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伊野孝行のブログ

やらなきゃ、わからない?

発売中の「芸術新潮」の巻末連載「ちくちく美術部」で今月取り上げた展覧会は、なんと自分が参加した展覧会『風刺画ってなに?』でした。というわけで私は、今回は批評される側に回りました。私の代わりに担当編集者のT山氏が登場し、とに〜氏と一緒に『風刺画ってなに?』を情け容赦なく攻撃してくれました。詳しい内容が知りたい方は読んでいただくとして、批評ってなんなのかなぁ、って、批評される側になって頭をよぎったことを書くことにしました。批評の世界において、批評する人に「お前、そんなわかったようなことを言うんなら、自分でやってみろ」というようなことは絶対に言ってはいけないということになっています。作り手の90%くらいの人は心の奥でそう思っていますが、バカだと思われるので言いません(僕?もちろん残りの10%の方に決まってるじゃないですか)。たけしとか爆笑問題の太田は平気で「じゃあ、お前やってみろ」ってよく言うけどね。言っても誰もバカだとは思わないので大丈夫なのかな?例えば同業者(作家でも職人でもなんでもいいけど)でとても弁が立つ人がいるとします。そういう人がいて同業者間で議論すると非常に盛り上がる。でも、その人の作品が説得力のあるものでないと「あいつは頭ではわかってんだけど、あんなの作ってるということは結局わかってないのと同じだ」と言われます。作り手の場合、作品を担保に入れてるわけですよね。言うのと出来るのとの位置は、大河の両岸ほど離れているでしょう。ヌーヴェルヴァーグの映画監督って、ゴダールとかトリュフォーとかみたいに批評家から監督に転身して、大仕事をした人がいっぱいいるんでしょ?たけしだって批評家として優れてるから新しい漫才も映画も作れるわけだし。言葉による思考はポーン!と遠くに飛ぶこともできる。デュシャンとか赤瀬川さんは、ポーンと飛ばした思考の位置にビタッ!って作品を置けるからすんげーなと思う。しかも作品は思考とは次元を異にしている。優れた作品はそれ自体批評だ。鑑賞体験が人の気持ちを打つ感想になってたり、作者ですら気づいていない価値を引き出したり、他のものとの関連性や位置付けを考えたり、問題意識を目覚めさせたり、それは褒める場合であれ、けなす場合であれ、意味はあるし、批評を受けてそれを乗り越えるってこともあるから、私は批評は必要だと思ってます。いや、そんな真面目な話でなくても、自分のアングルで見て、好きに感想言っていいんですよ。自分ができないからって遠慮することはないの。実際、ネットにはそういう感想はいっぱい載ってますね。ただ芸のある感想は限られている。批評も当然、芸だからさ。

でもさ、言葉は詩でもない限りそれ自体論理的だから、組み上げていけばすごく高いところまで登れるじゃん。私は言葉を使う脳みそがあんまり発達してないから、すごいところまで行き過ぎた難解な文章はお手上げだけど。

絵は非言語的な脳みそ使って描いてる部分が相当あるわけじゃないですか。文章はラジオ聴きながら書けないけど、絵はラジオ聴きながら描けるし。言葉に置き換えられない、っていうのは前提としてあって、もちろんわかった上で批評してるんだと思うけど、なんか理解の質が違うんだよなぁ、と感じることが時々あります。いや、批評としての理解と、描くことにおいての理解とは違って当たり前なんだけどさ。だからこそ私は絵を批評する人に「描いてみたら、理解の質が変わると思うので、ぜひやってみてほしい」とは思います。絵なんて誰でも描けるじゃないですか。人間は原始時代から描いてるんだから。「どう?やってみて難しいと思ったでしょ」って上に立ちたいわけではないんですよ。いや、絵なんてヘタな方がいいってこともあるわけなので、いきなりいいの描いちゃうってことも多いにありうる。それよか質の違いを体感して欲しいのです。うまくいってもいかなくても楽しいよ、絵を描くってことは。一家言ある人ならなおさら楽しいと思う。別に人に見せなくてもいいしさ。映画を撮るなんてめちゃくちゃ大変だけど、絵を描くのにお金は全然かからないですよ。今すぐできます。

そういう意味で「描いてみなよ」とは思います。
はい、おわり。

年末の「笑なん」

日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの自伝的エッセイ「島田洋七の笑ってなんぼじゃ!」の挿絵から。といっても、挿絵を全部ここに載せるわけではなくて、あんまり気に入っていないのは外している。じゃあ、仕事においては気に入ってないのもオッケーにしてるわけ?と問われそうだ。確かに満足のいくまで描き直せばいいんだろうけど…自分の設定しているギリギリ合格点をすれすれクリアできればオッケーにしちゃうので、後でこうやってアップする時に外すことになる。もし同業者の方がご覧になったら、「伊野くんの合格点は低いね〜」なんて言われちゃうかもね。挿絵を描いたあたりの文章を抜き書きしていますが、そもそも気に入らない挿絵を外しているので、話が繋がらないでしょう。 堀で1時間半ほど、釣りを楽しんだら、またしても、釣果と竹竿を俺に抱えさせて帰るんや。俺の心の中に疑問符が浮かんできた。そこで、先生に聞いてみた。「先生、これって二人乗りちゃうん?」友達と中学時代の思い出話をしてて、「中学校に行ってみよか?」ということになって、車で中学校まで乗りつけた。笑いは心も体も元気にしてくれる。これは科学的にも証明されていて、免疫力がアップしたり、脳の活動が活発になったりもするらしい。そこで笑って健康になるCDをつくってみた。「笑えば医者いらず」発売中!何気なく窓からのぞいてみると、電気もつけない暗い教室の中にいたのは、理科の男の先生と美人教師と呼ばれていた音楽の先生だった。相合い傘の黒板は、俺とばあちゃんの伝言掲示板として大活躍した。ある日、学校から帰ってくる。ーー昭広へ。鍵は玄関の植木鉢の中です。ばあちゃんとでかでかと書いてあるんや。俺は一目散に駆け寄って叫んだ。「先生! 俺の特急券と2千円がない!」先生は俺を職員室まで連れていった。そして、自分の財布から5千円札を差し出した。91歳になった今は「最近、バイク乗れんようになったし、自転車乗ってる」「先生、自転車のほうがよけ危ないで!」 言うても笑ってる元気な91 歳(笑)。気になった俺は、普段あまり誰も来ない相撲道場の裏に久保を呼び出した。「修学旅行なんで行かんと?」3年間、一緒に頑張ってきた野球部員全員で、一人も欠けることなく修学旅行に行きたかった。そこで、野球部員を集めて相談した。

みんなでワイワイと楽しんでたところで、急に部屋のふすまが開いた。補導の先生や。

補導の先生は、自分の部屋に帰るのかトイレにでも行くのか、とにかくほろ酔い気分で、廊下をふわふわと歩いている。

そこから出てきたのは、真っさらのキャッチャーミットとファーストミット、それにボールが4ケース。そこで俺は思い出した。久保は修学旅行に行くとは言わんかったことを。「おまえ、答案用紙、拾たんか?」どこにそんなもんが落ちてるねん!「カンニングしたんか!」やのうて、「拾たんか?」はないやろ(笑)。なんでこんな好成績をおさめられたかというと、運とカンや!あのときのように、見せびらかしたかった気持ちもあったんやけど、みんなから「よかったな!」と言われたかったんや。そうすることで、ほんまにかあちゃんがやって来るという喜びをかみしめたかったんやと思う。ちょっとウトウトしては、かあちゃんが来た夢を見て目が覚める。「なんや、夢やったんか」とがっかりして、またウトウト。「昭広、頑張れ~!」かあちゃんの声や!それも、今まで聞いたことのない大きな声やった。頭を上げて、家のほうを見ると、一生懸命叫びながら手を振っているかあちゃんが見えた。「二人で泣いてる場合か! もっとスピード上げて頑張れ!」先生は、そう言って俺にタオルを投げつけた。佐賀商業高校は、ばあちゃんちから歩いてすぐの高校。ここも野球の強豪校で、もし広陵に落ちたら、俺は佐賀商業に推薦入学することになっていた。ばあちゃん、なんでや?「佐賀商業は、よかと!」独り言のように、そう、つぶいた。けど、そう言いながらも、佐賀にいてほしいとか、広島に行くなとか、そういうことは一切言わんのよ。土手を歩きながら、幼い俺がばあちゃんに手を惹かれて土手を歩いている姿を想像した。俺たち野球部員は、逃げるように花道を通り抜け、校門を走り出た。みんな大声で笑っていた。俺も思いっきり笑った。そして、笑いながら、みんなで空を見上げて泣いた。「ばあちゃん、俺、行くよ」「はよう、行け」「今まで。8年間、ありがとう」「はよう、行けて……あぁ、もう水が……」背中越しにばあちゃんの顔を覗き込むと、ばあちゃんは泣いていた。ばあちゃん、俺がいなくなっても大丈夫やろか。 アラタちゃんに何かあったら、どうしよう。卒業式では、校長先生も式辞で俺や野球部のことを話してくれた。特急かもめがホームに着いた。これで、佐賀ともお別れや。そんな気持ちで、座席に座って、車窓に流れる佐賀の風景をぼんやりと見つめた。今でも、あの頃のかあちゃんと俺と同じ年格好の母親と子どもを見ると、俺は目頭が熱くなるねん。俺は喜び勇んで玄関の戸を開けた。ビックリした。だって、そこにピカピカの真っさらの自転車が置いてあったからや。小高い丘に登って、瀬戸の夕焼けを背景に音戸大橋を眺めた。オレンジ色から、紫色に空が変わっていく様は、今でも思い出せるくらいにきれいやった。翌朝は朝早く起きて、かあちゃんの家に戻った。かあちゃんはまだ寝ていた。「8年前、おまえの背中を押して汽車に乗せて…。ごめんね。でも、かあちゃん、ああするしかなかったんよ」

