろう。出家した足利義満なんですね。
1回目の火災から中金堂の落慶法要まではたったの1年3ヶ月しかかかっていないことを考えると、72年は長〜いですね。時代が下るたびに長〜くなる。
現存する東金堂はこの室町の再建です。ほら、東金堂も屋根の勾配がきついでしょ。東金堂は中金堂の16年後、そして五重塔は約30年後に建てられたのです。今、我々が見上げることのできる五重塔を、世阿弥も見上げたに違いありません。この時世阿弥は60を過ぎています。
「命は終わりあり。能には…興福寺には…果てあるべからず」
そう、一言つぶやいたかもしれませんね。
「興福寺 七転び八起き」ということはあと一回燃えるんですが、今週はちょうど時間となりました。ベンベン!

興福寺火事絵巻その2

先週に引きつづきNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」のアニメパートに描いた絵から。

七転び八起きというのは、まさに7回火事になって8回建て直したからですが、先週は3回目の火事までやったので、今週は4回目からはじめましょう。

3回目の火事(1096年)より4たび蘇った興福寺。

完成したのは火災から6年10ヶ月後の1103年。そこから78年間は無事でございました。しかし源平の戦いの最中1181年に4回目の火災が起きました。これがかの有名な大惨事、平家の南都焼き討ちであります。時は治承4年12月28日、反平家の立場をとった興福寺の僧兵を攻撃するために、平清盛の5男、平重衡が大軍を率いて南都へ進みます。対する興福寺はじめ南都の僧兵は、京都と奈良をつなぐ奈良坂に集結。押し寄せた平家の大軍と激しい戦いが続き、夜になりました。般若寺の門の前に待機する平氏軍。「暗さも暗し。火を出だせ」「おうっ!」と 楯を割って作ったたいまつを民家に投げて放火します。瞬く間に燃え広がる火!「これ、いささか強すぎじゃ」照明がわりにつけた火のはずが、 折からの強い北風にあおられ、大火炎となって南へ南へと燃え広がる。

やべえ!やべえ!これを見た僧兵たちも、戦どころじゃないね。「まるで地獄の業火じゃ!炎が飛んでいく」
「見よ。あの紅蓮の火柱を!あれは、東大寺の大仏殿ではないか!」 「わめき叫ぶ声が…焼き殺されておるのだ…」
「急ぎ興福寺へ!」
しかし、時すでに遅し…というか火が早し。

「ああ。中金堂に…。火が…」こちらは西金堂。すでに火の手はまわっています。

「運慶? 運慶か!」
「おお、おぬしらか!手伝うてくれ!仏様をお救いするのだッ!」
「おう!」

阿修羅像などは中を空洞にする「乾漆造」で軽かったのです。幾度の火災にあいながら今日まで残っているのはそのためです。アニメに描いたように運慶が実際に運び出していたとしても不思議ではないでしょう。

翌朝、おそろしい光景が広がっておりました。なんと!ナント!南都!ほぼすべての堂塔が焼け落ち、興福寺に逃げ込んでいた人々の骸八百体が残されていたのです。
「南無……」
小さな仏像は救い出されたものの、 大きな仏像のほとんどが焼けてしまい、新たに作り直さざるをえま せんでした。
焼き打ちの翌年、再建計画が始動します。宮中に公卿たちが集まり、再建の分担を決めました。
「造営の割り振りは、これでよろしな」
割り振り図をよくご覧ください。中金堂などは国家プロジェクトで再建されます。 講堂や南円堂は藤原氏が担当。 食堂などは寺が担当することになりました。しかし、東金堂と西金堂は割当てからもれてしまったのです。それを聞いた堂衆たちは…。
「… とあいなった」
「わしらの西金堂は?」
「割当てからもれた」
「なんと! 」「この条いわれなし ! 」
「いわれなし! 」
「西金堂は打ち捨てる気か!」
「わしらの儀式はどうなる?」
「みな、聞いてくれ!わしらの力で再建してはどうじゃ?」
「わしらで?」
「そうじゃ!堂衆の底力、見せてくれようぞ!」
「もっとも ! 」
「もっともじゃ!」
「もっともじゃ!」
この人は運慶です。この堂衆の中に運慶もいたかもしれないのです。いや、いたね、きっと。ところで僧兵たちが顔に巻いているものは袈裟なんですよ。番組では実際に袈裟で巻いてるところやってましたね。
堂衆たちは貴族たちから寄付金を募って、そのお金で再建を進め、 なんと!ナント!南都!国家事業である中金堂よりも早く完成させたのであります。
平家滅亡の翌年には、堂内に新しく作った本尊を運び入れました。
この本尊を作ったのが、当時まだ無名だった運慶でした。
運慶は興福寺の別当(一番偉い人)から褒美に馬を賜りました。
焼き討ちから13年経った1194年、ついに中金堂も完成。落慶法要も5度目です。さて、あなたの興福寺”通”度合いがわかるクイズです。この一見使い回しに見える落慶法要の絵、どこが今までと違うでしょう?
正解は「屋根の上に乗っている鴟尾(しび)がない」です。
建築現場シーンも鴟尾がないバージョンになっているのです。お気づきでしたでしょうか。
鴟尾は魔除けや防火のまじないとしてつけられたものらしいですが、これだけ火事にあってんだから、まじないも効き目がないと思ってやめにした?いや、それともなんでしょう、単にもう流行らなくなったから?たしかに鴟尾は廃れます。室町時代に建てられた現存する東金堂にも鴟尾がありません。後世、天守閣にシャチホコを飾るのが流行ります。シャチホコは蘇った鴟尾なのでしょうか。去年完成した中金堂には金色の鴟尾が輝いています。
今週は「仏師運慶デビュー秘話とそして鴟尾はなくなったの巻」でございました。
ではまた来週!

