伊野孝行のブログ

今週は……

天心が埋めて惟雄が掘る

岡倉天心の写真はすごくエラっそうだ。このふんぞり返った感は俺が日本をしょって立つという明治人の気概なのかもしれない。アメリカ滞在中もここぞというときはバシッと羽織袴で決めたというし、アメリカのヤンキーに「お前たちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかわれたら「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」とペラペラの英語で当意即妙に切って返した、という逸話がある。ネットの中で見つけた。そう、引用すると負けた気がするウィキの記事の中に。それはいいのだけど、こういう話を聞くと、なかなかアッパレな漢の印象を受けるが、岡倉天心の絵を見る眼力ははなはだギモン。影響力のあった人だけに、当時も後世も岡倉天心に埋められた画家や作品が多かったんじゃないだろうか。というのは何年か前に図書館で借りてきた近藤啓太郎さんという人の本『日本画誕生』にこんなことが書いてあったからだ。

〈さて、天心は『日本美術史』で、応挙については四千五百字を費やして記述しているのに反して、宗達についてはたったの二百字である。池大雅にいたっては、逸話を記しているにすぎない。徳川家の絵師として日本画壇に君臨していた狩野派に反撥して、異端といわれた伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白など、すぐれて個性発揮の絵を描いた画家についてはほんのわずかな記述でしかないのである。従って、浮世絵は下等社会の趣味として、無視しているのは当然とも言える。そのくせ、天心は市井で「親方」と呼ばれていた工芸家をいきなり美術学校の教授にしてしまうのだから、理解に苦しむところである。〉
親方と呼ばれてた工芸家とは高村光雲かな。
それよかさ、天心が日本美術史の路地裏に追いやった画家たちって、まさに辻惟雄さんが再発見した『奇想の系譜』の画家たちじゃん!若冲、芦雪、蕭白、国芳以外に『奇想の系譜』にあげられている岩佐又兵衛、狩野山雪については岡倉天心はなんと言っているんだろうか。褒められてたら逆にくやしいけども。
芸術新潮の今月号の特集は「奇想の日本美術史」。50年前に辻惟雄さんが「奇想の系譜」で発表した奇想のスタメンに、新たに白隠慧鶴、鈴木其一などが加わり、さらに縄文から現代に至るまで、あるときはなりを潜め、あるときは爆発する奇想の血脈を紹介する。監修者の山下裕二さんが日本美術史を揉んでほぐして血行をよくするという特集だ。
私が担当したのは「奇想の8カ条」。
高札の上で高笑いする山下裕二奇想奉行。そして奇想の魂たちをあたたかく見守る辻惟雄奇想菩薩。一番右下の女性は現代の奇想美術家、風間サチコさんの似顔絵だ。
この奇想の8カ条に当てはまるような扉絵を描きたい、いや、おい、忘れちゃ困る、奇想のイラストレーターはこのオレさまだ!という気持ちで描きました。
自分の中にも奇想の血が流れている。日本美術史のようにあるときはなりを潜めて、あるときは爆発して。
高校生の時に寺山修司や横尾忠則や湯村輝彦さん、蛭子能収さん、根本敬さん、音楽でいったらエンケンさん……たちに惹かれていったのは、我が奇想の初潮にして満潮時。その後。セツ・モードセミナーに行ってからは奇想の血はややなりを潜めるも、長沢節先生自体はある意味、世間一般の奇想よりもマジで変わった人だったので、先生を観察しているだけで自分の奇想パワーは充電していたのかもしれない。
そしてようやく日本美術に興味を持ち始めた時期、つまり橋本治さんの『ひらがな日本美術史』連載中の芸術新潮、2000年2月号の「特集 仰天日本美術史『デロリ』の血脈」by責任編集 丹尾安典を読んで、再び自分の中の「へんな絵大好き!」気分が満潮かつ大潮になったのであった。
基本的に変人、へんな絵が好きな私です。
今は、自分の奇想メーターはどれくらいを指しているだろうか。
そうそう、ちょっと岡倉天心先生を褒めておこう。
同じく『日本画の誕生』の中に天心先生のユニークな「新案」という授業の様子が書かれていた。
美術学校第一回生の溝口禎次郎氏はこう語る。
〈新案というのは構図のことで、生徒に図を作らせるのです。ところが山水などなかなか図を作れるものではない。そこで各々いろいろの工夫をしたものだったが、一番面白いのは風呂敷を投げつけてその形によって山水の図を立てるといふ方法だった。これは元来芳崖さんが案出した方法らしかったが、兎に角やってみると不思議に図が出来る。柔らかな風呂敷では駄目だが、白い金巾か何かのこはい風呂敷を投げつけると、それが角張った狩野風の山に見える。さうして彼方に滝を落としたら面白かろうなどという考えが浮かぶのです。〉
この方法について著者の近藤啓太郎さんは「なんとも馬鹿々々しい話で情けなくなる」と述べているが、私に言わせりゃ、ベリーグッド!もっとも狩野芳崖の発案らしいから天心先生一人のお手柄ではないが。中国山水に似た山なんて日本の風景ではほとんどないし、かといって頭の中だけで絵を作ろうとするとどうしても観念的になる。風呂敷を投げて偶然出来る形から山水を起こそうなんて、まさに名案だ。もしかしたら狩野派では昔からやっていた方法なのかもしれないね。