夜中に苦しくて目が覚めた

昔は冷え性とは無縁の身体だったけど、四十を過ぎた頃から、足先が冷えるようになり、ズボンの下にも一枚薄手のものを履いている始末。

さらに今年は駅前の女物の靴下や化粧品を売っている店で、「首に巻くやつ」を見つけ、五百円で購入。こういうものに男用、女用があるのかどうか知らないが、ややサイズが小さく感じられて、無理やり伸ばすと、「首に巻くやつ(正確には巻くのではなくて、もともと輪っかであり、それをかぶるのだが)」の中から、細いゴムがプチっと切れる音がする。

五百円だったのであまり躊躇なく、プチ、プチ、プチ、プチと豪快にひっぱってみた。そうしたのち被ってみると、ちょっとはゆるくなった感じがするが、根本的な解決には至らなかった。

私の布団は、去年、SEIYUで新調したのだが、SEIYUで2番目の値段の掛け布団を買ってしまった。羽毛布団に比べると重い。確か羊毛?だったかもしれない。そして、この掛け布団、サイズがやや横に広く、今まで使っていたカバーに入れると、全体的につっぱってしまうのだった。でもケチなのでそのまま使っている。つっぱった掛け布団は、首の周りにフィットしない。隙間からスースーと冷たい空気が首元に侵入してくる。そこで「首に巻くやつ」をつけて寝ると、とても暖かかった。ところがしばらく眠ると、苦しくて目が覚めた。首がしめつけられるようだった。次の日も使ってみたが、やはり同じだった。息苦しくて目がさめるというのはなんとも気色の悪いもので、私は昨夜から「首に巻くやつ」を使っていない。

…あまりに書くことがなくて、「身辺雑記」を書いてみました。素直に「こんな仕事しました〜」というのをちょちょっと載せて終わっときゃいいのに!

芸術新潮の今月号で、コレクターのビューレル氏の人生双六を書きました。この人がビューレル氏です。泥棒に絵を盗まれました。人物相関図のゴッホの似顔絵。可愛さあまって、なんだか情けない顔になってしまった。ゴーギャンの似顔絵。かっこよく描きすぎた。セザンヌの似顔絵。まぁこんなもんだろう。ルノアールの似顔絵。絵は豊満だが、本人は豊満タイプではない。ピサロの似顔絵。このピサロという人の絵は、いまいち私の頭の中の印象に残りにくい。シスレーの似顔絵。シスレーの絵は好きだ。でも顔のイメージと違う。マネの似顔絵。マネはスマートな絵に比べて、不細工な顔だった。モネの似顔絵。男っぷりの良い感じ。本当はどんなん人だったか知らないけど。ドガはウマヅラであった。

友人のデザイナー岡本健さんの弟さんが大阪で、「ストンプスカンク」というお店をやられているのですが、そこのキャラクターを描いた絵です。これは、日本トランスオーシャン航空の機内誌「Coralway」に描いた沖縄民話「姉の仇討」の絵です。お次のこれは「現代用語の基礎知識」に描いた小池百合子の風刺画?。選挙の当日に結果を見て、次の朝イチが締め切りだった。伊野孝行×南伸坊WEB対談「イラストレーションについて話そう」は第3回その3まで進んでいます。みなさん読んでくださっているでしょうか。

風刺とチャップリン

人形町ヴィジョンズの展覧会『風刺画ってなに?』無事終わりました。

お越しいただいた皆さまありがとうございます。来てくれなかった人は絶交!と言いましたが、あくまで来てほしい一心で書いた戯言でありましす。そんな心の狭い男ではありません。まーまー狭いけど。

タイトル通り、風刺画という概念を疑ってみる展示でありました。風刺画のど真ん中を期待された方は「これは風刺画と言えるの?」という感想をお持ちになったかもしれません。しかし、概念を疑っているのだから、ど真ん中より周辺に可能性を探ることになるでしょう。会場全体には風刺画へのゆる〜い提案や、風刺画の自由があったと自負しております。また、この展覧会は一人でやるよりも、グループでやったほうがよい企画だとも思いました。サロンに落選した画家たちが開催した「第一回印象派展」はグループ展でなければなりませんでした。運動だからです。運動は一人でやるよりみんなで声をあげたほうが強いのです。グループ展はすべてかくあれかし、です。

さて、通常運転に戻りまして、仕事の自慢話です。
「てんとう虫」というUCカードの会員誌の表紙を描きました。チャップリン特集です。
映画「キッド」のワンシーンのもじりで、子どもの代わりに下にいるのは素顔のチャップリン。画像検索してください。チャップリンはイケメンです。
イケメンというのは顔が整っているから似顔絵がむずかしいです。
この手の描き方は、資料写真を見ながら愚直に描くのみ、なんですが、素顔の方は丁度いい角度の写真がなかったので幾つかの写真を頭の中で合成して描いています。だから余計に似顔絵が微妙…あ、言っちゃった、微妙じゃなくてむずかしい。
素材をコラージュしているような描き方で、ほとんど個性のようなものは出ません。「オレじゃなくってもいいかも」「でもオレに頼まれたんだ」オレ、オレ、オレ…オレに執着しすぎるとみっともないので、この辺で。ではまた!

一回休み

風邪ひいちゃって、なかなか治らなくて、ただいま展示期間中につき、ギャラリーに出向いたりしているうちに、いろいろやることも溜まってしまったので、今週のブログは一回休み……という更新をしてしまいました。

風刺画展はじまるよーっ!

11月22日から人形町のビジョンズというギャラリーで『風刺画ってなに?』がはじまるよー!絶対に見に来てね!来なきゃ絶交だぜ!楽しいトークショーもあるよ!

「風刺画ってなに?」詳しい情報はこちらをクリック!

風刺画ってなに?

『風刺画ってなに?』っていう展覧会が来週からはじまりますっ!

イマドキ、風刺画の展覧会なんて誰もやらないでしょ?
いや、なに、ネットにはいっぱい、風刺画というのか、ポンチ絵っていうのか、クソコラっていうのか、上がってるんですけどね。そうやってみんなで息抜きして楽しんでるんです。健康的なことではないですか。
でも、僕は風刺画って、好きじゃないんだよ。風刺画ってだいたいは面白くないんだもん。面白い風刺画は好き。宮武外骨の「滑稽新聞」とか。あ、全然関係ないけど、明治時代に「なまいき新聞」というのもあったみたい。内容は知らないけど、いい名前だ。
明治時代ってさ、言論の自由がそんなにないから、命がけじゃん。今だってそういう国は結構あるだろうけど、そこで風刺画描くのはスリルあるよね。日本で描いたって、なにも起こらないよ。だから面白くないのか。
いや、そういうことじゃないんだよな。なんだろう風刺画=政治風刺漫画だというイメージが僕は嫌いなのかも。基本的に毒のある絵は大好物です。
面白くない風刺画は、善悪二元論みたいになっちゃってるのがつまんない。
たとえば、個人と全体は必ず矛盾するでしょ。
もし無人島から10人が脱出するために、9人乗りの舟しかなかったら、どうするの?誰か一人選んで、みんなのために犠牲になれって言うの?それともみんなで船に乗らずに、無人島で飢えて死ぬの待つの?それとも沈むの覚悟でみんなで漕ぎ出すか…自分は船に乗ってる方か、乗れない一人の方か。基本的にこの構造は変わらないと思うんだけどな、国でも、地球でも。
そういう矛盾に向き合わなきゃいけないリーダーとして、トランプは最悪なやつだ。でも人間ドナルド・トランプを見てると、うっかり「ちょっと面白い……」って思っちゃうじゃん。金正恩とかも、実の兄を殺して、側近のおじさんも粛清して、戦国時代か!?ってやつだけど、本人見てると、うっかり「ちょっと面白い……」って思っちゃうじゃん。あと、北朝鮮の女性アナウンサーのアジテーションのような喋り方ってクセになるなとか。
深沢七郎さんはこう言っている「こっけい以外に人間の美しさはないと思います」。
人間は本質的に何の意味もない存在だけど、政治というのは正反対に意味を植え付けてくる。
僕が描くとしたらこんな風刺画かなぁ〜。
タイトルは「床屋政談」って言うんだけど、どうでしょうか…?
まぁ、ここに書いたのは、僕の意見であって、他のメンバーがどういう考えかは知らない。だから、展覧会のタイトルも『風刺画ってなに?』になってるわけでね。
政治家の絵なんて描くつもりなかったんだけど、DM用に先に一枚描かなくてはいけなくて、妙にサービス精神出して、描いちゃったよ……。
だから他の作品は、こういうのじゃない。風刺画って本当はもっともっと幅広いものなんだし。
26日のトークショーでは、いろんな風刺画的作品をスクリーンに写し出してしゃべる予定です。
というわけで、最近、毎回ブログではよろしく、よろしく、と言ってますが、今回もどうかひとつよろしくお願いいたします。

WEB対談について話そう

玄光社の「イラストレーションファイルweb」で南伸坊さんとの対談『イラストレーションについて話そう』がはじまりました。

伊野孝行×南伸坊「イラストレーションについて話そう」click!

