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伊野孝行のブログ

妹背山婦女庭

南伸坊さんの新刊『私のイラストレーション史』はもうお読みでしょうか。今週は誰にも頼まれていない書評を書こうと思ったのですが、準備ができずに来週以降に繰り越しました(笑)。
となるとどうしましょう。
また実家の猫の写真でも載せようか。瞬く間に体重も1キロほど増え、ぬいぐるみ状態からすっかり子猫らしくなってきている。いやいや、ネコの写真はもう載せないと決めたんだ。
そうそう、6人の候補者が全員女性ということで話題になっていた直木賞ですが、6人の中に大島真寿美さんがいらっしゃるじゃないですか。大島さんの新作『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』が候補作です。読めないでしょ?タイトル。渦は「うず」だけど、その後は、「いもせやまおんなていきんたまむすび」と読みます。
私はこれ最初っからスラスラ読めました。実はこの小説が連載されたときに挿絵を担当してたんですが、だから読めるんじゃなくて担当する前から読めてたの。
もう何年前かな?4、5年前かな?それくらい前から国立劇場でやってる文楽公演に通っているのですが、一番最初に観た演目が「妹背山婦女庭訓」だったんですよ。後半の三段目と四段目を見たんだと思います。
はじめての文楽鑑賞の感想は、イヤホンガイドを聞きながら、目は舞台上の人形と人形遣い、舞台の袖でうなってる義太夫さんや三味線奏者を行き来して、で、ときどき舞台の左右に出る字幕やパンフレットも見てたんで、なんだかいそがしく、「……しまった、最初から全部キチンと見ようとしすぎだ。こんな見方は間違っている」と後悔しました。今はイヤホンガイドだけで観てます。
この「妹背山婦女庭訓」の作者、近松半二の生涯を描いたのが『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』であります。
まあ、ざっと挿絵を見てください。この人形浄瑠璃の芝居小屋の建物は間違っている。明治以降の資料を使ってしまったようだ。なので真似をしてはいけません。

江戸時代の人形浄瑠璃の芝居小屋はこういう感じだったようだ。たぶん正解。小説誌の挿絵くらいでは時代考証の専門家はついてくれないので、絵描き任せなのだ。僕も含めて挿絵には間違いは多いと思う。しかし、時代考証など全く無視してるのが文楽や歌舞伎なのでした。

〈江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、芝居小屋に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
近松門左衛門の硯を父からもらって、物書きの道へ進むことに。
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった半二。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した長編小説。
筆の先から墨がしたたる。
やがて、わしが文字になって溶けていく──〉
文藝春秋のサイトからの引用ですが、このような内容です。文楽を作った人のことまで考えたことなかったけど、半二やこの時代に人形浄瑠璃を作ってた人たちに共感するぜ。工夫ですよね、工夫。大事なのは。大島真寿美さんのこの小説もすごく工夫されてます。

先月の文楽の東京公演は「妹背山婦女庭訓」の通し狂言でした。第1部と第2部を通しで観ると丸一日かかるのですが、僕が観たのは第1部の方。最初の文楽鑑賞で「妹背山婦女庭訓」を観たのは後半だったので、まだ未見の前半を観たのです。これで一応通して観たことになりました。
天智天皇と中臣鎌足、蘇我蝦夷に蘇我入鹿親子が出てくるので、時代は大化の改新、飛鳥時代かと思いきや、奈良の都はすでにできており、描き割りには興福寺も描かれている。と思いきや、登場人物の衣装は江戸時代で、話の舞台が町や村に移ると完全に建物、調度品なども江戸時代。これは「妹背山婦女庭訓」に限ったことではなく、文楽も歌舞伎もみんなそうだし、昔は時代考証という研究自体が進んでいなかったし、逆に時代考証をやったところで当時のお客さんには響かなかったかもしれない。また忠臣蔵のようにあえて他の時代に置き換えなければやりにくい事情もあったでしょう。
忠義のために自分の幼い子供を殺すなんていうのもよく出てくる場面で、今の時代からすると共感度ゼロなんだけど、この全体通して滅茶苦茶な感じが、物語にロケットエンジンを搭載させてるようでもあり、昔の人は基本今よりぶっ飛んでるなぁと妙に感心します。でも、今の我々の胸を打ったり締めつけたりしてくる人情への働きかけもあり、ご先祖さまたちと同じように感動してしまうこともあります。
我々にとって奇異であり、今もどこかで繋がっている古典芸能。
今でも上演できるってことはすごいことだよ。
しかし、僕は文楽を見に行くと必ず1回は居眠りをしてしまいます。
原因は退屈なのか気持ちいいのかよくわかりませんが、退屈の質もまた現代とは違うんじゃないかなという気はします。
『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』として単行本になった時は、カバーの絵は頼まれなかったので、結局、縁はあんまりなかったというか、ま、これはよくあることなんで気にしてませんが(だったら書くな 笑)、直木賞取ったら、マジ嬉しいっす!

祝・国際エミー賞最終候補

先週、ブログをちゃんと書く時間がなかったんで、実家で飼い始めたネコの写真をアップしたところ、普段の記事よりはるかに多い「いいね」やコメントをいただき、アクセス数も伸びていました。

…………ったくさぁ、なんなのよ、ネコってやつは。というか、普段の自分のブログ記事はなんなのよ、って話ですけどね。

いやいや、単なる数字の話でしょ。ネコの写真をあげる方が数字が伸びると言って、そんなことばっかりやってたら仕事なくなっちゃうんですから。

しかし、会う人会う人、「ネコかわいいね」って言ってくるんですよ。いつもはブログの感想なんて言わないのに。

まだ僕も写真で見てるだけだから、思い入れは他の人と変わらないと思うんですよ。だから、飼い主ならではの贔屓目で見てない。冷静に判断できると思ってるんですよね。

客観的に見て……やっぱりウチのネコはかわいいよね?

それは置いといて。もうネコの話しませんから。
本業の話をしましょう。
先日、NHKの近くの某レストランで「昔話法廷」スッタフの打ち上げ的な会がありました。
知らない人に手短に説明すると、「昔話法廷」は裁判員制度導入で一般人も裁判員になるかもしれないというこの時代に、作るべくして作られた傑作番組です。
昔話の登場人物動物が裁判に出廷。それを裁く裁判員はキミだ!ということで、教室で大いにディスカッションしてもらうために作られた教材でもあります。ウェブの「NHK for School」でいつでも番組は見ることができます。
で、この番組は優秀で、第1シリーズでは、グッドデザイン賞(一応、私も対象デザイナーになっているのよ)。そしてドイツ・ミュンヘンで2年に一度行われる子ども番組のコンクール「プリ・ジュネス」で国際子ども審査員賞も獲得しているのです。
で、またまた今度は第3シリーズが国際エミー賞( 世界の優れた番組に贈られる歴史ある賞)の子ども番組部門のファイナリストに選出され、ま、結果は惜しくも受賞には至らなかったんですが、ディレクターのHさん(番組の企画者でもある)がカンヌから持ち帰ったワンセットしかない表彰状とメダルをみんなで変わりばんこに記念撮影したんです。
この写真だけ見ると受賞しました感が溢れちゃっていますが、ファイナリストに選出された賞状とメダルですので。
僕はカンヌに行ってるわけじゃないですよ、渋谷です。
この絵は「アリとキリギリス裁判」から。アリとキリギリスは幼少の頃は仲が良かった。二人で虫のくせに虫取りに出かけるの図。アリのTシャツにはANT(アリ)と書いてある。
「伊野さんはすきあらばこういうネタをぶっこんでくる人です」とディレクターのHさんはみんなの前で紹介してくれたけど、打ち合わせの時に毎回乗せてくるのはHさんなのでした。
我々スタッフはお互い初めての人もいるので、自己紹介タイムや質問タイムがありました(胸に名札シールをつけてたのもそのため)。みんなのエピソードなどを面白おかしくいじりつつ紹介し、進行をしてくれたのもディレクターのHさんでした。
この番組をやっていた4年間、僕はHさんとしかやりとりしてなかったんですが、打ち上げでは、ぬいぐるみを作った方々、ぬいぐるみの中に入っていた役者さんたち、脚本家さん、監修の弁護士さん、編集さん、音効さん……たちと一堂に会することができました。
あと、番組を仕上げる前に学校で模擬放送みたいなことをして様子を見る(判決が一方にかたよらないようにするため、生徒たちの反応を見る)らしいのですが、そこで協力してくださった小中高大学の先生たちもお見えになりました。
この絵は「さるかに合戦裁判」より。人間でこれを描写したらエライことになるが、カニならオッケー。サルに柿を思いっきりぶつけられたらカニはどうなるか?絵本で描かれないリアルドキュメント描写ができるのもこの番組ならではのところです。またこういった描写がなければ裁判の判決が一方に片寄る可能性もあるのです。
実際に完成したこの番組を使って、授業でディスカッションしてるところもディレクターのHさんが取材に行って、その様子を映像で流してくれました。
感激でしたね。
「ああ、こうやって見てくれてるんだ」って。
ディスカッションを重ねると途中で意見が変わる生徒も出てくるらしいんですよ。それっていまの分断化が進む社会に一番必要なことじゃん?
ほんと有意義ないい番組に関われたと思いましたよ。
そして、もうひとつおもしろいVTRがありました。
この番組が大好きだっていう小学生の女の子が、番組宛になんとオリジナル「ピーターパン裁判」の脚本を送ってきたんだって。
将来は弁護士になりたいというその子の家にもHさんは取材に行って、彼女の脚本でプチ昔話法廷「ピーターパン裁判」を作っちゃったんだから。それは彼女へのサプライズであると同時に、我々へのサプライズでもあったんです。
僕は内容を知らされないまま、頼まれたピーターパンのワンシーンを描き下ろしました。
ビデオ映像を見ながら、みんなマジ感激&感心。
単なる打ち上げではない素敵な宴を開いてくれたHさんと、このあったかくなってたまらない気持ちを分かち合いたい。お礼を言いたい。
さあ、もう一度乾杯だ!
と僕は歓談タイムに席を立って、Hさんのところに行き、
「いや〜どうもどうも、Hさん、ありがとうございます!お疲れ様です!」
って言って、グラスをカチンとしました。
で、その後にHさんなんて言ったと思います?
「伊野さんのネコかわいいですね」
って(笑)。
ああ、もう……どんだけネコなんだよ。ネコは仕事の邪魔してくんじゃないよ!
というわけで、ネコの写真、もう上げないですから。

ネコ教に入信しました

ついにネコ教に入信してしまいました。

しかも通信教会です。

うちの実家(年老いた両親の二人暮らし)でインコを飼ってたんだけど、去年逃げちゃって、心の隙間を埋めるためにか、今度はネコを飼おうかと話していたらしい。

うん、それいいんじゃない。老人の会話のネタになるだろうし。実家に帰って来た時にネコがいるのも悪くないね。ネコは僕が実家暮らしをしていた時に通算5匹?くらい飼ってたことあるので、ネコのだいたいはわかっているつもり。

で、両親が保護ネコをもらいに行ったら、猫より先に死ぬおそれあり、ということで年齢制限に引っかかって、もらえなかったんだって。でも一度飼うと心に決めたから、あきらめられずに知り合いに頼んでたみたいで、ついに子ネコがもらえそうという連絡があった。

聞けば最近流行りのブサカワ顔のエキゾチックショートヘアという種で、画像検索したら、んー、なんかこれは思ってたネコと違うなー、ふつうのそこらにいるネコがいいんだけどなーと思いました。ちょっとガッカリでしたね。

そしてつい先日、エキゾチックショートヘアとかいう名前の種の子ネコがやって来て、写真が送られてくるようになったのですが、これが……なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……ヤベェ♡……こいつはなんなんの、こいつは、こいつは……もう……と気づいたらネコ教に入信してました。

もっと写真を送ってくれと本部に言って、届く写真を見ては、なんなの……もう……なんなの……ヤベェ♡……とお経を唱えています。10年間ブログを更新して来て、ついに絵とはなんの関係もないネコブログになってしまいました。まるで人が変わったよう。

そう、それが宗教というものなんだニャ〜。

興福寺火事絵巻その4

南 いま展覧会に行くと、人がすごいじゃない。最近は、何かで人気に火がつくと、集まりすぎ。イヤホンつけて、ひとっところにじっと溜まる。あれはなんとかしてほしいな。あれも、ちょっとね。あれ、最初に別室で映像見ながらイヤホンガイドで言ってるようなこと勉強して、それから実物を見るようにしてほしい。
伊野 なんとか混まない工夫をして欲しいですね。美術館は、空いてるのがいいんですから。空いてなければ美術館じゃないっていうか、美術館に行った気がしないというか。以前、阿修羅展に行ったら、阿修羅像のまわりがぐるっと三六〇度ライブハウスみたいにすし詰め状態でした。
編集部 混雑がすごいときは、一時間以上並んだりすることもあるみたいですね。
伊野 動員数のランキングが出たりして、人が来るのがいい展覧会みたいな風潮が最近はありますよね。
 若い人よりも、年配の人のほうが多いんじゃない? オレと同じくらいの(笑)。
伊野 阿修羅展は高齢者のすし詰め状態だったから、ヤバかったっすよ。
(「望星」4月号掲載、南伸坊さんとの対談「絵?好きに見てください」より)
この対談で話題に出した阿修羅展というのは、2009年に東京国立博物館で開催された興福寺の創建1300年記念「国宝・阿修羅展」のことです。マジで具合が悪くなっちゃう人が出ちゃうんじゃないの?という混みようで、国立の博物館の商いって、こんなのでいいのか?って呆れました。
ところがこの展示、とにかくいっぱいお客さんに見てもらわなきゃいけない切実な理由もあったんですね。
さて、NHK「歴史秘話ヒストリア」のために描いた絵を元にお届けしている「興福寺火事絵巻」も今回が最終回。
七転び八起きの7回目の火災です。
奈良時代に建てられた興福寺は、平安から室町にかけて6回焼けて7回建て直しているのですが、意外にも戦国時代は焼けていない。
あーよかった、よかった。確かにそれはよかった。でも戦乱の世が過ぎ、徳川の世になる頃にはすっかり興福寺の威光は衰えていたのです。
7回目の火事が襲ったのはそんな時代。
1717(享保2)年、正月4日、中金堂の背後の講堂に盗賊が忍びこみました。
灯した蝋燭を落として引火。
 「まずい!」
「逃げろッ! 」
講堂の内陣から上がった炎は 、たちまちのうちに中金堂へと燃え広がった。
火付盗賊改の長谷川平蔵?
んなわけない。火消装束に身を包んで駆けつけたのは大和小泉藩の藩士たち!
「あっ!中金堂がッ!!」
「東金堂にも火の粉がかかっておるッ!」
東金堂にかかった火を必死になって止めます。
時代は江戸まで下ったといっても、消防技術はこんなもの。江戸の町の火消たちも燃えそうな家を破壊することによって火事の広がりを防いでいたわけですが、さすがに興福寺をぶっ壊すわけにもいきません。
「なんとか消えたか…」
「いかん!今度は西金堂じゃッ!」
やばいっす、やばいっす。西金堂には阿修羅像もあります。実際に興福寺に行くとわかりますが、中金堂、東金堂、西金堂はけっこう離れてるんですよ。火事の熱風というのは恐ろしいですね。
「手をお貸し下され!」
「承知!」
阿修羅像などの十大弟子像は乾漆造で軽いので、救出は容易です。だから今まで残っているわけですが、今でこそ仏像界のスーパースター阿修羅像も、当時は脇仏の一つに過ぎません。阿修羅よりも大切なのは御本尊。でも御本尊は中が空っぽの乾漆造ではなく、木像なのでとてもじゃないけど持ち出せない。
「残るは御本尊さまだッ」
「ああ、お堂の中に火がッ!」
近所の町人も駆けつけています。
「こんな大きな御像をどうやって!?もう間に合いませぬ!」
「なんとかして、なんとかして、お顔だけでもお助けするのだッ!」
この時に救い出されたのが、運慶のデビュー作だった西金堂仏頭です。これですね。
7回目の火災では中金堂・西金堂・講堂・南円堂などが焼失。鎌倉再建の北円堂・三重塔・ 食堂、そして室町再建の東金堂・五重塔は無事でした。
ところがっすな、興福寺の力は衰えてますから再建は難航します。
当時の将軍は徳川吉宗。享保の改革をはじめ、財政を引き締め出したところ。
なにとぞお力添えを〜と頼んでも、にべもなく断られます。
「ならぬ。寺より財政の立て直しじゃ」
興福寺は藤原氏の氏寺でありますが、藤原の末裔、京都の公家たちも…。
「助けて欲しいんは、まろたちの方や」
幕府も朝廷もあてにできない中、 興福寺は民間から資金を集めるため、当時流行していた「出開帳」を行います。
出開帳とは寺の外に仏像や寺宝を持ち出し、公開して寄付を募ること。
江戸の浅草寺の境内で80日間行ったけれど、集まったお金は再建費用には程遠かった…。
火災から百年以上経って、 ようやく中金堂の基壇の上に仮堂が作られました。 本来の中金堂とは規模も質も違うので「仮堂」ね。
まーったく覚えてないけど、興福寺は小中学校の間に修学旅行か社会見学で行ってるはず。
私はたぶん、この仮堂を見てる気がするんだけど。
で、時代は明治になり、廃仏毀釈で興福寺的にはさらにさらに厳しい状況になります。
天平の栄華を誇った興福寺もついに断絶!
鎌倉時代に建てた食堂も取り壊され、こんなもんあったてしょうがねえだろってことで塀や門も撤去、境内が奈良公園になり、仏像が撤去された仮堂は役場として使われ…。
その後、1881年に「興福寺再興願」が内務省に受理され、14年ぶりに復活。
時は流れて平成に。
2000年に仮堂が解体され、 翌年から発掘調査が始まりました。出てきた礎石66個のうち、なんと!ナント!南都!64個が天平創建当時のものだったのです。
天平の夢をもう一度見たい!!
でも、文化財の修復には国から補助金が出るけど、新しく中金堂を作るのには出ないらしいんっすよ。
つーわけで、このブログの冒頭を思い出してください。
平成の「出開帳」をということに相成りまして、開かれたのが「国宝・阿修羅展」なんですね〜!
そっか、そっか、それなら仕方ないや。我慢しよう。入場券など、わずかばかりのお金ですが、私も中金堂の再建に役立ったわけですね。一昨年やってた「運慶展」も見にいったな。そこでも少し貢献してたわけだ。
ついに去年、興福寺は七転び八起きして中金堂は完成!
9年前に「阿修羅展」を見にいった時は、興福寺は名前くらいしか知らなかった。修学旅行で行ったかなぁ?程度。そんな私が興福寺の火事絵巻を描くことになるとはねぇ。明日の天気はわからない。人生、先のことを考えるのはやめよう。
ちなみに阿修羅像がふだん展示されている興福寺の「国宝館」は空いててすんごく見やすいですよ。オススメ〜。(完)