顔真卿を見たか

先日、土曜日に東京国立博物館で開催中の「顔真卿」展を見に行った。マストというより、ちょっと見ておきたいかなぁくらいだったのだけど、3名無料で入れるパスを持っている人に誘われたので、これ幸いとついて行った。
顔真卿展なんてガラガラなんじゃない? と思っていたのが大マチガイ。
会場前に行列こそできていなかったが、中はかなり混雑していた。入口近くは人を押し分けないと陳列台のそばに寄れないくらい。最近は美術ブームでフェルメールや若冲や阿修羅がバカみたいに混雑するのはわかるけど、「書」なんていうゲキ渋なジャンルにこんなに人が来るのかぁ〜って驚いた。
ぼくは書については全然詳しくないんだけど、文字というのは絵みたいなもんだし、漢字なんていうのはまさに絵から出来てるものなわけで、鑑賞自体は難しくもなんともない、と思っている。実際に、予備知識なしで「いいな〜」と思えるものはたくさんあった。
ていうか、だいたいどの書にもぼくは感心した。書は絵よりも見飽きずに眺められるってとこがある。
『開通襃斜道刻石(かいつうほうやどうこくせき)』は初期の隷書の姿を留める。後漢時代。西暦でいうと66年。
ご覧のように、めちゃ重たい図録も買った。家でシゲシゲ眺めた。王羲之、顔真卿、欧陽詢などの名前は、一応知ってるけど、王羲之が何時代でどんな人か、顔真卿が何時代で今展の目玉『祭姪文稿(さいてつぶんこう)』はどんな時に書かれたものか、というのは全然知らなかった、そんなレベル。名前を知ってるということは、どこかで一度知識を頭に入れる機会があったのだろうけど、綺麗さっぱり忘れている、そんなレベル。
書聖、王羲之の超有名な『蘭亭序』。これは『定武蘭亭序』といって、唐の皇帝、大宗が欧陽詢に作らせた複製。東晋時代。353年。
こちらはその欧陽詢の『九成宮醴泉銘(きゅうせいきゅうれいせんめい)』。唐時代。632年。こちらも同じく超有名な書である。有名、有名と連発したが、ぼくが知ったのは最近です。
唐の皇帝、大宗は王羲之をこよなく愛し、全国に散逸する王羲之の書をカネにあかして集めまくったので、民間人が王羲之の書を見る機会がなくなってしまった。中でも最高傑作の『蘭亭序』は弁才という僧からだましとって手に入れたのだという。さらに愛する度が過ぎて、大宗は自分が死ぬ時、墓に王羲之の書を一緒に埋めてしまい、模本や臨書しか残っていないという。なんてこったい。
この有名なエピも今回知ったのであるが。
いつも知識は頭を素通りしていくが、今回、実際に鑑賞して図録も読んで、ブログも書けば、多少は記憶されるかもしれない。
これが日本初公開、顔真卿の『祭姪文稿』だ! 唐時代。758年。安史の乱で非業の死を遂げた若き顔季明への弔文の草稿。人に見せるために書いたものではない。非業なエピとあいまって『蘭亭序』と肩を並べる大傑作といわれている。
おっと、実は『祭姪文稿』は作品の前に蛇行する行列が作られていて30分待ちで、時間の都合もあって今回は実物を見るのをあきらめた。列の終わるところからちょいと覗こうとすると、太った女の係員が、その巨体を盾にするかのように、「こちらからはご覧になれません!」とヒステリックに何度も通せんぼするので、せっかくの良い気分に水をさされた。覗こうとしたぼくが悪いのか。いいじゃないの、ちょっとくらい。
良い気分というのは理由があった。だいたい混んでる展覧会は嫌いなので、良い気分でない場合が多いのに、ちょっと気分が良かったのだ。
体感として、顔真卿展の鑑賞者の3分の1くらいは中国人だった。
美術館の暗がりの中で、東洋人の国籍の区別はほぼつかないけど、隣で見ているお客さんから聞こえるのは日本語よりも中国語の方が多かった。真剣に見ている人が圧倒的に多くて、感想を言い合っているのか、解説プレートを読み上げているのか、書を読みあげているのか判然としないけど、やかましくもなく、良い作品を見て素直に口から漏れる言葉の響きであった。
『祭姪文稿』は台湾故宮からの貸し出しなのだが、一緒に見に行った人は「中国本土の人は台湾に旅行しにくいから、日本で公開される機会に見に来たのではないかな?」と言っていた。そうなのかもねー。
とにかく熱心に見ている中国の方々を見て「さすが中国は日本の先生」と思わずにいられない。熱心さに加えて、ふだん簡体字を使用させられている鬱憤を晴らそうとしているような感じさえするのであった。漢字の歴史こそ中国人の魂!
我々日本人は「がんしんけい」などと読んでいるが、中国語での発音は違うし、彼らがぼくの耳元で読み上げていた漢文の発音こそが本来、字とともにある響きなんだろう。日本語の漢文の読み下しの硬い雰囲気と全然違って、美しく流れるよう。まぁ、当たり前なんだけど、改めて、漢字文化圏の不思議さを思ったことよ。
気分がいいのはそんな鑑賞体験をしていたからであった。
以下は全て、顔真卿の書です。
へー、顔真卿ってなんでも書けるんだなあ。
ぼくは最後の2枚あたりの太くておおらかで、そんなにうますぎない字が特に好きだな。
字も絵と同じで”意識が無意識に出る時”が、一番いい感じがするんだけど。
こうやっていろんなタイプの書を見てみると、人目を気にせず書いた『祭姪文稿』こそが顔真卿の素顔であり、他はお化粧をした姿なのかもしれないね……って『祭姪文稿』の実物を見てないんですけどね。
ダハ、ダハ、ダハ。
ところで、ぼくは「書も絵として見る」と書いたけど「書も絵として描く」のでいいと思ってる。学校で書き順というのを習って、それが大切なことのように教わったが、魚の漢字が「魚」の絵から出来ていることを考えれば、別に書き順に従わなくてもいいじゃんと思う。
いくら正しい書き順で美しい「楷書」が書けたからって、抽象画みたいな現代の書芸術が書けるようにはならない。デッサンの修行を積まないと絵が描けない、に近い惑わせものなんじゃないのかな。
でも活字の明朝体の「筆始」や「うろこ」の形は筆順に基づく形なんでしょうね……楷書というのが今の漢字の基本だからね。この分野は、周りに詳しい方がいるので、素人がこれ以上入り込むことはやめておきましょう。
はい、字は人間の意志伝達の道具なので、本来、字を扱う人間に素人玄人の差別はなし。ぼくはそんな軽〜い気持ちでやってます。
ここから先は、字を書いて遊ぼうのコーナーです。
イラストレーターは絵を描くだけでなく、字も頼まれたりするから、仕事で書いたのをいくつか載せるが、書聖たちといかに遠いかということを笑っていただきたい。
「オトナの一休さん」で書いた何似生(かじせい)。以下も「オトナの一休さん」より
作麼生 説破(そもさん せっぱ)
一休さんの漢詩。書き順メチャクチャです。
アニメタイトル文字
喝!いろいろバージョン
立体的な喝!
無縄自縄
小説のタイトル
エッセイのタイトル。以下は「ちくちく美術部」タイトル文字。
はい、なんちゃって。
なんちゃって。
ではまた来週!

