伊野孝行のブログ

直木賞、朱肉の蓋の思い出

いや〜涼しいとどんだけでも眠れますね。春になって寝まくっていたことを思い出します。

先日、都内の某一流ホテルで第161回芥川賞・直木賞の贈呈式が開かれ、私も招待していただいたので行ってまいりました。もちろん直木賞を受賞した大島真寿美さんを寿ぐために。

いったいどんなに盛大なパーティーなんだろうと想像するとそわそわしてきて、気がつくと、家を出る予定の時間よりもずいぶん早くに用意を整え終えてしまいました。

仕方なく、近所のカフェ(週に2回、ここのおじさんとジョギングしている)に行き時間を潰しました。カフェのおじさんも、会社員時代に芥川賞・直木賞のパーティーに出たことがあると言ってました。今「日曜美術館」のホストをやっている小野正嗣さんが受賞した時に仕事終わりにかけつけたそうです。

「今月のオール讀物で、『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』がまた掲載されるんで、挿絵を描いたんだよ」
とおじさんにオール讀物を見せましたが、
おじさんはろくに見もしないで、「パーティーに行くとさ、バッヂみたいな、シールになってるやつをもらって胸に貼るんだよ。わたしは捨てないで、朱肉の蓋に貼ってある」と店の奥から朱肉を持ってきて見せてくれました。
シールは文藝春秋のマークでしょうか。日本文学振興会のマークなのかな。
それはさておき、挿絵の中の劇場の看板に注目。なんて書いてあるでしょう。
  
会場となっているホテルに着くと、ロビーでひふみん(加藤一二三名人)が談笑していました。さすが超一流ホテル。
受付をすませると、おじさんの言うようにマークのシールをもらいましたので、シャツに貼りました。
アナウンスが流れ、受賞作家の方を個人で撮影するのはNGです、SNSなどに載せないで、ということだったので授賞式の写真はありません。
ま、この氷の白鳥くらいはいいでしょ。
贈呈式が終わったあと、大島真寿美さんにご挨拶しようと思って列に並びました。実はお会いするのは初めてなのです。担当編集者の方とも。
この時にはじめて知ったのですが、2年ほど前に「小説すばる」で連載していた素人丸出しの退屈な私のエッセイ『ぼくの神保町物語』も大島さんに読んでいただいたみたいで、恥ずかしさで胸がつかえてしまいました。ゴホッゴホッ。今回の挿絵も大島さんのご指名だったと聞き、心の中で喜びの舞を踊りました。
担当さんがお三輪ちゃんの前で記念写真を撮りましょう、と言ってくれてはいパチリ。
大島真寿美先生、改めておめでとうございます!
国立劇場で文楽を見るときは、いつも後ろの方の席なので、人形を近くでまじまじと見たことはありませんでした。よく見ると、お三輪ちゃんの口から針のようなものが出ています。なんでしょう?かわいい顔に似合わない凶器。後で友達に「針は手ぬぐいや袂を咥えさせるためのものだと思う」と教えてもらいました。しかし、きれいに作られていますよね〜。
一回くらい一番前の席で観たいもんだわ。
大島真寿美先生に誘われて、来月開かれる「豊竹呂太夫師匠発声教室」というのにも申し込みました。私もうなるんでしょうか。うなってみたい気もする。
華やかな世界から貧乏くさい家に帰って、まず私がしたことはシャツの胸からシールを剥がし、朱肉の蓋に貼りなおしたことです。請求書にハンコを押すたびにこの夜のことを思い出すでしょう。
おわり。

新 弘法大師行状絵詞

30代の半ばくらいまでは、挨拶の時に「いい天気ですね〜」とか「雨がよく降りますね〜」などと言うのに抵抗があった。

そんな当たり前のわかりきったことを言いたくない。

しかし最近はその一言をつけ加えるのがむしろ好きだ。当たり前のことを言っているのではなく、それは単なる挨拶の一部だってことに気づいたからである。

近年の夏の「暑いですね〜!」は挨拶でもあるが、わかっているけど黙っていられない心の叫びだけど。

暑い暑い!