興福寺火事絵巻その3

興福寺火事絵巻、今週はその3!
5回目の火災は、運慶たちが参加した再建からおよそ80年後に起こりました。
健治3年(1277年)7月26日の夕刻、ビカビカ!ドンガラガッシャーンガラガラガラ!雷の閃光が中金堂の近くの僧坊に落ちました!たちまち上がる炎!
「た、助けてくれ!」「ああ!中金堂が燃えている!」
自然災害による5回目の火災では伽藍の中央が焼け、北円堂などは残りました。
火災から6年後、建設中の中金堂の前庭を裹頭(かとう)した衆徒が埋め尽くしております。再建の中心に立ったのは、衆徒堂衆たちでした。
ここで豆知識。武蔵坊弁慶やいわゆる僧兵たちがかぶっているのは、実は袈裟なのです。それを裹頭と言います。
議題は再建工事に必要な人夫の確保でした。時は鎌倉、武士の時代。平安時代のように朝廷や藤原氏が全面支援してくれる時代ではありませんでした。

「伽藍再興 のための土打役を大和国一国すべてに課すべし」
「もっとも!」
「権門勢家の領土だろうと気にせず、催促せよ」
「こっちの言うことを聞かなかったら、どうする!?」
※このシーンは使い回しに見えてそうではありません。人数が増えているよ!
村が燃えていますね。あら、人々が襲われている。
そうなのです。人夫を出すことを拒否した寺社の荘園は、決議どおり、衆徒たちによって焼き打ちされたのでございます。ベンベン。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
これが5回目の火災の顛末でした。
しかしその27年後、またまたまたまたまた6回目の火災が起こるのでございます。
鎌倉時代末期、興福寺では内部抗争が激化。堂衆の武力が寺の中の勢力争いに使われたのです。
そしてなんと!ナント!南都!あろうことか興福寺の境内で合戦が始まったのでございます!ベンベン!
1327年のことでございます。
「かくなるうえは中金堂へ…」
「籠城じゃ!奴らもここは攻められまい!」

そこに追っ手が現れます。
「罰当りどもめ!中金堂に立てこもるとは…」
「かまわん!攻め込めぃ!」
さあさあ、中金堂で合戦がはじまった!

攻め手が矢を放ち、守り手も応戦!
矢に打たれた衆徒が「アッ…」とたいまつを落とす。その火が楯に燃え移る!
「いかん!!火が…!」
「いくさしてるばあいかッ!火を消せッ!」
「ええぃッ!消えぬ!」
「なんとしたこと。わしらが中金堂を焼いてしもうた…」
6回目の火災は僧自らが燃やしてしまうという…あぁ、後悔先に立たず。興福寺後に建たず。
いや、それでも悔いた衆徒堂衆たちの尽力で、まもなく再建工事が始まりました。
しかし時代は急速に変化します。火災の6年後1333年に鎌倉幕府が滅亡。やがて続く南北朝の戦いで再建作業は進みません。
1392年足利義満が南北朝の合一を果たし、ようやく平和の日々が戻ってまいります。
3年後、再建工事の続く興福寺に義満がやってきました。
これは寺にとっては援助を頼む絶好のチャーンス!
「義満おもてなし計画」のひとつには世阿弥の舞もありました。
世阿弥は義満のお気に入りの役者だったのです。興福寺の衆徒たちは義満の歓心を買おうとしたのかもしれません。しめしめ。将軍様はご満悦じゃ。
世阿弥の舞のパートはパラパラ漫画みたいに描いたので、試しにGIFアニメにしてみました。ただつなげただけなので本当はこういう動きじゃないけどね。
さて、宴の後、衆徒代表が世阿弥に声をかけます。
「三郎、さきほどの舞、見事じゃった」
「猿楽師は、神事をつとめ、貴人の御意に従いまする。その心得ゆえ、当たり前のことをしたまで」
世阿弥の肖像画は残っていませんが、ものすご〜くイケメンだったとのこと。
度重なるおもてなしが功を奏したのか、義満が興福寺の再建を積極的に支援してくれたおかげでついに1399年再建工事が終わり、まってました落慶法要!合戦による消失から実に72年ぶり!
はい、この絵は使い回しじゃございませんよ。前回の絵と見比べてください。中金堂の屋根が大きくなって、勾配もきつくなっているのです。屋根の高さも高い。気づかなかったでしょう?気づいたら相当の興福寺マニアだぜ。
このお坊さんは誰であろう。出家した足利義満なんですね。
1回目の火災から中金堂の落慶法要まではたったの1年3ヶ月しかかかっていないことを考えると、72年は長〜いですね。時代が下るたびに長〜くなる。
現存する東金堂はこの室町の再建です。ほら、東金堂も屋根の勾配がきついでしょ。東金堂は中金堂の16年後、そして五重塔は約30年後に建てられたのです。今、我々が見上げることのできる五重塔を、世阿弥も見上げたに違いありません。この時世阿弥は60を過ぎています。
「命は終わりあり。能には…興福寺には…果てあるべからず」
そう、一言つぶやいたかもしれませんね。
「興福寺 七転び八起き」ということはあと一回燃えるんですが、今週はちょうど時間となりました。ベンベン!

興福寺火事絵巻その2

先週に引きつづきNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」のアニメパートに描いた絵から。

七転び八起きというのは、まさに7回火事になって8回建て直したからですが、先週は3回目の火事までやったので、今週は4回目からはじめましょう。

3回目の火事(1096年)より4たび蘇った興福寺。

完成したのは火災から6年10ヶ月後の1103年。そこから78年間は無事でございました。しかし源平の戦いの最中1181年に4回目の火災が起きました。これがかの有名な大惨事、平家の南都焼き討ちであります。時は治承4年12月28日、反平家の立場をとった興福寺の僧兵を攻撃するために、平清盛の5男、平重衡が大軍を率いて南都へ進みます。対する興福寺はじめ南都の僧兵は、京都と奈良をつなぐ奈良坂に集結。押し寄せた平家の大軍と激しい戦いが続き、夜になりました。般若寺の門の前に待機する平氏軍。「暗さも暗し。火を出だせ」「おうっ!」と 楯を割って作ったたいまつを民家に投げて放火します。瞬く間に燃え広がる火!「これ、いささか強すぎじゃ」照明がわりにつけた火のはずが、 折からの強い北風にあおられ、大火炎となって南へ南へと燃え広がる。

やべえ!やべえ!これを見た僧兵たちも、戦どころじゃないね。「まるで地獄の業火じゃ!炎が飛んでいく」
「見よ。あの紅蓮の火柱を!あれは、東大寺の大仏殿ではないか!」 「わめき叫ぶ声が…焼き殺されておるのだ…」
「急ぎ興福寺へ!」
しかし、時すでに遅し…というか火が早し。

「ああ。中金堂に…。火が…」こちらは西金堂。すでに火の手はまわっています。

「運慶? 運慶か!」
「おお、おぬしらか!手伝うてくれ!仏様をお救いするのだッ!」
「おう!」

阿修羅像などは中を空洞にする「乾漆造」で軽かったのです。幾度の火災にあいながら今日まで残っているのはそのためです。アニメに描いたように運慶が実際に運び出していたとしても不思議ではないでしょう。

翌朝、おそろしい光景が広がっておりました。なんと!ナント!南都!ほぼすべての堂塔が焼け落ち、興福寺に逃げ込んでいた人々の骸八百体が残されていたのです。
「南無……」
小さな仏像は救い出されたものの、 大きな仏像のほとんどが焼けてしまい、新たに作り直さざるをえま せんでした。
焼き打ちの翌年、再建計画が始動します。宮中に公卿たちが集まり、再建の分担を決めました。
「造営の割り振りは、これでよろしな」
割り振り図をよくご覧ください。中金堂などは国家プロジェクトで再建されます。 講堂や南円堂は藤原氏が担当。 食堂などは寺が担当することになりました。しかし、東金堂と西金堂は割当てからもれてしまったのです。それを聞いた堂衆たちは…。
「… とあいなった」
「わしらの西金堂は?」
「割当てからもれた」
「なんと! 」「この条いわれなし ! 」
「いわれなし! 」
「西金堂は打ち捨てる気か!」
「わしらの儀式はどうなる?」 
「みな、聞いてくれ!わしらの力で再建してはどうじゃ?」
「わしらで?」
「そうじゃ!堂衆の底力、見せてくれようぞ!」
「もっとも ! 」
「もっともじゃ!」
「もっともじゃ!」
この人は運慶です。この堂衆の中に運慶もいたかもしれないのです。いや、いたね、きっと。ところで僧兵たちが顔に巻いているものは袈裟なんですよ。番組では実際に袈裟で巻いてるところやってましたね。
堂衆たちは貴族たちから寄付金を募って、そのお金で再建を進め、 なんと!ナント!南都!国家事業である中金堂よりも早く完成させたのであります。
平家滅亡の翌年には、堂内に新しく作った本尊を運び入れました。
この本尊を作ったのが、当時まだ無名だった運慶でした。
運慶は興福寺の別当(一番偉い人)から褒美に馬を賜りました。
焼き討ちから13年経った1194年、ついに中金堂も完成。落慶法要も5度目です。さて、あなたの興福寺”通”度合いがわかるクイズです。この一見使い回しに見える落慶法要の絵、どこが今までと違うでしょう?
正解は「屋根の上に乗っている鴟尾(しび)がない」です。
建築現場シーンも鴟尾がないバージョンになっているのです。お気づきでしたでしょうか。
鴟尾は魔除けや防火のまじないとしてつけられたものらしいですが、これだけ火事にあってんだから、まじないも効き目がないと思ってやめにした?いや、それともなんでしょう、単にもう流行らなくなったから?たしかに鴟尾は廃れます。室町時代に建てられた現存する東金堂にも鴟尾がありません。後世、天守閣にシャチホコを飾るのが流行ります。シャチホコは蘇った鴟尾なのでしょうか。去年完成した中金堂には金色の鴟尾が輝いています。
今週は「仏師運慶デビュー秘話とそして鴟尾はなくなったの巻」でございました。
ではまた来週!

興福寺火事絵巻その1

GWいかがお過ごしでしたでしょうか。私は寝たり起きたりの生活でした。体の調子が悪かったというわけじゃなくてね。無為に過ごすという。無為とはダラダラと無駄に過ごすことでもあるけど、仏教で無為といえば不生不滅の存在のことであり、老子でいうところの理想の境地でもあるわけですが、もちろんダラダラ過ごす方のネ。

言葉が物事を区別するものなら、同じ言葉に良い意味と悪い意味があるのがややこしいんだけど、もしかしてダラダラ過ごすことが実は真理に近いんじゃないかと思ったりしない?あと、眠るときに見る支離滅裂な物語と、将来の願望が同じく「夢」と呼ぶのもどうしてだろう。

過ぎ去ったことも夢のようだと言ったりする。

奈良の興福寺は、710年に創建されてから現在までなんと!ナント!南都!7回も火事にあっている。その度に再建されてきたわけだが、江戸の火事で中金堂が焼けた後は、ややみすぼらしい仮堂のままで今日に至っていた。しかし去年、中金堂は創建当時の姿のままで再建され(8回目)、天平の夢をもう一度我々に見せてくれたのだ。

そんな興福寺の歴史を追ったのが先週放送されたNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」。ふだんは再現ドラマで見せるパートを今回はアニメでやりました。

その火事絵巻を何週かに渡って紹介いたします。

はじまりはじまり〜。

時は飛鳥時代末期(700年頃)。平城京の場所を決める時、藤原不比等は春日野に近い小高い丘を通りかかった。 
「うまし丘よ。ここなら都が一望できよう。ここに我ら藤原氏の氏寺を建てようぞ」
まだ都のできる前の奈良盆地。
中金堂が完成したのは714年。その6年後に不比等は亡くなる。以降、北円堂、東金堂、五重塔、西金堂が建てられた。
さて、興福寺1回目の火災はどうやって起こったか。
平安時代中期永承元年(1046年)12月。夜深い11時ごろ。興福寺の西隣にあった里の1軒の民家が放火された。
火はまたたくまにあたりに燃え広がり、折からの強い西風にあおられて火の粉が 興福寺境内へと飛んでいく。
「あぁっ、西金堂がッ!」
「中金堂も火の手がーッ!」
天平創建以来、300年間無傷だった伽藍が、たちまち炎に包まれていった。
講堂・東金堂・西金堂・南円堂・鐘楼・経蔵・南大門・中門・僧坊など、北円堂や蔵をのぞくほぼすべてが焼失した。
私は原画を描いて、それをアニメーターの幸洋子さんが動かしてくれるのだが、実際放映された火事表現はもっと迫力がある。それを静止画で見せるのもなんだけどこんな感じだ。
さて火災の翌日、京の都に興福寺消失の報告があがる。
時の関白は 藤原道長の子、頼通。
「申し上げます。こ、興福寺がー!」 
「いかがした」 
「燃え落ちてしまいました…」
「燃えた!?」
「伽藍ことごとく灰に…。まさに末法の世…」 
「…ええい、嘆いてなんになる。建て直しじゃ。我が信心の証を見せん!」
こうして頼通は強気で再建を命じた。
なんと!ナント!南都!わずか1年3ヶ月後に中金堂は完成し、落慶法要が行われた。考えられないスピードである。ちなみに平成の中金堂は2010年着工2018年落慶だそうです。
で、1回目の火災が再建からわずか12年後、康平3年(1060年)5月4日の夜に2度目の火災は起こるのである。
それは中金堂本尊にあげた灯明の火から延焼した。
「あっ!」
「ああ、火が!火が!」
落ちた灯明の炎はあっという間に広がり、まだ丹の色も鮮やかな中金堂の柱に燃え移り中金堂が焼失した。
最初の火災から12年後なのでまだ関白は藤原頼通。
この人、人生で2回も興福寺を再建しているのです。頼通12年後バージョンも描いたけど、尺の都合で放送ではあえなくカット。ま、頼通と妻が老けただけのバージョンですが。
で、放送ではこの後もう一度再建シーンと落慶法要のシーンがくりかえされます。
ちなみにこの藤原頼通の話を歴史好きの友達に話したら「頼通は父ちゃんの道長が創建した法成寺もまるっと再建しとるんすよ(これも巨大寺院よ)。再建請負人かぁ」とのこと。
頼通エライ!
創建から300年後に1回目の火災、2回目はその12年後、では3回目がいつかというと、その29年後でした。
嘉保3年9月の夜のこと、僧坊(中金堂と講堂を取り囲むように並んでいたお坊さんの宿舎)から出火し、中金堂が炎上。
「助けてくれーッ!」
「僧坊から火が出たぞーッ!」
創建から300年無傷だったのにここにきて半世紀で3度の火災。
原因は貴族の生活が朝方から夜型へと変わり、儀式も夜に行われることも多くなったからだそうだ。
ちなみに朝に仕事するから朝廷って言うんだってね。
昔は消防車なんてないから、燃えたら最後、神か仏にお祈りするしかなかったのです。
アニメの原画を描く前に絵コンテを描くのですが、こんな感じです。
私はアニメの勉強とかしたことがないので、絵コンテの描きかたが変かもしれない。ひとつ思ったのは、これくらい小さいサイズで絵を描くほうが(本番はA4サイズで描いてますよ)いろんな構図を思いつくということ。不思議なんだが、最初からA4の紙に描くとヨリヒキにバリエーションが出ないんだよなぁ。
というわけで今週はここまで。
あ、そうそう今日5月7日の午後3時08分~ 午後4時00分に再放送があるんだ。ぜひ見てね!