11月1日に第1回ー①、2日に第1回ー②、昨日6日に第1回ー③が更新されています。ちょこちょこ小出しにするこのやり方を、「ほぼ日」方式というのだとか……。しばらくのお付き合いをお願いいたします。

というわけで、今日は『イラストレーションについて話そう』について話そう、と思います。
実はこの連載、玄光社のMさんに「イラストレーション史みたいなものを書いて欲しい」って、僕が頼まれて、当初は自分一人で書く予定だったんです。
でも、真面目なイラストレーション史みたいなのって、僕は書けないし、書くつもりもないし。「みたいなの」って言ってるから、Mさんも教科書みたいなのは望んでないとは思いました。
一般に美術史の中で語られる絵も、9割以上は、イラストレーションと言っても差し支えないですよね。
なんでかっていうと、イラストレーションが「絵の役割」「絵の機能」という意味を指し示す言葉にすぎないから。また、シュルレアリスムのような芸術運動だって、モロにイラストレーションに影響を与えているわけなので、自分の興味の及ぶところをあちこち飛びながら、漫談のような形で書こうと思ってたんです。
でも、困ったことに、1960年代の日本のイラストレーション(という言葉が使われだした)黎明期には、僕は生まれてすらいない。その後、ブワ〜ッ!って盛り上がる70年代80年代も、まだ子どもだった。その時代のことをよく知ってる方はまだ現役でピンピンしているので、迂闊なことは書けないなぁ……って。
それに現代史パートって、すべての当事者みなさんに好印象のまま書き終わるって、ほぼ不可能じゃないですか。あっちを取り上げて、こっちを取り上げないとか……だいたい、僕は「お前が言うな」って立場だし。また「生意気な」って言われちゃうだろうし。こまった、こまった、こまどり姉妹……。
伊野孝行画「小村雪岱shoots鈴木春信」
あ、そうだ、その辺の時代は、実際見てきた人との対談にしようと思って、とある酒席で南伸坊さんにそれとなく、「書くの気をつかってしまうし、難しいです」と言ったんです。「それじゃあ、二人で対談しよう」と案の定、向こうから言ってくれたので、助かりました。
で、家に帰って、その日の深夜「いや、そのパートだけ、対談してもらうんじゃなくて、全部対談でいいんじゃね?」と思ったのです。責任が半分になるしね。
というよりも、僕は南伸坊さんと絵の話をするのが、至福の時間だから、それが定期的にできるからいいなぁ、というのがまずあったし、あと、僕が、絵の話を書いたりするようになったきっかっけも伸坊さんだから。
南伸坊画「司馬江漢」
変な言い方だけど、すべての人は歴史的存在なのです。
自分が絵を描こう、イラストレーターになりたい、ってはじめた時は全然そんな意識なかったけど。
自分以前にはあんな人がいて、こんな人がいて、それぞれの時代の中で生きて描いて、問題意識をもってて、みんな悩んで大きくなってるわけだよなぁ……自分が絵を描いてるうちに、溜まってきた「疑問と謎」を彼らに問いかけた時、あ、僕は歴史とつながった、と思いました。つまり歴史的存在になったわけです。
対談の冒頭で伸坊さんが「イラストレーションの歴史みたいな話って、学者がやったら全然面白くないし、プロのイラストレーターがやってもマジメになっちゃってつまんないんだ(笑)。雑談の中で出て来る話が一番面白いんだよね。」
っていきなりぶちかましてますけど(笑)、さっき言ったように、絵を描く人なら、描いてるうちに当然「疑問と謎」が自分の中に残るはずなんですよ。
要は、そこから話をはじめよう、ということですよね。
描き手は、描き手である立場を手放してはいけないと思います。それじゃぁ研究者と同じになっちゃうもん。微に入り細に入り調べて、保存し発掘する……という仕事は研究者の人にお任せしたいと思います。小村雪岱だって、そういう学芸員の人がいてくれたから、まとめて見ることができるわけですしね。
というわけで、みなさま、どうかひとつよろしくお願いいたします〜。
追記
昨日ツイッターを見てたら、明治・大正・昭和の写真@polipofawysuというアカウントの方が、昭和8年11月の朝日新聞の夕刊をアップしていたのですが、そこにたまたま小村雪岱の挿絵が載っていました。対談の中でも出てくる邦枝完二の「おせん」ですね。
昔の新聞小説の挿絵は二段分あって、大きいというのは知ってたけど、それよりびっくりするのは、絵の多さですよね。ヒトラーまでも絵なんだ。で、4コマ漫画もある。挿絵の下の主婦之友の「漬物つけ方二百種」というレタリングがめちゃめちゃ強い。挿絵の上には太平洋海上火災の広告もあって、どっちも絵的な要素が多い。
つまりなにが言いたいかというと、この紙面で目立つのは大変だ、ということ。小村雪岱の絵はブラック&ホワイトで構図にも工夫があるから、さぞかし目立ったんだろうなと思ってたけど(この日の挿絵は、それほどキメキメの絵ではないが)そんなに甘いもんじゃないね。こんなところで毎日勝負してたんだ。
名前の大きさは作家と同じである。「画」を名前の下に付けてあるから字間が狭いけど。

エンケンは最高!

もし、僕の絵を見て、ちょっとでも「なんかおかしいんだけど、マジメ」とか「変化球のように見えて直球」とか「ジャンルがよく分からない」とか「つき放したようで、あったかい」なんていう感想を持ってくれたなら、それはみんなエンケン(遠藤賢司)さんの影響なのである。
もちろん、僕自身にもそういうところがあるから、こうなっているのだけど、エンケンさんをお手本にやってきた部分は大きい。僕は画家やイラストレーターよりも、遠藤賢司に一番影響を受けている……と、10月25日のお亡くなりになった夜に、改めて思ったのだ。
高校生の時は、お小遣いをほとんどレコードに使っていた。何かを探すように、いろんな音楽を聴いてたけど、高校2年のある日、毎週聞いていたラジオ、ケラの「FMナイトストリート」にエンケンさんがゲストで出た。遠藤賢司をはじめて知った夜。始動しだしたエンケンバンドの演奏や、代表曲をかけた。エンケンの音楽は、自分でも知らない心の奥ヒダに触れてきた。「あぁ、これだ!」と思った。
他人の作った音楽を聴いて、自分のことがスラスラわかった気になったのだ。
翌日「満足できるかな」「東京ワッショイ」「宇宙防衛軍」のCDを買った。でも、CDプレーヤーはまだ持っていなかった。CDプレーヤーを買うまでの1週間くらいはジャケットや歌詞カードを見て、念力で聴いた。実際に聴いたみたら、全曲期待を裏切らなかった。「そんなにいろいろ、他の人の音楽を聴かなくったっていいや」と思ってしまった。
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 どの曲もタイトルが素晴らしい。「輪島の瞳」「史上最長寿のロックンローラー」「俺は寂しくなんかない」「通好みロック」「不滅の男」「外は雨だよ」「壱円玉よ永遠なれ」「嘘の数だけ命を燃やせ」「いくつになっても甘かねェ!」「ド・素人はスッコンデロォ!」……特に「フォロパジャクエンNo.1」という曲は題名だけではぜんぜん意味がわからないけど、フォーク、ロック、パンク、ジャズ、クラッシック、演歌などなどのジャンルにとらわれず、「良い音楽は良い、自分の歌を創って歌って堂々と自分を主張しようよ!」という内容で、音楽ジャンルの頭文字を繋げてタイトルにしている。ワッハッハ!やっぱ最高!タイトルがいいと中身もいい。これはこの世の真実だ。
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上京してからは、行けるライブは全部通った。ある日、友達を誘って横浜ビブレのライブハウスに行った。
ライブの終盤あたり、エンケンバンドフルボリュームの大轟音が鳴り響く中、彼はポンポンと僕の肩をたたいた。
振り返ると、彼は自分の眼を指差している。感動して泣いてるよっ!ってことだった。もちろん、俺も泣いているぜ!御涙頂戴なんて全くナシなのに、毎回胸がいっぱいになる。その時も、心のヒダは感動を包み込み、私という若者を育んでくれたと思う。
ライブが終わった後、友達が「サインをもらいに行こう」と言った。自分一人じゃそんな勇気はないので、着いて行った。エンケンさんには、友達の方が大ファンで、僕はにわかファンに見えたようで「ありがとう、はじめてきてくれたの?」って言われて、必死に訂正した。

