伊野孝行のブログ

猫と猛暑

前にもこのブログで書いたかもしれないけど、猛暑日が来るたびに思い出すので、また書いてしまおう。

今朝は、火曜と金曜の朝にやっているジョギングの日だった。近所で小さな喫茶店をやっているおじさんと走っている。走っている時間は20分ほど。おじさんの店はものすごく狭いので、喫茶店をやっているといえども、おじさんは慢性運動不足。もちろん、座り仕事の僕も運動不足。そんな二人にとって唯一の運動が週に2回のジョギングなのだ。一人だったら絶対に3回で走るのをやめているが、相手が待っていると思うと続けられる。かれこれ走り始めて1年半が経つ。

そして一年を通して同じ時間に外に出ると、季節の移ろいゆく様子がわかるのである。季節ごとに入れ替わる植物の栄枯盛衰物語も、カラスの出勤時間の変化も、そんでカラスに荒らされまくったゴミを(火曜と金曜はちょうど燃えるゴミの日で、生ゴミが散乱しているのをよく見かける)、人知れず近所のおばちゃん達が、向こう三軒両隣の精神で掃除していることも、走り始めるまでは知らなかった。
美しい国ニッポンはこのおばちゃん達(年齢でいうとおばあちゃん達)によって保たれているのだ、間違いなく。おばちゃん達が掃除をやめれば、たちまち道路は、生卵の殻や、キャベツの芯や、濡れた紙くずが放つすえた匂いで満ち、それを目にしてモラルが下がった住民がゴミをポイ捨てして、街はスラム化するだろう……て、この話も前に書いたのだが、この話をするつもりじゃなかったんだ。また書いてしまおうというのは「気温の話」だ。
昨日、東京も梅雨明けして、巻き返しをはかるかのように急に暑くなった。猛暑、猛暑、猛暑。朝のジョギングですでに30度は軽く超えている。去年は危険を感じたので、集合時間を7時半集合から1時間早めた。ジョギングじゃなくても、昼間に歩いて5分ほどのスーパーに買い物に行って帰ってくるだけでも、ダメージがでかい。そんな時に思い出すのが、10年ほど前にバイト先の喫茶店で小耳に挟んだ会話だ。
誰だかわからないが、ウチの店で取材を受けている先生のような人がいた。いつもライターか編集者を前に、動物の話をしていた。だから動物に詳しい先生だと思う。この先生が語っていたことを小耳に挟んだ。
先生は「動物の進化に一番関係しているのは気温なんだ。気温の網が全ての種に覆いかぶさり、網をかいくぐれた種が繁栄し、かいくぐれなかった種が滅ぶということなんだね」みたいなことを言っていて「なるほどなー」と納得したのだ。
確かに気温の変化は全ての生き物に一様に影響を持っている。平均気温が、2、3度上がるだけで、生きられない種はいるんだろうな。逆に気温が変化したことで勢力を増す種もいる。
猛暑日の炎天下を歩いているだけで死にそうになるたんびに、私はこの先生の話を思い出してしまうのである。
猛暑は人間という種に覆いかぶさる真っ赤な網なのだ。
……はい、以上が「思い出す話」で、これで終わりなのだが、随分前に「チコちゃんに叱られる!」を見てたら、この先生が出ていた。
動物学者の今泉忠明さんという方だとわかった。
「猫はなぜ魚が好きか?」という回だったと思う。猫は小さい時に食べていたものを好んで食べるようになるので、世界にはトウモロコシを好んで食べる猫もいれば、パスタを食べる猫もいるらしい。らしいというか実際にパスタを貪り食う猫の映像が流れていた。日本はまわりが海だから人間の手から魚を与えられ、猫は魚好きになるのだ。
そういえば、高校の頃、校庭に住み着いていた猫にバッタをやったら、バリバリ何匹も食べていたので「猫ってバッタも好きなんだ〜!」と驚き、家に帰って自分とこの猫にバッタをあげても、食い物とは認識せずに、ただバッタをいじめていたことがあったが、それもそういう理由なのだろう。
ひょっとして、この話も前に書いたかも知れない。
しかし、遡って調べたりはしないことにしている。
人生も後半戦に入れば、誰しも、同じ話を繰り返すだけになるので、許されることになっている。
仕事じゃないし。

笑ってなんぼじゃ!(終)