ハート展と元号雑感

ゴールデンウィーク真っ最中なので今週のブログは休む気まんまんだったけど、ちょうど今日で平成も終わることだし記念に更新しておこうかな。

まずひとつお知らせを。ただいま渋谷の東急百貨店本店にて「第24回NHKハート展」が開催されております。私は月岡凛さんの詩に絵を描きました。ハート展はこのあと各地を巡回します。よかったら足をお運びください。

主催者の要望としてハートをモチーフにして欲しいとあったので、おばあちゃんの後ろのカーテンがハートの形になっています。
ぼくのおばあちゃんももういません。大学4年の時、「就職しないでイラストレーターになる」とおばあちゃんに伝えると「いらすとれーたーってなにや?」と聞かれて困った。「う〜ん、絵を描く仕事なんやけど……」と答えあぐねていると、ふと「市政だより」が目に入り、それをパラパラと見せて「ここに描いてあるような絵を描く人のことや」と言ってしまった。よりによってものすごくつまんない絵を見せちゃったな。おばあちゃんは「……なんや、ようわからんけども、就職しい」と悲しそうな顔をしていた。
イラストレーターになるのに予定を大幅に上回る時間を要してしまったため、おばあちゃんは私が今こんなに立派になっているのを知らずに死んだ。「市政だより」のようなあんなつまんない絵を描いていると思われたままかもしれない。あの世に「天国だより」でもあればノーギャラで描きたいものである。
ウチの父がたの祖父母は明治生まれで、母がたの祖父母は大正生まれだった(さっきのおばあちゃんはこっち)。祖父母たちの生まれ年は覚えてないが、明治の終わり頃と大正の初め頃に生まれただけで同世代だ。祖父は二人とも戦争に行っている。
でも子供心に明治と大正は違う色だった。流れている時間が違う感じがした。
一括りに明治といっても45年もあるので、序盤中盤終盤ではかなり様子が違う。では明治20年と明治40年ではどう違うかと言われてもパッとわからない。夏目漱石は慶応3年生まれで翌年が明治元年なので、だいたい漱石が20歳の時、40歳の時と考えればいいだろう……といってもどう様子が違うのかやはりわからないが(笑)。
きっと私が80歳くらいなった時、若い世代にとっての昭和は、ぼくらの明治のようなもので、大雑把にしかわかってもらえないんじゃないかと思う。
昔=昭和。
「おじいさん昭和生まれですか。やっぱりみんな着物着てたんですか?」とか「戦争大変でしたでしょう」とか「学生運動で暴れたクチですか?」とか聞いてくると思う。元号で時代が一括りにされることによって生じる混乱。こういう時間の共有は日本だけの特殊なことで、ぼくは面白い。
「いやいや、それも昭和だけど、ワシャ全然知らん。昭和は64年もあったんだ。しかし、ワシはネットのない時代を知っておるぞ」と言うと「ネットがないって、それどんな感覚なんですか?」と食いついてくるに違いない。当たり前に見聞きしていたことを言うだけで、時代の証言者になれるのだからせいぜい長生きしたいものだ。

興福寺と大徳寺の番組

去る4月15日、ノートルダム大聖堂で火事が起きた。

ニュース映像を見ながら「ああ、なんということだ!」と思っている自分と、「おお、塔の部分はこうやって焼け落ちるのか」と思っている自分がいた。なぜなら私は2月中旬からほぼ一ヶ月に渡り、NHKの『歴史秘話ヒストリア』のために、奈良の興福寺が燃える絵ばかりを描いていたからだ。

絵といえども、順番としてはまず燃えていない興福寺を描く。そこに火の手が上がり、大炎上していく様子を描く。これを7回繰り返した。だから自分の手で7回燃やしてしまったようなカンジ…。

そう、興福寺は奈良時代に建てられて、なんと今までに7回も火事になっている。でも、実際に興福寺が火事になったのを見たわけではないから、想像の中で描いたに過ぎない(しかもアニメなので、あとはアニメーターさんまかせ…)。その仕事が一段落した後だったから、ノートルダムで火事があった時、燃え方のほうに興味を持ってしまったのだ。

ノートルダムは幸いに消火されたが、消防技術の発達した今だから可能なことだ。江戸時代の火消しを思い出してみても、消火というよりは、燃える範囲を広めないために、先回りして燃えそうな家を壊すとかしかできない。興福寺に限らず、昔はいったん大火災が発生すれば、あとは神や仏に祈るしかなかったようだ。
去年、興福寺の中金堂は8度目の蘇りをみごと果たした。それも創建当時の天平時代の姿そのままに。このなだらかな屋根の勾配と、金色に輝く鴟尾を見よ!美しい!まさに興福寺は七転び八起きの不滅のお寺。
というわけで明日24日(水)の22時30分からのNHKの歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」をぜひご覧ください。130枚くらい絵を描いています。
燃えるシーンだけでなく、建てるシーンも描いています!
 はい。
そして、もう一つお知らせです。
同じく明日の17時50分からNHKBSで自分が出演する番組『伊野孝行 真珠庵での格闘』が放映されます。(再放送は5月5日12時20分〜30分)
約1年前にBSスーパープレミアムで放映された『傑作か、それとも…京都 大徳寺・真珠庵での格闘』という番組(90分)の個人パート版(10分)です。個人パートでは真珠庵の襖絵を描いた絵師たちをそれぞれ追う内容だそうです。私は襖絵を2泊3日で描いて帰ってきたおかげで(他の人は半年くらいかけて描いてる)本編での登場時間は2分半ほどでした。だから私的には10分というのは短縮版というより、拡張版ですね。
ただ、この番組、BSはBSでもBS4Kなので、4K放送のチューナーが内蔵されているTVか、別に4Kチューナーを持っている人じゃないと見れないのです。もちろんボクも見れません。つーか、今のところ、まわりでも見れるという人は誰もいないんだけど…。
家に2回取材に来たのと、なぜか神保町でロケもやったので、そういうのもうつっているかもしれません。見れる人がいたら見てくださいね〜。
上の画像は昨年の本編のものです。
この写真は描き上がった襖絵の前での記念写真です。
おわり。

令和おじさんモノマネ

先日、不動産屋に行き、手続きの書類を書き終え、カウンターで待っているときだった。

カウンター越しに座った不動産屋のおじさんが、ヒゲ剃り跡の濃い口元を動かしたかと思うと、「新しい元号は令和であります」と菅官房長官そっくりの声で言ったのだ。突然のモノマネに驚きの色を隠せず、僕はおじさんの方に向き直り、「え?いま、令和おじさんのモノマネしました?めちゃくちゃ似てるじゃないですか。もう一回やってくださいよ」とお願いした。

書類を待っている間のシーンとした時間に、絶妙なタイミングで放り込まれたモノマネ。名人は意外なところにいるもんだ。
おじさんはちょっと照れていた。「いや〜すごい似てましたよ、もう一回聞きたい」とさらにせがんだ。するとおじさんは、先ほどと同じように、僕の右横の誰もいない空間に視線を向けたまま、今度はニュース番組の司会者とコメンテーターのやりとりを、一人二役で落語のようにしはじめた。
これがまた抜群にうまい。コメンテーターは誰かわからないが、司会者はどうやら森本哲郎のようである。名前を名乗らずとも誰かわかるのだから相当な名人だ。でも、僕は早く「新しい元号は令和であります」を聞きたかった。それを知ってじらすかのように、おじさんはなかなかサビには入らず、ニュース番組の再現を続けるのだった。そんなもったいぶりもまた可笑しくって、僕は腹をよじって「はははは、全然、ははは、言いそうに、はは、ないですね」と笑い声と言葉を同時に吐き出すのに苦労した。
と、そのとき突然暗転した。状況についていけない僕は、ボーっとした頭で、なんとか把握しようとつとめた。
……僕の頭は枕の上にある。枕元のラジオからはTBSの朝の番組『森本毅郎スタンバイ』が流れていた。
つまり、夢であった。
この日は元号が発表された次の日で、菅官房長官の「新しい元号は令和であります」という音声を流した後に、スタジオで森本毅郎とゲストコメンテーターが喋っていたのだ。ラジオの音がそのまま夢の中の音になっていた。同時に夢の中では勝手なシチュエーションが作られていた。
こういう経験はみなさんもありますか?ただの夢よりも不思議ですよね。
二度寝したときに、よくこういうことがある。脚本をもらって瞬時に映画を撮っているみたいで、我ながら我が無意識に感心します。ふだん、無意識を意識することは難しいですが、夢と現のはざまで生きるというのはこういうことなんですね。
さて、『通販生活』夏号の特集「読者が繰り返し見る夢」で絵を描きました。読者が繰り返しよく見る夢ベスト1は「間に合わない」夢だそうです。水辺の夢も世界共通で女性が多く見る夢だそうです。「空を飛ぶ夢」の飛び方はその人が「自分は人生をうまくコントロールしている」という満足度を表しているんだそうです。死んだ人が夢の中で生きているという夢は、女性に多いそうです。不測の事態の夢を繰り返し見るのは、危機管理能力の高さの表れだそうです。
とまあ、詳しいことは『通販生活』を買って読みましょう。180円です!「人生の失敗」というコーナーでは籠池夫妻も登場してます!

リリーさんに気持ちよくなる

いったいこのブログはいつまで続けるつもりなのだろうか。

臨終間際まで続けるならそれはそれで価値もあるかもしれない。というわけでたまに休むのは良しとしても、ポッカリあいだを空けるのはダメだ、今週も更新しなければ……。飼い猫が捕ったネズミを見せにくるように、「こんな仕事したんだよ、見て欲しいニャー」と自慢したいときは、ただそれを書けばいい。でも仕事というのはだいたい似たような依頼が多く、そういうのばかり載せているだけでは「はいはい、またネズミね」と飽きられるんじゃないか、と心配である。情報スピードが早いと、消費される速度も早くなり、イラストレーターとしての賞味期限もいたずらに短くなってしまう。それではイカン。史上最長寿のイラストレーターとして、このブログを臨終間際まで毎週更新する予定なのだから。

同じような絵の更新が続くときは、せめて文章で違うことを言って、感心させなければ……それが無理でも、せめて憩いのひと時を……しかし、仕事で描いた絵に引っ掛けて文章をひねるとなると、これもまた内容がマンネリになるのだ。
革新的な仕事を成し遂げた天才でさえも、よく見たら同じところをぐるぐる回っているだけである。ましてや凡才はまわる直径が短いから、マンネリズムは余計に肝に銘じなくてはいけない。
……というようなことを書くのもこれが初めてではなく、もう何回も言い訳的に書いている。
はぁ〜、今週はどんな内容にしようかなぁ。
最近テレビドラマが面白くていい。最後の方ですごく退屈になっていった『まんぷく』がようやく終わって始まった『なつぞら』もいい。『きのう何食べた?』もいいし、もちろん『いだてん』もいい。先日見た『離婚なふたり』がまた素晴らしい。
脚本も演出もいいに違いないが、役者の演技を見ているのが気持ちいいっていうのも大きい。とくに『離婚なふたり』のリリー・フランキーを見てるのがめちゃ気持ちいい。『なつぞら』に出ている高畑淳子と比べると、リリー・フランキーの演技の方がより自然で、大げさでなく、とにかく気持ちいい。高畑淳子は気持ちいいまでいかない。……ったくオレみたいな素人がこういう意見をわざわざネットに書き込むのは慎みたいと思っているんだけど、一応、絵もそうじゃないですか、うまいが気持ちいいにまさるってことあんまりないでしょ?
うまさが気持ちよさに直結している部分もあるけど、ただ一つのツボを押してるだけにすぎないと思う。同時にいくつかのツボを押されないと「あ〜気持ちいい〜」とはならない。
僕は今だにどんな時でも線は手描きなのだけど、そうしてる理由は、単純に気持ちいいからだ。とくに毛筆で描く快感は絵を描く気持ち良さの大きな割合をしめている。最初から線を描くのは気持ちいいものだったが、10年20年続けてきて、だんだん快感の回路が作られて来た感じだ。筆によってもかなり違う。紙質も多少ある。便利と引き換えに、この快感をパソコン作業に置き換えることは非常にもったいない。
けど、パソコンでしか引けない気持ちのいい線もあって、実はちょっとやってみたい。また肉筆浮世絵よりも版画浮世絵の方が気持ちいいのはなぜか。別に肉筆だろうが電筆だろうが相手を気持ちよくさせればどっちでもいい。本人が快感を得られるからといって、絵を見る人が気持ちいいかどうかは別だ。ここがなんぎである。自分がやることによって得られる快感を、やってない人にも感じさせる。そんなツボを探そう。おわり。今週の絵は描き下ろしです。

令和と北尾と隠居すごろく

(注… …今回のブログの記事と絵は、まったく関係ないように見えますが、最後は関係あるようになるので、不思議がらずに読みすすめてください)

昨日、新しい元号「令和」が発表された。古典の教養などまるでなさそうな首相の口から、元号に込めた思いを聞いているうちは、ちょっと違和感もあったけど、後で、出典である万葉集の序文は王羲之の蘭亭序およびなんとかという漢籍をふまえているとか、詩が詠まれたのは太宰府の大友旅人の邸宅だとか知るうちに意味も由来も響きも悪くないと思えてきた。むしろ積極的に好きかもしれない。令和。