あなたは暮しの手帖を読んでいますか

「安物買いの銭失い」という言葉があるが、ぼくの場合は「安物買いの物持ちいい」だろう。

ざっとわが六畳間を見渡せば、スチールの本棚4つに、カラーボックスが5つ。仕事机と椅子は20代の頃量販店で買ったもの。プリンターがおいてあるのはゴミ置場からひろってきた黒い台。実家からもってきた扇風機。

東京に来て5回くらい引っ越しているけど、新居にあそびにきた友達は口をそろえて「伊野の部屋って何回引っ越してもかわらないねー」と言う。

若いときはお金がない。「選ぶ」という余地があまりない。いつか自分の持ち家ですきなように部屋づくりができるようになるまでの、仮暮しの気分でずっといた。

ところが、五十の壁も目前にせまってきた昨今、いまさら家を買うだろうか?壁一面につくりつけの本棚をこしらえる予定があるだろうか?と自分に問う。たぶん、一生、借家暮しのような気がしている。それに、ぼくは年々老化していくのに、安物の机や椅子や本棚の朽ちないことといったら……電子レンジは30年前に上京したときに買ったものだが、毎日使いまくってもいまだにこわれる気配すらない。

いつかステキな暮しを、といった夢は、無理矢理にでももとめないと手に入らない。残りの時間をかんがえたら、無理をするのは今かもしれない。

職人さんのいい仕事に、高すぎる値段というものはない。仕事の対価であり、それを払えば、自分のものにできるのだから。少なくともぼくの絵の値段よりは適正価格だと思う。

今度からモノを買うときは、なるべくいい仕事のものを求めよう。自分も職人のはしくれだし……と、思っているのに、きのう革靴を買いに行って、2万円代後半、1万円代後半など、4足ぐらいためしてみたが、いちばん形もかわいくてピンときたのは7千円のスエード靴だった。金じゃないんだ、金じゃ。