日本農業新聞で連載していた島田洋七さんのハートフル自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』。連載が終わったのは去年の秋でした。あれからすでに半年以上経ちましたが、アップしないまま宿便のように残っていた挿絵をアップします。下手な挿絵は臭いものに蓋で、アップしません。まあまあうまくいったのだけ。吉本芸人も何人か描いていますが、昨日の吉本興業の記者会見を見て、そうだ今週のネタはこれにしようと思ったわけではありません。でも、挿絵を最後まで紹介し終えてスッキリしました。ちなみに島田洋七さんは漫才ブームの時は吉本を辞めていて、その後新幹線の中で偶然会った林会長直々に「ぼちぼち帰って来いひんか?」と言われて戻り、そのあとまたお辞めになり、今はオスカープロモーション所属です。
澤田さんは、俺らに声を掛けてくれた。「いつかゴールデンタイムで漫才やろな。そのときは、絶対に出してあげる。いや、ほんま。約束するよ」澤田さんといえば、あの有名な番組「てなもんや三度笠」を演出されたことでも知られている人。その澤田さんにそんなふうに言うてもろて、俺らは舞い上がった。 夜9時になり「花王名人劇場」が始まった。3組しか出てないから、1組の持ち時間が長い。20分近く何度も俺らの顔がアップで映る。周囲のお客さんがだんだん、テレビと俺らの顔を見比べるようになった。「ちょっと、あれ、あんたらやんか」「何してんねん、こんなとこで」「いや、あれ録画ですから」「おもろいな! あんたら売れるでー」戸崎事務所に入って3カ月後の給料日のことやった。当時、給料は手渡しやったんやけど、社長が「お疲れさん」と俺に差し出した封筒が、やたら分厚い。中を開けてみたら、なんとなんと、504万円も入ってたんや!「帯って何? 着物の?」ボケたんちゃうよ。月曜日から金曜日まで、同じ番組を同じ時間帯に放送する番組を「帯番組」て言うなんて、ほんまに知らんかったんや。後の「笑っていいとも!」の前身となる「笑ってる場合ですよ!」の総合司会に抜てきされた。俺は緊張しまくって何を話したんか覚えてないんやけど、俺らがしゃべっている間、裕次郎さんの後ろでずっと直立不動で立っていたのが渡哲也さん。「哲ちゃん、コーヒー入れてあげて、もう冷めているから」えええっー。渡哲也さんが哲ちゃん?
俺は急に売れだしてお金がいっぱい入ってきたけど、経理のことなんかさっぱり分からん。銀行にいくらお金があるのかも分かってないくらいやから、お金のことはほったらかしにしていた。そんなとき、テレビ局で会った加藤茶さんから聞かれた。「売れてるねえ。税金対策、ちゃんとしてる?」一生忘れられんのが、たけしと会ったころの話。「もし今、金がいっぱいあったら何に使う?」と、たけしが聞いてきた。「サバ丸ごと一匹買うて、食いたい」。子どもの頃からずっと貧乏してた俺は、サバといえば切り身しか見たことなかったから、とっさにそう言うた。たけしとの思い出は山ほどあるけど、やっぱり強く印象に残っているのが、石垣島かな。あのときたけしは、世に知られる”フライデー事件”の裁判中やった。マスコミの目を避けるために、あいつは沖縄の石垣島に身を隠してたんや。俺は何度も石垣島に足を運んだ。そうや、俺はもう頂上を十分に堪能した。写真もようけ撮った。自分で下りてきたらええんやな。そう思たら気持ちが楽になって、洋八と相談してみたら、あいつも俺の気持ちを分かってくれた。「またチャンスがあったら、一緒にやろう」たけしが先にシャワーを浴びたときに、俺はわざと湯船にお湯を入れんと「湯、沸いてるで」と言うてやった。しばらくして風呂をのぞくと、入っている。「ああ、いい湯だなー」とタオルで顔を拭いている。そして、「……入ってねえじゃねえか、このバカヤロ!」あるとき島田紳助から留守番電話が入っていた。「弟弟子の俺がこんなこと言うのは生意気やって分かってますけど、兄さんは楽してるんや。でも、もう一回売れなあきませんで。なあ、もう一回、俺と勝負しましょ。兄さんはおもろいんやから、絶対にできるって!」 最後の方は涙声やった。仕事で出会った評論家の塩田丸男さんが、さらに俺の活動の幅を広げてくれた。「洋七さんは講演はやらないの?」「講演? そんな難しい話はようしませんよ」「講演は、別に政治とか経済とかの堅苦しい話じゃなくてもいいんだよ」「え、そうなんですか?」
結局、40社以上の出版社を回ったけど、採用してくれるところはどこもなかったよ。半分近くの会社は返事すら、もらえんかった。「どこもあかんのやったら、自分で出したれ!」。俺は自費出版をすることにした。タイトルは、たけしが考えてくれた。「『振り向けば哀しくもなく』って、どうだ? メロドラマみたいでいいだろ?」「うーん、そうかなあ。まあええかも」