昨年、エンケンの69歳のお誕生日(1月13日)に発売された「遠藤賢司実況録音大全[第四巻]1992~1994」という、CD9枚とDVD1枚のボックスがある。DVDは1994年の代々木チョコレートシティのライブ映像だった。あれ?なんだかこの空気感覚えてるゾ、と思ったら、当時の自分が写ってた。23歳、まだ子どもの顔だぁ〜。今年の初めまで「小説すばる」で連載していた自伝的エッセイ、19年間のバイト君物語「ぼくの神保町物語」にも書いたけど、こんなこともあった。絵には時々ふり落とされそうにもなるが、しがみついていなきゃ。その踏んばり時にもエンケンの歌あり。(画像はクリックするとデカくなる。)
今、僕のまわりには、直接エンケンさんと仕事をした人たちもいる。羨ましい。でも、仮にもし自分が……となると、きっと好きすぎて無理だな。スターは離れたところから見ていたい。エンケンさんと仲のいい編集者の人に演奏後に会う?って誘われたこともあるけど、やっぱり、遠慮しちゃった。
ところが……。
2010年にエンケンさんが近所に引っ越してきた。どこに住んでるかまではもちろん知らないけど、エンケンさんのブログを読んでいると、我が家から徒歩15分圏内であることは確実だ。でも、遭遇することはなかった。
僕の最寄駅は下高井戸で、駅のすぐ近くに「肉の堀田」というお肉屋さんがある。ここの揚げ物はおいしい。一昨年だったかな?ある日、コロッケを買おうと行ったら、僕の前に背の高い男の人が一人、コロッケを買っていた。遠藤賢司その人だった。あっ!あっ!目の前にいる!
「エンケンさん、ファンです!握手してください!」
……と何度も心の中で言ってたのに、お会計が終わったエンケンさんを、結局、僕は無言で見送ってしまった。もう〜、このいくじなし……。
ま、でもよかった。やっぱり近所に住んでんだぁ〜。ちなみに、エンケンさんには「おいしいコロッケ食べたいな」という曲もある。その日はお友達でも来るのか、15個くらい買っていた。
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エンケンさんは「純音楽居士」になって宇宙旅行に出かけた。そんなわけで、エンケンさんがいなくなって寂しいにゃぁ〜。
1999年に長沢節先生がスケッチ旅行先の大原漁港において、自転車でつっころんで、亡くなった時のことをフト思い出してしまう。自分が自分になるまでの、光と栄養をくれた太陽のような人がいなくなるって、とっても悲しい。でも、この世からいなくなっても、自分の大きな灯台であることにはぜーんぜん変わりはない。
「エンケンさん、どうもありがとうございました!」
お礼を一言を言いたかったのです。

『腹ペコ騒動記』

岡崎大五さんの新刊『腹ペコ騒動記』発売中です!カバー、中の挿絵などふんだんに絵を描いております。「小説現代」で連載している時から、このブログでも時々紹介していましたが、一冊にまとまると、やったぁ!って感じがしますね。私としても気合を入れてやった仕事です。ブックデザインは日下潤一さん赤波江春奈さんです。

文章を読み、写真資料を見て、地図を描いているうちに、それぞれの国に親近感が湧いてくるのですが、親近感がわく一番の元は、岡崎さんのアングルです。

岡崎さんが見ている景色や人や料理がいいんですよ。たとえば、岡崎さんが嫌な目にあっている場面でも、読んでて楽しい。災難に読者は巻き込まないのです。巻き込んで読ませる方法もあるでしょうが、そうするとこの本の気持ちよさはなくなるかもしれません。
自分もたま〜に文章の仕事をしますが、この辺のさじ加減が難しい。
岡崎さんは旅の達人であり文章の達人だなぁ、と思います。旅の作家なんだから、当たり前なんですけどね。
天はこの二物をなかなか授けてくれません。
なぜ断言できるかというと、毎回作画のために、岡崎さんの訪れた国をネットで調べるのですが、必ず誰かが旅行していて、ブログに書いているのです。(家にいながら資料が探せるまことに便利な時代です。画像検索を駆使しして、あたかも見てきたかのような情景を作るのが私の仕事なのでした。)でも、面白い旅行記はそうそうないね。
映画や小説の中で、食事のシーンがうまく使われていると、ドラマ自体の味も良くなるもんですけど、『腹ペコ騒動記』にはそんなシーンが、毎回それぞれの国ごとにあるんですから。
食べることで、世界の国の人間はわかりあえる気がする……大げさだけど、そんな風に思ってずっと読んでました。
だから、カバーは連載で出てきた人や食事をみんな並べてみたのです。なんてピースフルな絵なんだ……自分で描いててそう思っちゃいました。
さて、11月7日に代官山蔦屋書店で岡崎さんのトークショーが開催されます!
一足先に書店に偵察に行かれた岡崎さんよりディスプレイの写真も届きました。私の絵も何点か飾られています。
↓くわしくは岡崎さんのブログでお確かめください!

大徳寺と最近の『笑なん』

先週は2泊3日で、京都の大徳寺に合宿して、襖絵を描いていた。

京都の捉えがたい力のひとつは、この大いなる徳の寺からも放たれている。
自然の中での修行を理想とする禅宗において、庭に深山幽谷の景色を作ったのが枯山水だ。確かに、お庭も建物も人の手で作ったものなのに、肌にあたるのは山中の「自然」と同質のツブツブだ。空を見上げても、塔頭の屋根の向こうには電線ひとつ見えない。ここは京都の町の中のはずだが……。
「カラスの鳴き声も東京とは違う」と一緒に合宿しているヤマガさんが言った。

私もすでに普段の私ではなかった。
いつもはメールが届くと、すぐに返事を返すタイプなのに、禅寺にいると返信が億劫でならない。SNSも追っかけるのがめんどくさい。「パソコンを持ち込んでここで仕事をなさっても良い」と和尚は言ってくださるが、いやいや、私はとてもここでは仕事ができそうにありません……。ここは修行の場であるが、どうやら私の仕事は修行とは程遠いようだ。

というわけで、自然と言えば公園の木々くらいの、しかも、向かいのアパートが取り壊しの最中で静寂の暇もない、散らかった部屋で雑多のものに囲まれながら、今週も代わり映えのないブログを綴るのだ。

「日本農業新聞」で連載されている島田洋七さんの自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵でございます。
絵だけ見てても、何のシーンかよくわからないから、描いた箇所を抜き出してみましたが、それでもよくはわからないかも。

小学校時代、ばあちゃんに勧められて毎日走っていた俺は、ダントツの1位!先生からも「お前、足速いなあ」と注目してもろた。「お前ら、今からノックするから、好きなポジションにつけ!」と言う先生の声に、あのころ、“サード長島”が大人気やったから、ほとんどのやつがサードに集まった。「先生、いつも何の本を読んでいるん?」
「ああ、これか? 野球の本や。俺はバスケは専門やけど、野球のことはようわからんから、本を読んで勉強してるんや」俺は中学に入っても相変わらず、朝の飯炊きや水く みをしていたから、 「明日は早朝から朝練習があると」とばあちゃんにうそをついて、こっそりと朝の3時 ごろから中央市場の荷物運びのアルバイトに行くこ とにした。譲葉さんは卒業後、佐賀商業から甲子園に出場した くらいやから、当時から存在が際立っていたなあ。そんなレベルの高い野球部で、俺がレギュラーにな れたのは、ひとえに足の速さやと思う。チームメートが「おい徳永、今日もばあちゃん来てるよ」と教えてくれるんやけど、せっかくばあちゃんが気を遣ってこっそりしているんやもん。「うん、知ってる」とだけ答えて、俺も気がついてないふりをしていた。「え! スパイク? 今から?」と言いながら、ばあちゃんの後を追った。「いいや、キャプテンやけん、スパイクを買うんや」「もう7時やし、店も閉まっているよ」ところが、ばあちゃんは言い出したら聞かへんのや。「はい。二千五百円です」おっちゃんがそう言うとばあちゃんは、「そこんとこをなんとか一万円で!」と、必死の形相で握りしめた一万円を差し出した。「え? 二千五百円ですよ」と、目を白黒させたおっちゃん。

2時間目の理科にも、3時間目の歴史でも、机の上にスパイクを置いて、先生からの質問を待ってたもんや。この日から、少なくとも2、3日は、これやってたんと思う(笑)。ある日、突然、南里くんが俺に聞いてきた。「徳永くんて、餅好き?」「うん、好きやけど…」「じゃあ、家にいっぱいあるし、明日、持ってくるよ」 にっこり笑って、そう言いながら帰っていった南里くん。ところが、次の日の朝。「先生、徳永くんはいろんなジャガイモを見たいというてたんです。だって、ジャガイモは2つとして同じものがないんです。ジャガイモにもいろんな顔があるんですよ」 さすが農家の息子!橋口くんは、クリーニング屋の息子。俺が野球部のキャプテンになったときに「城南の野球部のキャプテンなんやから、ピシッとせんとあかん! 俺にまかせとき」と言うてきた。橋口くんは、お客さんからクリーニングに出された洗濯物の山の中に、こっそり俺の制服を紛れ込ませていたらしい(笑)。やっぱり人に親切にしてもらったことはずっと忘れられんもんやね。俺もいろんな人に親切にしてもろたけど、ばあちゃんもそうやった。忘れられんのが豆腐屋のおっちゃん。「僕、崩れたんあるから、大丈夫や。な、はい、5円」おっちゃんは、目で合図してうなずきながらそう言った。頭痛だけはノーシンやったけど、ばあちゃんは、それ以外はなんでも正露丸で治していた。 お腹が痛いときはもちろん、歯痛のときは、歯に詰める。 脇腹が痛いときは、つぶしてお腹に塗ったりもしてた。風邪ひいたときも「これ、塗れ!」と正露丸(笑)。翌日も、その次の日も痛みは治まるどころか、どんどんひどくなっていく。こらたまらん! と俺は学校の帰りに、ひとりでばあちゃんちの裏にある杉山眼科に駆け込んだ。学校の帰りやから、お金は持ってへんかったけど、後で払いにいったらなんとかなるやろと。「いや、先生は後でばあちゃんにもらうというてたけん」と俺が言うやいなや財布をつかんで家を飛び出していってしもたんや。それから何十年後。偶然、すし屋で百武先生の息子さんに会ったんや。今は息子さんが理事長で、なんと俺のねんざを診てくれた百武先生も、医師は引退したものの101歳でお元気やということもわかった。「お前、どこで覚えたんや?」「いや、テレビとかでプロの選手がやっているから」「ええっ!テレビでか! それでできるんやからたいしたもんや」先生にもそう言うて褒めてもろた。俺が野球がうまくなったのは、足が速かったんもそうやけど、いつもイメージを大事にしていたこともある。スタンドプレーと言われたトスもそう。
テレビや球場でプロの選手がやっているプレーを覚えて、頭の中で自分がするようにイメージするんよ。