こういうことを書くと、僕に感心できるくらいの古典の教養があると思われるかもしれないが、全くないです。

何回か前のブログ(顔真卿の回)で、王羲之の蘭亭序のことを書いたけど、書を知ってるだけで、あとはほぼ知らない。現代において漢文の教養があるのは、ごくごく一部の人だけなので、この点においては安倍首相と同レベルだ。
そんな一億総漢文の教養ない時代に、中国を先生としていた時代の遺物、元号を続けるのはおかしくはあるけど、僕は残しておいて欲しい派だ。中国に学ぶ、真似するをずっとやってきて、明治からは西洋に学ぶ、真似するに変わり、その後、天狗になってどこにも学ばなくなったツケが今まわってきている… …んだよね?たぶん。
日本という国自体が中国文化の正倉院であり、その上に独自の特殊文化も花開いている。そういう意味で元号は初心忘れるべからず的にあり続けるのはいいと思うのです。… …しかし本家はとっくに元号(皇帝が時間を支配する)というこだわりをやめ、世界標準の西暦だけだし、今やきわめて合理主義的に世界の覇者になろうとしている。方や日本は今もなお、というよりあきらかに歴史上いまが一番、元号で盛り上がっている。大局的に眺められない小国っぽさ?… …はい、デカい話はここでやめるとして、そう、2月10日に元横綱双羽黒、北尾光司が亡くなっていたニュースにショックを受けた。
瞬時に僕の気持ちは中学生に戻る。
小学校、中学校ともに北尾光司は僕のパイセンにあたり(8歳上)、しかも小学校と一本道を挟んだ隣に中学校があったので、僕が小学校にいる時に北尾はすぐ近くにいたわけだ。中学2年で195センチあったという天才相撲少年北尾の噂は、隣の小学校にも伝わっていた… …かというと、どうだろう?少なくとも僕は知らなかった。いくら体がデカくて、相撲が強いと言っても、その時はただの中坊だからね。小学校には北尾少年が在学中に出来たという赤土の土俵があって、僕らはそこで相撲をとったりしていた。
中学校にあがり、僕が2年か3年の時に、北尾が大関に昇進した。巡業のついでに母校を訪れたことがある。この時はすでに郷土の星である。落ち着いた緑色の着物に身を包んだ北尾はものすごくデカかった。大銀杏の似合う美男であった。記念に手形の押されたサイン色紙が全員に配られたが、それは印刷だった。
北尾が大関に昇進するこの年、元横綱輪島がプロレスデビューしたと思う。輪島は僕が最初に好きになった力士なのだが、プロレスラー輪島は世間からは嘲笑されていた。よし、俺がまた輪島を応援せねば。そして、これからは北尾も熱烈に応援しようと思った。
優勝しなくても横綱になれるくらいのトントン拍子で相撲界の頂点に立った双羽黒こと北尾光司は郷土ではスターだが、僕が高校に進学すると話は微妙に違う。同じ三重県といえども、他の学区や市や村からきてる級友たちにとっては、横綱の品位や成績を保てない双羽黒はからかいのネタだった。付け人を空気銃で打ったり、サバイバルナイフで脅かしたりして、騒がれるたびに僕は双羽黒のことをかばわねばならなかった。同時に輪島のこともかばわねばならない。これもファンの務めなのだ。
北尾のことを思い出したついでに、ヘンな思い出も蘇ってきた。高校1年の時だったが、休み時間になると、地味な男子生徒数名が僕の机の周りに集まり、なぜか「おはじき」に興じていた。僕は一番でかいおはじきに修正ペンで「双羽黒」と書いて戦わせていた… …休憩時間の過ごし方があまりにしょっぱい。やってることが小学生みたいでおぼこい。
そこまでして応援する私の気も知らず、双羽黒はちゃんこの味に文句を言って、女将さんを突き飛ばし部屋を出たきり、あっという間に廃業。北尾は「スポーツ冒険家」と名のり、また友達のからかいのネタになった。そして、ついに北尾は輪島のようにプロレスラーになった。
高校3年の受験で上京し、池袋のホテルに泊まったとき、ちょうど北尾光司のプロレスデビュー戦が行われた。髷を落とした北尾は幼い顔のとっちゃん坊やで、なんとも垢抜けなく、リングコスチュームもぜんぜん似合わなかった。それでも、対戦相手のクラッシャー・バンバン・ビガロを倒した瞬間、僕はホテルのベッドの上で何度もジャンプして喝采を送った。その日は2月10日だったはずだ。北尾がなくなった日はプロレスデビュー戦と同日だったと報道にあったから。
その後、僕は東京に出てきて一人暮らしをはじめ、北尾の応援も熱心でなくなった。相撲と違ってプロレスはなんでもありだから、問題児も埋没してしまうというか。優勝14回の輪島が借金を返すために、裸一貫になってまた頑張る、みたいな昭和なドラマが新人類北尾にはなかった。方や相撲界は、若貴ブームで空前の人気だったが、僕はそんなに相撲が好きではなくなっていた。僕がまた相撲が大好きになるのは、平成の問題児、朝青龍の登場を待たなくてはいけない。
輪島、双羽黒、朝青龍、と問題を起こす力士になぜか惹かれるようだ。問題を起こしてもファンはファンを絶対に辞めない。
さて、プロレスでもうまく花が開かなかった北尾は、引退後何をしているんだろうと時々思っていたが、15年?くらい前に立浪部屋のアドバイザーに就任したと知って、ちょっとホッとした。しかし、今回の死去の報道をきっかけにわかった事実は、立浪部屋のアドバイザーをしていたのはほんの一瞬だけで、あとは部屋とも連絡をとっていないようだった。
199センチもある巨体で、元横綱という抜群の知名度を持ち、プロレス引退後の人生をどうやって過ごしていたのか。体の存在感があるだけに、想像するとよけいにしんみりしてしまう。
ずっと前に『下足番になった横綱』という男女ノ川の評伝を前に読んだことがある。男女ノ川という人も194センチあった巨人で、なんでも引退後相撲協会からも退職し、サラリーマンや保険の外交員、探偵(!)などもやって、晩年は料亭の下足番をしていたみたいだ。普通の体格だったらひっそりと人生を送ることもできるが、どこに行っても目立ってしまう。
引退後、つまり退職後、昔で言うところの隠居の身。
江戸時代、巣鴨のある大店の主人が隠居した。本人は隠居生活をエンジョイするつもりだったが、思わぬ方向に人生のすごろくが進む… …という西條奈加さんの新刊『隠居すごろく』のカバーを描きました。
ブログに書きたい文章とブログで紹介したい絵が違うので、今回は無理やり縫い合わせてみましたが、そんなところで、また来週。

別冊太陽・柳家小三治

もう4月になるというのに、去年の仕事を引っ張り出してくるのもなんですが、「永久保存版」と銘打ってあるから、いつ紹介したって鮮度は落ちていないはず。今週は、別冊太陽「十代目 柳家小三治」に描いた挿絵のことでも。

小三治さんを愛する5人の方々の寄稿文「わたしの好きな小三治の一席」に絵を頼まれたのですが、5人のラインナップを見て、「おおっ、ついにこの日が来たか」と思いました。
いや、あまり話を期待されると困るのですが……その5人の中に南伸坊さんが入っていたのです。今でこそ、伸坊さんとは対談させてもらったり、展示をご一緒したり、お酒をのんだりしています。もうずいぶん前に「ぼくは伊野君のこと友達と思ってんだよ」とおっしゃてたので、私も堂々と「オレ、南伸坊と友だちー」と自慢しても差し支えないくらいの、間柄ではあります。でも、伸坊さんのエッセイに自分が絵をつける、ということは何かしら感慨深いものがありました。ついにこの日が来た……というのは、ただそれだけのことなんだけど。
伸坊さんは「E・S・モースと柳家小三治」という文章を寄せています。
そうそう、伸坊さんには、自ら装丁した本について語る『装丁/南伸坊』という本があり、そこで小三治さんの『ま・く・ら』を装丁した時のことが書かれていました。
別冊太陽では、その後日譚として、続編『もひとつ ま・く・ら』を装丁したことや、最初使う予定だったけど借りられなかった、モースの箱枕について詳しく書かれています。
担当編集者さんからは「『ま・く・ら』と『もひとつ ま・く・ら』の書影のかわりになるようなイラストはどうでしょう」と提案があったので、ついにこの日が来たと言っても、案外そんな時って腕のふるいようがなかったりするものなのかもしれないなと思いながら、私も即物的にまくらの絵にしました。小三治さんの似顔絵にしても伸坊さんが描いた方がはるかに可愛いから、腕をふるえなくてよかったのかもしれないなー。
柄本佑さんの「はぁー……すげぇー」という寄稿文につけたのが下の絵です。
この絵は松岡修造さんの「僕にはない熱さでできている」につけたもの。
粗忽長屋の場面は、小林聡美さんの寄稿文「入我我入って、小三治の落語みたいだな、と思った」に。
「こんなことがあった」by鈴木敏夫さんには「千早振る」をカルタっぽく。
他には「小三治に聞く142の質問」というコーナーも面白いし
古今亭文菊さんとの対談もめっちゃヒリヒリして読むのがこわいくらい。文菊さんが思いっきりダメ出しされてて、たぶん、収録現場は息が止まるような緊張感だったのではないかと想像します。そんだけ期待されてるということでもありますが、オレだったらへこむな(笑)。でも自分の仕事について真剣に正直に語り合えるのは最高なことだと思います。古今亭文菊さんは原田治さんが贔屓にしていて、パレットクラブの寄席で見たことがあります。その時はまだ二つ目でしたが、いい噺家さんだと思いました。
当たり前だけど、お二人とも着物が似合う。いや、当たり前なんだ、日本人なんだから。着物を着るのに理由がいる、なんで着てるの?って聞かれる(特に男性は)というのは、悲しいことではないですか。僕も着たいんだけど、やはり着る機会がないですよね。前に伸坊さんがあるイベントで浴衣を着て来た時、普段の洋服のかわいさとはうって変わって「大師匠」とでも呼びたいような雰囲気ありましたね。ま、オレなんて着物を着ても、万年「二つ目」だろうけどね。
はい、以上、ブログ更新リハビリ中につき、たいした内容はありませんが、これにて御免蒙る。

ワガママでなければ

さ、今週はちゃんと更新するぞ、と思って何日か前に下書きをしたはずなんだけど、メールボックス(いつもメールソフトで下書きしてる)を探しても見当たらない。

カックンショック!

大量に絵を描く仕事は一段落つき、いまは平常運転なのだけど、昨日はあることで心がずっと緊張していて、あまり眠れず、また一からブログの文章をひねるのがとても億劫だ。
それでも今朝は近所のおじさんと一緒にランニングもしたし、走る道すがらオオゼキ松原店(新しく建て直すために長らく工事中で、シートに覆われていた)がついのその全貌を表しているのを見たとき、かたまっていた心が一瞬弾んだ。スーパーの中で一番好きなスーパーオオゼキ。新しいオオゼキは深みのある煉瓦色だった。
10年続けたブログを5週間サボったわけだが(実際には更新はし続けているけど)、サボりぐせがついた今、5週間前の自分を尊敬しはじめている。そんなに毎週何を言うことがあったのだろうか。5週間前のブログからしばらく遡ると、1月の記事はやけに長い。これは1月がわりかしヒマだったからだ。
人生の畑はヒマなときにほどよく耕せるのである。我ヒマを愛す。ヒマに勝る至福の時間なし。
はい。いきなりなんだけど、まだブログで紹介していなかったブックカバーの仕事を。
ズッコケ三人組シリーズでおなじみの、那須正幹さんの『ばけばけ』(ポプラ社刊)という本です。髪の毛がうまく描けてませんか?そんなことない?
実はこの髪の毛、描いてるんじゃなくて消してるんです。鉛筆で黒く塗りつぶしたところを消しゴムの角でスーッと。たまたま思いついた技法だけど、これから使うことあるかな?
僕はいろんなタッチで描いてますが、それは一つのスタイルでやることに飽きちゃうからだし、スタイルを作ることや維持することが絵を描く目的ではないからだし、イラストレーターは色々描けた方がアプローチの仕方も増えるからだし、だし、だし、なんだけど、あまりに器用に描いた絵って、なんか物足りないんですよね。
絵はワガママであった方が魅力的だと思う。ワガママ言ってない絵はつまんないなって最近思うなー。ワガママな絵ってなんでしょうね。
『ばけばけ』の絵はワガママ言ってるんだろうか。技法を一つ発明したことで、描くときの新鮮さはあった。
絵のワガママっていうのは結局……とここからどうやって理屈を展開していこうかと思ったが、今日はリハビリということで、ここで終わりにしよう。
目標!
来週もちゃんと更新すること。
ではまた!

来週からね

ブログを始めて10年たって、継続は力なり、と言いたいところですが、このところ忙しさにかまけて、すっかりサボり癖がついてしまった気が……。

でも、一応更新はしてますからね(絵も描き下ろしてるし〜)。大量に絵を描く仕事もようやく終わった、と思ったら修正や追加があって、さらに確定申告のカウントダウンが始まったので、やはり今週もプチ更新でごめんください。

これで5週連続、中身のない更新をしているけど、不思議なことにアクセス数がほぼ変わりません。愛想尽かさないで、いつまでも読者でいてくださいね。来週からちゃんと書こうと思います。書けるかな〜?なにしろサボるの気持ちいいもんな〜。

 

今週もなんですけど……

4週にわたってサボっているブログですが(と言いつつ更新はし続けているんだけど)、今週もサボります。

今やってる大量の絵を描かなきゃいけない仕事も今週中には終わりそうなメドがつきました。

2月の中頃から、日がな一日絵を描いている生活が続いていますが、春風亭一之輔さんの独演会(@らくごカフェ)に行ったり、俳人の高山れおなさんと山田耕司さんのトークショー(@B&B)に行ったり、朝までカラオケやったり(@井出佳美さんの個展)、座禅会(@即今)に行ったり、オカマバー(@サロン・ド・慎太郎)に連れて行ってもらったり、出版三重県人会なる飲み会(@居酒屋秋刀魚)があったり、その他飲み会(@フィシッフ など)も2回ほどあったり、睡眠も毎日7時間寝てるし……あれ?これって普通の生活じゃん?

単にブログの更新をサボる口実に使ってるだけ?……のような気がしないでもないんですがね。確定申告ほったらかしだから来週もサボりたいなぁ。

やはり今週も……

今週も ……

今週は……

天心が埋めて惟雄が掘る

岡倉天心の写真はすごくエラっそうだ。このふんぞり返った感は俺が日本をしょって立つという明治人の気概なのかもしれない。アメリカ滞在中もここぞというときはバシッと羽織袴で決めたというし、アメリカのヤンキーに「お前たちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかわれたら「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」とペラペラの英語で当意即妙に切って返した、という逸話がある。ネットの中で見つけた。そう、引用すると負けた気がするウィキの記事の中に。それはいいのだけど、こういう話を聞くと、なかなかアッパレな漢の印象を受けるが、岡倉天心の絵を見る眼力ははなはだギモン。影響力のあった人だけに、当時も後世も岡倉天心に埋められた画家や作品が多かったんじゃないだろうか。というのは何年か前に図書館で借りてきた近藤啓太郎さんという人の本『日本画誕生』にこんなことが書いてあったからだ。

〈さて、天心は『日本美術史』で、応挙については四千五百字を費やして記述しているのに反して、宗達についてはたったの二百字である。池大雅にいたっては、逸話を記しているにすぎない。徳川家の絵師として日本画壇に君臨していた狩野派に反撥して、異端といわれた伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白など、すぐれて個性発揮の絵を描いた画家についてはほんのわずかな記述でしかないのである。従って、浮世絵は下等社会の趣味として、無視しているのは当然とも言える。そのくせ、天心は市井で「親方」と呼ばれていた工芸家をいきなり美術学校の教授にしてしまうのだから、理解に苦しむところである。〉
親方と呼ばれてた工芸家とは高村光雲かな。
それよかさ、天心が日本美術史の路地裏に追いやった画家たちって、まさに辻惟雄さんが再発見した『奇想の系譜』の画家たちじゃん!若冲、芦雪、蕭白、国芳以外に『奇想の系譜』にあげられている岩佐又兵衛、狩野山雪については岡倉天心はなんと言っているんだろうか。褒められてたら逆にくやしいけども。
芸術新潮の今月号の特集は「奇想の日本美術史」。50年前に辻惟雄さんが「奇想の系譜」で発表した奇想のスタメンに、新たに白隠慧鶴、鈴木其一などが加わり、さらに縄文から現代に至るまで、あるときはなりを潜め、あるときは爆発する奇想の血脈を紹介する。監修者の山下裕二さんが日本美術史を揉んでほぐして血行をよくするという特集だ。
私が担当したのは「奇想の8カ条」。
高札の上で高笑いする山下裕二奇想奉行。そして奇想の魂たちをあたたかく見守る辻惟雄奇想菩薩。一番右下の女性は現代の奇想美術家、風間サチコさんの似顔絵だ。
この奇想の8カ条に当てはまるような扉絵を描きたい、いや、おい、忘れちゃ困る、奇想のイラストレーターはこのオレさまだ!という気持ちで描きました。
自分の中にも奇想の血が流れている。日本美術史のようにあるときはなりを潜めて、あるときは爆発して。
高校生の時に寺山修司や横尾忠則や湯村輝彦さん、蛭子能収さん、根本敬さん、音楽でいったらエンケンさん……たちに惹かれていったのは、我が奇想の初潮にして満潮時。その後。セツ・モードセミナーに行ってからは奇想の血はややなりを潜めるも、長沢節先生自体はある意味、世間一般の奇想よりもマジで変わった人だったので、先生を観察しているだけで自分の奇想パワーは充電していたのかもしれない。
そしてようやく日本美術に興味を持ち始めた時期、つまり橋本治さんの『ひらがな日本美術史』連載中の芸術新潮、2000年2月号の「特集 仰天日本美術史『デロリ』の血脈」by責任編集 丹尾安典を読んで、再び自分の中の「へんな絵大好き!」気分が満潮かつ大潮になったのであった。
基本的に変人、へんな絵が好きな私です。
今は、自分の奇想メーターはどれくらいを指しているだろうか。
そうそう、ちょっと岡倉天心先生を褒めておこう。
同じく『日本画の誕生』の中に天心先生のユニークな「新案」という授業の様子が書かれていた。
美術学校第一回生の溝口禎次郎氏はこう語る。
〈新案というのは構図のことで、生徒に図を作らせるのです。ところが山水などなかなか図を作れるものではない。そこで各々いろいろの工夫をしたものだったが、一番面白いのは風呂敷を投げつけてその形によって山水の図を立てるといふ方法だった。これは元来芳崖さんが案出した方法らしかったが、兎に角やってみると不思議に図が出来る。柔らかな風呂敷では駄目だが、白い金巾か何かのこはい風呂敷を投げつけると、それが角張った狩野風の山に見える。さうして彼方に滝を落としたら面白かろうなどという考えが浮かぶのです。〉
この方法について著者の近藤啓太郎さんは「なんとも馬鹿々々しい話で情けなくなる」と述べているが、私に言わせりゃ、ベリーグッド!もっとも狩野芳崖の発案らしいから天心先生一人のお手柄ではないが。中国山水に似た山なんて日本の風景ではほとんどないし、かといって頭の中だけで絵を作ろうとするとどうしても観念的になる。風呂敷を投げて偶然出来る形から山水を起こそうなんて、まさに名案だ。もしかしたら狩野派では昔からやっていた方法なのかもしれないね。