暮しといえば、「暮しの手帖」。

20代、セツに通っていたとき、学校のロビーに「暮しの手帖」が置いてあった。長沢セツ先生と花森安治が関係あったのかどうか知らないけど、購読していたというより、送られてきてたのだろう。

「暮しの手帖」は実家にも何冊かあった。久しぶりに手にとって見たら、そのレイアウトや写真の古くさい(そのときはそう思った)ことに驚いた。え?まだこんな感じなの?とカルチャーショック。表紙も油絵で描いたような女性の人物画だったと思う(花森安治の絵ではない)。時代は90年代半ば。国民の暮しが贅沢を極めたバブルが終わって、まだ間もないころであった。

ありし日の花森安治の姿を写真で知ったのは、そのちょっと後だったかもしれない。ガマガエルのような顔でしかも妙に女装が似合っていて、男だとはなかなか信じられなかった。

花森安治の編集者としてのすごさは山本夏彦がよく書いていた。

花森安治は耳で聞いてわかる漢字しか使わない。目で読んで理解できる漢字は使わなかった。このために「暮しの手帖」の文章は読みやすい。漢字にするところと平仮名にひらくところの塩梅も絶妙、というようなことや、「商品テスト」のこと、あとは花森は戦争中は大政翼賛会にいて「欲しがりません勝つまでは」という標語を作った(公募のなかから選んだのだっけかな?)ということも、山本夏彦の本で知った。

「欲しがりません勝つまでは」は、なんというおそろしい標語だと思っていた。でも、この標語のポスターを世田谷区美術館の「花森安治の仕事」展(2017年)で見た時、あ、めっちゃいい!と思った。

おそろしい標語が書かれたおそろしいポスターをうっとりながめている自分がいたのだ。どうしてこんなにあたたかいのだろう。大政翼賛会の職員としてお国のために頑張る戦時下の花森、「暮しの手帖」編集長として庶民の暮しをたいせつに思う戦後の花森。
転向とか、今風に黒歴史などとかたづけていいものだろうか。ここでも「欲しがり/ません/勝つまで/は」というレイアウト術の妙。これが計算で割り出せないように、花森安治も単純に計算では割れないのだ。手書きの明朝の向こうから花森安治の太い肉声が聞こえてくるようだ。

パソコンが使えないとデザインができないのだろうか。フォントを持っていないと文字が使えないのだろうか。いや、筆と絵の具でただ紙に描くだけで表紙版下はできあがるのだ。そんな、あたりまえのことを、当然のごとくやっている。そのやり方しかない時代だから、という素朴さと強さの前に、パソコン小僧はフリーズした。

花森安治は「自動トースターをテストする」と題して食パン4万3千88枚を焼いて積み上げた。「暮しの手帖」の好企画として名高い「商品テスト」である。この食パン、ものをたいせつにする花森、および編集部一同があとで残さず美味しくいただきました……かどうかなんてどうでもいい。今なら炎上案件かもしれない。そんなことよりも、これがビジュアルの説得力だ!これが雑誌なのだ。「もしも石油ストーブから火が出たら」という商品テストもすごいぞ。これが本当の炎上だ!
このように花森安治は取材や文章、コピーの執筆はもちろん、写真撮影、レイアウトやロゴなどのデザイン作業、さらに絵もうまいんだからまいるよ。万能編集者でぼくにとっては同業の大先輩。熱量と質の高さにただ打ちひしがれるだけ。
25年ほど前にセツで手にしたとき、古くさいな〜と思った「暮しの手帖」だけど、今もう一度見るとどう思うだろうか。時代は変わった。もちろん「暮しの手帖」は今もなお発行されつづけているのはみなさんもご承知のとおり。古くさい感じはいっさいありません。
そして何号かまえから、「わたしの大好きな音楽」というコーナーでぼくは絵を描いているのでした。

はい、それではみなさん、石油ストーブから火が出たら、こうしましょうね!

芸人の道

日本農業新聞で連載中……ではなくて、連載していた島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」。そう、すでに去年の秋には連載が終わっていたのでした。そして気の早いことに連載中に文庫本の上巻が出て、連載が終わるやいなや、下巻も発売されていたのでした。さすが、佐賀のがばいばあちゃんスペシャルな早業。

私のブログではアップするのが遅れて、今回はやっと芸人の道に踏み出したところ。

この連載がはじまる前に担当さんから「文中に出てくるセリフを挿絵の中に入れて欲しい」というリクエストがありました。ホイホイと言うことを聞いておりましたが、物語が少年時代を経て、芸人の道に入ると、当然芸人の似顔絵の横にセリフを書く必要も出て来ます。そんな時にちょっと気になるのが、芸人を描かせたら右に出るもののいない名人イラストレーター峰岸達さんの絵に似てしまうんじゃないかな〜ということでした。