興福寺火事絵巻その1

GWいかがお過ごしでしたでしょうか。私は寝たり起きたりの生活でした。体の調子が悪かったというわけじゃなくてね。無為に過ごすという。無為とはダラダラと無駄に過ごすことでもあるけど、仏教で無為といえば不生不滅の存在のことであり、老子でいうところの理想の境地でもあるわけですが、もちろんダラダラ過ごす方のネ。

言葉が物事を区別するものなら、同じ言葉に良い意味と悪い意味があるのがややこしいんだけど、もしかしてダラダラ過ごすことが実は真理に近いんじゃないかと思ったりしない?あと、眠るときに見る支離滅裂な物語と、将来の願望が同じく「夢」と呼ぶのもどうしてだろう。

過ぎ去ったことも夢のようだと言ったりする。

奈良の興福寺は、710年に創建されてから現在までなんと!ナント!南都!7回も火事にあっている。その度に再建されてきたわけだが、江戸の火事で中金堂が焼けた後は、ややみすぼらしい仮堂のままで今日に至っていた。しかし去年、中金堂は創建当時の姿のままで再建され(8回目)、天平の夢をもう一度我々に見せてくれたのだ。

そんな興福寺の歴史を追ったのが先週放送されたNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」。ふだんは再現ドラマで見せるパートを今回はアニメでやりました。

その火事絵巻を何週かに渡って紹介いたします。

はじまりはじまり〜。

時は飛鳥時代末期(700年頃)。平城京の場所を決める時、藤原不比等は春日野に近い小高い丘を通りかかった。
「うまし丘よ。ここなら都が一望できよう。ここに我ら藤原氏の氏寺を建てようぞ」
まだ都のできる前の奈良盆地。
中金堂が完成したのは714年。その6年後に不比等は亡くなる。以降、北円堂、東金堂、五重塔、西金堂が建てられた。
さて、興福寺1回目の火災はどうやって起こったか。
平安時代中期永承元年(1046年)12月。夜深い11時ごろ。興福寺の西隣にあった里の1軒の民家が放火された。
火はまたたくまにあたりに燃え広がり、折からの強い西風にあおられて火の粉が 興福寺境内へと飛んでいく。
「あぁっ、西金堂がッ!」
「中金堂も火の手がーッ!」
天平創建以来、300年間無傷だった伽藍が、たちまち炎に包まれていった。
講堂・東金堂・西金堂・南円堂・鐘楼・経蔵・南大門・中門・僧坊など、北円堂や蔵をのぞくほぼすべてが焼失した。
私は原画を描いて、それをアニメーターの幸洋子さんが動かしてくれるのだが、実際放映された火事表現はもっと迫力がある。それを静止画で見せるのもなんだけどこんな感じだ。
さて火災の翌日、京の都に興福寺消失の報告があがる。
時の関白は 藤原道長の子、頼通。
「申し上げます。こ、興福寺がー!」
「いかがした」
「燃え落ちてしまいました…」
「燃えた!?」
「伽藍ことごとく灰に…。まさに末法の世…」
「…ええい、嘆いてなんになる。建て直しじゃ。我が信心の証を見せん!」
こうして頼通は強気で再建を命じた。
なんと!ナント!南都!わずか1年3ヶ月後に中金堂は完成し、落慶法要が行われた。考えられないスピードである。ちなみに平成の中金堂は2010年着工2018年落慶だそうです。
で、1回目の火災が再建からわずか12年後、康平3年(1060年)5月4日の夜に2度目の火災は起こるのである。
それは中金堂本尊にあげた灯明の火から延焼した。
「あっ!」
「ああ、火が!火が!」
落ちた灯明の炎はあっという間に広がり、まだ丹の色も鮮やかな中金堂の柱に燃え移り中金堂が焼失した。
最初の火災から12年後なのでまだ関白は藤原頼通。
この人、人生で2回も興福寺を再建しているのです。頼通12年後バージョンも描いたけど、尺の都合で放送ではあえなくカット。ま、頼通と妻が老けただけのバージョンですが。
で、放送ではこの後もう一度再建シーンと落慶法要のシーンがくりかえされます。
ちなみにこの藤原頼通の話を歴史好きの友達に話したら「頼通は父ちゃんの道長が創建した法成寺もまるっと再建しとるんすよ(これも巨大寺院よ)。再建請負人かぁ」とのこと。
頼通エライ!
創建から300年後に1回目の火災、2回目はその12年後、では3回目がいつかというと、その29年後でした。
嘉保3年9月の夜のこと、僧坊(中金堂と講堂を取り囲むように並んでいたお坊さんの宿舎)から出火し、中金堂が炎上。
「助けてくれーッ!」
「僧坊から火が出たぞーッ!」
創建から300年無傷だったのにここにきて半世紀で3度の火災。
原因は貴族の生活が朝方から夜型へと変わり、儀式も夜に行われることも多くなったからだそうだ。
ちなみに朝に仕事するから朝廷って言うんだってね。
昔は消防車なんてないから、燃えたら最後、神か仏にお祈りするしかなかったのです。
アニメの原画を描く前に絵コンテを描くのですが、こんな感じです。
私はアニメの勉強とかしたことがないので、絵コンテの描きかたが変かもしれない。ひとつ思ったのは、これくらい小さいサイズで絵を描くほうが(本番はA4サイズで描いてますよ)いろんな構図を思いつくということ。不思議なんだが、最初からA4の紙に描くとヨリヒキにバリエーションが出ないんだよなぁ。
というわけで今週はここまで。
あ、そうそう今日5月7日の午後3時08分~ 午後4時00分に再放送があるんだ。ぜひ見てね!