オトナの一休さん書籍化

Eテレの「オトナの一休さん」が書籍になった。

KADOKAWAより発売中です。
一休さんの生き方をアニメにした番組であるが、一休さんは禅僧である。一休さんを語るときに「禅」は外せない。
しかし、この禅というものが、なかなか理解しにくいものなのである。
書籍化にあたり、一本描き下ろし漫画を描いた。「死後の一休さん」というタイトルだ。
禅はそもそも「わかる」ようなものでもない、気さえする。
例えば、禅僧が悟りを開くよすがとする、禅問答というのがあるが、これなど普通の論理的思考で答えても仕方がない。
白隠和尚の代表的な公案「隻手の声(せきしゅのこえ)」は、「両手を打って叩いたらパンと音がするが、隻手(片方の手)には何の音があるのか」というものだ。
片方の手だけあげたって、何の音もしないわけなのだが、なんと答えればよいだろう……。
「隻手の声」はまだ問い自体はわかりやすいが、「南泉斬猫(なんせんざんびょう)」という話は、こんな感じである。
「南泉の弟子たちが猫を奪い合っていた。そこで南泉は猫を取り上げ、おまえたち、この有様に対し て何か気のきいた一言を言ってみよ、言うことができねば猫を斬ってしまうぞ、と言った。誰も答えることができず、南泉は猫を 斬った。その晩、一番弟子の趙州という人が帰って来た。話を聞いた趙州は、履いていたぞうりを脱ぎ、頭の上にのせて黙って部屋を出て行った。南泉は、趙州があの場にいれば、猫を救うことができたものを、と嘆いた」と。
ん?ん?ん?ん?全然わけわかんない!でも……なんか面白い!
禅のことはよくわからないので、絵の方の話ですると、この禅問答を読んで、シュルレアリスムの代表的な画家、マックス・エルンストのコラージュのコツに通じるものを見た。巖谷國士さんが、確か「コラージュというのは散々やられてきているが、なかなかマックス・エルンスト以上に面白いものにお目にかかれない」みたいなことを書いたと記憶するのだが、なるほど……と私も思った。マックス・エルンストの発想はこの禅問答レベルだ。ん?なんか無理やりっぽいって?
だって、理屈じゃない、言葉じゃない、というのは禅の中心的な考え(←適当に書いているのであまりに本気にしないでね。興味のある人は各自自分で調べるべし)のようだが、まったく絵もそうではないか。絵の一番本質的な部分は、言葉じゃなければ、理屈でもないのである。シュルレアリスムはそれをさらに……話が長くなるのでやめておこう。
ちなみに、公案にはこれという回答はない。
まぁ「オトナの一休さん」の書籍版には、この手の難解な話は書いていないのでご安心を。ぜひ痛快に読んでいただきたい。「常識や正論に悩んでいるアナタに読んでもらいたい!」と帯にある。        
ところで、さっきの禅の公案にしろ、これらが一体お釈迦様の教えと、どんな関係があるんだろうか?
仏教はインドから中国に渡り、朝鮮半島を経由して、日本にもたらされたわけであるが、聖徳太子の時代の仏教にしてからが、すでにお釈迦様が最初に説いた教えとは違っている。禅宗は逹磨が祖であり、中国で老荘思想の影響を受けて完成された……たぶん、そんなことだったはずだ。

お釈迦様が説いていた初期仏教、原始仏教を、知りたい人は、youtubeで中村元さんの講座を聞いてみよう。「中村元でございます……」という挨拶から始まるこの動画は、中村先生の声が気持ちよすぎて、寝る前に聞くと、絶対に最後まで聞けない。「ブッダの言葉」「ブッダの生涯」今まで何度、挑戦したことだろう。

岩波文庫の中村元さんの『ブッダのことば―スッタニパータ』も買ってパラパラと読んだ。感触としては(何しろyoutubeも最後まで聞いてないし、本も拾い読み程度なので)、お釈迦様の直接口にした教えはとても素朴な感じだった。中村元さんの語り口と合う。トリッキーなことを求める人には、聖書の方が面白いかもしれない。
ただし、仏教もその後、宗派によって様々なバリエーションを見せていくのは、皆様よくご存知のところ。
で、初期仏教が日本に紹介されたのは、今から約八十年くらい前ということなので、つい最近だ。
ではなぜ、お釈迦様が最初に説いていた教えが判明した今でも、変形した仏教を、信じたり行ったりしているのか。僕はちょっと疑問であった。お釈迦様の言ってないことをなぜ?……と。
そんな折、ニコラ・ブーヴィエという人(ヒッピーの元祖みたいな人らしい)の『日本の原像を求めて』を読んでいたら、大変腑に落ちることが書いてあった。
〈ブッダの誕生からさまざまな曲折を経て、仏教は日本にたどり着いた。インドから追い払われ、チベット、アフガニスタンを経て、中央アジアの国々に達する。その間、ヘレニズム、ゾロアスター教、インドのタントラ、中国の道教、さらにはーおそらくーキリスト教の一派であるネストリウス教の影響を受けながら、仏教は豊かになっていった。
西暦六四年には、漢の皇帝が改宗する。
四世紀には、朝鮮に渡る。そして海路をたどり、「仏法」はようやく地の果て日本にたどり着く。
あたかも川が支流を集めて大河をなすように、仏教はそのときすでにきわめて多面性のある教義をなしていた。素朴な慈悲の心を説く教えから、目も眩むような形而上学的な思弁にいたるまで、仏教にはありとあらゆる要素が含まれている。そこにはアジア的心性のすべての面がちりばめられている。〉
そうか、そいういうことなら、いいじゃないか!
合点だぜ!
ニコラ・ブーヴィエさんは一時、大徳寺に住んでいた。
大徳寺といえば、一休さん。
そして今日、私は、大徳寺に行く。
一休さんゆかりの塔頭、「真珠庵」の襖絵を描きにいくのである。
私以外にも四人、描き手がいらっしゃる。今日から合宿して、襖絵にチャレンジすることになっている。
あぁ、緊張すんなぁ。だって、襖に直接描くんだもん。うまく描けたものを襖にしたてるんじゃないんだもん。
その模様はまたいずれお目にかけることもあるかもしれない。
最後はいつもの通り、自慢話でまとめてみた。
おわり。

話半分運慶物語と蛙

混雑必至の展覧会が東京国立博物館で開かれている。「運慶」展だ。
美術雑誌で仕事なんかしていると、内覧会でゆっくり見られる特権があるとお思いでしょう?
とんでもない。特集の仕事をしても内覧会に誘ってもらったことなんてな〜い。
だから、運慶も長蛇の列に並んで見るんだろうなー。伊藤若冲の時は何時間も待つのが嫌で、結局見に行かなかった。何年か前の阿修羅展は、2時間くらい待って見たのだが、どうしてこんなシンドイ思いをして見なきゃいけないのかと、悲しくなった。会場に入ったら入ったで、阿修羅像を360度ぐるっと囲んですし詰めのライブハウス状態。ただし、かぶりつきで押し合いへし合いしているのは、パンクスではなく、老人の群れ。
ここぞとばかりに稼ぎたいのもわかるが、入場制限するとか予約制にするとかしてほしい。何時間も並ばされて、もう、なんだか頭にくる。めちゃ混みしている美術館は、大嫌いなんだ!
美術館はいつ行っても人がいなくて空いてるのが最高なのに!
採算なんてわしゃ知ったことじゃない。
別に美術が盛り上がっても盛り上がらなくても、どっちでもいいんだよ、わしゃ。
で、運慶であるが「芸術新潮」でエピソードを漫画にしている。
「トリビア・イン・ザ・UK」という話半分で読む漫画だ。UKというのは運慶。タイトルはセックスピストルズの駄洒落だろうか。
何時間も並んで私が見た阿修羅像であるが、どうして見ることができたのかといえば、誰かがずっと残してきたからだ。
阿修羅像は何回も火事にあっている。その度誰かが助けたということになるが、運慶自らが阿修羅像を運び出した可能性だって無きにしも非ずである。
話半分だけど、そう考えるとロマンを感じないかい?「話半分で読む日本美術史」というのがあったら、僕は買うね。
この他にも二本、漫画を描いた。
漫画に描くと思い入れが増すから、並んででもやっぱり見ておかなくちゃ、という気になる。
待つし混むし(と言っても阿修羅や若冲や運慶が例外的なだけだが)、ここ最近の日本美術ブームは誰にとっていいのだろうか。
美術雑誌じゃなくても美術特集をよくやるようになったから、きっと美術雑誌は、「みんなでやらんでいい〜」と思っているに違いない。
僕は時々そういう雑誌から仕事をもらえるから、ま、いっか。
話は変わります。
ブログを更新するとツイッターでお知らせをするのだが、毎回2リツイートくらいしかされない。それもだいたい同じ人(ありがとうございます!)。
先日、「和田誠と日本のイラストレーション」展をたばこと塩の博物館で見た後、こんなつぶやきを投稿したところ、非常に広範囲に拡散された。ついでなので、和田誠さんの『時間旅行』を開いてみると、〈そしてある日、新聞を見て驚いた。広告欄に例の募集の人選が発表されていて、ぼくが、一等賞だったのだから。一等賞はもう一人いてウノアキラという人でした。宇野亜喜良さんですね〉賞金の3万円の使い道であるが、和田さんはカメラが欲しかった。日大写真科に進んでいた友人に相談して、ちょうど3万円のレオタックスという機種を買った。〈応募する時に蛙の下描きをたくさんしていて、それが残っています。それから、入選したへばった蛙以外も何点か送ったんですが、その中の元気のいいやつが実際に広告に使われました。許可は求められなかったしギャラももらわなかったけれど、使われたことが嬉しかったので文句はありません〉とある。なんと使われたのは入選作ではなかったのか。でも入選作いいよね〜。特に手足の表現がシャレてます。『時間旅行』は何回も開いているけど、他の下描きが載っていたのは忘れてた。
和田さんが大学1年生だったこの時、3学年上の宇野さんは、名古屋から上京し、世田谷区奥沢に居を構えていた(宇野さんの年譜によると、上京したのが1955年で、興和新薬のカエルマークコンペで一等に選ばれたのは翌年1956年ということになっている)。同年にカルピス食品工業に入社。広告課に配属され、パッケージや新聞広告を手がける。第6回の日宣美で「カルメン」のポスターが特選となる。この時期から杉浦康平さんの仕事も手伝うようになる……というのはこれまた宇野さんの年譜から。ちなみにカルピスは翌57年に退社。
ついでに、2等以下の人の名前もググってみたけど、折り紙会館の館長になっている人とか、資生堂の社史に名前が出ている人とか、同姓同名の人はいたが、いまいちよくわからない。
ともかく、和田さんと宇野さんに順位をつけずに、二人とも一等にしたのが、後から振り返ると面白い。のちのイラストレーション界の王、長島。落語で例えるなら志ん生、文楽。そもそもイラストレーションという言葉自体を世に知らしめたのが、このお二人を中心とする方々なのであるが。蛙のコンペの審査員は興和新薬の宣伝課の誰かだったんだろうか。なかなかセンスがいい。

