伊野孝行のブログ

最近の『笑なん』

日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』略して『笑なん』の最近の挿絵から。

アラタちゃんは、3歳のときの事故が原因で知的障害児になった。

大立ち回りの後の風呂は、最高に気持ちよかった。けど、なんでばあちゃんは怒らんかったのやろ?

しかし、謝ったのはいじめっ子の親だった。

アラタちゃんは、俺が学校に行くときに、よく学校の近くまでついてきた。 門のところで「ここからは入ったらあかん」と言うたら、大きな声で「うん! わかった!」というて帰っていった。

グランドを見渡したら、なぜかアラタちゃんが本部席に座っている。

「アラタ、いくつ?」と、歳を聞かれると「さんじゅう!」と言うてた。

中学の同級生にK田くんという、軽度の知的障害の子がいた。普通にしゃべったり授業は受けれるのやけど、 雨が振ってきたら、それが2時限目でも「雨降ったし、帰る!」と帰ってしまう、ちょっと変わったやつだった。

ばあちゃんに、「水筒ないの?」と聞いたら、「湯たんぽがあるやろ」と言われた。

毎日、減っていく数字を書き換えるのが楽しみな日課になっていたんや。

「うわぁ、汽車や、汽車が走っとっと!」俺の、ひどくびっくりする様子に、友達もえらくびっくりしてしもた(笑)。でも、なんで冬やのに汽車が走るんや?

「ああ、それは貨物列車や。人は乗れん」「違う! 人が乗ってたんや。手を振ったら、ちゃんと返してくれた」「手? それは家畜と間違えたんやろ」ばあちゃん、ああ言えばこう言う(笑)。「毎月五千円を送っていましたが、今月は苦しくて、二千円しか送れません。お母さん、なんとかお願いします」俺の手は手紙を落としそうなほど震え出した。どうしよう……。

少しでも食べる量を減らして、家計の助けをしようと俺は心に決めた。

じいちゃんは、たった50歳で42歳のばあちゃんを置いて亡くなってしまったのだ。末っ子のアラタちゃんは、まだ赤ちゃん。かあちゃんたちもまだ子どもだ。当然、フルタイムで働ける時間もない。それで、始めたのが、何十年も続いた学校の清掃の仕事だったんや。

足の裏にものすごく嫌な感触。気持ち悪い何かを俺は踏んづけた。

「昭広、スッポンは高級ばい。魚屋に売ったらええ金になるとよ」こんな変な顔した亀が売れるなんて、にわかには信じられなかったが、俺たちはスッポンを抱えて、大急ぎで家に走って帰った。

俺はうれしくて、うれしくて、学校に着くやいなや机の上にクレパスを置いた。だけど、一時限目は国語やった(笑)

繁華街と か公園なんかに、街頭テレビが備え付けてあったもんや。 特に相撲と野球のときは、 テレビの前に黒山の人だかりができてたなあ。

池松君が初めて練習にやってきた時、俺たちは度肝を抜か れた。 なんと、池松君は、ぴっかぴかのバットとグローブを持ってきたのだ。

俺は初めて触るキャッチャーミットやベースに、心臓がドキドキした。 テレビでし か見たことのないベースは、想像以上に重くて、手にずっしり。

夏休みに広島のかあちゃんのところに帰ると、 かあちゃんは必ず俺を広島市民球場に、プロ野球の試合を観に連れていってくれた。 偶然にも、家の近所の古い旅館が、広島カープの選手の宿泊先になった。俺は根拠もなく、「必ず選手は出てきてくれるはずや」と確信して、じっと待っていた。

「あの……、僕のかあちゃん、広島で働いているんです。徳永秀子っていうんですけど、会ったことありますか?」

手渡されたんは、なんと広島カープのロゴが入った色紙に書かれたサイン。