伊野孝行のブログ

興福寺火事絵巻その4

南 いま展覧会に行くと、人がすごいじゃない。最近は、何かで人気に火がつくと、集まりすぎ。イヤホンつけて、ひとっところにじっと溜まる。あれはなんとかしてほしいな。あれも、ちょっとね。あれ、最初に別室で映像見ながらイヤホンガイドで言ってるようなこと勉強して、それから実物を見るようにしてほしい。
伊野 なんとか混まない工夫をして欲しいですね。美術館は、空いてるのがいいんですから。空いてなければ美術館じゃないっていうか、美術館に行った気がしないというか。以前、阿修羅展に行ったら、阿修羅像のまわりがぐるっと三六〇度ライブハウスみたいにすし詰め状態でした。
編集部 混雑がすごいときは、一時間以上並んだりすることもあるみたいですね。
伊野 動員数のランキングが出たりして、人が来るのがいい展覧会みたいな風潮が最近はありますよね。
 若い人よりも、年配の人のほうが多いんじゃない? オレと同じくらいの(笑)。
伊野 阿修羅展は高齢者のすし詰め状態だったから、ヤバかったっすよ。
(「望星」4月号掲載、南伸坊さんとの対談「絵?好きに見てください」より)
この対談で話題に出した阿修羅展というのは、2009年に東京国立博物館で開催された興福寺の創建1300年記念「国宝・阿修羅展」のことです。マジで具合が悪くなっちゃう人が出ちゃうんじゃないの?という混みようで、国立の博物館の商いって、こんなのでいいのか?って呆れました。
ところがこの展示、とにかくいっぱいお客さんに見てもらわなきゃいけない切実な理由もあったんですね。
さて、NHK「歴史秘話ヒストリア」のために描いた絵を元にお届けしている「興福寺火事絵巻」も今回が最終回。
七転び八起きの7回目の火災です。
奈良時代に建てられた興福寺は、平安から室町にかけて6回焼けて7回建て直しているのですが、意外にも戦国時代は焼けていない。
あーよかった、よかった。確かにそれはよかった。でも戦乱の世が過ぎ、徳川の世になる頃にはすっかり興福寺の威光は衰えていたのです。
7回目の火事が襲ったのはそんな時代。
1717(享保2)年、正月4日、中金堂の背後の講堂に盗賊が忍びこみました。
灯した蝋燭を落として引火。
 「まずい!」
「逃げろッ! 」
講堂の内陣から上がった炎は 、たちまちのうちに中金堂へと燃え広がった。
火付盗賊改の長谷川平蔵?
んなわけない。火消装束に身を包んで駆けつけたのは大和小泉藩の藩士たち!
「あっ!中金堂がッ!!」
「東金堂にも火の粉がかかっておるッ!」
東金堂にかかった火を必死になって止めます。
時代は江戸まで下ったといっても、消防技術はこんなもの。江戸の町の火消たちも燃えそうな家を破壊することによって火事の広がりを防いでいたわけですが、さすがに興福寺をぶっ壊すわけにもいきません。
「なんとか消えたか…」
「いかん!今度は西金堂じゃッ!」
やばいっす、やばいっす。西金堂には阿修羅像もあります。実際に興福寺に行くとわかりますが、中金堂、東金堂、西金堂はけっこう離れてるんですよ。火事の熱風というのは恐ろしいですね。
「手をお貸し下され!」
「承知!」
阿修羅像などの十大弟子像は乾漆造で軽いので、救出は容易です。だから今まで残っているわけですが、今でこそ仏像界のスーパースター阿修羅像も、当時は脇仏の一つに過ぎません。阿修羅よりも大切なのは御本尊。でも御本尊は中が空っぽの乾漆造ではなく、木像なのでとてもじゃないけど持ち出せない。
「残るは御本尊さまだッ」
「ああ、お堂の中に火がッ!」
近所の町人も駆けつけています。
「こんな大きな御像をどうやって!?もう間に合いませぬ!」
「なんとかして、なんとかして、お顔だけでもお助けするのだッ!」
この時に救い出されたのが、運慶のデビュー作だった西金堂仏頭です。これですね。
7回目の火災では中金堂・西金堂・講堂・南円堂などが焼失。鎌倉再建の北円堂・三重塔・ 食堂、そして室町再建の東金堂・五重塔は無事でした。
ところがっすな、興福寺の力は衰えてますから再建は難航します。
当時の将軍は徳川吉宗。享保の改革をはじめ、財政を引き締め出したところ。
なにとぞお力添えを〜と頼んでも、にべもなく断られます。
「ならぬ。寺より財政の立て直しじゃ」
興福寺は藤原氏の氏寺でありますが、藤原の末裔、京都の公家たちも…。
「助けて欲しいんは、まろたちの方や」
幕府も朝廷もあてにできない中、 興福寺は民間から資金を集めるため、当時流行していた「出開帳」を行います。
出開帳とは寺の外に仏像や寺宝を持ち出し、公開して寄付を募ること。
江戸の浅草寺の境内で80日間行ったけれど、集まったお金は再建費用には程遠かった…。
火災から百年以上経って、 ようやく中金堂の基壇の上に仮堂が作られました。 本来の中金堂とは規模も質も違うので「仮堂」ね。
まーったく覚えてないけど、興福寺は小中学校の間に修学旅行か社会見学で行ってるはず。
私はたぶん、この仮堂を見てる気がするんだけど。
で、時代は明治になり、廃仏毀釈で興福寺的にはさらにさらに厳しい状況になります。
天平の栄華を誇った興福寺もついに断絶!
鎌倉時代に建てた食堂も取り壊され、こんなもんあったてしょうがねえだろってことで塀や門も撤去、境内が奈良公園になり、仏像が撤去された仮堂は役場として使われ…。
その後、1881年に「興福寺再興願」が内務省に受理され、14年ぶりに復活。
時は流れて平成に。
2000年に仮堂が解体され、 翌年から発掘調査が始まりました。出てきた礎石66個のうち、なんと!ナント!南都!64個が天平創建当時のものだったのです。
天平の夢をもう一度見たい!!
でも、文化財の修復には国から補助金が出るけど、新しく中金堂を作るのには出ないらしいんっすよ。
つーわけで、このブログの冒頭を思い出してください。
平成の「出開帳」をということに相成りまして、開かれたのが「国宝・阿修羅展」なんですね〜!
そっか、そっか、それなら仕方ないや。我慢しよう。入場券など、わずかばかりのお金ですが、私も中金堂の再建に役立ったわけですね。一昨年やってた「運慶展」も見にいったな。そこでも少し貢献してたわけだ。
ついに去年、興福寺は七転び八起きして中金堂は完成!
9年前に「阿修羅展」を見にいった時は、興福寺は名前くらいしか知らなかった。修学旅行で行ったかなぁ?程度。そんな私が興福寺の火事絵巻を描くことになるとはねぇ。明日の天気はわからない。人生、先のことを考えるのはやめよう。
ちなみに阿修羅像がふだん展示されている興福寺の「国宝館」は空いててすんごく見やすいですよ。オススメ〜。(完)