伊野孝行のブログ

オルセー美術館展など

国立新美術館に「オルセー美術館展・ポスト印象派」と「ルーシー・リー展」を観に行った。土曜日でもあったし、雑誌やテレビでも特集されまくっているので、絶対に混む!と思い、開館と同時に入場し、いったん出口まで進んでから、引き返して観る、という方法を実行してみた。

イモ洗い状態で観るのは、本当にご免です。こう言っては何だが、観に来る人の9割は、絵を観に来るわけではなくて、教養を身につけに来ているのだ。それでもいいけど、あのイヤホンガイドみたいなものが、人の流れを余計に渋滞させてしまう。あれは借りたことがないのだが、どんなことを言っているのだろう?かくいう僕も歌舞伎を観に行く時は借りたりする。古典はどうしてもわからない部分があるし…。絵は一瞬でわかるものである。たしかに言われてみて気がつくこともある。でもわからない人は一生その絵の前に立っていても理解出来ないものは理解できない。絵を理解する方法は本を読むより、自分で描いてみることが一番だ。美術館に行って絵の前に立ち、自分の絵がなんてショボイのだろうと、実感すると同時にその絵の素晴らしさを知る、これ以上の理解があるだろうか?

友達たちとは美術館の中で落ち合うことにして、各自行くことした。開館10分前に着いたが、すでに100人くらいの列ができていた。しかし企みは功を奏して、半分くらいはゆっくり観ることができた。奥の部屋から引き返して、ボナール、ルソー、ゴーギャン、ゴッホとゆっくり観ることができた。(下の絵はクリックすると大きく鮮明になります)セザンヌの部屋で人の波に飲み込まれてしまったことが残念。やはりセザンヌは本当に素晴らしい。その後の絵画の進化の元になるものが、すでに塗り込められている。この時代の他の画家の絵には文学性があるけれど、セザンヌはそれを排除して、純粋絵画の詩情のみで勝負を賭けているところがいたく感動的だった。ゴッホやゴーギャン、ルソー、ボナールも良かったがベルナール(ゴッホとゴーギャンの共通の友人)という人の絵もたくさん来ていた。ベルナールの「象徴的な自画像(幻視)」という作品がかなりおかしく「これは変だ!」「ポストカード買おう」と友人達と盛り上がっていたが、案の定、ポストカードにはなっていなかった。ベルナールの中でも異質な作品だと思う。ネットで画像を探してきた。(この絵もクリックすると大きくなります)ゴッホの手紙はベルナール宛のものもたくさん残っている。ベルナールはゴーギャンとは仲違いしてしまったようだが、ゴッホとは終生の友達だった。でも絵はゴーギャンに近い。ゴーギャンとベルナールのまわりに集まった画家たちはポン=タヴェン派と呼ばれている。そう考えるとゴッホは当時から特異な存在であった。120年経った今もゴッホに似た画家はいない。ゴッホとセザンヌは片田舎で孤独に制作し、ゴーギャンはタヒチに渡り孤独に制作した。巨匠たちはある時期から孤独に制作しているのである。僕もツイッターなどでチラチラよそ見するのをやめてドッカと腰を下ろし、絵を描いたほうがいいのではないかと反省してしまった。

同時開催の「ルーシー・リー展」は素晴らしかった。オルセーと違って個人の作品をまとめて観ると、その作品群が作者の死後もメッセージを発し続けているのが、とても実感できる。すっかり見入ってしまった。ルーシー・リーがウエッジウッド社と提携してジャスパーウェア(青地に白の有名なシリーズ)を手がけた試作品があった。結局日の目を見なかったのだが、なんとなくわかるような…。そういうのも観れて面白かった。

おわり。