お問い合わせは 03-3324-7949

メールソフト起動

伊野孝行のブログ

わたしと街の物語②

さて、今週もひきつづき、展示の宣伝でございます。今回の「わたしと街の物語」という展示の新しい趣向の一つに作文を書くというのがありました。絵を描く前にまずは作文。

最初、僕はこのテーマに関しては、絵よりも作文のほうが書きたかった。文章で言いたいことが、そのまま絵で表したいことになるかというとまたちがう。

文章にべったりの挿絵として絵を描くという方法もあると思う。でも全部そうなっちゃうとおもしろくないし、離しすぎるとワケがわからなくなってしまうおそれもある(テキストからポンと離れたところにあってイメージをさらに膨らませるのが理想)。このあたりがとても悩ましかった。うまくいってるのかどうか自分でもわからない。

だから、来てくださる人には、冊子になった文章を読んで欲しいなぁ…と願うのです。やっぱり「ゴッホの手紙」を読んだ方がゴッホの絵をより楽しめるじゃん。ね、だから会場で冊子を買って(安い値段にするはずだから)読んでね。

というわけで、見てくれ、読んでくれ、と言っても来てもらわなくちゃ仕方ないから、作文の最初のさわりを載せてみよう。絵は展示作品の「部分」です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ぼくの神保町物語」

本来なら就職活動に精を出すべき大学四年の六月、ぼくは神保町をぶらついていた。「アルバイト募集中 K珈琲店」の貼り紙をたまたま見つけて、ふいにバイトでもしようかという気になり、店にとびこんだ。
面接が終わった後でオーナーにこう言われた。
「どうして、あなたを採用したかわかりますか?嘘をつかなさそうだからです」
すぐ顔に出るタイプなので当たっている。さて、それはさておき、そのころぼくは長年あたため続けていた嘘にどうやってケリをつけるかで迷っていた。
実は、小さいときからずっと絵を描くことを仕事にできればいいだろうなと空想していたのだが、美大を目指すこともなく最初からあきらめていた。できっこない、できっこない。会社員になって趣味でやっていくのが分相応だろう…。
…いや、しかし一度も勝負しないで人生を終えるのはアホだな!
数ヶ月悩んだのち、ついにそう決心して十月には就職活動をやめてしまった。オーナーに告げると「もったいないことをするね〜」
とびっくりしていた。嘘をつかないというのは何もこのことを言いあてたわけではないが、自分としてはようやくまともに人生をはじめることができた気分であった。
子どもの頃から、絵は得意なつもりだったが、いざとなると何からはじめていいかわからない。イラストレーターか漫画家になりたかった。イラストレーターを多数輩出しているセツ・モードセミナーという学校がよさそうに思えた。月謝が安い上に入学試験もない。友だちも欲しかった。昼間はセツに通い、夜はバイト。学校のない日は一日バイトという生活がはじまった。
正直に行動するというのは実にいい。毎日にハリが出る。おかげでフリーターというのも不安どころか楽しい日々だった。
しかし人生はそう甘くはない。K珈琲店で働きながら四十一歳で辞めるまで実に十九年ものあいだ下積み生活をおくることになるのだ。これがぼくの神保町物語のはじまりである。
神保町より都営新宿線で三つ目の駅、曙橋にセツ・モードセミナーはある。
校長の長沢節はぼくが入学した時に七十七歳だった。セツ先生がどんな人かよく知らないで入ったのだが、たちまちこの老人の虜になってしまった。長沢節の魅力は会ったことのない人には決してつたわらない。著書も評伝もあるが、それを読んでもわからないと思う。言葉で説明できないからこそ魅力的なのだ。まずはそのことを学んだのだった。
入学してしばらくたって、オウムの地下鉄サリン事件があった。
「教祖はブタみたいだけど、幹部はみんなカッコイイねーっ」
とセツ先生は言っていた。先生はゴツゴツした骨に美を感じる人だった。セツ好みの美少年というのは、顔じゃなくて骨のことだ。
ガリガリだったぼくは愛されて、ますます立派なセツ信者になっていった。
セツ先生はすべての発想が独特だった。自分で考案した「セツパッチ」という細いズボンをはいていた。先生の格好は他の人が真似しても似合うものではない。民族衣装はその民族が着るとものすごくカッコイイように、長沢節という人の一人民族衣装のようだった。
絵描き修行ののっけからそんな人に会ってしまって、ますます自分で考えてものをつくるというのは楽しいことだなと思った。
授業は来る日も来る日も人物クロッキー。実際のモデルを見て描くと、いつもそこには対話があり、発見があるのでとても楽しかった。しかし、月に二回ある水彩タブローの合評会ではいきなり壁にぶち当たっていた。合評会で「A」と評価された作品はロビーに飾られるのだが、ぼくは飾ってある絵を見てもさっぱりわからなかった。そんなわけで当然「A」はもらえない。
セツは「デッサンは絵の基本じゃない。色の構図こそが絵の基本」という教えで、これは純粋絵画から見た分析である。たしかに古今東西すべての傑作絵画は色の構図がキマッているのであった。また、デッサンがめちゃくちゃな絵でも、いいと感じるのはそのせいなのだった。なんとなくこれがわかりかけてくるのに半年かかった。また、これがわかるとこむつかしいことを知らなくてもすべての絵は理解できるのだ。
半年目でやっと「A」をもらった。この半年はすごく長かった。合評会が終わり、いそいで絵の具箱をかたづけて、浮き足立ったまま雨の中をバイトに向かった。
「伊野くん、休憩入って」
と店長に言われて、ロッカールームに傘を取りにいった。絵をこころざして半年、はじめて褒めてもらえたうれしさがまたこみあげてきた。よかった…才能がないわけではないかもしれない。ロッカールームを出て傘のジャンプボタンを押すと、勢よく傘がひらいた。店長やお客さんが目を丸くしている。お店の中で傘をさしてしまったのだ。
バイト先ではまかないがなかったので食事は外の店でとる。とんかつの「いもや」に入った。いつもは七百円のロースかつ定食だが「A」をもらった日は九百円のヒレかつ定食を食べていいことにした。(今思うと、とんかつはロースこそうまいのだが…)その後、頻繁に「A」をもらえるようになったのでこの制度はやめた。

