伊野孝行のブログ

興福寺火事絵巻その1

GWいかがお過ごしでしたでしょうか。私は寝たり起きたりの生活でした。体の調子が悪かったというわけじゃなくてね。無為に過ごすという。無為とはダラダラと無駄に過ごすことでもあるけど、仏教で無為といえば不生不滅の存在のことであり、老子でいうところの理想の境地でもあるわけですが、もちろんダラダラ過ごす方のネ。

言葉が物事を区別するものなら、同じ言葉に良い意味と悪い意味があるのがややこしいんだけど、もしかしてダラダラ過ごすことが実は真理に近いんじゃないかと思ったりしない?あと、眠るときに見る支離滅裂な物語と、将来の願望が同じく「夢」と呼ぶのもどうしてだろう。

過ぎ去ったことも夢のようだと言ったりする。

奈良の興福寺は、710年に創建されてから現在までなんと!ナント!南都!7回も火事にあっている。その度に再建されてきたわけだが、江戸の火事で中金堂が焼けた後は、ややみすぼらしい仮堂のままで今日に至っていた。しかし去年、中金堂は創建当時の姿のままで再建され(8回目)、天平の夢をもう一度我々に見せてくれたのだ。

そんな興福寺の歴史を追ったのが先週放送されたNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」。ふだんは再現ドラマで見せるパートを今回はアニメでやりました。

その火事絵巻を何週かに渡って紹介いたします。

はじまりはじまり〜。

時は飛鳥時代末期(700年頃)。平城京の場所を決める時、藤原不比等は春日野に近い小高い丘を通りかかった。
「うまし丘よ。ここなら都が一望できよう。ここに我ら藤原氏の氏寺を建てようぞ」
まだ都のできる前の奈良盆地。
中金堂が完成したのは714年。その6年後に不比等は亡くなる。以降、北円堂、東金堂、五重塔、西金堂が建てられた。
さて、興福寺1回目の火災はどうやって起こったか。
平安時代中期永承元年(1046年)12月。夜深い11時ごろ。興福寺の西隣にあった里の1軒の民家が放火された。
火はまたたくまにあたりに燃え広がり、折からの強い西風にあおられて火の粉が 興福寺境内へと飛んでいく。
「あぁっ、西金堂がッ!」
「中金堂も火の手がーッ!」
天平創建以来、300年間無傷だった伽藍が、たちまち炎に包まれていった。
講堂・東金堂・西金堂・南円堂・鐘楼・経蔵・南大門・中門・僧坊など、北円堂や蔵をのぞくほぼすべてが焼失した。
私は原画を描いて、それをアニメーターの幸洋子さんが動かしてくれるのだが、実際放映された火事表現はもっと迫力がある。それを静止画で見せるのもなんだけどこんな感じだ。
さて火災の翌日、京の都に興福寺消失の報告があがる。
時の関白は 藤原道長の子、頼通。
「申し上げます。こ、興福寺がー!」
「いかがした」
「燃え落ちてしまいました…」
「燃えた!?」
「伽藍ことごとく灰に…。まさに末法の世…」
「…ええい、嘆いてなんになる。建て直しじゃ。我が信心の証を見せん!」
こうして頼通は強気で再建を命じた。
なんと!ナント!南都!わずか1年3ヶ月後に中金堂は完成し、落慶法要が行われた。考えられないスピードである。ちなみに平成の中金堂は2010年着工2018年落慶だそうです。
で、1回目の火災が再建からわずか12年後、康平3年(1060年)5月4日の夜に2度目の火災は起こるのである。
それは中金堂本尊にあげた灯明の火から延焼した。
「あっ!」
「ああ、火が!火が!」
落ちた灯明の炎はあっという間に広がり、まだ丹の色も鮮やかな中金堂の柱に燃え移り中金堂が焼失した。
最初の火災から12年後なのでまだ関白は藤原頼通。
この人、人生で2回も興福寺を再建しているのです。頼通12年後バージョンも描いたけど、尺の都合で放送ではあえなくカット。ま、頼通と妻が老けただけのバージョンですが。
で、放送ではこの後もう一度再建シーンと落慶法要のシーンがくりかえされます。
ちなみにこの藤原頼通の話を歴史好きの友達に話したら「頼通は父ちゃんの道長が創建した法成寺もまるっと再建しとるんすよ(これも巨大寺院よ)。再建請負人かぁ」とのこと。
頼通エライ!
創建から300年後に1回目の火災、2回目はその12年後、では3回目がいつかというと、その29年後でした。
嘉保3年9月の夜のこと、僧坊(中金堂と講堂を取り囲むように並んでいたお坊さんの宿舎)から出火し、中金堂が炎上。
「助けてくれーッ!」
「僧坊から火が出たぞーッ!」
創建から300年無傷だったのにここにきて半世紀で3度の火災。
原因は貴族の生活が朝方から夜型へと変わり、儀式も夜に行われることも多くなったからだそうだ。
ちなみに朝に仕事するから朝廷って言うんだってね。
昔は消防車なんてないから、燃えたら最後、神か仏にお祈りするしかなかったのです。
アニメの原画を描く前に絵コンテを描くのですが、こんな感じです。
私はアニメの勉強とかしたことがないので、絵コンテの描きかたが変かもしれない。ひとつ思ったのは、これくらい小さいサイズで絵を描くほうが(本番はA4サイズで描いてますよ)いろんな構図を思いつくということ。不思議なんだが、最初からA4の紙に描くとヨリヒキにバリエーションが出ないんだよなぁ。
というわけで今週はここまで。
あ、そうそう今日5月7日の午後3時08分~ 午後4時00分に再放送があるんだ。ぜひ見てね!