顔真卿を見たか

先日、土曜日に東京国立博物館で開催中の「顔真卿」展を見に行った。マストというより、ちょっと見ておきたいかなぁくらいだったのだけど、3名無料で入れるパスを持っている人に誘われたので、これ幸いとついて行った。
顔真卿展なんてガラガラなんじゃない? と思っていたのが大マチガイ。
会場前に行列こそできていなかったが、中はかなり混雑していた。入口近くは人を押し分けないと陳列台のそばに寄れないくらい。最近は美術ブームでフェルメールや若冲や阿修羅がバカみたいに混雑するのはわかるけど、「書」なんていうゲキ渋なジャンルにこんなに人が来るのかぁ〜って驚いた。
ぼくは書については全然詳しくないんだけど、文字というのは絵みたいなもんだし、漢字なんていうのはまさに絵から出来てるものなわけで、鑑賞自体は難しくもなんともない、と思っている。実際に、予備知識なしで「いいな〜」と思えるものはたくさんあった。
ていうか、だいたいどの書にもぼくは感心した。書は絵よりも見飽きずに眺められるってとこがある。
『開通襃斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』は初期の隷書の姿を留める。後漢時代。西暦でいうと66年。
ご覧のように、めちゃ重たい図録も買った。家でシゲシゲ眺めた。王羲之、顔真卿、欧陽詢などの名前は、一応知ってるけど、王羲之が何時代でどんな人か、顔真卿が何時代で今展の目玉『祭姪文稿(さいてつぶんこう)』はどんな時に書かれたものか、というのは全然知らなかった、そんなレベル。名前を知ってるということは、どこかで一度知識を頭に入れる機会があったのだろうけど、綺麗さっぱり忘れている、そんなレベル。
書聖、王羲之の超有名な『蘭亭序』。これは『定武蘭亭序』といって、唐の皇帝、大宗が欧陽詢に作らせた複製。東晋時代。353年。
こちらはその欧陽詢の『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)』。唐時代。632年。こちらも同じく超有名な書である。有名、有名と連発したが、ぼくが知ったのは最近です。
唐の皇帝、大宗は王羲之をこよなく愛し、全国に散逸する王羲之の書をカネにあかして集めまくったので、民間人が王羲之の書を見る機会がなくなってしまった。中でも最高傑作の『蘭亭序』は弁才という僧からだましとって手に入れたのだという。さらに愛する度が過ぎて、大宗は自分が死ぬ時、墓に王羲之の書を一緒に埋めてしまい、模本や臨書しか残っていないという。なんてこったい。
この有名なエピも今回知ったのであるが。
いつも知識は頭を素通りしていくが、今回、実際に鑑賞して図録も読んで、ブログも書けば、多少は記憶されるかもしれない。
これが日本初公開、顔真卿の『祭姪文稿』だ! 唐時代。758年。安史の乱で非業の死を遂げた若き顔季明への弔文の草稿。人に見せるために書いたものではない。非業なエピとあいまって『蘭亭序』と肩を並べる大傑作といわれている。
おっと、実は『祭姪文稿』は作品の前に蛇行する行列が作られていて30分待ちで、時間の都合もあって今回は実物を見るのをあきらめた。列の終わるところからちょいと覗こうとすると、太った女の係員が、その巨体を盾にするかのように、「こちらからはご覧になれません!」とヒステリックに何度も通せんぼするので、せっかくの良い気分に水をさされた。覗こうとしたぼくが悪いのか。いいじゃないの、ちょっとくらい。
良い気分というのは理由があった。だいたい混んでる展覧会は嫌いなので、良い気分でない場合が多いのに、ちょっと気分が良かったのだ。
体感として、顔真卿展の鑑賞者の3分の1くらいは中国人だった。
美術館の暗がりの中で、東洋人の国籍の区別はほぼつかないけど、隣で見ているお客さんから聞こえるのは日本語よりも中国語の方が多かった。真剣に見ている人が圧倒的に多くて、感想を言い合っているのか、解説プレートを読み上げているのか、書を読みあげているのか判然としないけど、やかましくもなく、良い作品を見て素直に口から漏れる言葉の響きであった。
『祭姪文稿』は台湾故宮からの貸し出しなのだが、一緒に見に行った人は「中国本土の人は台湾に旅行しにくいから、日本で公開される機会に見に来たのではないかな?」と言っていた。そうなのかもねー。
とにかく熱心に見ている中国の方々を見て「さすが中国は日本の先生」と思わずにいられない。熱心さに加えて、ふだん簡体字を使用させられている鬱憤を晴らそうとしているような感じさえするのであった。漢字の歴史こそ中国人の魂!
我々日本人は「がんしんけい」などと読んでいるが、中国語での発音は違うし、彼らがぼくの耳元で読み上げていた漢文の発音こそが本来、字とともにある響きなんだろう。日本語の漢文の読み下しの硬い雰囲気と全然違って、美しく流れるよう。まぁ、当たり前なんだけど、改めて、漢字文化圏の不思議さを思ったことよ。
気分がいいのはそんな鑑賞体験をしていたからであった。
以下は全て、顔真卿の書です。
へー、顔真卿ってなんでも書けるんだなあ。
ぼくは最後の2枚あたりの太くておおらかで、そんなにうますぎない字が特に好きだな。
字も絵と同じで”意識が無意識に出る時”が、一番いい感じがするんだけど。
こうやっていろんなタイプの書を見てみると、人目を気にせず書いた『祭姪文稿』こそが顔真卿の素顔であり、他はお化粧をした姿なのかもしれないね……って『祭姪文稿』の実物を見てないんですけどね。
ダハ、ダハ、ダハ。
ところで、ぼくは「書も絵として見る」と書いたけど「書も絵として描く」のでいいと思ってる。学校で書き順というのを習って、それが大切なことのように教わったが、魚の漢字が「魚」の絵から出来ていることを考えれば、別に書き順に従わなくてもいいじゃんと思う。
いくら正しい書き順で美しい「楷書」が書けたからって、抽象画みたいな現代の書芸術が書けるようにはならない。デッサンの修行を積まないと絵が描けない、に近い惑わせものなんじゃないのかな。
でも活字の明朝体の「筆始」や「うろこ」の形は筆順に基づく形なんでしょうね……楷書というのが今の漢字の基本だからね。この分野は、周りに詳しい方がいるので、素人がこれ以上入り込むことはやめておきましょう。
はい、字は人間の意志伝達の道具なので、本来、字を扱う人間に素人玄人の差別はなし。ぼくはそんな軽〜い気持ちでやってます。
ここから先は、字を書いて遊ぼうのコーナーです。
イラストレーターは絵を描くだけでなく、字も頼まれたりするから、仕事で書いたのをいくつか載せるが、書聖たちといかに遠いかということを笑っていただきたい。
「オトナの一休さん」で書いた何似生(かじせい)。以下も「オトナの一休さん」より
作麼生 説破(そもさん せっぱ)
一休さんの漢詩。書き順メチャクチャです。
アニメタイトル文字
喝!いろいろバージョン
立体的な喝!
無縄自縄
小説のタイトル
エッセイのタイトル。以下は「ちくちく美術部」タイトル文字。
はい、なんちゃって。
なんちゃって。
ではまた来週!

あなたは暮しの手帖を読んでいますか

「安物買いの銭失い」という言葉があるが、ぼくの場合は「安物買いの物持ちいい」だろう。

ざっとわが六畳間を見渡せば、スチールの本棚4つに、カラーボックスが5つ。仕事机と椅子は20代の頃量販店で買ったもの。プリンターがおいてあるのはゴミ置場からひろってきた黒い台。実家からもってきた扇風機。

東京に来て5回くらい引っ越しているけど、新居にあそびにきた友達は口をそろえて「伊野の部屋って何回引っ越してもかわらないねー」と言う。

若いときはお金がない。「選ぶ」という余地があまりない。いつか自分の持ち家ですきなように部屋づくりができるようになるまでの、仮暮しの気分でずっといた。

ところが、五十の壁も目前にせまってきた昨今、いまさら家を買うだろうか?壁一面につくりつけの本棚をこしらえる予定があるだろうか?と自分に問う。たぶん、一生、借家暮しのような気がしている。それに、ぼくは年々老化していくのに、安物の机や椅子や本棚の朽ちないことといったら……電子レンジは30年前に上京したときに買ったものだが、毎日使いまくってもいまだにこわれる気配すらない。

いつかステキな暮しを、といった夢は、無理矢理にでももとめないと手に入らない。残りの時間をかんがえたら、無理をするのは今かもしれない。

職人さんのいい仕事に、高すぎる値段というものはない。仕事の対価であり、それを払えば、自分のものにできるのだから。少なくともぼくの絵の値段よりは適正価格だと思う。

今度からモノを買うときは、なるべくいい仕事のものを求めよう。自分も職人のはしくれだし……と、思っているのに、きのう革靴を買いに行って、2万円代後半、1万円代後半など、4足ぐらいためしてみたが、いちばん形もかわいくてピンときたのは7千円のスエード靴だった。金じゃないんだ、金じゃ。

暮しといえば、「暮しの手帖」。

20代、セツに通っていたとき、学校のロビーに「暮しの手帖」が置いてあった。長沢セツ先生と花森安治が関係あったのかどうか知らないけど、購読していたというより、送られてきてたのだろう。

「暮しの手帖」は実家にも何冊かあった。久しぶりに手にとって見たら、そのレイアウトや写真の古くさい(そのときはそう思った)ことに驚いた。え?まだこんな感じなの?とカルチャーショック。表紙も油絵で描いたような女性の人物画だったと思う(花森安治の絵ではない)。時代は90年代半ば。国民の暮しが贅沢を極めたバブルが終わって、まだ間もないころであった。

ありし日の花森安治の姿を写真で知ったのは、そのちょっと後だったかもしれない。ガマガエルのような顔でしかも妙に女装が似合っていて、男だとはなかなか信じられなかった。

花森安治の編集者としてのすごさは山本夏彦がよく書いていた。

花森安治は耳で聞いてわかる漢字しか使わない。目で読んで理解できる漢字は使わなかった。このために「暮しの手帖」の文章は読みやすい。漢字にするところと平仮名にひらくところの塩梅も絶妙、というようなことや、「商品テスト」のこと、あとは花森は戦争中は大政翼賛会にいて「欲しがりません勝つまでは」という標語を作った(公募のなかから選んだのだっけかな?)ということも、山本夏彦の本で知った。

「欲しがりません勝つまでは」は、なんというおそろしい標語だと思っていた。でも、この標語のポスターを世田谷区美術館の「花森安治の仕事」展(2017年)で見た時、あ、めっちゃいい!と思った。

おそろしい標語が書かれたおそろしいポスターをうっとりながめている自分がいたのだ。どうしてこんなにあたたかいのだろう。大政翼賛会の職員としてお国のために頑張る戦時下の花森、「暮しの手帖」編集長として庶民の暮しをたいせつに思う戦後の花森。
転向とか、今風に黒歴史などとかたづけていいものだろうか。ここでも「欲しがり/ません/勝つまで/は」というレイアウト術の妙。これが計算で割り出せないように、花森安治も単純に計算では割れないのだ。手書きの明朝の向こうから花森安治の太い肉声が聞こえてくるようだ。

パソコンが使えないとデザインができないのだろうか。フォントを持っていないと文字が使えないのだろうか。いや、筆と絵の具でただ紙に描くだけで表紙版下はできあがるのだ。そんな、あたりまえのことを、当然のごとくやっている。そのやり方しかない時代だから、という素朴さと強さの前に、パソコン小僧はフリーズした。

花森安治は「自動トースターをテストする」と題して食パン4万3千88枚を焼いて積み上げた。「暮しの手帖」の好企画として名高い「商品テスト」である。この食パン、ものをたいせつにする花森、および編集部一同があとで残さず美味しくいただきました……かどうかなんてどうでもいい。今なら炎上案件かもしれない。そんなことよりも、これがビジュアルの説得力だ!これが雑誌なのだ。「もしも石油ストーブから火が出たら」という商品テストもすごいぞ。これが本当の炎上だ!
このように花森安治は取材や文章、コピーの執筆はもちろん、写真撮影、レイアウトやロゴなどのデザイン作業、さらに絵もうまいんだからまいるよ。万能編集者でぼくにとっては同業の大先輩。熱量と質の高さにただ打ちひしがれるだけ。
25年ほど前にセツで手にしたとき、古くさいな〜と思った「暮しの手帖」だけど、今もう一度見るとどう思うだろうか。時代は変わった。もちろん「暮しの手帖」は今もなお発行されつづけているのはみなさんもご承知のとおり。古くさい感じはいっさいありません。
そして何号かまえから、「わたしの大好きな音楽」というコーナーでぼくは絵を描いているのでした。

はい、それではみなさん、石油ストーブから火が出たら、こうしましょうね!