「僕おしゃ」終る

ナンバーワン自動車雑誌「ベストカー」で連載している藤田宜永さんの『僕のおしゃべりは病気です』は本日発売号をもって最終回。

藤田宜永さんは「文壇一のおしゃべり男」の異名をとる方で、私も一度酒席を共にさせていただいたことがあるが、確かにおしゃべりな先生であった。いや、本人がおしゃべりである以上にこっちの話をちゃんと聞いてくださる。どんな球でも確実に拾って返してくれる安心感。
「この人とは話しやすい……」そう思うと私は俄然好意を持つ。
好みのタイプはと聞かれれば、しゃべって面白い人ということになるだろう。
話が面白い人というのは、面白い話を持っている人という意味でもあるが、他の人が独演会を聞いている状態になりやすい。それはそれで楽しいのだが、みんなの会話が盛り上がる方がより楽しいと思う。雑談で盛り上がるのが一番良い。
私は話がヘタなのに、たまにトークショーをやることがあり、聞きに来てくれたお客さん達と二次会に行った時に、何となくトークショーの続きみたいな感じになってしまってしまうのが困る。

自分の持ちネタに磨きをかけるのもテクニックであるが、とりとめのない雑談を盛り上げるのもテクニックがいるのだろう。藤田先生は後者のテクニックにそうとう長けているとお見受けした。

私は病気というほどでもないが、まぁまぁおしゃべりな方だし、みんなで楽しくしゃべっている中に黙っている人がいると気にかかってしまう。で、話を振ってみるのだが、いかにもわざとらしい感じが出てしまって、藤田先生のようにうまくはいかない。
ところが、時たま、自分が黙っている方に回ることもある。そういう時はどういう心境かというと、決してその場が楽しくないわけではない。縄跳びの中に入っていくタイミングがつかめないように、なぜか会話の中に割って入ることができないでいる。
だから誰かが話を振ってくれれば、しゃべるのだけど、何かこう、うまく回れないで、すぐにまた聞く側にもどってしまう。そういう時の雰囲気は何だろう。空気が読めてないというのともまた違う。会話に対して半身でいることが相手にもわかってるんだろうな。
後で「今日はおとなしかったね」と言われる。「いや、別に退屈してたわけじゃないんだよ」と答えるし、実際のところそうなのだが、おしゃべりってむずかしいなと少し思うのも確かなのだった。

似合うか似合わないか

石田衣良さんの「スイングアウト・ブラザース」のカバーを描きました。私が石田衣良さんの本のお仕事をするとは、思いもよらないことだったんですが、内容を聞けば納得。ちょっとダサい男子たちのお話だったんですね。自分たちではそこそこイケてると勘違いしてる彼らが、モテ男への高く険しい道を目指してドタバタするお話。
ちょいダサならお任せください。私自身がそうなんで。

話をオシャレに限っていうと、着るもの自体よりもそれが「似合う、似合わない」の方が重要なんですけど、似合う、似合わないっていうのは何なのでしょうか。

自分の顔が、濃い顔で、もみあげやヒゲなどもふんだんに生えていたら、自ずと着るものの方向性も変わってたはず。
勝新が中南米のファッションに身を包んでもまるで違和感がないですが、私が着ればおかしいでしょう。
「伊野くんは、中国は清の時代の辮髪の格好したらぜったい似合うよ」と言ってくれた人もいます。
しかし、いくら似合ってもそんな格好では歩けません。着物だって、着るのに勇気のいる時代なんです。

我々の民族衣装であるところの着物を着るにも理由がいる時代に生まれた不幸を恨みます。

時代劇が好きな私は、着物を着た時に身体をどう動かせば、カッコよく見えるかはある程度わかるようになりました。
立体的な縫い合わで作られている洋服と違って、着物は一枚の布で身体を包んで帯で締めているだけ。
布の中にある身体の形が、外の形を作るわけですが、そのまま形が出るわけではない。身体がこういう形のとき、身体を包む着物にはこういう形が表れる、というのがわかる=着こなせるのではないかと思います。
よく若旦那が袖に手をちょっと隠して、やや腰を引き気味に、つま先から先に歩くような仕草も、着物を着ているから様になるわけで、あれを洋服でやったらマヌケです。
花火大会で見かける若い男の子の浴衣姿は、帯の位置がおかしいのもあるけど、洋服の時と同じ身体の動かし方だからヘンテコに見えるのです。あれもかわいいといえばかわいいけど。
着物は相撲取りのように恰幅がよくないと似合わないと言う人もいるけど、私はそうは思いません。
だってあんなに太ってたら、身体の形がそのまんま着物の形になってしまうではないですか。
身体にぴったりフィットしない着物だからこそ出来る形が面白いのです。(これは妖怪変化した私の着物姿ですが、着こなしている例としてあげたわけでは決してありません。ではなぜ写真を載せたのでしょうか。深く突っ込まないように)
話を戻しましょう。

この世のすべては、似合う、似合わないで大きく説得力に差が出るのです。

昔はどうしても似合わなかったものが、今なら似合うということもあるし、その逆もある。
似合うまでに努力を必要とするのもあるし、なんの苦労もなく似合ってしまうものがある。
「君はイラストレーターになれるよ。うん、そういう雰囲気あるから」
と安西水丸さんに言われて、予想通りそんなに苦労もせずにイラストレーターになった人が友人にいます。
池波正太郎は一人で旅に出ると、あえて職業を名乗らずに、相手に当てさせ、刑事さんですか?呉服屋の旦那さんですか?と言われて「よくわかったね」と演じつづけた様です。『食卓の情景』にそのようなことが書いてあったと記憶します。確かめていません。
私がイラストレーターになるのにとても時間がかかったのは、似合わなかったのでしょうか。そして今の私はイラストレーターらしいのでしょうか。
「あなたの商売、いったい何なの」と聞かれる時は必ず脈がある、とこれは長沢節先生のエッセイに書いてあったのですが、もし本当ならイラストレーターらしくない方が私はモテるということになります。

ところで、オシャレというのは、しすぎると頑張ってる感が出るし、もっと困ったことに、オシャレしすぎて、バカに見えてしまうこともあります。
バカに見える場合は、着飾った外見が、内面の空虚さを引き立ててしまったということなのでしょうか。

長沢節のファッションは独特すぎるのに頭もよく見えるのでした。

似合う似合わないなど気にしないくらいに、やっちゃうのが痛快のような気もしてきました。

もう一度言いますが、私はオシャレではないし、センスもないので、その程度のヤツが言ってることと聞き流してください。

世界の読み方

新潮社より9月15日に発売される佐藤優さんの新刊『ゼロからわかる「世界の読み方」プーチン・トランプ・金正恩』のカバーの絵を描きました。帯に〈白熱講座、完全実況版〉とあるように、おしゃべりを本にしたものなので、読みやすいです。
帯にはまた、こうもあります。〈世界を翻弄する3人の思考と行動は「OSINT(公開情報)」でここまでわかる!〉そして〈インテリジェンスのプロはこう読む!〉とでかい文字が力んでいます。
ちなみに私は、ふだん新聞もろくに目を通していません。たまに「荻上チキのsession-22」をラジオで聴いて、「うん、自分の考えは荻上チキと同じでいいや」と思っているくらいの人間です。
OSINTはオープン・ソース・インテリジェンスの略なんだ。インテリジェンスのプロ……インテリのプロってなんなんだ?って思ってましたが、そうじゃないんですね。あ、インテリってインテリゲンチャの略か。

宣伝用に色をつけたのも作りました。愛らしく描いて欲しいということだったのですが、かわいく描いてるうちにだんだん好きになってくる心理作用が恐ろしい。佐藤さんも立派なお顔です。インテリジェンスのプロって感じ出てますでしょうか?
紙幅の関係上、新聞に書いてあることより詳しいことは週刊誌に書いてありますよね。さらに詳しいことは月刊誌に書いてありますよね。もっと詳しく知りたかったら本になっているものを読んだ方がいいかもしれない。
そこまでつっこんで読むと、最初にテレビのニュースで知った情報とは違う側面も見えてくるでしょう。全然違うかもしれない。しかもものごとは他のことと絡み合いながら、歴史という時間も背負っている。世の中でおこっていることを自分で知ろうとしたら、それだけで時間がなくなっちゃう。
自分に与えられた時間には限りがある。
俺にはやらなきゃいけないこともある。
でも自分が今生きている世界のことも少しは知りたい。
そういう時に荻上チキさんのラジオを聴いたり、佐藤優さんの本を読む、と。
うまいことできてんな〜、世の中ってのは。
そして発売のタイミングがドンピシャだなぁ〜!