先に白状しておきましょう。なんか似てたらスミマセン。
しかも洋七さんの物語には、当然、峰岸さんの大傑作、小林信彦著「天才伝説 横山やすし」の挿絵で何度も描かれているヤッさんも登場します。
しかし比べるのが失礼というもの。
似ちゃったらどうしようかなと気にしながら描いている絵と、自分を大爆発させながら描いている絵とでは自ずと輝きが違います。
以前、峰岸さんと話しているときにこんなことをおっしゃてました。「モノマネの芸人でもさ、森進一のモノマネって、みんなやり方が似てるじゃない。あれは人がやってるモノマネを見て、自分もコツを掴むんだよね」と。
そうなんです。私も峰岸さんの絵を真似してコツをつかもうとしている。そんなことにしておいてください。
 ちょうど昨日が千秋楽やったみたいで、その日は、昨日とは違うラインナップやった。人生幸朗・生恵幸子さんのぼやき漫才でまた笑いころげた。小森さんちに帰って、会社から帰ってきた先輩にもう一回言うてみた。「先輩、俺やっぱり漫才師になりたい」
 ギターのチューニングをしていた可朝さんに、富井さんが俺を紹介してくれた。「この子、徳永くん。今日から『うめだ花月』に入ってもらうことにしたわ」「ほう、そうか。まだ若いんやろ? お笑いやりたんか?」 俺はガチガチに緊張しながら答えた。「はい、漫才師になりたいです」「ほうか。大変やけど、おもろい世界やで」 可朝さんのこの言葉を理解するには、それほど時間はかからんかった。
 電話にはお母さんが出たようで、りっちゃんは、大阪でアパートを借りたことや繊維問 屋に勤めたという近況を報告していた。お母さんは、ひとまず安心したようで、俺もほっとした。そんな俺にりっちゃんが受話 器を差し出した。「お母さんが、代われって」
 
2,3日したら、りっちゃんの家からやたらでかい荷物が届いた。包みを開けたら、ふかふかの布団が2組入ってた。お母さんがお父さんにりっちゃんの居場所が分かったことを言うたら、お父さんが「布団だけ送れ!」と怒鳴ったんやそうや。
 進行係の仕事にも慣れてきた頃、俺もそろそろ師匠につきたいと思うようになった。「誰がええかな。やすし師匠は怖そうやし、仁鶴師匠は落語やし……。そや! 島田洋之介・ 今喜多代師匠やったら優しそうやしええかもしれん」と、今思えば短絡的で失礼な判断やな(笑)。
「そや!ええこと思いついた!」俺は急な坂を一気に駆け下り、たばこ屋のおばちゃんに紙とペンを渡して代筆を頼み込んだ。おばちゃんは「何かよう分からんけど」とか言いながらも、俺の実家の住所と電話番号と「漫才師になることを承諾します」と書いてくれたんや。たった2万円やけど、去年の夏に藤本商店を辞めてから、初めて稼いだ金や。しかもこの金は。漫才師としての一歩を踏み出したというや。そう思うと、たまらん気持ちがこみ上げてきて、ボロボロ涙が止まらんかった。
俺らが初舞台と知ったルーキー新一さんは、10日間の寄席の間、舞台での姿勢やら、突っ込みのタイミング、ネタの振り方とか、細かいとこまであれこれアドバイスしてくれた。その一つ一つがものすごく勉強になったし、ルーキーさんの「君らは伸びるぞ」と言うてくれはった言葉が、大きな自信になった。「お勘定!」と、懐から分厚い財布を出して、さっと支払いを済ます豆吉さんが、これまたかっこいいんよ。豆吉さんには毎晩のように、すき焼きをごちそうしてもろた。ところが千秋楽の日、雷門助六師匠の怒鳴り声が楽屋に鳴り響いた。

進行係の頃はまだ給料はあったけど、漫才の修業だけになると、収入はほとんどない。当時はりっちゃんの月4万円の給料だけが頼りの綱やった。何にも食うもんがなくて、寛平と2人でマヨネーズとケチャップをちゅうちゅうと吸ったこともあったよ。

舞台が終わった後、座席をぐるっとひと回りすると、封がされたままのお菓子や折り詰め弁当、パンが結構残ってたんや。食べ物を見つけると、まず清掃係のおばちゃんに見せに行く。「おばちゃん、これ食べられるかな?」するとおばちゃんは、くんくんと匂いをかいで、ジャッジしてくれる。

