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伊野孝行のブログ

新 弘法大師行状絵詞

30代の半ばくらいまでは、挨拶の時に「いい天気ですね〜」とか「雨がよく降りますね〜」などと言うのに抵抗があった。

そんな当たり前のわかりきったことを言いたくない。

しかし最近はその一言をつけ加えるのがむしろ好きだ。当たり前のことを言っているのではなく、それは単なる挨拶の一部だってことに気づいたからである。

近年の夏の「暑いですね〜!」は挨拶でもあるが、わかっているけど黙っていられない心の叫びだけど。

暑い暑い!

先日、寄った京都の東寺も猛烈に暑かった!東寺が暑いのではなく、京都が暑いのだが。とある仕事のために近江八幡と大津に取材に行ったついでに(京都に比べると琵琶湖からの風が気持ちいい)足をのばしてはじめて東寺に寄ってみた。

琵琶湖の南端、大津から京都へはJRでふた駅、時間にしてたったの10分で着く。東寺は京都駅の近くです。「芸術新潮」の去る5月号で東寺の特集があって、私は空海の絵伝を描いたのだ。

せっかくだから空海のお寺、東寺へ行っておかなくてはと思ってね。

空海も密教もうすらボンヤリ知っているだけだった。編集部にレクチャーを受け、北大路欣也主演の『空海』をDVDで鑑賞し、東博で開催されていた「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅」も観た。
↑東博の東寺展で見た帝釈天像
桓武天皇(映画『空海』では丹波哲郎が演じていた)の平安遷都にともない、計画された東寺は京都の数あるお寺の中でも抜群に古い。
以下、うすらボンヤリ知識で書くけど、今と違って、古代において仏教は国家運営に必須な、五穀豊穣を保証し、疫病神を追い払い、朝廷を脅かす敵を降伏させる威力があると信じられていた、と〜ってもありがたいものだったのである。(民を救う個人救済の側面が強調されるのは鎌倉時代まで待たねばならない)
「鎮護国家」という言葉を昔学校で習った覚えがあるでしょ?それですよそれ。祈祷することがマジで威力あると信じられていた時代です。
いやいやバカにしていけないよ。
「信じる」とは「考える」とも「感じる」とも違う特別な心の働きであって、今の人間にはなかなか難しいことなのです。
奈良平安時代の仏像と江戸時代の仏像を比べてみれば、その差は歴然としている。やはりこれは技術やセンスの違いじゃなしに、マジで信じているかどうかの違いではないでしょうか。近世の江戸時代はもうマジでは信じていないと思うね。
ま、信心だけでなく、世界最新最高の中華帝国を経てやってくる仏教は、新しい文化や技術ともセットになっていたわけですしね。
さて空海。
弘法大師空海はどのような生涯を送られたのでしょう。
芸新に描いた『新 弘法大師行状絵詞』で見ていきましょう。
空海は幼名を真魚(まお)と言い、774年に讃岐国(香川県)に生まれた。
母親が、天竺より聖人が飛来して自分の懐に入る夢を見て、空海を懐妊したという伝承もあるという。
15歳頃に都に上り、18歳頃大学に進学。秀才はメキメキ勉強してより秀才になり、大学を辞めて仏教を志す。
各地で修行に励むうち、土佐の室戸岬で明けの明星が口から体内に入り込んだ。
なんぞめでたいことの吉兆だろうか。絵伝では飲み込んだ星を海に向かって放出しています。
空海は日本にあって密教について調べられるだけ調べた。
いやしかしこれではまだまだ足りん、ぜひ唐に渡って直に密教の真髄を学びたい!と決意し、804年に遣唐使の船に乗る。正式に僧になったのはその直前、31歳の時、東大寺でだったんだって。