俺は漫才が終わると、誰もおらんようになった楽屋で一人、新喜劇が終わるのを待って、それから劇場の表にテーブルを出して本を並べて売った。俺とたけしと、たけしのかあちゃんの3人で食事したことがあるんやけど、いつもはようしゃべるたけしが、恥ずかしそうに、ずっと下向いて何もしゃべらへんねん。電話するときも「こづかいやろうか」としか切り出せない、不器用なたけし。あいつ、大好きなかあちゃんやのに、素直になれへんねんよ。ばあちゃんの葬式は豪雨の日やった。近所の公民館で葬式をしたんやけど、集まった人はみんな「ばあちゃんらしいにぎやかな日ばい」と言うてた。ものすごい雨音で、しんみりするはずの葬儀の場がにぎやかやったらしい。それに外に出ると人と会う。会話をする、刺激を受ける。うちのばあちゃんみたいに、生牡蠣をおすそ分けしてもらえるかもしれん。とにかく年をとれば取るほど、外に出てうろうろするべきなんや。当時、東京には広島のお好み焼きの店は、ほとんどなかったころやから、かあちゃんの店は大流行した。最初は、「B&Bの島田洋七の母親がやっている店」として来る人も多かったみたいやけど、そのうちに味の良さで人気が出たんや。かあちゃんは、日に日にやつれていった。見た目にも衰弱して、素人目にも、もう長くはないのが分かる。ほんまつらかった。意識が薄れているようなこともあって、そんなときは、枕元で聞いた。「かあちゃん、俺、分かる?」俺はかあちゃんが危篤とも言えず、気の利いたせりふも思いつかんまま、勧められるままに中に入れてもろた。観客席に行くと、ちょうど広島カープのチャンスやったみたいで、球場は大歓声に包まれていた。「おお!洋七さん。旗、振ってよ!」トレインマーケットも楽しかったけど、俺の一番の楽しみは、晩ご飯の後、じいちゃんとばあちゃんの話を聞くことやった。印象に残っているのは、アメリカ人がなんで、あんなにオーバーアクションなのかについての話。カウボーイといえば、アイダホのバーは、そのまんま西部劇の世界やったな。「近くのバー」と言われて、これまた20キロくらい車を走らせた所にあるバーに連れて行ってもらった。夜は真っ暗で人の気配もない。いつ動物に襲われるかもしれん。そんな中で、「銃があると寂しくない」という感覚は、経験したことのない俺には実感はできんけど、お守りのような存在やったんやろなあ、というのは想像できた。俺がまた吉本に戻ったのは、あれは漫才ブームが終わったころかなあ。新幹線でばったり、吉本の林会長に会うたんや。「ぼちぼち帰って来いひんか? 若いもんに漫才教えてやってくれ」と言われて、また吉本にお世話になることになった。その後は契約満了ということで離れることになるんやけど、俺が今あるのは吉本のおかげやと思てるよ。中田カウス・ボタンのカウスさんが、オチを言うた後で、一瞬の間を空けてから自分で笑わはるねん。そうするとお客さんもつられて笑う。あれは、カウスさんの師匠の中田ダイマル・ラケットさんの芸なんやな。それをついこないだ、カウスさんに言うたら「おまえは細かいとこ、よう見てるなあ」と感心されたよ。楽屋に届いたチャーシュー麺とラーメンを前にしたやすしさんは、そこで初めて「間違えた!」と思たんやろな。けど、動揺も見せんとラーメンをチャーシュー麺につけて食べ始めた。「こういう食べ方もあるんや」新聞を読んでたら、福岡の三越で鶴太郎の絵の個展が開かれることが書いてあった。ちょうどそのとき、俺も佐賀にいるスケジュールやったから鶴太郎に連絡して、福岡で飯を食うことになった。すし好きな俺やから、当然すし屋に行く。そこで鶴太郎に言うた。「おい、カニ食え」「変わってませんねえ」と言うた鶴太郎は大爆笑。
若手芸人が漫才するバーというのは分かるんやけど、俺が女装してたとこだけぱっと見た、明石家さんまとフジテレビの三宅ディレクターがやって来た。「兄さん、何してはりますのん。女装までして。そんなに金に困ってはるんやったら貸しますよ」とか言いよる。「よし、これならいける!」と、所沢にラーメン屋「まぼろし軒」を開店した。店の名前は、ビートたけしが「夕方まぼろしのように現れて、明け方まぼろしのように消えていく。いつ消えてもいいように」という意味を込めてつけてくれた。そしたら、映画の評判がよかったこともあって、「テレビドラマにしないか」という話が持ち上がったんや。話を持ってきたんは、佐賀の民放テレビ局・サガテレビを系列局に抱えているフジテレビ。メインロケ地は、市長さんが中心になって誘致を進めた佐賀の武雄市が選ばれたんやけど、武雄市には「佐賀のがばいばあちゃん課」まで設置されたんやで。
そんなわけあらへんやろ! と思たんやけど「周りを全部、うまい役者さんでそろえるので大丈夫ですよ」とか言われて、断るに断れんようになって、俺がばあちゃん役として舞台に立つことになった。
まあ、なんとかなるやろと思て迎えた舞台の初日。そもそも、俺はどんな舞台や収録でも緊張というもんはせえへんのやけど、幕が開く3分前に突然不安になった。
この連載は、自分の集大成やと思て臨んだ仕事やから、これまでどこにもしゃべったことない話や、書いたことのないエピソードも、正直に全部書かせてもろた。    俺自身も今までの人生を丁寧に振り返る機会になったよ。何十年ぶりに思い出したエピソードもたくさんあって、ほんまにいい経験になりました。
以上で 『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵紹介もおわりです。
で、日本農業新聞では週一で『笑ってなんぼじゃ!世相編』と題して主に時事問題を取り上げたエッセイが始まっています。そこでも挿絵を描いてます。