 ある日、俺と寛平が、楽屋でいつものように緑色のおかゆを食べていると、新喜劇で「くっさー、えげつなー」のギャグでおなじみの奥目の八ちゃんこと、岡八郎さんが入ってきた。「何、食うてんの?うまそうやな」俺は芸名を書いてもらうために、美術部の部屋を訪ねた。そこで「めくり」の担当の人につい言うてしもたんや。「芸名は団順一・島田洋七です。それから上に『B&B』って入れてください」「B&B?何や、それ」「お前の名前の上についてるB何とかって、あれ、何や?」「いや、実は宣伝部の人から、同じ一門やないし、名前がばらばらで分かりにくいと言われまして……。二人で何とかというコンビ名があった方がええんちゃうかということになりまして……」「分かりやすいのか、あれは。何の意味があるんや?」「はい。B&Bは、ボーイ&ボーイという意味です」苦しまぎれのでまかせやった。
 舞台の“トリ”は笑福亭仁鶴師匠。「お疲れ様でした!」と師匠を送った後、いつものように「また明日な」と萩原芳樹くんと別れた。それが彼と交わした最後の言葉になるとは、このときは思いもよらんかったよ。なんと、次の日の舞台の時間になっても萩原くんは劇場におらん。
萩原くんがいなくなって、ちょっとの間は落ち込んでいた俺やけど、師匠をはじめ、いろんな人に相方を探していると伝えていた。そしたら、松竹芸能から吉本に移籍してきた上方真一というやつが、俺とコンビを組みたいと言うてるらしい。上方真一は、後に西川のりおと「西川のりお・上方よしお」でコンビを組むことになる。
 いよいよ予定日を迎えた。俺は一人でいるのが落ち着かんかって、ボタンさんにご飯連れてってもろた後、ボタンさんの行きつけのスナックで待機することにした。そわそわしながら酒を飲んでいたら、りっちゃんのお母さんから電話が入った。「生まれた!女の子や!」あるとき、桂文珍さんにも聞かれた。「お前、若いのにクーラー買うたらしいな。ちょっと見せてくれ」あるときトラックを運転してたら、再放送やったんやろな。ラジオからB&Bの漫才が流れてきたんや。「これ俺やん?俺、今、バイトしてるっちゅうねん!」とツッコミながら大笑いしたことあるよ。
 「ばあちゃん、なんで俺だけこんなについてないと? ちっちゃい頃から、かあちゃんと離れて寂しかった。野球も頑張ったのにあかんかった。漫才師で頑張ろうと思たのに……。なんでや!なんで俺だけ、こんなんなんや。もう辞めたい」「分かった」「何が、分かったと?」「お前の気持ちはよう分かったから、よかと。電話代がもったいないから切るよ」ガチャン。ツー、ツー、ツー。コンビ解消のショックとばあちゃんへ八つ当たりした後悔の気持ちで、落ち込んだまま数日が過ぎていった。そんなある日、ばあちゃんから手紙が届いた。「昭広へ この間は電話をくれたのに、すぐに切ってしまってごめんね」
師匠のお供で花月に行ったとき、当時は桂三枝という名前だった文枝さんが声を掛けてくれはった。「コンビ解消したらしいな」「はい、相方探してます」「そうか、あいつ、どうや?」文枝さんが指したのは、進行係をやっていた藤井健次という男やった。
 「漫才の方がええで。2人でやれるし、楽しいって。芝居は大変やぞ。売れるかどうかも分からんし。でも、漫才やったら、俺ちょっとやってたし、自信あるねん。なんやったら、俺が1人でしゃべるし、黙ってうなずいてくれてるだけでもええから、大丈夫やって」有川さんと授賞式の打ち合わせをしているときにぽろっと、嫁さんと子どもがいることを打ち明けたんよ。「それ、いただき!」指をぱちんと鳴らした有川さん。授賞式には当然、島田洋之助師匠も来る。そこで師匠に打ち明けて、その場にりっちゃんと尚美を呼ぼうということになった。
洋之介師匠は、驚きながらも、「何で、今まで黙ってたんや。嫁はおるわ、子どもまでいるわ。でも、よかった。よう言うてくれた」と、涙を浮かべて俺の肩を抱いてくれた。大きく目を見開いて、怒ったような顔をしてた今喜多代師匠は、「もう!何よ、何も知らなかったわよ!早く言いなさいよ、もう」と、笑顔になった。
当時、うちの師匠と並んで大御所といわれてたんは、夢路いとし・喜味こいし師匠。いとし・こいしさんの漫才は、台本通りに隙なく演じるきちっとした芸で、話術の素晴らしさでは群を抜いていた。あるとき、漫談の滝あきらさんが「巡業で師匠にお世話になったから」と、俺に肉をごちそうしてくれると言う。「そうか、滝君、すまんな」と師匠も喜んで送り出してくれた。さあ、どんなビフテキが食えるんやろと楽しみにしてついて行ったところ、なんと牛丼の吉野家(笑)。島田洋之介・今喜多代師匠の弟子はいっぱいいたけど、なかでも有名になったんが、今いくよ・くるよさん、俺、そして島田紳助やった。
 あるとき、そんな俺らを見ていた横山やすし師匠が俺に声を掛けた。「おい。洋七。お前、ちょっとこっち来い」「なんですか?」「失敗しても怒らんでええんや。あいつがうまいことしゃべれへんのやったら、しゃべらんでええ漫才をやれ」
やすし師匠に会ったとき、聞かれた。「あの消防士のネタ、誰が考えたんや?」「俺です。師匠に言われた通り、テンポ上げて、それからいろんな人の漫才の間やスタイルをパクりまくりました」そしたら、やすし師匠、おなじみの人差し指を立てたポーズで言わはった。
 MBS(毎日放送)の「ヤングおー!おー!」は桂三枝さん、笑福亭仁鶴さん、横山やすし・西川きよしさんが司会する若者向けの番組として絶大な人気を誇っていた。番組内で月亭八方さん、桂文珍さん、桂きん枝さん、4代目林家小染さんからなるユニット「ザ・パンダ」はすごい人気で、後に明石家さんまが加入して「SOS」に改名。
※洋七さんも「いろんな人の漫才の間やスタイルをパクリまくりました」と言ってるように、芸事の基本は真似る、真似ぶ、学ぶ……要するにパクリなのだから、峰岸さんと多少似てても許されるだろう。
※「ザ・パンダ」を調べていてわかったが、当時の桂文珍さんは長髪であった。洋七さんの新婚家庭にクーラーを涼みに来た際の文珍さんの髪型を短髪で描いてしまったが、たぶん間違ってると思う。