ハート展と元号雑感

ゴールデンウィーク真っ最中なので今週のブログは休む気まんまんだったけど、ちょうど今日で平成も終わることだし記念に更新しておこうかな。

まずひとつお知らせを。ただいま渋谷の東急百貨店本店にて「第24回NHKハート展」が開催されております。私は月岡凛さんの詩に絵を描きました。ハート展はこのあと各地を巡回します。よかったら足をお運びください。

主催者の要望としてハートをモチーフにして欲しいとあったので、おばあちゃんの後ろのカーテンがハートの形になっています。
ぼくのおばあちゃんももういません。大学4年の時、「就職しないでイラストレーターになる」とおばあちゃんに伝えると「いらすとれーたーってなにや?」と聞かれて困った。「う〜ん、絵を描く仕事なんやけど……」と答えあぐねていると、ふと「市政だより」が目に入り、それをパラパラと見せて「ここに描いてあるような絵を描く人のことや」と言ってしまった。よりによってものすごくつまんない絵を見せちゃったな。おばあちゃんは「……なんや、ようわからんけども、就職しい」と悲しそうな顔をしていた。
イラストレーターになるのに予定を大幅に上回る時間を要してしまったため、おばあちゃんは私が今こんなに立派になっているのを知らずに死んだ。「市政だより」のようなあんなつまんない絵を描いていると思われたままかもしれない。あの世に「天国だより」でもあればノーギャラで描きたいものである。
ウチの父がたの祖父母は明治生まれで、母がたの祖父母は大正生まれだった(さっきのおばあちゃんはこっち)。祖父母たちの生まれ年は覚えてないが、明治の終わり頃と大正の初め頃に生まれただけで同世代だ。祖父は二人とも戦争に行っている。
でも子供心に明治と大正は違う色だった。流れている時間が違う感じがした。
一括りに明治といっても45年もあるので、序盤中盤終盤ではかなり様子が違う。では明治20年と明治40年ではどう違うかと言われてもパッとわからない。夏目漱石は慶応3年生まれで翌年が明治元年なので、だいたい漱石が20歳の時、40歳の時と考えればいいだろう……といってもどう様子が違うのかやはりわからないが(笑)。
きっと私が80歳くらいなった時、若い世代にとっての昭和は、ぼくらの明治のようなもので、大雑把にしかわかってもらえないんじゃないかと思う。
昔=昭和。
「おじいさん昭和生まれですか。やっぱりみんな着物着てたんですか?」とか「戦争大変でしたでしょう」とか「学生運動で暴れたクチですか?」とか聞いてくると思う。元号で時代が一括りにされることによって生じる混乱。こういう時間の共有は日本だけの特殊なことで、ぼくは面白い。
「いやいや、それも昭和だけど、ワシャ全然知らん。昭和は64年もあったんだ。しかし、ワシはネットのない時代を知っておるぞ」と言うと「ネットがないって、それどんな感覚なんですか?」と食いついてくるに違いない。当たり前に見聞きしていたことを言うだけで、時代の証言者になれるのだからせいぜい長生きしたいものだ。