開巻一笑

これは6月28日の早朝にツイッターに投稿したものです。

ご覧のとおりバズっています。

そしてツイートから5時間後に、なんとこの置物を持っている方が現れました。

おお〜っ!色は違って、欠けたところもあるが、まさしく同じもの。さっそくこの方に連絡を取り、ゆずってもらうことになりました。
ツイートに何という置物か?読んでいる本は何か?という質問が入っているので、それをお題にして、いろんな人がふざけて大喜利がはじまりました。これも拡散された要因で、結果的に置物が見つかったのだからお礼を申し上げたいです。どうもありがとう!
まじめに推測、回答くださった人も多かったですけどね。
実を言うと、この置物は京都のギャラリーカフェ「隠」というお店にあります。
ガラスに写り込んでいる右の方は芳澤勝弘先生です。禅学・禅宗史研究家で白隠研究の大家であります。
カフェの2階に白隠禅画が並ぶギャラリーがあり、その上の階が先生の研究室にもなっていたはず。カフェの名前が「隠」なのも納得していただけると思います。
カフェ自体は先生の知り合いの方がやっているのだったか、詳しいことは忘れてしまいましたが、お店で先生と仕事の打ち合わせを終えて、外に出た時、壁面のディスプレイに見つけたのがこの置物でした。
「わ〜、先生これめちゃいいじゃないですか!この置物なんなんですか?誰が作ったんですか?」私は一目見てトリコになってしまいました。
「これはな、かいかんいっしょうというやつだよ」
「かいかんいっしょう…?」
漢字で書くと「開巻一笑」。
でも、それがこの置物の題名なのかなんなのかはよく分からずじまいでした。カフェをプロデュースしている人が見つけてきたのか、骨董品屋が先生のところに持ってきたのか…ちょっとの間の立ち話で、根掘り葉掘り聞くのも悪いと思って、写真をとるだけにして後で家に帰って調べることにしました。
「開巻一笑」を調べると中国の明代の笑話集らしい。日本でも訓訳されて読まれていたようです。
「開巻一笑」で検索して出てくるのは笑話集のことだけで、置物の情報は出てきません。
この置物の名前ではないかもしれません。ハゲ三老人が読んでいる本が「開巻一笑」なのか、この状態が「開巻一笑」なのか。置物の本には題がついていないから、状態のことを差して先生は言ったのでしょうか。
見たところ一点ものではないと思いました。先生の口から作者名が出てこなかったことからして、工房かどこかで作られた職人の仕事だとにらみました。
欲しいには欲しいが、本気で探すとなると玄人(骨董屋)の手を煩わすことになると思ったし、その筋に親しい人もいないし、早々にあきらめました。基本、物欲がないのでね。
あれからそろそろ1年が経とうとしていた時に、スマホの中の写真を見返していて、ふと思い出したようにツイートしたというわけなんです。もっとも本気で見つけようと思っていたわけではないし、単なる暇つぶしのつぶやきにすぎなかったのですが…。
しかし見つかるとはね〜!
7月7日、ついに我が家におじいさん達がやってきました。
置物は私に譲ってくださった方(くじらのとけいさん)の義理のひいおじいさんの持ち物だったらしい。
ひいおじいさんは今はない阪和鉄道という会社で設計士として働いていらしたようです。古い家を取り壊す時にこの置物の存在を思い出したものの、事情を知る者はもうおらず、新しい家にはこの置物を飾る場所もなく、埃をかぶったままだったということです。
さて、丁寧に梱包された箱の中から取り出した置物は大方の埃は掃除されていましたが、長年積もってこびりついた埃や黒ずみが取れなかったので、歯ブラシに水をつけてこすってみました。一番右のおじいさんからです。するとハゲ頭の地肌が見えてきました。