芸人の道

日本農業新聞で連載中……ではなくて、連載していた島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」。そう、すでに去年の秋には連載が終わっていたのでした。そして気の早いことに連載中に文庫本の上巻が出て、連載が終わるやいなや、下巻も発売されていたのでした。さすが、佐賀のがばいばあちゃんスペシャルな早業。

私のブログではアップするのが遅れて、今回はやっと芸人の道に踏み出したところ。

この連載がはじまる前に担当さんから「文中に出てくるセリフを挿絵の中に入れて欲しい」というリクエストがありました。ホイホイと言うことを聞いておりましたが、物語が少年時代を経て、芸人の道に入ると、当然芸人の似顔絵の横にセリフを書く必要も出て来ます。そんな時にちょっと気になるのが、芸人を描かせたら右に出るもののいない名人イラストレーター峰岸達さんの絵に似てしまうんじゃないかな〜ということでした。

先に白状しておきましょう。なんか似てたらスミマセン。
しかも洋七さんの物語には、当然、峰岸さんの大傑作、小林信彦著「天才伝説 横山やすし」の挿絵で何度も描かれているヤッさんも登場します。
しかし比べるのが失礼というもの。
似ちゃったらどうしようかなと気にしながら描いている絵と、自分を大爆発させながら描いている絵とでは自ずと輝きが違います。
以前、峰岸さんと話しているときにこんなことをおっしゃてました。「モノマネの芸人でもさ、森進一のモノマネって、みんなやり方が似てるじゃない。あれは人がやってるモノマネを見て、自分もコツを掴むんだよね」と。
そうなんです。私も峰岸さんの絵を真似してコツをつかもうとしている。そんなことにしておいてください。
 ちょうど昨日が千秋楽やったみたいで、その日は、昨日とは違うラインナップやった。人生幸朗・生恵幸子さんのぼやき漫才でまた笑いころげた。小森さんちに帰って、会社から帰ってきた先輩にもう一回言うてみた。「先輩、俺やっぱり漫才師になりたい」
 ギターのチューニングをしていた可朝さんに、富井さんが俺を紹介してくれた。「この子、徳永くん。今日から『うめだ花月』に入ってもらうことにしたわ」「ほう、そうか。まだ若いんやろ? お笑いやりたんか?」 俺はガチガチに緊張しながら答えた。「はい、漫才師になりたいです」「ほうか。大変やけど、おもろい世界やで」 可朝さんのこの言葉を理解するには、それほど時間はかからんかった。
 電話にはお母さんが出たようで、りっちゃんは、大阪でアパートを借りたことや繊維問 屋に勤めたという近況を報告していた。お母さんは、ひとまず安心したようで、俺もほっとした。そんな俺にりっちゃんが受話 器を差し出した。「お母さんが、代われって」
 
2,3日したら、りっちゃんの家からやたらでかい荷物が届いた。包みを開けたら、ふかふかの布団が2組入ってた。お母さんがお父さんにりっちゃんの居場所が分かったことを言うたら、お父さんが「布団だけ送れ!」と怒鳴ったんやそうや。
 進行係の仕事にも慣れてきた頃、俺もそろそろ師匠につきたいと思うようになった。「誰がええかな。やすし師匠は怖そうやし、仁鶴師匠は落語やし……。そや! 島田洋之介・ 今喜多代師匠やったら優しそうやしええかもしれん」と、今思えば短絡的で失礼な判断やな(笑)。
「そや!ええこと思いついた!」俺は急な坂を一気に駆け下り、たばこ屋のおばちゃんに紙とペンを渡して代筆を頼み込んだ。おばちゃんは「何かよう分からんけど」とか言いながらも、俺の実家の住所と電話番号と「漫才師になることを承諾します」と書いてくれたんや。たった2万円やけど、去年の夏に藤本商店を辞めてから、初めて稼いだ金や。しかもこの金は。漫才師としての一歩を踏み出したというや。そう思うと、たまらん気持ちがこみ上げてきて、ボロボロ涙が止まらんかった。
俺らが初舞台と知ったルーキー新一さんは、10日間の寄席の間、舞台での姿勢やら、突っ込みのタイミング、ネタの振り方とか、細かいとこまであれこれアドバイスしてくれた。その一つ一つがものすごく勉強になったし、ルーキーさんの「君らは伸びるぞ」と言うてくれはった言葉が、大きな自信になった。「お勘定!」と、懐から分厚い財布を出して、さっと支払いを済ます豆吉さんが、これまたかっこいいんよ。豆吉さんには毎晩のように、すき焼きをごちそうしてもろた。ところが千秋楽の日、雷門助六師匠の怒鳴り声が楽屋に鳴り響いた。

進行係の頃はまだ給料はあったけど、漫才の修業だけになると、収入はほとんどない。当時はりっちゃんの月4万円の給料だけが頼りの綱やった。何にも食うもんがなくて、寛平と2人でマヨネーズとケチャップをちゅうちゅうと吸ったこともあったよ。

舞台が終わった後、座席をぐるっとひと回りすると、封がされたままのお菓子や折り詰め弁当、パンが結構残ってたんや。食べ物を見つけると、まず清掃係のおばちゃんに見せに行く。「おばちゃん、これ食べられるかな?」するとおばちゃんは、くんくんと匂いをかいで、ジャッジしてくれる。

 ある日、俺と寛平が、楽屋でいつものように緑色のおかゆを食べていると、新喜劇で「くっさー、えげつなー」のギャグでおなじみの奥目の八ちゃんこと、岡八郎さんが入ってきた。「何、食うてんの?うまそうやな」俺は芸名を書いてもらうために、美術部の部屋を訪ねた。そこで「めくり」の担当の人につい言うてしもたんや。「芸名は団順一・島田洋七です。それから上に『B&B』って入れてください」「B&B?何や、それ」「お前の名前の上についてるB何とかって、あれ、何や?」「いや、実は宣伝部の人から、同じ一門やないし、名前がばらばらで分かりにくいと言われまして……。二人で何とかというコンビ名があった方がええんちゃうかということになりまして……」「分かりやすいのか、あれは。何の意味があるんや?」「はい。B&Bは、ボーイ&ボーイという意味です」苦しまぎれのでまかせやった。
 舞台の“トリ”は笑福亭仁鶴師匠。「お疲れ様でした!」と師匠を送った後、いつものように「また明日な」と萩原芳樹くんと別れた。それが彼と交わした最後の言葉になるとは、このときは思いもよらんかったよ。なんと、次の日の舞台の時間になっても萩原くんは劇場におらん。
萩原くんがいなくなって、ちょっとの間は落ち込んでいた俺やけど、師匠をはじめ、いろんな人に相方を探していると伝えていた。そしたら、松竹芸能から吉本に移籍してきた上方真一というやつが、俺とコンビを組みたいと言うてるらしい。上方真一は、後に西川のりおと「西川のりお・上方よしお」でコンビを組むことになる。
 いよいよ予定日を迎えた。俺は一人でいるのが落ち着かんかって、ボタンさんにご飯連れてってもろた後、ボタンさんの行きつけのスナックで待機することにした。そわそわしながら酒を飲んでいたら、りっちゃんのお母さんから電話が入った。「生まれた!女の子や!」あるとき、桂文珍さんにも聞かれた。「お前、若いのにクーラー買うたらしいな。ちょっと見せてくれ」あるときトラックを運転してたら、再放送やったんやろな。ラジオからB&Bの漫才が流れてきたんや。「これ俺やん?俺、今、バイトしてるっちゅうねん!」とツッコミながら大笑いしたことあるよ。
 「ばあちゃん、なんで俺だけこんなについてないと? ちっちゃい頃から、かあちゃんと離れて寂しかった。野球も頑張ったのにあかんかった。漫才師で頑張ろうと思たのに……。なんでや!なんで俺だけ、こんなんなんや。もう辞めたい」「分かった」「何が、分かったと?」「お前の気持ちはよう分かったから、よかと。電話代がもったいないから切るよ」ガチャン。ツー、ツー、ツー。コンビ解消のショックとばあちゃんへ八つ当たりした後悔の気持ちで、落ち込んだまま数日が過ぎていった。そんなある日、ばあちゃんから手紙が届いた。「昭広へ この間は電話をくれたのに、すぐに切ってしまってごめんね」
師匠のお供で花月に行ったとき、当時は桂三枝という名前だった文枝さんが声を掛けてくれはった。「コンビ解消したらしいな」「はい、相方探してます」「そうか、あいつ、どうや?」文枝さんが指したのは、進行係をやっていた藤井健次という男やった。
 「漫才の方がええで。2人でやれるし、楽しいって。芝居は大変やぞ。売れるかどうかも分からんし。でも、漫才やったら、俺ちょっとやってたし、自信あるねん。なんやったら、俺が1人でしゃべるし、黙ってうなずいてくれてるだけでもええから、大丈夫やって」有川さんと授賞式の打ち合わせをしているときにぽろっと、嫁さんと子どもがいることを打ち明けたんよ。「それ、いただき!」指をぱちんと鳴らした有川さん。授賞式には当然、島田洋之助師匠も来る。そこで師匠に打ち明けて、その場にりっちゃんと尚美を呼ぼうということになった。
洋之介師匠は、驚きながらも、「何で、今まで黙ってたんや。嫁はおるわ、子どもまでいるわ。でも、よかった。よう言うてくれた」と、涙を浮かべて俺の肩を抱いてくれた。大きく目を見開いて、怒ったような顔をしてた今喜多代師匠は、「もう!何よ、何も知らなかったわよ!早く言いなさいよ、もう」と、笑顔になった。
当時、うちの師匠と並んで大御所といわれてたんは、夢路いとし・喜味こいし師匠。いとし・こいしさんの漫才は、台本通りに隙なく演じるきちっとした芸で、話術の素晴らしさでは群を抜いていた。あるとき、漫談の滝あきらさんが「巡業で師匠にお世話になったから」と、俺に肉をごちそうしてくれると言う。「そうか、滝君、すまんな」と師匠も喜んで送り出してくれた。さあ、どんなビフテキが食えるんやろと楽しみにしてついて行ったところ、なんと牛丼の吉野家(笑)。島田洋之介・今喜多代師匠の弟子はいっぱいいたけど、なかでも有名になったんが、今いくよ・くるよさん、俺、そして島田紳助やった。
 あるとき、そんな俺らを見ていた横山やすし師匠が俺に声を掛けた。「おい。洋七。お前、ちょっとこっち来い」「なんですか?」「失敗しても怒らんでええんや。あいつがうまいことしゃべれへんのやったら、しゃべらんでええ漫才をやれ」
やすし師匠に会ったとき、聞かれた。「あの消防士のネタ、誰が考えたんや?」「俺です。師匠に言われた通り、テンポ上げて、それからいろんな人の漫才の間やスタイルをパクりまくりました」そしたら、やすし師匠、おなじみの人差し指を立てたポーズで言わはった。
 MBS(毎日放送)の「ヤングおー!おー!」は桂三枝さん、笑福亭仁鶴さん、横山やすし・西川きよしさんが司会する若者向けの番組として絶大な人気を誇っていた。番組内で月亭八方さん、桂文珍さん、桂きん枝さん、4代目林家小染さんからなるユニット「ザ・パンダ」はすごい人気で、後に明石家さんまが加入して「SOS」に改名。
※洋七さんも「いろんな人の漫才の間やスタイルをパクリまくりました」と言ってるように、芸事の基本は真似る、真似ぶ、学ぶ……要するにパクリなのだから、峰岸さんと多少似てても許されるだろう。
※「ザ・パンダ」を調べていてわかったが、当時の桂文珍さんは長髪であった。洋七さんの新婚家庭にクーラーを涼みに来た際の文珍さんの髪型を短髪で描いてしまったが、たぶん間違ってると思う。

新年ボンヤリおめでとう

新年あけましておめでとうございます。
人間よりも猫に生まれた方が、過去を引きずったり、未来の心配をしなくていいので、幸せなのではないかと思っています。でも猫にはお正月がない。新しい年が来たらもう一度生まれ変われるような、そんな気分が味わえない。そもそも一年という区切りを必要としないから猫は猫のままに幸せなのでしょうけど。
人間はいつくらいから一年の区切りを発明したのでしょうか。
日本のような四季の違いがはっきりしている土地なら、春夏秋冬が順繰りにやって来る一年の周期はモチロン承知のはず。毎日暑い常夏の土地では、ボーッと生きていたら一年の周期がわからないかもしれませんね。いや、原始人は自然に超敏感だから、周期があるのはわかってたと思いますが、昨日と今日ではっきり年がかわるという区切りは、農耕を始めて暦が作られるようになるまで待たねばならないのでしょう。
新しい年が来ることの何がめでたいのか、猫にはわかりません。
大晦日、除夜の鐘をついていると新年になり、日本人は思いを新たにするのである。 
私は、今年、年男です。イノシシ年生まれのイノです。
平成の最後で西暦でいうと2019年。西暦を導入したのは明治だけど、それ以前はどうやって昔の時代に思いを馳せていたのでしょう。大化の改新645年。それは今から1374年前……って西暦という通し番号があるから脳内タイムマシーンの目盛りを合わせられるけど、元号しかないといったいどれくらい前なのか計算できないじゃありませんか。
何やら干支を使って計算する方法もあるらしいけど、人々にとって過去は、去年、10年前、昔、昔々、大昔というくらいのボンヤリ感覚の中にあったのかもしれません。
それに加えて写真がない時代は、自分のおじいちゃんおばあちゃんが早くに死んでいれば、祖父母の顔がわからない。写真がないなら当然、自分の子どもの時の顔も残っていない。子どもの頃の自分はなんてかわいいんだろうとか、10年前は俺もけっこう肌がツヤツヤしてたな〜なんて感想は出てきません。
自分が今生きているこの時、この場所だけが鮮明で、あとは過去に遡るにしたがい、距離が遠くなるにしたがい、薄ボンヤリしていくのです。そして歳をとって頭もだんだんボンヤリしてきて、やがて時間と空間の中に消えて行くのです。
だから昔の人と今の人は感覚が絶対に違うわけであります。なんてかわいいのだろう。私にこんな時があっただなんて私が信じられない。いくつの時だろう?父親に持ち上げられて悲鳴をあげているのに、両親や祖父母、親戚は笑顔だ。ここは伊勢神宮。初詣かもしれない。伊勢神宮には小学校に上がってからもう一度行った覚えがあるが、覚えがあるだけで覚えてはいない。
今更、無理ですが、そんな昔の人が生きていたボンヤリ感覚の中に生きてみたい。歴史学も発達しておらず、神話が半分本当で、一度別れたらそれっきりかもしれない人間関係、外付けハードディスクは限られた書物や石碑くらい?いや、絵もそうか。絵描きたちも例外なく、与謝蕪村も曾我蕭白も岩佐又兵衛も……この感覚の中で絵を描いていたのです。それは絵にどういった影響があるのでしょう。また逆に、まるで生き写しのような写実的な絵や彫刻の存在感は、今とはかなり違うはずです。
……とかなんとか言いながら、最近は中高年の例に漏れず、年々昔のことに興味がわき、通史の名著として名高いらしい全26巻、中公文庫「日本の歴史」を読み始めた私です。昔の人間が持っていたボンヤリ感覚から自ら遠ざかる行為をしているのです。
狩猟採集民や近代教育を受けていない民に興味をもち、彼らの研究をすることは、彼らと親しく交わりながらも絶対に同一化できない壁を持つことでもあります。研究者ならそれでいいでしょう。
でも、彼らが作り出す絵や陶器や刺繍の面白さに打たれて、自分でも作ってみたいと思う人は、自分が彼らのように生きられないことに絶望を感じるでしょう。
研究しても作れるようにはなれない。ああ、私も自然に帰りたいと。まあ、あきらめるしかありませんよねー。
結局、それもあこがれ。
自分は自分の境遇において、自分だから作れるものを作っていくしかない……なんて、いや、別にこんなことを真剣に悩んでいるわけではなくて、正月早々、ブログの記事を無理やり書いているうちに、拙文の織りなす模様として出て来たどうでもいいことなので、いつものように読み飛ばしてください。
SNS全盛時代、すでにブログというものがあまり書かれなくなった今こそ、ブログを書くべきなのだ!と思って、無理にでも書いているのです。今年も毎週火曜に更新していくのでヨロシク!
東京人はスカイツリーにのぼらない。静岡県人は富士山に登らない。そして三重県人は伊勢神宮に参らない……の禁を破って(ウソね)、たぶん40年ぶりくらいに、お伊勢さんに行ってきました。1月4日のことです。
さっきの幼年時代のお伊勢参り写真も、40年前のお伊勢参りも全然覚えていないので、まるで初体験です(なんだ、記録媒体が進化しても、相変わらず人間はボンヤリしてるじゃないか)。
はじめて知ったのですが「伊勢神宮」は全部で125社あるお宮の総称で、しかも通称のようです。本当の名前は「神宮」。ただの神宮って名前なんだそうですね。
内宮(ないくう)と外宮(げくう)があり、まず外宮にお参りしてから内宮に行くのが順番なんだけど、外宮から内宮までなんと歩いて30分〜40分もある!頑張って歩きましたよ。
その途中に倭姫宮(やまとひめのみや)という神社があり、そこに「神宮徴古館」という伊勢神宮の博物館があるのですが、そこは4、5人しかお客さんがいなかった。穴場ですね。ぜひ訪れてください。
神宮徴古館はこんな建物です。ネットの写真より。
普通に歩くより、美術館、博物館を見物する方が疲れます。なんででしょう。頭も使うからかな。神宮徴古館を見終わった時、年老いた両親はかなり疲れ果てていました。しかし、内宮まで道半ば。歩いてこそ昔のお伊勢参りを実感できるというもの。頑張ろう!
で、やっとの事で内宮に着くと、人、人、人の人の海。外宮と内宮の間の道にはそんなに人がいなかったのに。
つまり内宮だけにお参りする人がほとんどというわけです。
また今度はお正月じゃない時に行ってみよう。
おかげ横丁は前に進むのも困難。
子どもは信心が薄いので早く疲れる。
天照大神の御光が参拝者に降りそそぐ。
内宮の正宮。階段より先は撮影禁止。
みんながありがたく触るので色が変わった木。写っている人は知らない人。
こういう建物はなんと呼ぶのでしょうか?
さて、無事お伊勢参りも済ませ、近鉄で津の町に帰ってきて、うなぎを食べました。
お店は「はし家」さんです。この写真は「上うなぎ丼」です。2340円。お酒とう巻きは別だけど、東京では信じられない値段でしょう?津は昔、うなぎの養殖が盛んで、鰻屋さんが多くて、名物なのです。
翌日、5日の朝日新聞で林望さんが「カリカリ鰻」と題したエッセイを書いていました。
内容をかいつまむと、鰻の蒲焼きには東京風(白焼きにしてから蒸す。ふんわりとした口当たり)と上方風(直焼きで焼き込む。はじっこあたりがカリカリしてる)の2種類ある。ところが最近は、東京は当然のこととして、大阪神戸といった上方でさえも東京風の蒲焼を出す店が増えて、上方風蒲焼を口にする機会が減った。非常に残念なことだと嘆いていたところ、名古屋でやっとこ上方風のカリカリっと焼き上げた鰻に出会い、口福を得た。そんな内容でした。
林望先生にお伝えしたい。津には鰻屋が20軒以上ありますが、どのお店も上方風です。食べにきてください!
逆に私は上方風しか食べたことがない両親に一度、東京風の口の中でとろけるような蒲焼を食べさせてあげたいと思っていますが。
はい、宣伝をば。
1月10日から原宿ビームスではじまる『エンケン大博覧会』に私の絵も飾られることになりました。年明けにご連絡いただいて、急遽って感じですが、エンケンさんの大ファンである私としてはめちゃ光栄なことです。
エンケンさんが亡くなった時、どうしても自分の文章でエンケンさんのことを書かないと先に進めない気がして、ブログに書きました。その時に描いた絵を展示します。よかったら見にきてね!