興福寺と大徳寺の番組

去る4月15日、ノートルダム大聖堂で火事が起きた。

ニュース映像を見ながら「ああ、なんということだ!」と思っている自分と、「おお、塔の部分はこうやって焼け落ちるのか」と思っている自分がいた。なぜなら私は2月中旬からほぼ一ヶ月に渡り、NHKの『歴史秘話ヒストリア』のために、奈良の興福寺が燃える絵ばかりを描いていたからだ。

絵といえども、順番としてはまず燃えていない興福寺を描く。そこに火の手が上がり、大炎上していく様子を描く。これを7回繰り返した。だから自分の手で7回燃やしてしまったようなカンジ…。

そう、興福寺は奈良時代に建てられて、なんと今までに7回も火事になっている。でも、実際に興福寺が火事になったのを見たわけではないから、想像の中で描いたに過ぎない(しかもアニメなので、あとはアニメーターさんまかせ…)。その仕事が一段落した後だったから、ノートルダムで火事があった時、燃え方のほうに興味を持ってしまったのだ。

ノートルダムは幸いに消火されたが、消防技術の発達した今だから可能なことだ。江戸時代の火消しを思い出してみても、消火というよりは、燃える範囲を広めないために、先回りして燃えそうな家を壊すとかしかできない。興福寺に限らず、昔はいったん大火災が発生すれば、あとは神や仏に祈るしかなかったようだ。
去年、興福寺の中金堂は8度目の蘇りをみごと果たした。それも創建当時の天平時代の姿そのままに。このなだらかな屋根の勾配と、金色に輝く鴟尾を見よ!美しい!まさに興福寺は七転び八起きの不滅のお寺。
というわけで明日24日(水)の22時30分からのNHKの歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」をぜひご覧ください。130枚くらい絵を描いています。
燃えるシーンだけでなく、建てるシーンも描いています!
 はい。
そして、もう一つお知らせです。
同じく明日の17時50分からNHKBSで自分が出演する番組『伊野孝行 真珠庵での格闘』が放映されます。(再放送は5月5日12時20分〜30分)
約1年前にBSスーパープレミアムで放映された『傑作か、それとも…京都 大徳寺・真珠庵での格闘』という番組(90分)の個人パート版(10分)です。個人パートでは真珠庵の襖絵を描いた絵師たちをそれぞれ追う内容だそうです。私は襖絵を2泊3日で描いて帰ってきたおかげで(他の人は半年くらいかけて描いてる)本編での登場時間は2分半ほどでした。だから私的には10分というのは短縮版というより、拡張版ですね。
ただ、この番組、BSはBSでもBS4Kなので、4K放送のチューナーが内蔵されているTVか、別に4Kチューナーを持っている人じゃないと見れないのです。もちろんボクも見れません。つーか、今のところ、まわりでも見れるという人は誰もいないんだけど…。
家に2回取材に来たのと、なぜか神保町でロケもやったので、そういうのもうつっているかもしれません。見れる人がいたら見てくださいね〜。
上の画像は昨年の本編のものです。
この写真は描き上がった襖絵の前での記念写真です。
おわり。

令和おじさんモノマネ

先日、不動産屋に行き、手続きの書類を書き終え、カウンターで待っているときだった。

カウンター越しに座った不動産屋のおじさんが、ヒゲ剃り跡の濃い口元を動かしたかと思うと、「新しい元号は令和であります」と菅官房長官そっくりの声で言ったのだ。突然のモノマネに驚きの色を隠せず、僕はおじさんの方に向き直り、「え?いま、令和おじさんのモノマネしました?めちゃくちゃ似てるじゃないですか。もう一回やってくださいよ」とお願いした。