さらにこすっていると、アレ?色も落ちてない?とヒヤッとしたのも手遅れ、右のおじいさんの着物の襟元が消えてしまいました。
僕はてっきりこの置物は焼き物だと思っていたのですが、どうやら粘土か石膏でできた塑像のようです。
叩いてみると焼き物のような高く乾いた音がしません。それにさっきから水をかけても流れ落ちるだけでなく、いくぶんか染み込んでいるような気がしないでもなかったのです。
部屋中に独特の匂いがしはじめました。たぶんこれは石膏の匂いでははなかったかな。
とりあえず、水で掃除できる黒ずみや汚れを全体的に落としてから、乾かしました。
洗浄後。右のおじいさんの襟元の色がハゲてしまいました。
もともと元どおりに復元するのではなく「隠」で見た置物に印象を近ずけるつもりでしたので、とんでもないことやっちまった!とは思いませんでしたが、びびったことは確かです。焼き物じゃなかっとはねぇ。
ちなみにこれくらいのスケール感です。
ひっくり返してみると、中がくりぬいてない。焼き物は中をくり抜かないと、焼く時に破裂すると聞いたことがあります。
裏には銘もなければ社名もない。左上から少し斜めに割れた跡?が見えますね。
水洗いした後の、この土人形のような素朴な感じも悪くないですね。迷いましたが、でもハゲ頭は光っていて欲しい。
乾いてから、指でおじいさんの頭をこすってみますと、指の油で頭が光り出しました。
なるほど。
全体的に磨き上げて光沢を戻し、欠けたところを粘土で継ぎ足して、油絵の具で色を補なったのが下の写真です。
左のおじいさんの欠けている指は粘土で補修しましたが、右のおじいさんの持っている手あぶり火鉢の取手は復元しませんでした。
でも、なかなか「隠」で見た雰囲気に近づけません。
あちらの肌の色は古びた感じも含めて自然で超絶妙。塗り直した頭部がどうもフィギュアっぽい。これから古色をつけるべきかどうか悩みどころです。
おじいさんは何を読んでいるかって?本は白紙でしたね。
でも、本の表紙の模様は芸がこまかい。
色もだいぶ違うので、何人かの職人さんが塗っていたのでしょう。
私の置物では、左のおじさんの羽織の紐がないのですが、代わりに金具がついています。羽織の紋も「隠」とは違います。
火鉢の柄も違う。私のはラーメン丼の模様。でも芸が細かいのは、火鉢の表面が焼き物のように細かく亀裂が走っているところ。ここだけ焼き物かと思いましたが、そうではなく、ここも石膏?のようです。炭もちゃんと入っています。
毎日、ちょこちょこ手を入れながらこの置物を眺めています。
何が好きかって、ま、この雰囲気が好きなんだけど、ある種自分の理想のような世界です。この仲間に入りたい。
私の髪型はまもなくこのおじいさん達と同じになるのですが、ハゲも悪くないと思わせてくれます。そういう意味でも好きかな。
置物のお礼として、くじらのとけいさんには、つまらぬものを色々お送りしたのですが、一枚、置物がこっちにきた代わりに置物の絵を描いてお送りしました。
のぞいているのは一休さんと蜷川新右衛門さん。ま、いつものお得意のってやつですが、実は芳澤勝弘先生、アニメ「オトナの一休さん」の監修もされていて、去年打ち合わせで行ったのも田辺の酬恩庵一休寺から頼まれた頂相(禅僧の肖像画)を描くための打ち合わせだったのです。
今度先生に会うことがあったら報告しなければ。あ、そうそう、くじらのとけいさんも京都にお住まいだということで、この置物は京都のどこかで作られていたのかもしれません。
以上、「開巻一笑」後日談でした。
おわり。
追記。ブログを読まれた芳澤勝弘先生より連絡をいただきました。「開巻一笑というのは小生の命名です」「10数年前にパリで出会ったあるご婦人からいただいたもの」とのことです。