先日、寄った京都の東寺も猛烈に暑かった!東寺が暑いのではなく、京都が暑いのだが。とある仕事のために近江八幡と大津に取材に行ったついでに(京都に比べると琵琶湖からの風が気持ちいい)足をのばしてはじめて東寺に寄ってみた。

琵琶湖の南端、大津から京都へはJRでふた駅、時間にしてたったの10分で着く。東寺は京都駅の近くです。「芸術新潮」の去る5月号で東寺の特集があって、私は空海の絵伝を描いたのだ。

せっかくだから空海のお寺、東寺へ行っておかなくてはと思ってね。

空海も密教もうすらボンヤリ知っているだけだった。編集部にレクチャーを受け、北大路欣也主演の『空海』をDVDで鑑賞し、東博で開催されていた「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅」も観た。
↑東博の東寺展で見た帝釈天像
桓武天皇(映画『空海』では丹波哲郎が演じていた)の平安遷都にともない、計画された東寺は京都の数あるお寺の中でも抜群に古い。
以下、うすらボンヤリ知識で書くけど、今と違って、古代において仏教は国家運営に必須な、五穀豊穣を保証し、疫病神を追い払い、朝廷を脅かす敵を降伏させる威力があると信じられていた、と〜ってもありがたいものだったのである。(民を救う個人救済の側面が強調されるのは鎌倉時代まで待たねばならない)
「鎮護国家」という言葉を昔学校で習った覚えがあるでしょ?それですよそれ。祈祷することがマジで威力あると信じられていた時代です。
いやいやバカにしていけないよ。
「信じる」とは「考える」とも「感じる」とも違う特別な心の働きであって、今の人間にはなかなか難しいことなのです。
奈良平安時代の仏像と江戸時代の仏像を比べてみれば、その差は歴然としている。やはりこれは技術やセンスの違いじゃなしに、マジで信じているかどうかの違いではないでしょうか。近世の江戸時代はもうマジでは信じていないと思うね。
ま、信心だけでなく、世界最新最高の中華帝国を経てやってくる仏教は、新しい文化や技術ともセットになっていたわけですしね。
さて空海。
弘法大師空海はどのような生涯を送られたのでしょう。
芸新に描いた『新 弘法大師行状絵詞』で見ていきましょう。
空海は幼名を真魚(まお)と言い、774年に讃岐国(香川県)に生まれた。
母親が、天竺より聖人が飛来して自分の懐に入る夢を見て、空海を懐妊したという伝承もあるという。
15歳頃に都に上り、18歳頃大学に進学。秀才はメキメキ勉強してより秀才になり、大学を辞めて仏教を志す。
各地で修行に励むうち、土佐の室戸岬で明けの明星が口から体内に入り込んだ。
なんぞめでたいことの吉兆だろうか。絵伝では飲み込んだ星を海に向かって放出しています。
空海は日本にあって密教について調べられるだけ調べた。
いやしかしこれではまだまだ足りん、ぜひ唐に渡って直に密教の真髄を学びたい!と決意し、804年に遣唐使の船に乗る。正式に僧になったのはその直前、31歳の時、東大寺でだったんだって。
遣唐使船は暴風雨にあおられるもなんとか漂着。海賊かと怪しまれたが、そこは我らが空海、自分で書いた書状の字を見せたら役人が驚いた。
こいつは只者ではないあるね!
空海の後ろで瀕死の状態の日本人がいるが、これにはモデルがいる。誰か忘れたが映画の中で石橋蓮司が演じていた人です。どうでもいいですが。
↑本物の「弘法大師行状絵詞」に描かれた空海の書の書き方!中国人もびっくらこいた