書類を待っている間のシーンとした時間に、絶妙なタイミングで放り込まれたモノマネ。名人は意外なところにいるもんだ。
おじさんはちょっと照れていた。「いや〜すごい似てましたよ、もう一回聞きたい」とさらにせがんだ。するとおじさんは、先ほどと同じように、僕の右横の誰もいない空間に視線を向けたまま、今度はニュース番組の司会者とコメンテーターのやりとりを、一人二役で落語のようにしはじめた。
これがまた抜群にうまい。コメンテーターは誰かわからないが、司会者はどうやら森本哲郎のようである。名前を名乗らずとも誰かわかるのだから相当な名人だ。でも、僕は早く「新しい元号は令和であります」を聞きたかった。それを知ってじらすかのように、おじさんはなかなかサビには入らず、ニュース番組の再現を続けるのだった。そんなもったいぶりもまた可笑しくって、僕は腹をよじって「はははは、全然、ははは、言いそうに、はは、ないですね」と笑い声と言葉を同時に吐き出すのに苦労した。
と、そのとき突然暗転した。状況についていけない僕は、ボーっとした頭で、なんとか把握しようとつとめた。
……僕の頭は枕の上にある。枕元のラジオからはTBSの朝の番組『森本毅郎スタンバイ』が流れていた。
つまり、夢であった。
この日は元号が発表された次の日で、菅官房長官の「新しい元号は令和であります」という音声を流した後に、スタジオで森本毅郎とゲストコメンテーターが喋っていたのだ。ラジオの音がそのまま夢の中の音になっていた。同時に夢の中では勝手なシチュエーションが作られていた。
こういう経験はみなさんもありますか?ただの夢よりも不思議ですよね。
二度寝したときに、よくこういうことがある。脚本をもらって瞬時に映画を撮っているみたいで、我ながら我が無意識に感心します。ふだん、無意識を意識することは難しいですが、夢と現のはざまで生きるというのはこういうことなんですね。
さて、『通販生活』夏号の特集「読者が繰り返し見る夢」で絵を描きました。読者が繰り返しよく見る夢ベスト1は「間に合わない」夢だそうです。水辺の夢も世界共通で女性が多く見る夢だそうです。「空を飛ぶ夢」の飛び方はその人が「自分は人生をうまくコントロールしている」という満足度を表しているんだそうです。死んだ人が夢の中で生きているという夢は、女性に多いそうです。不測の事態の夢を繰り返し見るのは、危機管理能力の高さの表れだそうです。
とまあ、詳しいことは『通販生活』を買って読みましょう。180円です!「人生の失敗」というコーナーでは籠池夫妻も登場してます!

リリーさんに気持ちよくなる

いったいこのブログはいつまで続けるつもりなのだろうか。

臨終間際まで続けるならそれはそれで価値もあるかもしれない。というわけでたまに休むのは良しとしても、ポッカリあいだを空けるのはダメだ、今週も更新しなければ……。飼い猫が捕ったネズミを見せにくるように、「こんな仕事したんだよ、見て欲しいニャー」と自慢したいときは、ただそれを書けばいい。でも仕事というのはだいたい似たような依頼が多く、そういうのばかり載せているだけでは「はいはい、またネズミね」と飽きられるんじゃないか、と心配である。情報スピードが早いと、消費される速度も早くなり、イラストレーターとしての賞味期限もいたずらに短くなってしまう。それではイカン。史上最長寿のイラストレーターとして、このブログを臨終間際まで毎週更新する予定なのだから。

同じような絵の更新が続くときは、せめて文章で違うことを言って、感心させなければ……それが無理でも、せめて憩いのひと時を……しかし、仕事で描いた絵に引っ掛けて文章をひねるとなると、これもまた内容がマンネリになるのだ。
革新的な仕事を成し遂げた天才でさえも、よく見たら同じところをぐるぐる回っているだけである。ましてや凡才はまわる直径が短いから、マンネリズムは余計に肝に銘じなくてはいけない。
……というようなことを書くのもこれが初めてではなく、もう何回も言い訳的に書いている。
はぁ〜、今週はどんな内容にしようかなぁ。
最近テレビドラマが面白くていい。最後の方ですごく退屈になっていった『まんぷく』がようやく終わって始まった『なつぞら』もいい。『きのう何食べた?』もいいし、もちろん『いだてん』もいい。先日見た『離婚なふたり』がまた素晴らしい。
脚本も演出もいいに違いないが、役者の演技を見ているのが気持ちいいっていうのも大きい。とくに『離婚なふたり』のリリー・フランキーを見てるのがめちゃ気持ちいい。『なつぞら』に出ている高畑淳子と比べると、リリー・フランキーの演技の方がより自然で、大げさでなく、とにかく気持ちいい。高畑淳子は気持ちいいまでいかない。……ったくオレみたいな素人がこういう意見をわざわざネットに書き込むのは慎みたいと思っているんだけど、一応、絵もそうじゃないですか、うまいが気持ちいいにまさるってことあんまりないでしょ?
うまさが気持ちよさに直結している部分もあるけど、ただ一つのツボを押してるだけにすぎないと思う。同時にいくつかのツボを押されないと「あ〜気持ちいい〜」とはならない。
僕は今だにどんな時でも線は手描きなのだけど、そうしてる理由は、単純に気持ちいいからだ。とくに毛筆で描く快感は絵を描く気持ち良さの大きな割合をしめている。最初から線を描くのは気持ちいいものだったが、10年20年続けてきて、だんだん快感の回路が作られて来た感じだ。筆によってもかなり違う。紙質も多少ある。便利と引き換えに、この快感をパソコン作業に置き換えることは非常にもったいない。
けど、パソコンでしか引けない気持ちのいい線もあって、実はちょっとやってみたい。また肉筆浮世絵よりも版画浮世絵の方が気持ちいいのはなぜか。別に肉筆だろうが電筆だろうが相手を気持ちよくさせればどっちでもいい。本人が快感を得られるからといって、絵を見る人が気持ちいいかどうかは別だ。ここがなんぎである。自分がやることによって得られる快感を、やってない人にも感じさせる。そんなツボを探そう。おわり。今週の絵は描き下ろしです。