ハート展と元号雑感

ゴールデンウィーク真っ最中なので今週のブログは休む気まんまんだったけど、ちょうど今日で平成も終わることだし記念に更新しておこうかな。

まずひとつお知らせを。ただいま渋谷の東急百貨店本店にて「第24回NHKハート展」が開催されております。私は月岡凛さんの詩に絵を描きました。ハート展はこのあと各地を巡回します。よかったら足をお運びください。

主催者の要望としてハートをモチーフにして欲しいとあったので、おばあちゃんの後ろのカーテンがハートの形になっています。
ぼくのおばあちゃんももういません。大学4年の時、「就職しないでイラストレーターになる」とおばあちゃんに伝えると「いらすとれーたーってなにや?」と聞かれて困った。「う〜ん、絵を描く仕事なんやけど……」と答えあぐねていると、ふと「市政だより」が目に入り、それをパラパラと見せて「ここに描いてあるような絵を描く人のことや」と言ってしまった。よりによってものすごくつまんない絵を見せちゃったな。おばあちゃんは「……なんや、ようわからんけども、就職しい」と悲しそうな顔をしていた。
イラストレーターになるのに予定を大幅に上回る時間を要してしまったため、おばあちゃんは私が今こんなに立派になっているのを知らずに死んだ。「市政だより」のようなあんなつまんない絵を描いていると思われたままかもしれない。あの世に「天国だより」でもあればノーギャラで描きたいものである。
ウチの父がたの祖父母は明治生まれで、母がたの祖父母は大正生まれだった(さっきのおばあちゃんはこっち)。祖父母たちの生まれ年は覚えてないが、明治の終わり頃と大正の初め頃に生まれただけで同世代だ。祖父は二人とも戦争に行っている。
でも子供心に明治と大正は違う色だった。流れている時間が違う感じがした。
一括りに明治といっても45年もあるので、序盤中盤終盤ではかなり様子が違う。では明治20年と明治40年ではどう違うかと言われてもパッとわからない。夏目漱石は慶応3年生まれで翌年が明治元年なので、だいたい漱石が20歳の時、40歳の時と考えればいいだろう……といってもどう様子が違うのかやはりわからないが(笑)。
きっと私が80歳くらいなった時、若い世代にとっての昭和は、ぼくらの明治のようなもので、大雑把にしかわかってもらえないんじゃないかと思う。
昔=昭和。
「おじいさん昭和生まれですか。やっぱりみんな着物着てたんですか?」とか「戦争大変でしたでしょう」とか「学生運動で暴れたクチですか?」とか聞いてくると思う。元号で時代が一括りにされることによって生じる混乱。こういう時間の共有は日本だけの特殊なことで、ぼくは面白い。
「いやいや、それも昭和だけど、ワシャ全然知らん。昭和は64年もあったんだ。しかし、ワシはネットのない時代を知っておるぞ」と言うと「ネットがないって、それどんな感覚なんですか?」と食いついてくるに違いない。当たり前に見聞きしていたことを言うだけで、時代の証言者になれるのだからせいぜい長生きしたいものだ。