あっちをとればこっちをとれず

不思議と、さあブログを書こう!というモチベーションの日がたまにあるのだが、あいにく今週もそうじゃない。

このブログはWordPressというソフトで書いている。それとは別に、ホームページのリニューアルに向けて、毎日まだ公開されていない新ホームページ内にコツコツコツコツ作品をアップしている。これもWordPressというソフトを使っている。そのせいか、もうWordPressの管理画面を見るのがイヤになっているので、それも原因かもしれない。

今のホームページはちょうど12年前、2007年に作った。当時は最新式だったのに今ではすっかり古くなってしまった。すでにスマホでは作品ページがうまく表示されない。テレビが今後4Kになるように、最近はスマホやパソコンの画面の解像度も上がってきているので、これからは低い解像度だときれいに見れない。

今までブログを更新し続けてきたのでウェブ用の画像はいっぱいあるのだけど、どれもサイズが足りなくて、また全部用意しなければいけないのだ。スキャンし直して画像補正するのが超めんどう!チッキショー!

リニューアルについては「あっちをとればこっちをとれない」問題がいろいろあって、果たして今の終わりの見えない作業がむくわれるかどうか疑問に思うこともある。
「あっちをとればこっちをとれない」問題というのは、たとえば、ホームページやブログを自前で作るのではなくて、Tumblrやscrapboxなどの既存のサービスを使った方が、シェアされやすく広がりがいいだろう。このブログだって僕は独自ドメインを取得して自前ではじめたけど、今はnoteというサービスを使った方が広がると思う。ただ、ホームページに足を踏み入れたときの第一印象やいかに効果的に見せるかということも大事なので、既存のサービスでは物足りない。
常々「他のヤツとは全然違うから素晴らしいのだ!」ということが大事だと思い、何でもかんでも自分の色をつけようとしてきたが、そんなことを言っているとリニューアルをお願いしているウェブデザイナーのOさんに「伊野さん、ウェブの世界は古いやり方でやってると存在してないのと同じですから…苦しいだけです」とたしなめられるのだ。
リニューアル後はもう一つ「対談」というページを増やすのだが、そこではnoteを使うことにした。改心します。
なんかフツーのこと書いてるなぁ。こんなことは書くほどのことでもないし、読むほどのことでもないじゃないか。
よし、ついでに普段は書かないお金の話でも書こうかな。こういう仕事もしたことだし。
去年、「日経おとなのOFF」で仕事をもらって打ち合わせをした時に「フリーの人は絶対絶対イデコに入った方がいいですよ」と言われた。
ちょうどお金の特集だった。
50歳までならイデコ、50歳超えてたらニーサがおすすめらしい。どちらも運用して増えた利益が非課税なのがポイント。
これは「年金で面倒見きれないので自分でなんとかしてください、その代わり税金はいただきません」という国の方針のようだ。もちろん運用するということは元本割れする可能性もなきにしもあらずだが、そんなことよりも、イデコがいいと思うのは、掛け金が全額控除になるので、確定申告の時に収入金額から堂々と差し引ける。
毎月イデコのためにお金を用意しなければいけないのはきついかもしれないが、もし当面使う予定のない貯金があるのなら、そこから月々イデコに移すという風に考えれば、自分の貯金が全部控除扱いになるわけだ。貯金が必要経費に変身!みたいなもんだ。ということは万が一、元本割れしても節税分だけでけっこう得すると思って、私も入ったのだ。
金の話をしてブログの品格を下げてしまった。ちなみに私はバイト時代も無職の時も貯金がゼロになったことがないケチで用心深い男なのです。あしからず。
今週アップした仕事は<NewsPicksのもう一つの編集部、NewsPicks Brand Designから、新媒体「NewsPicks Brand Magazine」が誕生した。Vol.1のテーマは「新時代のお金の育て方」。金融庁発の「老後2000万円問題」が紛糾する中、お金に関する不安から自由になるために若手ビジネスパーソンは何をすべきかを、徹底的に考え抜いた一冊だ>というものです。
知的でもありお茶目でもあるような誰でもない外国人というオーダーで、例えとしてあげられた人物の中に、ウッディ・アレンがいた。だからこの絵は断じて微妙に似てないウッデイ・アレンの似顔絵ではない。
あと、誰もわからないとは思うがこの絵は油絵の具で描いた。
実に四半世紀ぶりに油絵の具を使ったが、めちゃくちゃ描きやすい。
アクリル絵の具はすぐ乾くので、グラデーションを作るのが難しいが、油絵は簡単にできる。絵の具ののびがとてもいい。乾いても色が変わらない。
というわけで、イデコと油絵の具をオススメして今週は終わるよ。