新年ボンヤリおめでとう

新年あけましておめでとうございます。
人間よりも猫に生まれた方が、過去を引きずったり、未来の心配をしなくていいので、幸せなのではないかと思っています。でも猫にはお正月がない。新しい年が来たらもう一度生まれ変われるような、そんな気分が味わえない。そもそも一年という区切りを必要としないから猫は猫のままに幸せなのでしょうけど。
人間はいつくらいから一年の区切りを発明したのでしょうか。
日本のような四季の違いがはっきりしている土地なら、春夏秋冬が順繰りにやって来る一年の周期はモチロン承知のはず。毎日暑い常夏の土地では、ボーッと生きていたら一年の周期がわからないかもしれませんね。いや、原始人は自然に超敏感だから、周期があるのはわかってたと思いますが、昨日と今日ではっきり年がかわるという区切りは、農耕を始めて暦が作られるようになるまで待たねばならないのでしょう。
新しい年が来ることの何がめでたいのか、猫にはわかりません。
大晦日、除夜の鐘をついていると新年になり、日本人は思いを新たにするのである。 
私は、今年、年男です。イノシシ年生まれのイノです。
平成の最後で西暦でいうと2019年。西暦を導入したのは明治だけど、それ以前はどうやって昔の時代に思いを馳せていたのでしょう。大化の改新645年。それは今から1374年前……って西暦という通し番号があるから脳内タイムマシーンの目盛りを合わせられるけど、元号しかないといったいどれくらい前なのか計算できないじゃありませんか。
何やら干支を使って計算する方法もあるらしいけど、人々にとって過去は、去年、10年前、昔、昔々、大昔というくらいのボンヤリ感覚の中にあったのかもしれません。
それに加えて写真がない時代は、自分のおじいちゃんおばあちゃんが早くに死んでいれば、祖父母の顔がわからない。写真がないなら当然、自分の子どもの時の顔も残っていない。子どもの頃の自分はなんてかわいいんだろうとか、10年前は俺もけっこう肌がツヤツヤしてたな〜なんて感想は出てきません。
自分が今生きているこの時、この場所だけが鮮明で、あとは過去に遡るにしたがい、距離が遠くなるにしたがい、薄ボンヤリしていくのです。そして歳をとって頭もだんだんボンヤリしてきて、やがて時間と空間の中に消えて行くのです。
だから昔の人と今の人は感覚が絶対に違うわけであります。なんてかわいいのだろう。私にこんな時があっただなんて私が信じられない。いくつの時だろう?父親に持ち上げられて悲鳴をあげているのに、両親や祖父母、親戚は笑顔だ。ここは伊勢神宮。初詣かもしれない。伊勢神宮には小学校に上がってからもう一度行った覚えがあるが、覚えがあるだけで覚えてはいない。
今更、無理ですが、そんな昔の人が生きていたボンヤリ感覚の中に生きてみたい。歴史学も発達しておらず、神話が半分本当で、一度別れたらそれっきりかもしれない人間関係、外付けハードディスクは限られた書物や石碑くらい?いや、絵もそうか。絵描きたちも例外なく、与謝蕪村も曾我蕭白も岩佐又兵衛も……この感覚の中で絵を描いていたのです。それは絵にどういった影響があるのでしょう。また逆に、まるで生き写しのような写実的な絵や彫刻の存在感は、今とはかなり違うはずです。
……とかなんとか言いながら、最近は中高年の例に漏れず、年々昔のことに興味がわき、通史の名著として名高いらしい全26巻、中公文庫「日本の歴史」を読み始めた私です。昔の人間が持っていたボンヤリ感覚から自ら遠ざかる行為をしているのです。
狩猟採集民や近代教育を受けていない民に興味をもち、彼らの研究をすることは、彼らと親しく交わりながらも絶対に同一化できない壁を持つことでもあります。研究者ならそれでいいでしょう。
でも、彼らが作り出す絵や陶器や刺繍の面白さに打たれて、自分でも作ってみたいと思う人は、自分が彼らのように生きられないことに絶望を感じるでしょう。
研究しても作れるようにはなれない。ああ、私も自然に帰りたいと。まあ、あきらめるしかありませんよねー。
結局、それもあこがれ。