週に五日も働くようになると、平のアルバイトから珈琲を入れる係に昇格した。時給も二百円あがる。うちの店は当時、一杯七百円もする高級店だった。池波正太郎もよく来ていたようで日記にも出てくる。二ヶ月ほど練習をしてから、実際にお客さんに珈琲を出すようになるのだが、最初は自分のいれたコーヒーに七百円の価値があるとは思えなくて詐欺をはたらいているような気がしたものだ。
何者にもなっていないただの男は、せめて珈琲の味は一人前になりたいと思った。はじめて職業意識というものがめばえた。
池波正太郎の本、とくにエッセイはくり返し読んだ。池波正太郎の書くものには、アルバイトにおいてとかくゆるみがちになる精神をひきしめてくれる効果がある。影響をうけやすいので、ハマっているときはキビキビと働く。どんな境遇にいても真人間でありたいと思う。しかし自分の中の池波ブームが過ぎ去ると、また元に戻ってしまうのであった。


…ハイ、ちょうど時間となりました♪…とまぁ、このへんでやめとこう。この時期は毎日たのしいだけだった。後々プライドもクソも捨てて耐え忍ばなければならないハメになる。でも、たいしたことじゃない、よくある話だと思う。でもよくある話にしろ、鏡の中をのぞくような作業を通じて、個人的な体験を他人様に楽しんでもらうような作品にしあげることが、今回の芸の問われるところだと思っています。それに何も自分の話ばかりをしているのではないですよ〜。これは「わたしと街の物語」でありますから。19年間神保町にいた珈琲ボーイから見た、街の移り変わりも主要なテーマなのでありました。つづきは会場に来て、見てね〜ン。読んでね〜ン。

さ、展示は来週9月23日(水)から。シルバーウィークの最終日がオープニングだ。トークショーも受付中〜。Vision’s presents The Illustrator’s Gallery Vol.3 わたしと街の物語その1 伊野孝行+大河原健太「神保町とロンドン」