興福寺と大徳寺の番組

去る4月15日、ノートルダム大聖堂で火事が起きた。

ニュース映像を見ながら「ああ、なんということだ!」と思っている自分と、「おお、塔の部分はこうやって焼け落ちるのか」と思っている自分がいた。なぜなら私は2月中旬からほぼ一ヶ月に渡り、NHKの『歴史秘話ヒストリア』のために、奈良の興福寺が燃える絵ばかりを描いていたからだ。

絵といえども、順番としてはまず燃えていない興福寺を描く。そこに火の手が上がり、大炎上していく様子を描く。これを7回繰り返した。だから自分の手で7回燃やしてしまったようなカンジ…。

そう、興福寺は奈良時代に建てられて、なんと今までに7回も火事になっている。でも、実際に興福寺が火事になったのを見たわけではないから、想像の中で描いたに過ぎない(しかもアニメなので、あとはアニメーターさんまかせ…)。その仕事が一段落した後だったから、ノートルダムで火事があった時、燃え方のほうに興味を持ってしまったのだ。

ノートルダムは幸いに消火されたが、消防技術の発達した今だから可能なことだ。江戸時代の火消しを思い出してみても、消火というよりは、燃える範囲を広めないために、先回りして燃えそうな家を壊すとかしかできない。興福寺に限らず、昔はいったん大火災が発生すれば、あとは神や仏に祈るしかなかったようだ。
去年、興福寺の中金堂は8度目の蘇りをみごと果たした。それも創建当時の天平時代の姿そのままに。このなだらかな屋根の勾配と、金色に輝く鴟尾を見よ!美しい!まさに興福寺は七転び八起きの不滅のお寺。
というわけで明日24日(水)の22時30分からのNHKの歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」をぜひご覧ください。130枚くらい絵を描いています。
燃えるシーンだけでなく、建てるシーンも描いています!
 はい。
そして、もう一つお知らせです。
同じく明日の17時50分からNHKBSで自分が出演する番組『伊野孝行 真珠庵での格闘』が放映されます。(再放送は5月5日12時20分〜30分)
約1年前にBSスーパープレミアムで放映された『傑作か、それとも…京都 大徳寺・真珠庵での格闘』という番組(90分)の個人パート版(10分)です。個人パートでは真珠庵の襖絵を描いた絵師たちをそれぞれ追う内容だそうです。私は襖絵を2泊3日で描いて帰ってきたおかげで(他の人は半年くらいかけて描いてる)本編での登場時間は2分半ほどでした。だから私的には10分というのは短縮版というより、拡張版ですね。
ただ、この番組、BSはBSでもBS4Kなので、4K放送のチューナーが内蔵されているTVか、別に4Kチューナーを持っている人じゃないと見れないのです。もちろんボクも見れません。つーか、今のところ、まわりでも見れるという人は誰もいないんだけど…。
家に2回取材に来たのと、なぜか神保町でロケもやったので、そういうのもうつっているかもしれません。見れる人がいたら見てくださいね〜。
上の画像は昨年の本編のものです。
この写真は描き上がった襖絵の前での記念写真です。
おわり。

令和おじさんモノマネ

先日、不動産屋に行き、手続きの書類を書き終え、カウンターで待っているときだった。

カウンター越しに座った不動産屋のおじさんが、ヒゲ剃り跡の濃い口元を動かしたかと思うと、「新しい元号は令和であります」と菅官房長官そっくりの声で言ったのだ。突然のモノマネに驚きの色を隠せず、僕はおじさんの方に向き直り、「え?いま、令和おじさんのモノマネしました?めちゃくちゃ似てるじゃないですか。もう一回やってくださいよ」とお願いした。