遣唐使船は暴風雨にあおられるもなんとか漂着。海賊かと怪しまれたが、そこは我らが空海、自分で書いた書状の字を見せたら役人が驚いた。
こいつは只者ではないあるね!
空海の後ろで瀕死の状態の日本人がいるが、これにはモデルがいる。誰か忘れたが映画の中で石橋蓮司が演じていた人です。どうでもいいですが。
↑本物の「弘法大師行状絵詞」に描かれた空海の書の書き方!中国人もびっくらこいた
長安では、まずインド人の僧に梵語を習った。語学の天才はあっという間にマスターし、準備は万全。いざ真言密教の第一人者、恵果阿闍梨を青龍寺に訪ねる。
ちなみに高知県にある青龍寺は横綱朝青龍の四股名の元である。どうでもいいですが。
さてさて空海は恵果阿闍梨に大歓迎されて、密教の全てを授かった。恵果阿闍梨は異国の若者になぜそこまで?と思ったけど、密教を伝えなきゃいけない使命感もあるし、日本からやって来た優秀でエネルギッシュな空海を見て、彼なら!と思ったんでしょうな。
また空海もこの密教の真髄を早く日本に伝えねばという使命感により、たった2年で日本に帰るのでした。
本当は20年間留学していなきゃいけなかったのに…。
日本に戻った空海だったが、20年留学してこなかったので平城天皇(映画では中村嘉葎雄が演じていた)にプンプンされて筑紫に留め置かれる。
しかし809年、新帝嵯峨天皇(西郷輝彦だった)から許しが出て帰京。
密教の先輩、最澄(加藤剛であった)に密教の経典を見せて欲しいと頼まれ交流も生まれる。
映画では北大路欣也演ずる空海はいつも自信満々で、加藤剛にもマウンティングしていたように見受けられたが、きっと素人目にそう見えるだけで、密教の密な交流があったのでしょう。でも、なんか感じ悪かったな。あくまで映画の話ね。
823年、西郷輝彦、いや嵯峨天皇より東寺を預かる。
私の絵伝では講堂を建立し、立体曼荼羅を納めるところを想像して楽しむ空海を描いてみました。
↑これが東寺の講堂です
813年、加藤剛、いや最澄からお経の借用の申し入れがあったが断る。最澄から預かっていた弟子が、空海の元にとどまることを希望したこともあって、二人は絶縁状態に。
821年には生まれ故郷、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の堤防を修築。
映画では、空海は堤防を弓なりに築くことで「強さが三倍になる」と合理的なアドバイスをしていた。最新の工学知識もちゃんと伝えて、あとは不眠不休で加持祈祷。
実際に人夫に混じって陣頭指揮したり、手伝ったりはしない。
ひたすらひたすら加護を祈祷する!
そのおかげで難航していた工事も短期間のうちに終えられたのである。まさに空海の祈祷のおかげなのです。
ここに疑問を持ってはいけない。疑問を持つのは密教を理解していない人だ。疑問を持たず信じることで密教は密教なのだ。でも、空海は最新の知識も伝えているので、単なる呪術ではないですね。
私は密教の説明を読んでもむずかしくて全然よくわからないです。
とてもわかったような口はきけません。ごめんなさい。
835年、死期を悟った空海は高野山に向かい、3月21日午前4時頃、同地で入定。50日後にお体は奥之院の御廟にうつされる。
空海はいまなおここで生きて世の太平を祈願していると信じられている。
921年には朝廷から弘法大使の諡号を贈られた。
で、東寺ですが、あいにく宝物館は閉館中で、東博で見た美仏たちとも再開できなかった。
食堂に入ると、奥に異様な仏像が立っていた。
3メートルはあろうかと思われる真っ黒に焦げた四天王像。
昭和5年の食堂の火事で焼けたそうだが、きっと焼ける前より恐ろしさは倍増している。そのお姿に暑さも忘れてしばし見入ってしまいました。
下は食堂で売っていた般若心経手ぬぐい。
300円也。
とても安くてありがたい手ぬぐいです。
はい、おわり。