令和と北尾と隠居すごろく

(注… …今回のブログの記事と絵は、まったく関係ないように見えますが、最後は関係あるようになるので、不思議がらずに読みすすめてください)

昨日、新しい元号「令和」が発表された。古典の教養などまるでなさそうな首相の口から、元号に込めた思いを聞いているうちは、ちょっと違和感もあったけど、後で、出典である万葉集の序文は王羲之の蘭亭序およびなんとかという漢籍をふまえているとか、詩が詠まれたのは太宰府の大友旅人の邸宅だとか知るうちに意味も由来も響きも悪くないと思えてきた。むしろ積極的に好きかもしれない。令和。

こういうことを書くと、僕に感心できるくらいの古典の教養があると思われるかもしれないが、全くないです。

何回か前のブログ(顔真卿の回)で、王羲之の蘭亭序のことを書いたけど、書を知ってるだけで、あとはほぼ知らない。現代において漢文の教養があるのは、ごくごく一部の人だけなので、この点においては安倍首相と同レベルだ。
そんな一億総漢文の教養ない時代に、中国を先生としていた時代の遺物、元号を続けるのはおかしくはあるけど、僕は残しておいて欲しい派だ。中国に学ぶ、真似するをずっとやってきて、明治からは西洋に学ぶ、真似するに変わり、その後、天狗になってどこにも学ばなくなったツケが今まわってきている… …んだよね?たぶん。
日本という国自体が中国文化の正倉院であり、その上に独自の特殊文化も花開いている。そういう意味で元号は初心忘れるべからず的にあり続けるのはいいと思うのです。… …しかし本家はとっくに元号(皇帝が時間を支配する)というこだわりをやめ、世界標準の西暦だけだし、今やきわめて合理主義的に世界の覇者になろうとしている。方や日本は今もなお、というよりあきらかに歴史上いまが一番、元号で盛り上がっている。大局的に眺められない小国っぽさ?… …はい、デカい話はここでやめるとして、そう、2月10日に元横綱双羽黒、北尾光司が亡くなっていたニュースにショックを受けた。
瞬時に僕の気持ちは中学生に戻る。
小学校、中学校ともに北尾光司は僕のパイセンにあたり(8歳上)、しかも小学校と一本道を挟んだ隣に中学校があったので、僕が小学校にいる時に北尾はすぐ近くにいたわけだ。中学2年で195センチあったという天才相撲少年北尾の噂は、隣の小学校にも伝わっていた… …かというと、どうだろう?少なくとも僕は知らなかった。いくら体がデカくて、相撲が強いと言っても、その時はただの中坊だからね。小学校には北尾少年が在学中に出来たという赤土の土俵があって、僕らはそこで相撲をとったりしていた。
中学校にあがり、僕が2年か3年の時に、北尾が大関に昇進した。巡業のついでに母校を訪れたことがある。この時はすでに郷土の星である。落ち着いた緑色の着物に身を包んだ北尾はものすごくデカかった。大銀杏の似合う美男であった。記念に手形の押されたサイン色紙が全員に配られたが、それは印刷だった。
北尾が大関に昇進するこの年、元横綱輪島がプロレスデビューしたと思う。輪島は僕が最初に好きになった力士なのだが、プロレスラー輪島は世間からは嘲笑されていた。よし、俺がまた輪島を応援せねば。そして、これからは北尾も熱烈に応援しようと思った。
優勝しなくても横綱になれるくらいのトントン拍子で相撲界の頂点に立った双羽黒こと北尾光司は郷土ではスターだが、僕が高校に進学すると話は微妙に違う。同じ三重県といえども、他の学区や市や村からきてる級友たちにとっては、横綱の品位や成績を保てない双羽黒はからかいのネタだった。付け人を空気銃で打ったり、サバイバルナイフで脅かしたりして、騒がれるたびに僕は双羽黒のことをかばわねばならなかった。同時に輪島のこともかばわねばならない。これもファンの務めなのだ。
北尾のことを思い出したついでに、ヘンな思い出も蘇ってきた。高校1年の時だったが、休み時間になると、地味な男子生徒数名が僕の机の周りに集まり、なぜか「おはじき」に興じていた。僕は一番でかいおはじきに修正ペンで「双羽黒」と書いて戦わせていた… …休憩時間の過ごし方があまりにしょっぱい。やってることが小学生みたいでおぼこい。
そこまでして応援する私の気も知らず、双羽黒はちゃんこの味に文句を言って、女将さんを突き飛ばし部屋を出たきり、あっという間に廃業。北尾は「スポーツ冒険家」と名のり、また友達のからかいのネタになった。そして、ついに北尾は輪島のようにプロレスラーになった。
高校3年の受験で上京し、池袋のホテルに泊まったとき、ちょうど北尾光司のプロレスデビュー戦が行われた。髷を落とした北尾は幼い顔のとっちゃん坊やで、なんとも垢抜けなく、リングコスチュームもぜんぜん似合わなかった。それでも、対戦相手のクラッシャー・バンバン・ビガロを倒した瞬間、僕はホテルのベッドの上で何度もジャンプして喝采を送った。その日は2月10日だったはずだ。北尾がなくなった日はプロレスデビュー戦と同日だったと報道にあったから。
その後、僕は東京に出てきて一人暮らしをはじめ、北尾の応援も熱心でなくなった。相撲と違ってプロレスはなんでもありだから、問題児も埋没してしまうというか。優勝14回の輪島が借金を返すために、裸一貫になってまた頑張る、みたいな昭和なドラマが新人類北尾にはなかった。方や相撲界は、若貴ブームで空前の人気だったが、僕はそんなに相撲が好きではなくなっていた。僕がまた相撲が大好きになるのは、平成の問題児、朝青龍の登場を待たなくてはいけない。
輪島、双羽黒、朝青龍、と問題を起こす力士になぜか惹かれるようだ。問題を起こしてもファンはファンを絶対に辞めない。
さて、プロレスでもうまく花が開かなかった北尾は、引退後何をしているんだろうと時々思っていたが、15年?くらい前に立浪部屋のアドバイザーに就任したと知って、ちょっとホッとした。しかし、今回の死去の報道をきっかけにわかった事実は、立浪部屋のアドバイザーをしていたのはほんの一瞬だけで、あとは部屋とも連絡をとっていないようだった。
199センチもある巨体で、元横綱という抜群の知名度を持ち、プロレス引退後の人生をどうやって過ごしていたのか。体の存在感があるだけに、想像するとよけいにしんみりしてしまう。
ずっと前に『下足番になった横綱』という男女ノ川の評伝を前に読んだことがある。男女ノ川という人も194センチあった巨人で、なんでも引退後相撲協会からも退職し、サラリーマンや保険の外交員、探偵(!)などもやって、晩年は料亭の下足番をしていたみたいだ。普通の体格だったらひっそりと人生を送ることもできるが、どこに行っても目立ってしまう。
引退後、つまり退職後、昔で言うところの隠居の身。
江戸時代、巣鴨のある大店の主人が隠居した。本人は隠居生活をエンジョイするつもりだったが、思わぬ方向に人生のすごろくが進む… …という西條奈加さんの新刊『隠居すごろく』のカバーを描きました。
ブログに書きたい文章とブログで紹介したい絵が違うので、今回は無理やり縫い合わせてみましたが、そんなところで、また来週。