書類を待っている間のシーンとした時間に、絶妙なタイミングで放り込まれたモノマネ。名人は意外なところにいるもんだ。
おじさんはちょっと照れていた。「いや〜すごい似てましたよ、もう一回聞きたい」とさらにせがんだ。するとおじさんは、先ほどと同じように、僕の右横の誰もいない空間に視線を向けたまま、今度はニュース番組の司会者とコメンテーターのやりとりを、一人二役で落語のようにしはじめた。
これがまた抜群にうまい。コメンテーターは誰かわからないが、司会者はどうやら森本哲郎のようである。名前を名乗らずとも誰かわかるのだから相当な名人だ。でも、僕は早く「新しい元号は令和であります」を聞きたかった。それを知ってじらすかのように、おじさんはなかなかサビには入らず、ニュース番組の再現を続けるのだった。そんなもったいぶりもまた可笑しくって、僕は腹をよじって「はははは、全然、ははは、言いそうに、はは、ないですね」と笑い声と言葉を同時に吐き出すのに苦労した。
と、そのとき突然暗転した。状況についていけない僕は、ボーっとした頭で、なんとか把握しようとつとめた。
……僕の頭は枕の上にある。枕元のラジオからはTBSの朝の番組『森本毅郎スタンバイ』が流れていた。
つまり、夢であった。
この日は元号が発表された次の日で、菅官房長官の「新しい元号は令和であります」という音声を流した後に、スタジオで森本毅郎とゲストコメンテーターが喋っていたのだ。ラジオの音がそのまま夢の中の音になっていた。同時に夢の中では勝手なシチュエーションが作られていた。
こういう経験はみなさんもありますか?ただの夢よりも不思議ですよね。
二度寝したときに、よくこういうことがある。脚本をもらって瞬時に映画を撮っているみたいで、我ながら我が無意識に感心します。ふだん、無意識を意識することは難しいですが、夢と現のはざまで生きるというのはこういうことなんですね。
さて、『通販生活』夏号の特集「読者が繰り返し見る夢」で絵を描きました。読者が繰り返しよく見る夢ベスト1は「間に合わない」夢だそうです。水辺の夢も世界共通で女性が多く見る夢だそうです。「空を飛ぶ夢」の飛び方はその人が「自分は人生をうまくコントロールしている」という満足度を表しているんだそうです。死んだ人が夢の中で生きているという夢は、女性に多いそうです。不測の事態の夢を繰り返し見るのは、危機管理能力の高さの表れだそうです。
とまあ、詳しいことは『通販生活』を買って読みましょう。180円です!「人生の失敗」というコーナーでは籠池夫妻も登場してます!

リリーさんに気持ちよくなる

いったいこのブログはいつまで続けるつもりなのだろうか。

臨終間際まで続けるならそれはそれで価値もあるかもしれない。というわけでたまに休むのは良しとしても、ポッカリあいだを空けるのはダメだ、今週も更新しなければ……。飼い猫が捕ったネズミを見せにくるように、「こんな仕事したんだよ、見て欲しいニャー」と自慢したいときは、ただそれを書けばいい。でも仕事というのはだいたい似たような依頼が多く、そういうのばかり載せているだけでは「はいはい、またネズミね」と飽きられるんじゃないか、と心配である。情報スピードが早いと、消費される速度も早くなり、イラストレーターとしての賞味期限もいたずらに短くなってしまう。それではイカン。史上最長寿のイラストレーターとして、このブログを臨終間際まで毎週更新する予定なのだから。

同じような絵の更新が続くときは、せめて文章で違うことを言って、感心させなければ……それが無理でも、せめて憩いのひと時を……しかし、仕事で描いた絵に引っ掛けて文章をひねるとなると、これもまた内容がマンネリになるのだ。
革新的な仕事を成し遂げた天才でさえも、よく見たら同じところをぐるぐる回っているだけである。ましてや凡才はまわる直径が短いから、マンネリズムは余計に肝に銘じなくてはいけない。
……というようなことを書くのもこれが初めてではなく、もう何回も言い訳的に書いている。
はぁ〜、今週はどんな内容にしようかなぁ。
最近テレビドラマが面白くていい。最後の方ですごく退屈になっていった『まんぷく』がようやく終わって始まった『なつぞら』もいい。『きのう何食べた?』もいいし、もちろん『いだてん』もいい。先日見た『離婚なふたり』がまた素晴らしい。
脚本も演出もいいに違いないが、役者の演技を見ているのが気持ちいいっていうのも大きい。とくに『離婚なふたり』のリリー・フランキーを見てるのがめちゃ気持ちいい。『なつぞら』に出ている高畑淳子と比べると、リリー・フランキーの演技の方がより自然で、大げさでなく、とにかく気持ちいい。高畑淳子は気持ちいいまでいかない。……ったくオレみたいな素人がこういう意見をわざわざネットに書き込むのは慎みたいと思っているんだけど、一応、絵もそうじゃないですか、うまいが気持ちいいにまさるってことあんまりないでしょ?
うまさが気持ちよさに直結している部分もあるけど、ただ一つのツボを押してるだけにすぎないと思う。同時にいくつかのツボを押されないと「あ〜気持ちいい〜」とはならない。
僕は今だにどんな時でも線は手描きなのだけど、そうしてる理由は、単純に気持ちいいからだ。とくに毛筆で描く快感は絵を描く気持ち良さの大きな割合をしめている。最初から線を描くのは気持ちいいものだったが、10年20年続けてきて、だんだん快感の回路が作られて来た感じだ。筆によってもかなり違う。紙質も多少ある。便利と引き換えに、この快感をパソコン作業に置き換えることは非常にもったいない。
けど、パソコンでしか引けない気持ちのいい線もあって、実はちょっとやってみたい。また肉筆浮世絵よりも版画浮世絵の方が気持ちいいのはなぜか。別に肉筆だろうが電筆だろうが相手を気持ちよくさせればどっちでもいい。本人が快感を得られるからといって、絵を見る人が気持ちいいかどうかは別だ。ここがなんぎである。自分がやることによって得られる快感を、やってない人にも感じさせる。そんなツボを探そう。おわり。今週の絵は描き下ろしです。