三角関係カミ体験

また先週ブログをサボってしまった。記憶では今年は3、4 回サボった気がする。ちょうど12月16日で大徳寺真珠庵の襖絵公開が終わるので、ご挨拶に京都に行き、さらに足を伸ばして奈良まで行って、興福寺を見学し、かねてから「いつかは行かねばならぬ……」と思っていた春日若宮おん祭を2日に渡って体験してきたので、火曜に東京には戻ってきたが、ヘトヘトすぎてブログを更新する気力は残っていなかった。
興福寺は来年、ある仕事で描くことになっているので、取材のつもりで見学してきた。建物のスケール感もそうだが、興福寺の周りはけっこう高低差がある土地なので、まずはそれを見たかった。もちろん阿修羅像はじめ数々のハイレベルな仏像がズラリと並ぶ国宝館とか、今年の秋に完成した天平の威風堂々、中金堂とかも見た。
やはり一度でも見ておくことは大事だ。例えば、この漫画の一コマは、芸術新潮の運慶特集に描いたもので、猿沢池から高台に建つ興福寺を見上げているところだが、今見ると、建物の並びや向きがめちゃくちゃで恥ずかしい。実際は興福寺はもう少し高いところにある。ま、こういうことがないためにも百聞は一見にしかず。(興福寺は小学生の時に社会見学か修学旅行で行っているような気がするのだけど、全然覚えていない。)
春日若宮おん祭は、2年前のちょうど今頃、これまた芸術新潮にルポ漫画を描いていた。でも、実はルポしないで描いたのだった。本当は芝崎みゆきさんが取材して漫画に描く予定だったのだが、なんと取材最終日に右肩を骨折し、困りに困ったった編集部から、空いててよかったコンビニエンス・イラストレーターの私に電話がかかってきたのであった。
詳しいことは以下リンク先のブログ記事を読んでください。(芝崎さんになり変わって私が漫画を描く、つまりこの漫画は、芝崎菩薩を本地とする伊野権現という本地垂迹ルポ漫画なのです!……はい、なんのこっちゃわからん人はスルーしてくださいネ)
もともと春日大社の春日若宮おん祭は、隣接する興福寺がはじめたお祭りであった。大和国を実質支配していた興福寺、そして神仏習合を経ての春日大社との関わり合い……ま、よく知らないまま、くわしいことを語るとボロが出るので、まだ勉強中ということにしてひとまず置いておこう。
「オトナの一休さん」初代プロデューサーのカクノさんが、現在、転勤で奈良に住んでいて、ここ3年くらいは毎年春日若宮おん祭に張り付いて見ていらっしゃる。「是非、今のうちに奈良においでください」というお誘いもあって(今年はカクノさんとは「歴史秘話ヒストリア」の神仏習合の回を一緒にやって、春日大社の絵も描いたし)、そんなこんなで私にとって春日若宮おん祭は、いつかは行かねばならぬ祭りなのでありました。この時期はモロに年末進行の時期なのだけど、今年はなぜかヒマだったので、これも神の思し召しと思いたち……。
(写真は華やかな行列の参加者たちが奈良県庁の前に集合しているところをパチリ)
春日若宮おん祭の中心は、春日若宮の神様が午前零時に若宮神社からお旅所という場所に出て来られ、そこから24時間にわたって、芸能などを神様に楽しんでもらい、その日の午前零時にまたお住まいの若宮神社にお戻りになるまでの時間である。
その前後を含めると4日くらいお祭りの期間がある。
すべてのお祭りも本来はそうなのかもしれないが、春日若宮おん祭を見るということは、つまりは神様のために捧げるお祭りを、我々が横から見させてもらっているということだ。
聞いたところによると、先の大戦中のある年の「お旅所祭」は無灯火で真っ暗な中、祭を行ったとか。まさに神のみぞ見るである。
(マンガは、おん祭のもっとも重要な「遷幸の儀」の様子。若宮様を本殿よりお旅所へと深夜お遷しする行事で、古来より神秘とされている。闇の中を炎の道が作られ、その後をヲーヲーヲーという声を出す集団が続く。いっさいの明かりは消さなければならず、撮影も許されてはいない。なので実際に行った人にしかわからない。今年の遷幸の儀はザーザーぶりの雨だった!)ここがお旅所である。写真が前後したが、遷幸の儀が深夜にあり、翌日華やかな行列や流鏑馬などがあり、そのあとお旅所で芸能が奉納される。写真は神楽の様子。芸能奉納はぶっ続けで8時間くらいあり、それが終わるとまた深夜に若宮様を本殿にお送りする。見学者は寒く、ひもじい思いもしなければならない。しかしせっかく神様とご一緒できるのであるから……。
芸能がくりひろげられる一段高くなった土俵ほどの大きさの「芝舞台」は「芝居」の語源にもなっている。つまり芝居はメイドイン春日大社なのだ。
春日若宮おん祭は濃厚にカミの存在が感じられ、カミは清いと同時に怖いという気分にさせてくれる。
祭りは人間が神様に捧げるために行うのだが、その結果として我々人間もまた、豊かな時間と楽しみを得られるのである。
人間が人間を喜ばすためにやってるのが、神様を信じなくなった近代以降の芸能や芸術だけど、人間と人間の間に神様の存在が入る三角関係が私にはとても新鮮だった。900年近くほぼ途切れることなく、昔のままの形で続いてきたお祭りだから、私のような一見さんにも、神様と人間で作る三角関係が感じられたのだと思う。
絵一つとっても、中世以前の作物はやっぱり神様仏様抜きにしては語れない部分は大きい。だが今、我々が神仏を昔の人と同様に語ることは不可能と言ってもいいだろう。でも、それを追体験できるのが春日若宮おん祭であった。
まことに稀有なお祭りです。ところが奈良県以外の人にはいまいち知られていないという……。

で、芸術新潮で見ないで描いたルポ漫画ですが、実際にこの目で見た後で、我ながらすごくよく描けてる!と思った。
これはひとえに芝崎みゆきさんの感受性と構成力の賜物です。あと、編集部の丁寧な説明とカメラマンの取った資料写真のおかげもありますね。こんな順番でおん祭を見る人も私だけでしょう。
この話を枕にふって、違うことを書く予定だったけど、結構量が増えてしまったので、今週はこれでおしまい。そして今年はこれでおしまい。
みなさま良いお年をお迎えください。

買っておきたい手ぬぐい

年の瀬です。今年のうちにやっておかねばならないことは色々ありますね。

みなさん、芸術新潮12月号をお買い忘れではありませんか?何?まだお買い求めになっていない?それはいけませんね〜。あと10日もすると来月号が出てしまいますから、買うのなら今のうちです。

特集は「これだけは見ておきたい2109年美術展ベスト25」で、来年必見の展覧会の見どころが老舗美術専門誌ならではの切り口で切りそろえられてズラリ並んでおります。……いや、なに、この来年必見の美術展特集というのは「日経おとなのOFF」や「美術の窓」でもやっており、なぜかよく売れる企画らしいのです。三雑誌をそれぞれ見比べて買うのもよろしいが、今年は買うなら絶対「芸術新潮」!

なぜなら私デザインの謹製手ぬぐいがついてくるからじゃ〜!買わなきゃついて来ない。図書館で借りてもついて来ない。多分中古で買ってもついて来ないんじゃない?今、売ってる時に買わないと!

手ぬぐいの絵柄に登場するのは、来年開かれる展覧会の画家や作品たち。「手ぬぐいだから銭湯か温泉に入ってる絵なんてどうです?」と言い出したのは自分なのだけど、いざ下絵を考える段になって、考え改めた。なぜなら、北斎、ベラスケス、ゴッホ、クリムト、バスキア、応挙などを描くときに風呂の設定だと裸にしなきゃいけないわけで、なんだかおっさんやジジイのきたない裸なんて絵柄にしても、販売促進にならないんじゃないかと思ったからです。
それで違う絵柄でラフを出したのだが、「自分で温泉か銭湯って言ってたじゃん!これはボツ!」ということになって、結局裸の親父たちを描きました。銭湯にすると男湯女湯で分けなきゃいけないので構図が作りにくく、露天風呂設定にしました。マルガリータを脱がせるわけにもいないので女子たちは今から入るところ。
クリムトなんてほんと気持ち悪いおっさんなんですから。本人の写真を知らない人は画像検索してください。でも、ホラ、かわいいにゃん?
題材は親父たちの裸であっても、かわいくしなければなりません。2色使えるということだったのですが、迷い迷って10パターンも作ってしまいました。でも、どうもどれもピンと来ず、ようやく11番目に紺と赤の配色にした時、ようやくピン!ときました。 
私はイラストレーターとして仕事がこなかった時期がえらい長いのですが、その理由として考えられるのは、描く世界が「なんか変」なので使いづらいのではないかということです。だから、私は、言いたいことはそのままに、でも世の中にも受け入れられるようになんとかすり寄ろうとしてきたのです。実際どのようにすり寄ってきたかは、あんまり自分でもわかってないんですけど。
で、今回、芸術新潮というメジャー美術誌の手ぬぐいを作って、思ったことは……全然、世の中にすり寄る必要がなかった!この手ぬぐいなんて20年くらい前から描いてる絵の世界と何にも変わっていない!……ということでした。
さて、もう一つお買い忘れではないですか?「ビッグイシュー」のリレーインタビューに出ました。今売ってる号の二つくらい前になってるかもしれませんが、多分バックナンバーも扱っていると思うので、街角で販売者を見つけたら買いましょう。人助けです。子供の頃に読んだ「笠地蔵」を思い出しましょう。一冊買うと350円のうち180円が販売者のホームレスの人の収入になります。
ボブ・ディランの表紙の号には南伸坊さん、エルヴィス・コステロの表紙の号には北尾トロさんのインタビューが載っています。私が載ってるのは野菜号です。

解説「風刺画なんて」

先日まで人形町ヴイジョンズやっていた「風刺画なんて」にお越し下さった方どうもありがとうございました。僕は風刺画がキライなんです。あえて逆説的に言ってるわけではなくて、本当にあんまり好きじゃないんです。日下潤一さんに「今年もやろう」と言われたので半分は仕方なくやっています。だからこの屈折したスタンスを文章にするとこうなるわけです(以下のリンクをクリックすると私の主張が読めるでしょう)。

「風刺画なんて」のチラシの文面

しかし、笑える絵が好きだからと言って「面白い絵を描きましたから見にきてください」というのも企画として引っ掛かりがないので、やはり風刺画という縛りがあった方が、かえってそこからはみ出たものも見えてくるのではないかと思いました。
では、私の出品作を解説付きで振り返っていきましょう。
風刺画の弱点は、登場人物、状況、引用元などを知らないといまいちわからないし、楽しめないということですね。私は普段は絵の解説なんて野暮なことだと思ってますが今回はしますよ。
なぜなら風刺画というのは言葉を絵にしたような絵だし、絵を見ると同時に、絵を読まなくてはいけないからです。私が風刺画がキライな一つの理由は、風刺画は読むものだと思われてるからです。
見ると読むのは何が違うのでしょうか。
「耳なし芳一」
芳一の体に書かれているのはお経ではありません。日本国憲法です。お経のような筆運びで書いたから気づいてなかった人もいたかもしれない。
ご存知のように耳なし芳一は鬼から身を守るために全身くまなくお経を書いたのですが、耳だけ書き忘れた。で、鬼に耳を取られちゃったというお話です。
この祈りを捧げる男は、憲法こそ権力から我が身を守ってくれるものだと信じている。実際、憲法は国家権力の及ぶ範囲を示しているのでその考えは正しい。日本国憲法を書き換えてはいけないお経のように有難がっているところに隙があるのかもしれない。何も書いてない耳を見て微笑む安倍首相。似顔絵の表情から読み取れるものは安倍首相=悪者です。
僕が風刺画がキライな理由の二つ目は、善悪二項対立みたいな感じで描くところ。私は別にサヨクの人を喜ばせるために描きたいわけではない。絵のニュアンスだからあいまいな、あいまいだからこそ考えることもできる、そんな余地が欲しいと思ったのです。だから耳なし芳一を引用したのです。
「百鬼夜行」
百鬼夜行絵巻の一番古いものが大徳寺・真珠庵にあります。我々がイメージする百鬼夜行はこの「真珠庵本」といわれる百鬼夜行絵巻に基づいているようです。真珠庵といえば、そう私が襖絵を描かせてもらった禅寺であり、あの一休さんのゆかりのお寺です。
関西学院大学の西山克先生は日本の妖怪は一休さんが作ったのではないかという説を唱えています。室町時代の飢饉や戦乱でみんなが苦しんでいるときに、足利義政や日野富子は酒飲んで酔っ払って何やってるんだ!っていう皮肉を一休さんは妖怪絵巻に込めたと。一休さん=妖怪プロデューサー説ですね。妖怪というのは水木しげる先生の漫画を見ても、もともと風刺的な存在だったのです。
妖怪絵巻によく出てくる付喪神(つくもがみ)は使われなくなった道具なんかが妖怪に変じたものです。
今はスマホの中に全てのメディア、再生装置、伝達機器が集約されてしまいました。中身だけ抜き取られたCDやレコードや辞書、用済みになった電話たち、売り上げの落ちた本や雑誌が妖怪変化して、スマホ人間(私もほぼ寝床でこのような状態)を襲う!
妖怪絵巻の最後は朝日が昇ってきて、その光に妖怪たちはやられちゃうのですが、私の絵の妖怪たちはスマホの光にやられちゃっています。この絵などは特に言葉や解説なしでもわかると思うのですが、風刺画としてはやや平和でしょうか。
「世相風刺2018」
”いわゆる風刺画”だと思います。
実をいえばこの絵は流行語大賞でおなじみの「現代用語の基礎知識」に描いた世相風刺画なのです。モノクロだったのでカラーで展覧会用に描き直しました。

「世相2018 #山根明会長 #男、山根 #内田正人監督 #尾畠春夫 #スーパーボランティア」

「世相2018   #米朝首脳会談 #ドナルド・トランプ #金正恩 #文在寅 #安倍晋三 #殺人猛暑」「世相2018  #赤坂自民亭 #竹下亘総務会長 #西日本豪雨 #シャンシャン」

