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伊野孝行のブログ

タイに行きたい

大学の美術部の先輩にOさんという男の人がいた。Oさんはわたしの行っていた五流大学に三浪して入るほどの人物で、万事においてせかせかとあせったりすることがない。浪人中は故郷の鳥取から単身東京に移り住み、毎日自分でお弁当をつくっては映画館に通っていたというから、そんなわけで三浪もしたのだろう。在学中は夏休みになるとすぐさまタイに行き、休みが終わる頃にもどってくる。いつも青白く顔色の悪いOさんも、そのときばかりは日焼けしている。

わたしは彼をまぶしく思っていた。沢木耕太郎の「深夜特急」の登場人物のようではないか。一人で海外に行くなんて、とてもおっかなくって自分にはできない。夏休み中、どこかの国の安宿にとまりながら長く旅をすることが、大人になるためのイニシェーションのように感じられた。
興味津々で聞くわたしに、Oさんは、お茶をすすりながら、むこうで買って来た「ガラム」の甘い煙を鼻から勢いよく出し、ゆったりとした口調で、バックパッカーの旅を話してくれた。年寄りじみた物腰に魅了された。さて、今回の小説現代連載中の岡崎大五さん「世界満腹食べ歩き」はバンコクが舞台である。岡崎さんがまだ20代の頃。岡崎さんも日本でちょっとだけ働いて、長〜く旅をする青年だったが、居心地のいいバンコクでは長く居すぎてお金がつきてしまい、現地の法律事務所に職を求めて、さらに滞在していた頃の話。原稿を読んで、Oさんのことを思い出した。Oさんもバンコクの街に体の半分くらいは溶かされてしまったにちがいない。わたしは結局ビビって一人で海外にでかけることもしなかった。未だに一人じゃ行けない。Oさんは三浪した上に留年もしたので、卒業はわたしと同じになってしまった。現在のOさんは鳥取に戻っておだやかに働いていると聞く。五年に一度くらいは東京にでてくるので会うと、なつかしい老師にあったように気持ちがなごむ。この老師は、たまに鳥取のゆるキャラ「トリピー」の中に入っているらしい。おわり。