令和と北尾と隠居すごろく

(注… …今回のブログの記事と絵は、まったく関係ないように見えますが、最後は関係あるようになるので、不思議がらずに読みすすめてください)

昨日、新しい元号「令和」が発表された。古典の教養などまるでなさそうな首相の口から、元号に込めた思いを聞いているうちは、ちょっと違和感もあったけど、後で、出典である万葉集の序文は王羲之の蘭亭序およびなんとかという漢籍をふまえているとか、詩が詠まれたのは太宰府の大友旅人の邸宅だとか知るうちに意味も由来も響きも悪くないと思えてきた。むしろ積極的に好きかもしれない。令和。

こういうことを書くと、僕に感心できるくらいの古典の教養があると思われるかもしれないが、全くないです。

何回か前のブログ(顔真卿の回)で、王羲之の蘭亭序のことを書いたけど、書を知ってるだけで、あとはほぼ知らない。現代において漢文の教養があるのは、ごくごく一部の人だけなので、この点においては安倍首相と同レベルだ。
そんな一億総漢文の教養ない時代に、中国を先生としていた時代の遺物、元号を続けるのはおかしくはあるけど、僕は残しておいて欲しい派だ。中国に学ぶ、真似するをずっとやってきて、明治からは西洋に学ぶ、真似するに変わり、その後、天狗になってどこにも学ばなくなったツケが今まわってきている… …んだよね?たぶん。
日本という国自体が中国文化の正倉院であり、その上に独自の特殊文化も花開いている。そういう意味で元号は初心忘れるべからず的にあり続けるのはいいと思うのです。… …しかし本家はとっくに元号(皇帝が時間を支配する)というこだわりをやめ、世界標準の西暦だけだし、今やきわめて合理主義的に世界の覇者になろうとしている。方や日本は今もなお、というよりあきらかに歴史上いまが一番、元号で盛り上がっている。大局的に眺められない小国っぽさ?… …はい、デカい話はここでやめるとして、そう、2月10日に元横綱双羽黒、北尾光司が亡くなっていたニュースにショックを受けた。
瞬時に僕の気持ちは中学生に戻る。
小学校、中学校ともに北尾光司は僕のパイセンにあたり(8歳上)、しかも小学校と一本道を挟んだ隣に中学校があったので、僕が小学校にいる時に北尾はすぐ近くにいたわけだ。中学2年で195センチあったという天才相撲少年北尾の噂は、隣の小学校にも伝わっていた… …かというと、どうだろう?少なくとも僕は知らなかった。いくら体がデカくて、相撲が強いと言っても、その時はただの中坊だからね。小学校には北尾少年が在学中に出来たという赤土の土俵があって、僕らはそこで相撲をとったりしていた。
中学校にあがり、僕が2年か3年の時に、北尾が大関に昇進した。巡業のついでに母校を訪れたことがある。この時はすでに郷土の星である。落ち着いた緑色の着物に身を包んだ北尾はものすごくデカかった。大銀杏の似合う美男であった。記念に手形の押されたサイン色紙が全員に配られたが、それは印刷だった。
北尾が大関に昇進するこの年、元横綱輪島がプロレスデビューしたと思う。輪島は僕が最初に好きになった力士なのだが、プロレスラー輪島は世間からは嘲笑されていた。よし、俺がまた輪島を応援せねば。そして、これからは北尾も熱烈に応援しようと思った。
優勝しなくても横綱になれるくらいのトントン拍子で相撲界の頂点に立った双羽黒こと北尾光司は郷土ではスターだが、僕が高校に進学すると話は微妙に違う。同じ三重県といえども、他の学区や市や村からきてる級友たちにとっては、横綱の品位や成績を保てない双羽黒はからかいのネタだった。付け人を空気銃で打ったり、サバイバルナイフで脅かしたりして、騒がれるたびに僕は双羽黒のことをかばわねばならなかった。同時に輪島のこともかばわねばならない。これもファンの務めなのだ。