長安では、まずインド人の僧に梵語を習った。語学の天才はあっという間にマスターし、準備は万全。いざ真言密教の第一人者、恵果阿闍梨を青龍寺に訪ねる。
ちなみに高知県にある青龍寺は横綱朝青龍の四股名の元である。どうでもいいですが。
さてさて空海は恵果阿闍梨に大歓迎されて、密教の全てを授かった。恵果阿闍梨は異国の若者になぜそこまで?と思ったけど、密教を伝えなきゃいけない使命感もあるし、日本からやって来た優秀でエネルギッシュな空海を見て、彼なら!と思ったんでしょうな。
また空海もこの密教の真髄を早く日本に伝えねばという使命感により、たった2年で日本に帰るのでした。
本当は20年間留学していなきゃいけなかったのに…。
日本に戻った空海だったが、20年留学してこなかったので平城天皇(映画では中村嘉葎雄が演じていた)にプンプンされて筑紫に留め置かれる。
しかし809年、新帝嵯峨天皇(西郷輝彦だった)から許しが出て帰京。
密教の先輩、最澄(加藤剛であった)に密教の経典を見せて欲しいと頼まれ交流も生まれる。
映画では北大路欣也演ずる空海はいつも自信満々で、加藤剛にもマウンティングしていたように見受けられたが、きっと素人目にそう見えるだけで、密教の密な交流があったのでしょう。でも、なんか感じ悪かったな。あくまで映画の話ね。
823年、西郷輝彦、いや嵯峨天皇より東寺を預かる。
私の絵伝では講堂を建立し、立体曼荼羅を納めるところを想像して楽しむ空海を描いてみました。
↑これが東寺の講堂です
813年、加藤剛、いや最澄からお経の借用の申し入れがあったが断る。最澄から預かっていた弟子が、空海の元にとどまることを希望したこともあって、二人は絶縁状態に。
821年には生まれ故郷、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の堤防を修築。
映画では、空海は堤防を弓なりに築くことで「強さが三倍になる」と合理的なアドバイスをしていた。最新の工学知識もちゃんと伝えて、あとは不眠不休で加持祈祷。
実際に人夫に混じって陣頭指揮したり、手伝ったりはしない。
ひたすらひたすら加護を祈祷する!
そのおかげで難航していた工事も短期間のうちに終えられたのである。まさに空海の祈祷のおかげなのです。
ここに疑問を持ってはいけない。疑問を持つのは密教を理解していない人だ。疑問を持たず信じることで密教は密教なのだ。でも、空海は最新の知識も伝えているので、単なる呪術ではないですね。
私は密教の説明を読んでもむずかしくて全然よくわからないです。
とてもわかったような口はきけません。ごめんなさい。
835年、死期を悟った空海は高野山に向かい、3月21日午前4時頃、同地で入定。50日後にお体は奥之院の御廟にうつされる。
空海はいまなおここで生きて世の太平を祈願していると信じられている。
921年には朝廷から弘法大使の諡号を贈られた。
で、東寺ですが、あいにく宝物館は閉館中で、東博で見た美仏たちとも再開できなかった。
食堂に入ると、奥に異様な仏像が立っていた。
3メートルはあろうかと思われる真っ黒に焦げた四天王像。
昭和5年の食堂の火事で焼けたそうだが、きっと焼ける前より恐ろしさは倍増している。そのお姿に暑さも忘れてしばし見入ってしまいました。
下は食堂で売っていた般若心経手ぬぐい。
300円也。
とても安くてありがたい手ぬぐいです。
はい、おわり。