別冊太陽・柳家小三治

もう4月になるというのに、去年の仕事を引っ張り出してくるのもなんですが、「永久保存版」と銘打ってあるから、いつ紹介したって鮮度は落ちていないはず。今週は、別冊太陽「十代目 柳家小三治」に描いた挿絵のことでも。

小三治さんを愛する5人の方々の寄稿文「わたしの好きな小三治の一席」に絵を頼まれたのですが、5人のラインナップを見て、「おおっ、ついにこの日が来たか」と思いました。
いや、あまり話を期待されると困るのですが……その5人の中に南伸坊さんが入っていたのです。今でこそ、伸坊さんとは対談させてもらったり、展示をご一緒したり、お酒をのんだりしています。もうずいぶん前に「ぼくは伊野君のこと友達と思ってんだよ」とおっしゃてたので、私も堂々と「オレ、南伸坊と友だちー」と自慢しても差し支えないくらいの、間柄ではあります。でも、伸坊さんのエッセイに自分が絵をつける、ということは何かしら感慨深いものがありました。ついにこの日が来た……というのは、ただそれだけのことなんだけど。
伸坊さんは「E・S・モースと柳家小三治」という文章を寄せています。
そうそう、伸坊さんには、自ら装丁した本について語る『装丁/南伸坊』という本があり、そこで小三治さんの『ま・く・ら』を装丁した時のことが書かれていました。
別冊太陽では、その後日譚として、続編『もひとつ ま・く・ら』を装丁したことや、最初使う予定だったけど借りられなかった、モースの箱枕について詳しく書かれています。
担当編集者さんからは「『ま・く・ら』と『もひとつ ま・く・ら』の書影のかわりになるようなイラストはどうでしょう」と提案があったので、ついにこの日が来たと言っても、案外そんな時って腕のふるいようがなかったりするものなのかもしれないなと思いながら、私も即物的にまくらの絵にしました。小三治さんの似顔絵にしても伸坊さんが描いた方がはるかに可愛いから、腕をふるえなくてよかったのかもしれないなー。
柄本佑さんの「はぁー……すげぇー」という寄稿文につけたのが下の絵です。
この絵は松岡修造さんの「僕にはない熱さでできている」につけたもの。
粗忽長屋の場面は、小林聡美さんの寄稿文「入我我入って、小三治の落語みたいだな、と思った」に。
「こんなことがあった」by鈴木敏夫さんには「千早振る」をカルタっぽく。
他には「小三治に聞く142の質問」というコーナーも面白いし
古今亭文菊さんとの対談もめっちゃヒリヒリして読むのがこわいくらい。文菊さんが思いっきりダメ出しされてて、たぶん、収録現場は息が止まるような緊張感だったのではないかと想像します。そんだけ期待されてるということでもありますが、オレだったらへこむな(笑)。でも自分の仕事について真剣に正直に語り合えるのは最高なことだと思います。古今亭文菊さんは原田治さんが贔屓にしていて、パレットクラブの寄席で見たことがあります。その時はまだ二つ目でしたが、いい噺家さんだと思いました。
当たり前だけど、お二人とも着物が似合う。いや、当たり前なんだ、日本人なんだから。着物を着るのに理由がいる、なんで着てるの?って聞かれる(特に男性は)というのは、悲しいことではないですか。僕も着たいんだけど、やはり着る機会がないですよね。前に伸坊さんがあるイベントで浴衣を着て来た時、普段の洋服のかわいさとはうって変わって「大師匠」とでも呼びたいような雰囲気ありましたね。ま、オレなんて着物を着ても、万年「二つ目」だろうけどね。
はい、以上、ブログ更新リハビリ中につき、たいした内容はありませんが、これにて御免蒙る。