さぼるための更新です

今週はわけもなくブログさぼりたい。それでも10年間毎週更新しているので、間を開けるのが気持ち悪かった。さぼるための更新です。なさけないです。寝転びながら描いた絵でもご覧ください。来週は立ち上がるんだ〜、亀よ〜!

『私のイラストレーション史』

〈この本は、私が生きた時代に目撃した「日本のイラストレーション史」を記録しておこう、と企画して書きはじめたのです。〉
南伸坊さんの『私のイラストレーション史』のまえがきの書き始めです。
もちろん、イラストレーション以外の話もたくさん盛り込まれています。
「絵びら」屋さんの店先で手描きポスターのできるのをジッと見つめる南伸坊(当時は伸宏)少年。
いろんなきれいな色が作業的に塗られていく。はじめのうちは何が描いてあるのかよくわからない。そのうち、墨が入って輪郭ができ、何が描いてあるかわかるようになると、伸宏クンはこう思うのです。
〈最後に使うのが赤と黒で、目鼻やリンカクが描かれて絵が完成していくのだったが、コドモ心に、そこに本日開店だの、出血大売り出しだのと文字が書き加えられていくと、なんだかせっかくのキレイな絵が台無しになってしまうのがとてもザンネンだった。〉
う〜ん、とてもよくわかる!わかるよ!とオニギリ頭を思わずナデナデしたくなります。
デザイナー志望のきっかけは小6の時に行った、親戚の家の床の間に飾ってあった明朝体のレタリング。
それはその家の娘さんの作品で、彼女は年上の美人だったので、お姉さんへの憧れとともについデザイナーになろう!と思ったのです。
のせられて立候補することになった中学校の生徒会長選挙では、15枚のポスターを全部違うデザインにするという凝りようで、結果、教育的な意味合いは別にして断トツで当選してしまい、いまだにこれを超える効果のあるデザインやイラストの仕事はできていない……なんてエピソードも可笑しいが、早々と本質的なイラストレーション体験をしているのがスゴイなぁ。
イラストレーションのことを語ると自然に他のものも引きずってくるのは個人の体験が核になっているからですが、逆にそれがない「イラストレーション史」なんて面白いのかな?と思います。
確かに『私のイラストレーション史』は個人的な話には違いないんですが、この本に書かれる伸坊さんの少6からガロの編集長時代というのは、ちょうど60〜80年代のエポックメイキングな時代がまるごと入っているんです。
貸本屋で借りてきた水木しげるの『河童の三平』の一コマが心に焼き付いた話。
〈お茶漬けなんかを、サラサラサラと食べた後、三平がだだっぴろくなってしまった座敷で、ゴロンと横になってるところ、寝返りをうって横向きになったりしてるところの、絵の完成度はどうであろうか。すばらしい!こんな絵は水木しげるでなくてはゼッタイ描けないし、何度見ても釘付けになってしまう。〉
伸坊さんは小学生の時にお姉さんとお父さんを亡くされているので、この『河童の三平』を読んだ中学生の時、コマの中の三平を昔の自分を見るように見つめていたようです。
これぞまさしく名画との出会いじゃないですか!
『河童の三平』って友達探しの旅みたいな感じもして、ぼくが読んだのはずいぶんな大人になってからですが、ちょっとさみしくて、なんかジーンときちゃうんですよね。
高校の先生が教えてくれるデザインのセンスはもう古臭いと思ってたし、その生意気な鼻っ柱をクスクスくすぐって嗅覚を刺激する、新しい時代の絵やデザインは、もう本屋さんやポスターの中に出てきつつあったのです。
何しろ時代は60年代。
そして1966年『話の特集』が創刊されます。
〈話の特集』創刊号を買って、勇んで教室へ行った日のことは、いまでもよく覚えている。遅刻ぎみに教室へ入ると、人だかりがしている。のぞき込むと、人だかりの中心に、秋山道夫がいて『話の特集』を机の上で開いていた。〉
おー!!なんかすごいっすね。
『河童の三平』の一コマが水木しげるでなくてはゼッタイ描けないように、それは和田誠さんでなくてはゼッタイ作れない雑誌だったのです。
まさに新しい時代の若者たちの表現。