北尾のことを思い出したついでに、ヘンな思い出も蘇ってきた。高校1年の時だったが、休み時間になると、地味な男子生徒数名が僕の机の周りに集まり、なぜか「おはじき」に興じていた。僕は一番でかいおはじきに修正ペンで「双羽黒」と書いて戦わせていた… …休憩時間の過ごし方があまりにしょっぱい。やってることが小学生みたいでおぼこい。
そこまでして応援する私の気も知らず、双羽黒はちゃんこの味に文句を言って、女将さんを突き飛ばし部屋を出たきり、あっという間に廃業。北尾は「スポーツ冒険家」と名のり、また友達のからかいのネタになった。そして、ついに北尾は輪島のようにプロレスラーになった。
高校3年の受験で上京し、池袋のホテルに泊まったとき、ちょうど北尾光司のプロレスデビュー戦が行われた。髷を落とした北尾は幼い顔のとっちゃん坊やで、なんとも垢抜けなく、リングコスチュームもぜんぜん似合わなかった。それでも、対戦相手のクラッシャー・バンバン・ビガロを倒した瞬間、僕はホテルのベッドの上で何度もジャンプして喝采を送った。その日は2月10日だったはずだ。北尾がなくなった日はプロレスデビュー戦と同日だったと報道にあったから。
その後、僕は東京に出てきて一人暮らしをはじめ、北尾の応援も熱心でなくなった。相撲と違ってプロレスはなんでもありだから、問題児も埋没してしまうというか。優勝14回の輪島が借金を返すために、裸一貫になってまた頑張る、みたいな昭和なドラマが新人類北尾にはなかった。方や相撲界は、若貴ブームで空前の人気だったが、僕はそんなに相撲が好きではなくなっていた。僕がまた相撲が大好きになるのは、平成の問題児、朝青龍の登場を待たなくてはいけない。
輪島、双羽黒、朝青龍、と問題を起こす力士になぜか惹かれるようだ。問題を起こしてもファンはファンを絶対に辞めない。
さて、プロレスでもうまく花が開かなかった北尾は、引退後何をしているんだろうと時々思っていたが、15年?くらい前に立浪部屋のアドバイザーに就任したと知って、ちょっとホッとした。しかし、今回の死去の報道をきっかけにわかった事実は、立浪部屋のアドバイザーをしていたのはほんの一瞬だけで、あとは部屋とも連絡をとっていないようだった。
199センチもある巨体で、元横綱という抜群の知名度を持ち、プロレス引退後の人生をどうやって過ごしていたのか。体の存在感があるだけに、想像するとよけいにしんみりしてしまう。
ずっと前に『下足番になった横綱』という男女ノ川の評伝を前に読んだことがある。男女ノ川という人も194センチあった巨人で、なんでも引退後相撲協会からも退職し、サラリーマンや保険の外交員、探偵(!)などもやって、晩年は料亭の下足番をしていたみたいだ。普通の体格だったらひっそりと人生を送ることもできるが、どこに行っても目立ってしまう。
引退後、つまり退職後、昔で言うところの隠居の身。
江戸時代、巣鴨のある大店の主人が隠居した。本人は隠居生活をエンジョイするつもりだったが、思わぬ方向に人生のすごろくが進む… …という西條奈加さんの新刊『隠居すごろく』のカバーを描きました。
ブログに書きたい文章とブログで紹介したい絵が違うので、今回は無理やり縫い合わせてみましたが、そんなところで、また来週。