ワガママでなければ

さ、今週はちゃんと更新するぞ、と思って何日か前に下書きをしたはずなんだけど、メールボックス(いつもメールソフトで下書きしてる)を探しても見当たらない。

カックンショック!

大量に絵を描く仕事は一段落つき、いまは平常運転なのだけど、昨日はあることで心がずっと緊張していて、あまり眠れず、また一からブログの文章をひねるのがとても億劫だ。
それでも今朝は近所のおじさんと一緒にランニングもしたし、走る道すがらオオゼキ松原店(新しく建て直すために長らく工事中で、シートに覆われていた)がついのその全貌を表しているのを見たとき、かたまっていた心が一瞬弾んだ。スーパーの中で一番好きなスーパーオオゼキ。新しいオオゼキは深みのある煉瓦色だった。
10年続けたブログを5週間サボったわけだが(実際には更新はし続けているけど)、サボりぐせがついた今、5週間前の自分を尊敬しはじめている。そんなに毎週何を言うことがあったのだろうか。5週間前のブログからしばらく遡ると、1月の記事はやけに長い。これは1月がわりかしヒマだったからだ。
人生の畑はヒマなときにほどよく耕せるのである。我ヒマを愛す。ヒマに勝る至福の時間なし。
はい。いきなりなんだけど、まだブログで紹介していなかったブックカバーの仕事を。
ズッコケ三人組シリーズでおなじみの、那須正幹さんの『ばけばけ』(ポプラ社刊)という本です。髪の毛がうまく描けてませんか?そんなことない?
実はこの髪の毛、描いてるんじゃなくて消してるんです。鉛筆で黒く塗りつぶしたところを消しゴムの角でスーッと。たまたま思いついた技法だけど、これから使うことあるかな?
僕はいろんなタッチで描いてますが、それは一つのスタイルでやることに飽きちゃうからだし、スタイルを作ることや維持することが絵を描く目的ではないからだし、イラストレーターは色々描けた方がアプローチの仕方も増えるからだし、だし、だし、なんだけど、あまりに器用に描いた絵って、なんか物足りないんですよね。
絵はワガママであった方が魅力的だと思う。ワガママ言ってない絵はつまんないなって最近思うなー。ワガママな絵ってなんでしょうね。
『ばけばけ』の絵はワガママ言ってるんだろうか。技法を一つ発明したことで、描くときの新鮮さはあった。
絵のワガママっていうのは結局……とここからどうやって理屈を展開していこうかと思ったが、今日はリハビリということで、ここで終わりにしよう。
目標!
来週もちゃんと更新すること。
ではまた!

来週からね

ブログを始めて10年たって、継続は力なり、と言いたいところですが、このところ忙しさにかまけて、すっかりサボり癖がついてしまった気が……。

でも、一応更新はしてますからね(絵も描き下ろしてるし〜)。大量に絵を描く仕事もようやく終わった、と思ったら修正や追加があって、さらに確定申告のカウントダウンが始まったので、やはり今週もプチ更新でごめんください。

これで5週連続、中身のない更新をしているけど、不思議なことにアクセス数がほぼ変わりません。愛想尽かさないで、いつまでも読者でいてくださいね。来週からちゃんと書こうと思います。書けるかな〜?なにしろサボるの気持ちいいもんな〜。