新しい時代は新しい表現を選ばせるのです。
出来たて一番アツアツのときに、腹をすかせてガブッとかぶりついてる感じが、こっちまで伝わってきて、お腹が空いてきます。
ぼくは自分が生きていない時代のことは、つまみ食い程度にしか知らないんだけど、案外つまみ食いがそのまま自分の大事な部分の血や肉になっている気がする。
つまみ食いって腹にしみわたるんですよね。
もっとちゃんと食べたくなっていたので、この『私のイラストレーション史』は待ちに待ってた本でした。
とっても満足感あります。それだけでなく、さっきも言ったようにまたお腹が空いてくるのです。
〈結局、傑作を作らせるのはいつも傑作なのだ。優れた作品に出会うというのが一等強力なモチベーションである。〉
というのもすごく納得できますね。自分もこんな世界を作ってみたい!と激しくそそのかされてぼくもはじめたんだと思います。
〈芸大をめざして、都立高の入試を受けたが失敗、定時制にもぐり込んで夏休みに転入試験を受けたが失敗、やっとこ翌年に工芸高校にギリギリ入学したものの卒業時には赤点で追試、追々試でお情けの卒業はしたものの、芸大入試を失敗、失敗、失敗と、あらゆる試験に落ちまくり、結果、試験のない「美学校」へ入学することになったこと、その学校がめちゃくちゃおもしろかったこと、その時期があったからこそ、無試験で『ガロ』の編集者になれたこと。
とすべての一つ一つは、承知していたことだけど、そのすべてがそれぞれに有機的に関係していて、そのすべてがムダじゃなかったばかりか、少しのムダもなく、まるで予め決められていたかのように推移していったのだ。〉
めちゃクレバーな頭の伸坊さんですが、意外にも試験という試験に落ちまくりなのところが勇気づけられるじゃないですか……っていうか試験ってなんなんだろね?
この本を読んでいると、伸坊さんの人生はこうやって、つまづいて、曲がって、伸びて、絡まって……とそれにしてもうまいことできてんな〜と思わずにいられない軌跡を描いています。
誰しも海図のないまま海に漕ぎ出だすのが人生だけど、自分が好き、面白いということで舵を切って行けば、そして『ガロ』の編集部に入って長井勝一さんに学んだという「優れた作品に対する感謝」の気持ち、「楽しませてくれた人を尊敬する」気持ち、を持ち続けていれば、自然に導かれる必然性のようなものがあるのかもしれないですね。
〈ほんとなら『私のイラストレーション史』なんていう地味なタイトルじゃなく『読めば3分で運がよくなる本』としたいくらいですが、そこは人柄が奥床式だから……。〉
はははは。
この本の中の最重要登場人物、和田誠さんと赤瀬川原平さん。伸坊さんが尊敬するこのお二人の直接の交流は少ないと思うし、作物には相反する(?)ようなところもありますが、南伸坊さんには和田さんと赤瀬川さんの両方が色濃く入っていて、伸坊さんの中で合体している。これは後で生まれた人の中でしか起こらないことです。このことを考えるとけっこうグッとくる。
自分はそんなこと出来てるのかなって反省もする。
ご存知のように、イラストレーターでもあり、デザイナーでもあり、編集者でもあり、エッセイストでもある伸坊さんでなくては書けない本だし、「私の」と断っていますが、最も大切な要点を押さえたスタンダードな日本のイラストレーション史だと思います。
マンガ史やサブカルチャー史とも交わっている点においてもね。
そう、マンガとイラストが交わるということにおいては、伸坊さんが『ガロ』の編集長をやってる時に、安西水丸さんや湯村輝彦さんにマンガを描いてもらったのなんか、外すことのできない重要な歴史なんですよ。
イラストにとっても、マンガにとっても、メディアにとっても。
ぼくだったら自分のお手柄にしちゃうところだけど、そこは伸坊さん、人柄が奥床式だから……。
いや〜、いつもは適当にブログを書いているのですが、ちゃんと書かなきゃと思うとかえってうまく書けないもんですね。
ま、ぼくの紹介が面白くなくても、本を読んだら絶対に面白いと思うので、必読中の必読図書、オ・ス・ス・メです!
おわり。