自分は自分の境遇において、自分だから作れるものを作っていくしかない……なんて、いや、別にこんなことを真剣に悩んでいるわけではなくて、正月早々、ブログの記事を無理やり書いているうちに、拙文の織りなす模様として出て来たどうでもいいことなので、いつものように読み飛ばしてください。
SNS全盛時代、すでにブログというものがあまり書かれなくなった今こそ、ブログを書くべきなのだ!と思って、無理にでも書いているのです。今年も毎週火曜に更新していくのでヨロシク!
東京人はスカイツリーにのぼらない。静岡県人は富士山に登らない。そして三重県人は伊勢神宮に参らない……の禁を破って(ウソね)、たぶん40年ぶりくらいに、お伊勢さんに行ってきました。1月4日のことです。
さっきの幼年時代のお伊勢参り写真も、40年前のお伊勢参りも全然覚えていないので、まるで初体験です(なんだ、記録媒体が進化しても、相変わらず人間はボンヤリしてるじゃないか)。
はじめて知ったのですが「伊勢神宮」は全部で125社あるお宮の総称で、しかも通称のようです。本当の名前は「神宮」。ただの神宮って名前なんだそうですね。
内宮(ないくう)と外宮(げくう)があり、まず外宮にお参りしてから内宮に行くのが順番なんだけど、外宮から内宮までなんと歩いて30分〜40分もある!頑張って歩きましたよ。
その途中に倭姫宮(やまとひめのみや)という神社があり、そこに「神宮徴古館」という伊勢神宮の博物館があるのですが、そこは4、5人しかお客さんがいなかった。穴場ですね。ぜひ訪れてください。
神宮徴古館はこんな建物です。ネットの写真より。
普通に歩くより、美術館、博物館を見物する方が疲れます。なんででしょう。頭も使うからかな。神宮徴古館を見終わった時、年老いた両親はかなり疲れ果てていました。しかし、内宮まで道半ば。歩いてこそ昔のお伊勢参りを実感できるというもの。頑張ろう!
で、やっとの事で内宮に着くと、人、人、人の人の海。外宮と内宮の間の道にはそんなに人がいなかったのに。
つまり内宮だけにお参りする人がほとんどというわけです。
また今度はお正月じゃない時に行ってみよう。
おかげ横丁は前に進むのも困難。
子どもは信心が薄いので早く疲れる。
天照大神の御光が参拝者に降りそそぐ。
内宮の正宮。階段より先は撮影禁止。
みんながありがたく触るので色が変わった木。写っている人は知らない人。
こういう建物はなんと呼ぶのでしょうか?
さて、無事お伊勢参りも済ませ、近鉄で津の町に帰ってきて、うなぎを食べました。
お店は「はし家」さんです。この写真は「上うなぎ丼」です。2340円。お酒とう巻きは別だけど、東京では信じられない値段でしょう?津は昔、うなぎの養殖が盛んで、鰻屋さんが多くて、名物なのです。
翌日、5日の朝日新聞で林望さんが「カリカリ鰻」と題したエッセイを書いていました。
内容をかいつまむと、鰻の蒲焼きには東京風(白焼きにしてから蒸す。ふんわりとした口当たり)と上方風(直焼きで焼き込む。はじっこあたりがカリカリしてる)の2種類ある。ところが最近は、東京は当然のこととして、大阪神戸といった上方でさえも東京風の蒲焼を出す店が増えて、上方風蒲焼を口にする機会が減った。非常に残念なことだと嘆いていたところ、名古屋でやっとこ上方風のカリカリっと焼き上げた鰻に出会い、口福を得た。そんな内容でした。
林望先生にお伝えしたい。津には鰻屋が20軒以上ありますが、どのお店も上方風です。食べにきてください!
逆に私は上方風しか食べたことがない両親に一度、東京風の口の中でとろけるような蒲焼を食べさせてあげたいと思っていますが。
はい、宣伝をば。
1月10日から原宿ビームスではじまる『エンケン大博覧会』に私の絵も飾られることになりました。年明けにご連絡いただいて、急遽って感じですが、エンケンさんの大ファンである私としてはめちゃ光栄なことです。
エンケンさんが亡くなった時、どうしても自分の文章でエンケンさんのことを書かないと先に進めない気がして、ブログに書きました。その時に描いた絵を展示します。よかったら見にきてね!