どうでもよくてよくない

今週もブログの更新日がやってきた。書くことが決まってない週はユウウツだ。

ブログなんてどうでもいいちゃ、いいんだけど。
今週は、どうでもよくないどうでもいいことでも書こう。
絵と文章は関係ありません。
【帽子】散髪代は自分でバリカンでやるのでかからない。その分帽子代にまわしても良いとの判断で、年々増えていく。似合うつもりで買ったけど、その後いまいち似合わないのが判明し、大事に取っておくのも癪なのでそういうのは捨てる。
ハンチングが自分の顔には似合わない。休日のおとうさんのようなダサさが出てしまう。
友達からプレゼントされたベレー帽も、3回かぶって行って、3回とも笑われたので今はかぶっていない。
カンカン帽にはまだ手を出していない。あの硬くて平らな帽子のかぶり心地はいいのだろうか。カンカン帽に似合う着衣を考えるとどうしてもコスプレになりそうだ。
夏の強い日差しや、冬の冷気から頭を守る必要のない春と秋。たまに帽子を忘れて出かけてしまうと、とても重大な忘れ物をしたかのような気分になる。【寿司】大学の時に部活動の打ち上げでよく使っていたM寿司という大きなお寿司屋さんがあった。
2階の座敷を貸し切りにできて、カラオケがあって、しかも料金は飲んで食って騒いで一人3000円ほど。その店は10年ほど前につぶれていた。
先日、大学の友人が「M寿司が別の場所でやっている夢を見たんだ。で、検索したら実際にやってたよ」というので行ってみた。
大将の自宅を改装した寿司屋はラブホテル街にあった。店というより自宅に暖簾をかけた感じ。夫婦でやっている。全体的に、もうちょとなんとかならんかなぁ、と言いたくなる店だった。
室内犬がいて、我々のこたつ席の座布団にやってきては寝る。撫でると「グルグルグル〜ッツ」とうなり声を立てる。でも、またすぐ席のまわりにやってくる。
撫でながら、おかみさんに「これ、嫌がってるんですか?喜んでるんですか?」と聞くと「ええ、嫌がってるんですよ」と言っていた。【金と死】財布に小銭ばかり溜まってきた。今、一円玉がいっぱいある。100円の消しゴムの100分の1のカケラが1円だとすると、そんなものは気楽に捨てられるのに、1円玉は捨てられない。似合わない帽子は思い切って捨てられるのに、どうして1円玉は捨てられないのだろう……あゝ1円玉よ永遠なれ。
またしても最近、自分が死ぬのも、大事な人が死ぬのも怖くて嫌だとジクジク思っていた。「やすらぎの里」は今からでも見たほうがいいのだろうか。いや、死があるから宗教もあり、芸術もあり、楽しいと思える時間もある。死がなかったら、たぶん感動はしない。そう思ったら急に横尾忠則先生と一体化したような気分になった。「決して死は悪ではない」のだ。
わかってる、わかってる。これは仕事がヒマな時の典型的な症状である。【絵】最近、自分の絵があまり好きではない。いろんなタッチでいろいろ描いて、総合得点でなんとかならないかと思っているけど、絵の一つ一つを取ってみるとどれも生煮えで、たいした出来ではないと思えてきた。こう書くと、今週載せている絵に対して無責任にも思えるが、その時点で一生懸命やったつもりなので、許してほしい。
はい、おわり。

あったかい絵だね〜

世間の人に、しかめっ面されるくらいでないといけない。

新人はそれくらいトンガッタことをやるべきなのだ。
私はかつてそう思っていた。いや、今でもそう思っている。
初めて開いた個展『人の間』(2003年)は、そんな意気込みバリバリで臨んだのだ。
ところが誰だか忘れたが、友達の叔母さんという人が見にきてくれた時に
「あ〜、あったかい絵だね〜。私らの世代には面白いわ〜」と言われた。
やばい! こんな素人のオバさんに理解されているようでは、ちっとも新しくないではないか!

とガックリきたのだが、後々考えると、なんとか今現在、イラストレーターとして仕事ができているのは、このオバさんが言い当てた「あったかい」感じが私の絵にあるおかげのような気が、しないでもないのである。
というわけで、日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの自伝的ハートフルコメディエッセイ『笑ってなんぼじゃ!』につけているあったかさ全開の挿絵からです。
短い引用文だけ読んでも、内容はよくわからないと思いますけど…。 
相撲大会では、いつも2位。米屋の小林くんがいつも1位で、どうしても勝てんかったなあ。

荷物を載せて、次の場所に移動するんやろね。力士たちが、荷物を軽々とトラックに積んでいた。そこで見たのが、後に東の大関にまで上り詰めた大内山。

算数とか理科は得意やったけど、国語とか文系の科目がさっぱりあかん。でも計算の速さには自信があった。当時、毎月決まった日に、銀行員の人が学校にやってきて、子どもたちがお金を預けたり引き出しができる、「子ども銀行」というのがあったんよ。


「蘇州飯店」は大きな料理店で、ちょっとした舞台もあった。 かあちゃんは、歌もうまくて芸達者やったから、舞台で踊りを踊ったり、歌を歌うことも多かったんよ。


みんなは、初めてみるお菓子に目を白黒。かあちゃんと「もみじまんじゅう」の間を、みんなの視線が、行ったり来たりするのがおもしろかったよ。

当時はカラオケなんかないから、かあちゃんが歌を歌うことになったんよ。かあちゃんの歌のうまさは、親戚中のみなが知っていたからね。

かあちゃんの歌と、喜佐子おばちゃんの三味線。これがむちゃくちゃ、ええコンビ。やっぱり姉妹やから、あうんの呼吸みたいなのがあるんやろね。

中華料理は火の料理とよく言われるけど、王さんが炒めると、パアッと大きな火柱が上がり、迫力満点。 初めて見たときは、火の魔法にしか見えなかったよ。

佐賀では毎日バケツで水をくんだり掃除をしてたからお手のもんよ。店のスタッフのみんなにかわいがってもろたんは、俺がこうして店の手伝いを進んでしていたこともあると思う。

チャーハンを完璧に作れるようになったのは、小学校5年生くらいかな。佐賀に帰って作ったら、ばあちゃんにびっくりされた。
身長が2メートル近くて、体重が200キロ以上もある大男。 バスを3台も引っ張る力持ちで、首にかけた鎖を振り回して大暴れするプロレスラーだと聞いて、ひと目見たいと、大勢の野次馬に混じって店の入口で待っていた。

注文は、まずは鶏の唐揚げを50個。それが届く前に卵30個をそのまんまで欲しいという。口を上に開けて、右手で卵をぐしゃっと割って、あっという間に全部飲み干した。

夏休みを過ごした広島のことは、今でもはっきりと覚えている。小さい頃は、家と「蘇州飯店」の往復やったけど、小学5年生くらいになると、あるこち足を伸ばして探検に出かけた。

必ず「お風呂入っていき」と風呂に入れてくれた。これは「かぶと商店」さんだけじゃなくて、近所の人たちが俺の顔を見ると、「今日は、かあちゃんの店行くんか? 行かへんのやったらうちで風呂入り」と声をかけてくれた。

かあちゃんが忙しいときは小遣いもろて、一人でも食べにいった。お好み焼き屋というても、駄菓子屋とか貸本屋と併設された小さな店で、20、30円で食べられるんよ。
「お好み村」は、お好み焼き屋台のほかに、甘栗とかの露店やら金魚すくい、うなぎ釣りの露店まであって、ちょっとしたお祭りみたいな賑やかさがあった。
俺はうなぎ釣りが得意で、一度に3匹も釣り上げたこともある。

1等席は、びっくりするほど豪華! 飛行機のファーストクラスみたいな感じで、背もたれが180度近く倒れて、背中も足も伸ばしてあおむけで眠れるんや。「うわー! 散髪屋さんみたいや」と、最初は興奮してなかなか寝られんかったよ(笑)。

