新・伊野孝行のブログ

2020.2.25

見る禅語

一休宗純はスーパー禅僧なので、禅宗の僧侶にとってもアイドル。『オトナの一休さん』を描いてから今までに何度か禅僧の方にサイン色紙を頼まれました。
これはおかしいんですよ。禅のプロである僧侶に、禅の素人の私が一休さんの絵を描いてあげる、という行為が。
淡交社から出てる『なごみ』というお茶の雑誌の仕事で、世田谷にある龍雲寺に細川晋輔和尚を訪ねた時もそうでした。
「アニメ、毎回録画して見てました。サイン色紙をお願いできますか」と。

やはり一休さんはすごい。NHKはすごい。「オトナの一休さん」は5分間アニメなので、日本人全体の視聴率はかなり低いと思う。しかし、禅宗のとくに臨済宗は視聴率100パーセントかもしれない(一休さんは臨済宗なので)。そう思うと禅の世界へのパスポートを手にしている気がしてきました。
えへっへへ。

打ち合わせが終わり、車で送ってもらっている時、運転してくれている若い僧の方に、和尚さまが
「こちら『オトナの一休さん』を描いてる伊野さんです」と紹介してくれました。
よし、ここでまた「え!そうなんですか」と来る。描きましょか、一休さん。なにしろ臨済宗は視聴率100パーセント。

ところがハンドルを握る若い僧の方はバックミラー越しに答えられました。
「『オトナの一休さん』ですか……アニメ?はぁ……いや、すみません。存じ上げません」

そ、そうなんだよ、修行中はアニメなんか目に入らないんだよ!臨済宗は視聴率100パーセントではない。これは私のおごりでした。10パーセントくらいかな。喝!

それは置いといて『なごみ』ではじまってる細川晋輔和尚との連載は「見る禅語」。見る禅語ってことはつまり禅画ということですかね。

平常心是道(びょうじょうしんこれどう)

道とは悟りのこと。何か特別のことではなく、行住座臥(歩く、立止まる、座る、横たわる)の日常生活そのものが悟りである。そういう意味の禅語。利休は「茶の湯とはただ湯をわかし茶を立てて飲むばかりなるものとこそ知れ」と言った。しかしありのままでいようと思ってしまうと、それがかえって造作になる……ということらしいので相撲の立合の絵にしてみました。ただ前に出る、そのことがむずかしいのでゴンス。

三冬枯木花(さんとうこぼくのはな)

冬のまっただ中の枯れ木に花が咲くということ。極寒の最中、枯れ枝に花が咲くはずはない。それは知識で知っている。外から学び取った知識で人生の問題の解決はできるか。これ以上どうしようもないと思ったら大切なものを手放そう。自分を捨て切った先に一筋の光が見える……ということで、とりあえずスマホの画面で探し物をするのをやめてみませんか。スマホ猿ですよ。あなたもわたしもスマホ猿。お猿さん、ほら、上をご覧なさい、という絵。

不立文字(ふりゅうもんじ)

真理は言葉では表現することができないという禅の根本的な考え……というわけで、展覧会で解説プレートをじっくり読んで、作品の方はそれほどじっくり見ない人のたとえ。解説プレートはあるとつい読んじゃうけど、あれは鑑賞の邪魔をしてると言えなくもない。言葉はあくまで道しるべ。自分の感じた体験を大切にしましょう。

細川晋輔和尚の本です。禅の明日をしょって立つ男!いよっ!