「世相2018     #松山刑務所脱走   #平尾龍磨容疑(27)    #富田林署脱走 #樋田淳也容疑者(30)  #最高の想い出ができました #チコちゃんに叱られる!」
私は世の中のことを憂い、正面切って強い意見を言うタイプではないです。斜めに受け流すし、自分のことは放っておいてほしいタイプ。でも言いたいことがないと絵でもなんでも表現に力が込められない。風刺画のキライな三つ目の点は、言いたいことがないのに、言わなきゃいけないこと。
でも仕事だから描かなくちゃいけない。それもできるなら楽しんで。編集部から送られてきた今年の事件や発言を読んでるうちに、ポンポンポンとアイデアが浮かんできました。この辺が「born to be風刺画家」ですね(自分で言うなって)。一つの絵の中に無関係なものを入れて、その中で関連づけると、何かしら深いカンジと無意味さが漂うのではないかと思った次第です。このシリーズはセリフもあるし、言葉で説明しちゃってるので、わかりやすいと思います。
「二度とは戻れない夜」
なんども言ってますが、政治家の顔とか、仕事でもなければ描く気はしません。
でも相撲のことは絵に描きたい。好きだから。
大相撲は良いとこも悪いとこもひっくるめて存在を愛しています。
貴乃花親方の発言、行動は日馬富士を引退に追い込んでしまったので、個人的には憎さはあります。日本人でもなくモンゴル人でもなく宇宙人のような貴乃花の相撲道、貴乃花のブログに綴る妙に個性的な文章、変だなと思って楽しんでました。
でもさ、辞めてどうすんのさ。ファンもアンチも心配してると思う。これからの元貴乃花親方を。
「何でもないようなことが幸せだったと思う。何でもない夜のこと、二度とは戻れない夜」という歌詞が後ろのモニターに出ているのですが、これはTHE 虎舞竜の「ロード」の歌詞です。この絵を描いてるうちに私の脳内でリフレインしていました。
あの夜に戻って欲しい。できるならあの夜からやり直して欲しい。日馬富士も貴乃花もいる大相撲を見たかった。でもそれはもう叶わない夢なのです。
これが風刺画かって……そんなことはどうでもいいじゃないですか!
「カルロスゴーン講演会 a.k.a. 説教強盗」
これはオマケです。風刺画のキライな点その四、すぐに古くなってしまう。展覧会の開かれる前日だったかにゴーンの悪事が明るみに出ました。風刺画は時事ネタなのでおかげで飾ってある絵の鮮度が落ちてしまいました。それでオープニングの日にカルロスゴーン大喜利なるものが急遽開かれたので、そのために描いたものです。
カルロスゴーンの講演会といえば、そりゃビジネスパーソンだったら必見ものだったでしょう。しかし今となってみれば泥棒の説教を聞いていたわけです。昭和初期、泥棒に入った先で住人に「戸締りをきちんとしなきゃダメだぞ」などと説教する「説教強盗」なるものが出没しました。ま、そういうことです。
と、いろいろ野暮に野暮を重ねてご説明申し上げてきましたが、風刺画でも風刺画でなくてもいいですが、世の中で起こっていることを取り入れて作品を作る、ということはどういうことでしょうか。
現代美術の世界(つまり美術史に名を残すこと、はたまた美術史を書き換えること、はたまた億単位の大金が動くマーケットが背後にあるということ)で勝負しようと思ったら、世の中で起こってることを取り入れて作品を作るのは常套手段でしょう。村上隆さんしかり、会田誠さんしかり、チン↑ポムさんしかり、ダミアンハーストさんしかり、ジェフクーンズさんしかり、バンクシーさんしかり……いわば、現代美術は大掛かりな風刺とも言えるわけで、古い、ダサい、つまらん、面白くない、と言ってる風刺画とそう遠くはない気がします。
私は本当に風刺画はキライですけどね。

一休寺アルバム

お江戸の人形町で開催中の「風刺画なんて」展と、京都の一休寺で開催中の「祖師と肖像」展の準備をしているうちに慌ただしくなって先週はブログを休んでしまいました。今週も休みたいんだけど、毎週更新することだけが取り柄なので、2週連続休むわけにはいきません。仕方なく更新しましょう。一休寺の宝物殿でやっている「祖師と肖像」展。軸装された絵をはじめて見ました。八木米寿堂さんのプロの仕事に感服しました。絵巻物「一休十態」の解説文は芳澤勝弘先生が書いてくださってます。さすが簡潔でお見事!宝物殿の入り口。宝物殿の中。私のニセ頂相の正面にはホンモノの頂相が飾られています。訪れた11月25日は日曜日とあって観光客もピーク。25日は5000人とか!年末の新宿伊勢丹の地下のように混んでました。完全に真っ赤になるのはあと4、5日かかるようですが、緑が残っているのも色数が多くてきれい。昼間は東京と変わらないくらいの気温でしたが朝晩の冷え込みはやはり京都。息が白かったです。開門前の誰もいない時にパチリ。25日の夜はJR東海の会員限定トークショーもありました。芳澤先生は別冊太陽「一休」の監修もしておられます。この写真は別冊太陽のツイッターより無断拝借してきました。この場でご報告申し上げます。私と一緒に写っているのはトークショーにも登壇された人形作家の北野深雪(moga)さん。右はかわいい一休さんですが、左のオヤジたちは誰あろう、禅のスーパー高僧、大燈国師と虚堂智愚和尚です。一つ一つが手作りで手描きです。特に大燈国師と虚堂智愚和尚の表情がバツグンです。私の描いた肖像画よりはるかにいいです。禅を好きな人、特に臨済宗大徳寺派なら持ってなきゃダメっすよ。

トークショーでは芳澤先生に過分なお言葉をいただきました。それは先生がトークの進行もされてて、私の絵を褒めて一休さんと一休寺と禅を盛り上げようという立場だったのでね(笑)。で先生が褒めてくれた内容ですが、一緒にトークに登壇した副住職田邊宗弘さんの解説によると、こんな内容でした(忘れたわけではないが私はスラスラ禅の事が話せないので)。

「これはいわゆる乞食大燈とよばれるものです。禅宗では聖胎長養や悟後の修行といって悟った後の修行が重要とされます。
大燈国師は大応国師より法を授けられた後、20年は世に出るなときつく言われたようです。五条大橋のふもとで乞食の恰好をし生活をしておりました。大燈国師の書物をまとめられた時もこのことは書かれなかったようです。大本山の威厳に関わるからでしょうかこのことに憤慨した一休禅師はこのように詩をのこしています。
風飡水宿 人の記するなし

江戸時代の白隠禅師はこの乞食大燈をよく描かれていますがこのように大燈国師を評価したのは一休禅師と白隠禅師しかいませんでした。その流れでいうとこの伊野さんの乞食大燈の頂相は歴史的にもものすごい快挙なのではないでしょうか。

大燈国師を乞食大燈として評価したのは一休禅師と白隠禅師と伊野孝行 この3人だけです。」

ま、私は芳澤先生に教えを乞うて描いただけなんですけどね(笑)。

北野深雪(moga)さんの人形をポケットに入れるお茶目ダンディな芳澤先生。今度一休の入門書を書かれるとのこと。一休寺限定勧進色紙(売り上げの3割はお寺の改修費用などに回されます)の販売会もやってきました。21枚持って行って25日26日で17枚売れました。あと4枚残っています。さあ皆さん慈善事業だと思って買いましょう。そして買ってくださったみなさま、誠にありがとうございます!

1日に何千人来ても、みんなお寺と紅葉を楽しみに来てるんで、ほとんどの人は僕の絵なんて興味ないんですよ。

当たり前のことだと思いますけどね。僕はわざと部屋の外で待ってました。みんな一応見に来るじゃないですか、何が置いてあるんだろうと思って。そこに作者本人がいると思わないから、みんな思い思いのことつぶやいたり。そんで後ろから「これ僕が描いてるんですよ」って声かけて驚かせたり。ギャラリーでやるのとは全然違いますね。「オトナの一休さん」を偶然見たことあるって人は結構いました。さすがNHK。あと大徳寺の襖絵も見て来たよっていう人もいらしゃった。さすが京都。

一休寺で落語会などもやっておられる歴史落語家の笑福亭笑利さんにも買っていただきました。この写真は笑福亭笑利さんのツイッターより無断拝借してきました。お許しください。

「雀はかわいいなー」

「迷妄」

「一休と地獄太夫〜正月は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし〜」

「一休独唱」

「何似生!(どんなもんじゃ)」

「ダンス ウィズ ガイコツ」

「昨日は俗人今日は僧 いい加減に生きてきた」

「天地逆転大喝!」

「新右衛門どのと一献」

「ワシによく似た虎」

「一休と森女」

「五条大橋の下で」

「喝!」

「一休と踊ろう!」

「一休み、一休み」

「一休と骸骨」

「クソとお経〜オトナの一休さん第1則より〜」

「破れ寺で修行」

「ちょいとそこ行くお姉さん」

「そうだ京都、行こう。」

「風狂の狂客 狂風を起こす」

以上が一休寺限定勧進色紙です。ナンバープレート「193」の一台限定私の名前入りタクシー。

帰りに駐車場に行ったらたまたま止まってたので、思わず記念写真。もちろんこれに乗って新田辺駅に行き、思い残すことなく東京に帰ってきました。一休寺のみなさま、色紙お買い求めのみなさま、奈良から来てくれた「オトナの一休さん」初代プロデューサーの角野さん、神戸から来てくれた同業者の竹内みかちゃん、JR東海のみなさま、そのほかの皆々様ありがとうございました!

さて、人形町では「風刺画なんて」まさに開催中です。

人形町は江戸の中心部、美味しい老舗がいっぱいあります。表参道界隈のギャラリー巡りとは一味違った鑑賞体験になることは請け合います。レッツゴー!

「風刺画なんて」はここでやっている!

 

「祖師と肖像」スタート!

ただいま京都、京田辺市の酬恩庵・一休寺では「祖師と肖像」展が開催中(〜12月2日)!左から「一休宗純の肖像」「五条大橋の大燈国師」「散髪する虚堂智愚和尚」「一休十態」

これらの掛け軸、巻物は京都の老舗表具屋さん「八木米寿堂」で仕上げられています。掛け軸にするには厚みのない薄い和紙がいいと聞いたので、今回はじめて薄い和紙に挑戦してみました。水を含むと当然ブヨブヨになるので、パリッと水張りしてから描こうと思ったんだけど、薄いからちょっとしたことで破けちゃって、結局断念しました。二つの頂相を色鉛筆で描いたのですが、水を使わないのでブヨブヨにならないから描きやすい、そういう理由もあります。

表具屋さんの紙の扱いはさすがですよね。詳しいレポートはJR東海の「そうだ京都、行こう。」のブログに掲載されています。

「そうだ京都、行こう。」のスタッフブログ↓
ま、私が宣伝しなくても、キャンペーンスポットになれば、観光客の皆さんはたくさんいらっしゃると思います。観光客=参拝者というわけではないので、禅の世界や祖師たちに興味を持っている人がどれくらいるかわかんないですけど、とっかかりとして、展示を見て興味を持ってもらえればいいっすかね。大徳寺系の祖師たちの解説パネル用に描いた似顔絵。
ここで一休寺のおもしろ写真をどうぞ。
一休寺の駐車場の看板。注意散漫に喝!
駅と一休寺を往復するタクシー。ナンバーは「193」。タクシーの車体に名前が刷られる日がくるとは思わなかった。
私は11月25日と26日は一休寺に滞在しております。
ちょうどそのころは紅葉が一番きれいだろうなあ。
ただ行くだけもあれなので、一休寺限定色紙をせっせと描いております。
売り上げの一部はお寺の開山堂の修復事業などに使われます。なにとぞよろしくお願いします。

10年も経っただなんて

今週は特別な週です。ブログを始めてちょうど10年。2008年11月8日に始めました。今、開始当初の記事をさかのぼろうとしたら、左側のタイトルになぜか最初の8回分が表示されません。不具合ですね。このブログは自前なので(友達に作ってもらった)、広告が出ない代わりに、10年も経つと色々不具合が出てきてます。来年にはホームページもブログもリニューアルしたいです。作ったときは最新だったのに、もうかなりガタピシいって懐かしい感じが漂っています。
10周年と言っても特別なことは何もなく、いつも通りの内容です。
今週は11月21日から始まる「風刺画なんて」のお知らせです。
みなさん「風刺画」はお好きですか? ぼくははっきり言ってキライです。だって面白くないし、たいてい絵がつまんないし。きっと風刺画というジャンル自体が日本では終わってるんだと思います。いや、終わったと思われているから、つまらないんでしょう。ちょうど1年前にイラストレーターの仲間と「風刺画ってなに?」という展覧会を開きました。風刺画の概念を疑う展覧会のつもりでした。「こんなの風刺画じゃない」という感想もありました。うれしいです。だっていわゆる「風刺画」なんてぼくはキライだから。でも、毒のある絵は好きですよ、人をおちょくった絵も好きですよ、笑いのある絵が好きなんです。それらの要素がないイラストレーションにはぼくはあまり興味がないかもしれません。我々の仕事の出自を尋ねれば、昔から風刺精神は欠くべからざる魂でした。果たして最近のイラストレーションにそのスピリッツは横溢しているでしょうか。「風刺画なんて……」と言いながらも今年も描いてみます。ホコリ臭くて見向きされないジャンルだからこそ、やってみる意味もあると思うのです。
minami shinbo
ご存知「本人術」シリーズ。このダライ・ラマは使い回しですが、展覧会には新作発表とのこと。お楽しみに!
yoshioka rina
今回のニューカマー。昭和エロ以外でも面白いです。
inunco いぬんこ画伯も今回初参戦。憧れの絵描きが「滑稽新聞」の墨池亭黒坊ってんだから期待は大。

takeuchi mika

竹内さんも初参加。簡単な絵から描き込んだ写実的な絵まで、表現方法を問わないこの展覧会にふさわしい。otaka ikuko

前回は全てフェルメールのモジリでしたが、今回はまた違う趣向も用意されているとか。

shimoda ayumi

あ、はい誰かわかります。大坂なおみですね。

tange kyoko

「とりあえずDM用に描いたけど展覧会には出さないかも」と言ってました。

nakamura takashi

中村さんは悪意のない穏やかな性格ですが、そんな中村さんにしか描けない風刺画だってある。

ninomiya yukiko

昨年は展示に一工夫して楽しませてくれた二宮さん、今年はどんな仕掛けがあるでしょうか。

ino takayuki

この展覧会、なんか僕が仕切ってるように思われるかもしれませんが、仕切りは昨年に続いてデザイン界のJKこと日下潤一さんです。もちろん日下さんも作品を出します。なのに、DMのどこを見ても日下さんの作品がありません。いつもはデザインが出来上がるとみんなに確認のPDFを回してくれるのですが、後ろめたい気持ちがあるからでしょう、今年はこっそり入稿したようです。

※えっと、注意していただきたいのはオープニングパーティーが初日(21日)ではなくて、23日の17時からです。で、23日は15時からトークショーがあります。なんと今回は入場無料(いつもは2000円もとっていた)です!お早めにお申し込みを!

「風刺画なんて」トークショー申し込みはこちらから!

はい、てなわけで見に来てね。

10年前、いやもう少し前だったかもしれませんが、売り込みに行っても全然イラストの仕事がなくて(年に2件ほどしか依頼がなかった)、そのことを誰かの個展のオープニングで、下谷二助さんにボヤいたんです。そしたら下谷さんに「100人イラストレーターがいれば、100通りのイラストレーターのなり方があるからねぇ」と言われたことを覚えています。その時は慰められた気がしてたんですが、今思えばなんと深い言葉でしょうか。プロはプロになる前からプロでなくてはならない。いや、言い方がややこしいけど、プロになる、そのなり方にオリジナルがなければいけない。そいう意味に解釈しています。

僕は11年前にホームページを作り、10年前にブログを毎週火曜に更新することにしました。ブログをはじめて4年目くらいで運良くイラストレーターになれた(バイト辞められた)のですが、ブログを通して自分なりのイラストレーターのかたちを形成、宣伝できたのではないかと思います(自惚れ)。
「自分はこうしてプロになった」という自慢話、いやアドバイス、いやおせっかいは、人の気をそそります。人がそれでうまくいったからといって、自分がそのやり方でうまくいくとは限らない。たぶんうまくいかないでしょう。はははは。