笑ってなんぼじゃ!(終)

日本農業新聞で連載していた島田洋七さんのハートフル自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』。連載が終わったのは去年の秋でした。あれからすでに半年以上経ちましたが、アップしないまま宿便のように残っていた挿絵をアップします。下手な挿絵は臭いものに蓋で、アップしません。まあまあうまくいったのだけ。吉本芸人も何人か描いていますが、昨日の吉本興業の記者会見を見て、そうだ今週のネタはこれにしようと思ったわけではありません。でも、挿絵を最後まで紹介し終えてスッキリしました。ちなみに島田洋七さんは漫才ブームの時は吉本を辞めていて、その後新幹線の中で偶然会った林会長直々に「ぼちぼち帰って来いひんか?」と言われて戻り、そのあとまたお辞めになり、今はオスカープロモーション所属です。
澤田さんは、俺らに声を掛けてくれた。「いつかゴールデンタイムで漫才やろな。そのときは、絶対に出してあげる。いや、ほんま。約束するよ」澤田さんといえば、あの有名な番組「てなもんや三度笠」を演出されたことでも知られている人。その澤田さんにそんなふうに言うてもろて、俺らは舞い上がった。 夜9時になり「花王名人劇場」が始まった。3組しか出てないから、1組の持ち時間が長い。20分近く何度も俺らの顔がアップで映る。周囲のお客さんがだんだん、テレビと俺らの顔を見比べるようになった。「ちょっと、あれ、あんたらやんか」「何してんねん、こんなとこで」「いや、あれ録画ですから」「おもろいな! あんたら売れるでー」戸崎事務所に入って3カ月後の給料日のことやった。当時、給料は手渡しやったんやけど、社長が「お疲れさん」と俺に差し出した封筒が、やたら分厚い。中を開けてみたら、なんとなんと、504万円も入ってたんや!「帯って何? 着物の?」ボケたんちゃうよ。月曜日から金曜日まで、同じ番組を同じ時間帯に放送する番組を「帯番組」て言うなんて、ほんまに知らんかったんや。後の「笑っていいとも!」の前身となる「笑ってる場合ですよ!」の総合司会に抜てきされた。俺は緊張しまくって何を話したんか覚えてないんやけど、俺らがしゃべっている間、裕次郎さんの後ろでずっと直立不動で立っていたのが渡哲也さん。「哲ちゃん、コーヒー入れてあげて、もう冷めているから」えええっー。渡哲也さんが哲ちゃん?
俺は急に売れだしてお金がいっぱい入ってきたけど、経理のことなんかさっぱり分からん。銀行にいくらお金があるのかも分かってないくらいやから、お金のことはほったらかしにしていた。そんなとき、テレビ局で会った加藤茶さんから聞かれた。「売れてるねえ。税金対策、ちゃんとしてる?」一生忘れられんのが、たけしと会ったころの話。「もし今、金がいっぱいあったら何に使う?」と、たけしが聞いてきた。「サバ丸ごと一匹買うて、食いたい」。子どもの頃からずっと貧乏してた俺は、サバといえば切り身しか見たことなかったから、とっさにそう言うた。たけしとの思い出は山ほどあるけど、やっぱり強く印象に残っているのが、石垣島かな。あのときたけしは、世に知られる”フライデー事件”の裁判中やった。マスコミの目を避けるために、あいつは沖縄の石垣島に身を隠してたんや。俺は何度も石垣島に足を運んだ。そうや、俺はもう頂上を十分に堪能した。写真もようけ撮った。自分で下りてきたらええんやな。そう思たら気持ちが楽になって、洋八と相談してみたら、あいつも俺の気持ちを分かってくれた。「またチャンスがあったら、一緒にやろう」たけしが先にシャワーを浴びたときに、俺はわざと湯船にお湯を入れんと「湯、沸いてるで」と言うてやった。しばらくして風呂をのぞくと、入っている。「ああ、いい湯だなー」とタオルで顔を拭いている。そして、「……入ってねえじゃねえか、このバカヤロ!」あるとき島田紳助から留守番電話が入っていた。「弟弟子の俺がこんなこと言うのは生意気やって分かってますけど、兄さんは楽してるんや。でも、もう一回売れなあきませんで。なあ、もう一回、俺と勝負しましょ。兄さんはおもろいんやから、絶対にできるって!」 最後の方は涙声やった。仕事で出会った評論家の塩田丸男さんが、さらに俺の活動の幅を広げてくれた。「洋七さんは講演はやらないの?」「講演? そんな難しい話はようしませんよ」「講演は、別に政治とか経済とかの堅苦しい話じゃなくてもいいんだよ」「え、そうなんですか?」