どうやって食べたらええか戸惑っていたら、ウエイトレスのお姉さんが親切に教えてくれたよ。俺は「さくら号」の食堂車でテーブルマナーを覚えたんや(笑)。
満塁ホームランを打ったのが、母校の城南中学の後輩であることも大きかった。あのとき、日本中でどっちが勝ってもうれしかったのは、きっと俺だけやったと思うよ(笑)。この広陵対佐賀北の試合は、高校野球史に残る一戦となった。

やっぱり、今でもあの決勝戦は、佐賀の人にとっては、自慢の名試合なんよ。そしたら、店にいた人が「俺、副島の親戚や」「え! ほんまかいな。ほんなら今から呼べ!」(笑)。しばらくしたら、ほんまに副島くんがすし屋にやってきた。

友達に川に泳ぎに誘われた俺。でも、海水パンツなんて持ってなかった。そこで、ばあちゃんにお願いした。「海水パンツを買ってほしい」「そんなもん、いらんばい」「え、でも僕も泳ぎたい」
「泳ぐのにパンツはいらん、実力で泳げ!」。

ばあちゃんは、いろりとかまどを上手に使い分けていた。煮しめを作るときは、あらかじめ材料に薄めに味付けしてかまどで煮立てる。それをいろりに移してじっくり煮込む。

ばあちゃんの料理で覚えているのは、こんにゃく、ゴボウ、レンコン、ニンジンをいろりでじっくり煮込んだ煮しめ。
洋子おばちゃんちには、当時、5歳のやすのり、3歳のてつろう、1歳のとも子の3人の子どもがいた。まだ小さい子どもを3人も抱えた洋子おばちゃんは途方に暮れた。そこで、ばあちゃん登場!
「うちの2階に住め!」と、ガハハと笑った。

一槽式で脇にローラーが2本付いていて、洗い終わった洗濯物をそれに挟んで搾って 水気を切るタイプやった。もうね、びっくりしたよ。

喜佐子おばちゃんの旦那さんは、専売公社に務めるサラリーマンやったけど、働き者のおばちゃんは、小さな居酒屋とかき氷屋を切り盛りする兼業主婦でもあった。

卒業式には、かあちゃんは仕事で来れんかったけど、ばあちゃんが来てくれた!これはほんまにうれしかった。

思い返せば、ほんまにいろんなことがあった小学校時代。 思い出に一番も二番もないんやけど、今でも夕暮れになると、ふと思い出すことがある。

家までの道中、なんの歌かは思い出せんのやけど、おまわりさんは、ずっと歌を歌ってくれた。俺はいろんな感情がごっちゃになって涙が出そうになるのをぐっと堪えていた。

東京東は水の都

おっと、1日ずれて水曜日更新になってしまいました。

といっても先月、無断で更新を休んだ週がありましたが、「どうしたの?」という問い合わせはゼロ。

こんなブログだれも見ていないのに、なんで律儀に更新しているんだか、自分でも不思議になってきました。

だいたいブログっていうのが、ややどんくさいメディアになってしまったのでしょうか。
最近はブログになんか書くよりも、SNSにアップした方が、拡散されて、よりたくさんの人に見てもらえることになっているようです。
私はツイッターとフェイスブックに「ブログ更新しました」というお知らせを載せているのですが、クリックして、ここにとんで来てもらわなねばなりません。
それよりも、SNSに直接書き込んだ方が、反応も少しは良いと思う。
クリックさせるなんて温度が数度下がる感じがするのです。
さらに、自分のやっていないインスタグラムやタンブラーなどは、画像が主のSNSで、イラストレーターにとってはそっちの方が広がりがいいなんて聞きます。
ツイッターをやっているのは中年以上で、若い人はインスタだとか言うし。なんだか取り残された感じです。
でも、みんなが昔、ミクシィに書き込んだ記事は、今どうなっているのだろうか?誰かに読まれているんだろうか?
と、久しぶりに検索するとミクシィというのはまだあるんですね。でも、もう自分のページも10年以上見ていない。
そうやって、はやいとこ、インスタグラムもタンブラーも過去のものになってしまえばいいのに。
その前に自分が過去の人になってしまうでしょうがね、ハハハ。
さ、文字数も稼いだことだし、あとは思いっきり手抜きで、終わらせましょう。
このあと、出かけなきゃいけないし。
昨日から、銀座のリクルートで東京イラストレーターズ・ソサエティ(TIS)の展覧会やってます。
〈今年は、会の名称にちなみ、東京、それも会場の銀座を含む東半分の色濃いエリアがテーマです。来年の設立30周年を前に、江戸下町から継承された伝統と新しいエネルギーが混在するいま注目の景色を、163人のアンテナで描きあげます。「東京東」再発見にお出かけください〉

• 2017年8月22日(火)~ 9月14日(木)

• クリエイションギャラリーG8
• 〒104-8001 東京都中央区銀座8-4-17 リクルートGINZA8ビル1F TEL 03-6835-2260
• 11:00 ~ 19:00
• 日・祝日休館
• 入場無料
で、私の絵はこれだ!
タイトルは「雨ふり」。昔の東京、つまり江戸は川、堀、水路がめぐる”水の都”だったらしい。雨の日の江戸の下町を思い浮かべて、水彩絵の具で描いてみました。
今回はギャグも、オチもなしの絵でございます。
売ってます。

昔話法廷2017

本当は先週お知らせすべきことでしたが、うっかり忘れてしまったので、事後報告でございます。

昨日8月14日と今日15日の午前9時30分より、『昔話法廷』の新作が放映されました。
今年は「ヘンゼルとグレーテル」と「さるかに合戦」の裁判が開かれます。
ではさっそく私の描いた絵だけを見てみましょう〜。
深い森の中をさまよい歩くヘンゼルとグレーテル(なお、登場人物は法廷に出廷する役者さん、着ぐるみの容姿に合わせて絵を描いています。ゆえにヘンゼルとグレーテルも黒髪であります)。
白い鳥に案内されて、お菓子の家にたどり着く二人。
お菓子の家の主人、魔女と出会う二人。魔女は優しく微笑み、グレーテルはやや怯えています。
燃えさかるかまどの中に、突き飛ばされる魔女。魔女の家にあった金貨を盗む二人。金貨を父親に持って帰り、褒められてうれしそうな二人。
案内する白い鳥の証言。
大鍋をかき混ぜて秘薬を作る魔女。
縄で縛られて泣く子供たち。
ふかふかのベッドに二人を寝かせる魔女。
檻に閉じ込められたヘンゼル。
ヘンゼルの差し出した鳥の骨を触る魔女。
ヘンゼルをさばくために大きな包丁を研ぐ魔女。襲われそうになるヘンゼル。
魔女を燃えさかるかまどの中に突き飛ばすグレーテル。
さて続いて、「さるかに合戦」裁判です。
柿の木の前で出会う猿と蟹の母子。
木に登る猿。
木の上で、熟れた柿を食べる猿。
青い柿を思いっきり投げつける猿。
青柿が直撃する母蟹。
地面に転がる蟹の母子の遺体。

ところで、先ほど、出廷する着ぐるみの容姿に合わせて絵を描いています、と言いましたが、カニだけは絵と着ぐるみの様子が違う。「あれ?このカニの甲羅、冷たい海に住む美味しそうな感じするんですけど、これに合わせて描いた方がいですか?」と問い合わせると「合わせなくても大丈夫です!」との回答を得ました。でも、面白いからいいですね。証言台に立つ殺された母蟹の息子。

芽に水をやりながら柿を育てる笑顔の母蟹。
青柿をぶつけられる母蟹を、木陰からおびえて見ている子蟹。怯えているのは、さっき、証言台に立っていた息子です。
猿を襲撃する臼、蜂、栗、牛の糞と子蟹。
猿にアタックする、蜂とアツアツの栗。
転んだ猿にのしかかる臼。
壁に押しピンでとめられた、子猿が描いた家族の絵。
生まれたばかりのわが子を涙を流しながら抱きしめる猿。
工事現場で肉体労働のアルバイトする猿。
母猿に暴力をふるう父猿、おびえる子供時代の猿。
鏡に映った自分の姿が父とそっくりだったことに愕然とする猿。
交際相手に手をあげそうになる猿。
粉々になった母蟹の遺体。

以上です。
事後報告と言いましたが、この番組は教材でもあるので、ネットでご覧いただけます。
特に「さるかに合戦」裁判は猿が死刑になるかどうかの重い判決を扱うからか、他の回よりも5分長いです。先ほど放送を見ましたが、なかなかの見ごたえ。ぜひご覧ください。
だって、あなたも裁判員に選ばれるかもしれないのですよ。
ちなみにうちの父親は、3年前、めでたく裁判員に選ばれ……かけ……ました。裁判員は70歳以上なら断れるのですが、うちの父親はギリギリ69歳で、まもなく70歳になる予定でした。本人は「あと少し遅かったら断れるのになぁ」とたいそう裁判員になるのを嫌がっておりました。が、すんでのところで選からはずれました。よかったですね。
確かに、「さるかに合戦」裁判のような重い刑の裁判員になるのはイヤなものでしょう。
でも私、蟹に青柿をぶつけられて、体がめちゃめちゃになってしまう蟹の絵を描いている時が、一番テンションが上がりました。
たぶん、私だけではなく、他の絵描きさんもそうなはずです。
円山応挙の『七難七福図』も、七福より七難の方が筆が乗ってる感じがします。
実際の事件を見れば「なんて非道いんだ、なんて酷いんだ」と目を覆い、心を痛めるのに、創作となるとちょっと楽しくなってしまう。なぜでしょうか。