結局、40社以上の出版社を回ったけど、採用してくれるところはどこもなかったよ。半分近くの会社は返事すら、もらえんかった。「どこもあかんのやったら、自分で出したれ!」。俺は自費出版をすることにした。タイトルは、たけしが考えてくれた。「『振り向けば哀しくもなく』って、どうだ? メロドラマみたいでいいだろ?」「うーん、そうかなあ。まあええかも」
俺は漫才が終わると、誰もおらんようになった楽屋で一人、新喜劇が終わるのを待って、それから劇場の表にテーブルを出して本を並べて売った。俺とたけしと、たけしのかあちゃんの3人で食事したことがあるんやけど、いつもはようしゃべるたけしが、恥ずかしそうに、ずっと下向いて何もしゃべらへんねん。電話するときも「こづかいやろうか」としか切り出せない、不器用なたけし。あいつ、大好きなかあちゃんやのに、素直になれへんねんよ。ばあちゃんの葬式は豪雨の日やった。近所の公民館で葬式をしたんやけど、集まった人はみんな「ばあちゃんらしいにぎやかな日ばい」と言うてた。ものすごい雨音で、しんみりするはずの葬儀の場がにぎやかやったらしい。それに外に出ると人と会う。会話をする、刺激を受ける。うちのばあちゃんみたいに、生牡蠣をおすそ分けしてもらえるかもしれん。とにかく年をとれば取るほど、外に出てうろうろするべきなんや。当時、東京には広島のお好み焼きの店は、ほとんどなかったころやから、かあちゃんの店は大流行した。最初は、「B&Bの島田洋七の母親がやっている店」として来る人も多かったみたいやけど、そのうちに味の良さで人気が出たんや。かあちゃんは、日に日にやつれていった。見た目にも衰弱して、素人目にも、もう長くはないのが分かる。ほんまつらかった。意識が薄れているようなこともあって、そんなときは、枕元で聞いた。「かあちゃん、俺、分かる?」俺はかあちゃんが危篤とも言えず、気の利いたせりふも思いつかんまま、勧められるままに中に入れてもろた。観客席に行くと、ちょうど広島カープのチャンスやったみたいで、球場は大歓声に包まれていた。「おお!洋七さん。旗、振ってよ!」トレインマーケットも楽しかったけど、俺の一番の楽しみは、晩ご飯の後、じいちゃんとばあちゃんの話を聞くことやった。印象に残っているのは、アメリカ人がなんで、あんなにオーバーアクションなのかについての話。カウボーイといえば、アイダホのバーは、そのまんま西部劇の世界やったな。「近くのバー」と言われて、これまた20キロくらい車を走らせた所にあるバーに連れて行ってもらった。夜は真っ暗で人の気配もない。いつ動物に襲われるかもしれん。そんな中で、「銃があると寂しくない」という感覚は、経験したことのない俺には実感はできんけど、お守りのような存在やったんやろなあ、というのは想像できた。俺がまた吉本に戻ったのは、あれは漫才ブームが終わったころかなあ。新幹線でばったり、吉本の林会長に会うたんや。「ぼちぼち帰って来いひんか? 若いもんに漫才教えてやってくれ」と言われて、また吉本にお世話になることになった。その後は契約満了ということで離れることになるんやけど、俺が今あるのは吉本のおかげやと思てるよ。中田カウス・ボタンのカウスさんが、オチを言うた後で、一瞬の間を空けてから自分で笑わはるねん。そうするとお客さんもつられて笑う。あれは、カウスさんの師匠の中田ダイマル・ラケットさんの芸なんやな。それをついこないだ、カウスさんに言うたら「おまえは細かいとこ、よう見てるなあ」と感心されたよ。楽屋に届いたチャーシュー麺とラーメンを前にしたやすしさんは、そこで初めて「間違えた!」と思たんやろな。けど、動揺も見せんとラーメンをチャーシュー麺につけて食べ始めた。「こういう食べ方もあるんや」新聞を読んでたら、福岡の三越で鶴太郎の絵の個展が開かれることが書いてあった。ちょうどそのとき、俺も佐賀にいるスケジュールやったから鶴太郎に連絡して、福岡で飯を食うことになった。すし好きな俺やから、当然すし屋に行く。そこで鶴太郎に言うた。「おい、カニ食え」「変わってませんねえ」と言うた鶴太郎は大爆笑。
若手芸人が漫才するバーというのは分かるんやけど、俺が女装してたとこだけぱっと見た、明石家さんまとフジテレビの三宅ディレクターがやって来た。「兄さん、何してはりますのん。女装までして。そんなに金に困ってはるんやったら貸しますよ」とか言いよる。「よし、これならいける!」と、所沢にラーメン屋「まぼろし軒」を開店した。店の名前は、ビートたけしが「夕方まぼろしのように現れて、明け方まぼろしのように消えていく。いつ消えてもいいように」という意味を込めてつけてくれた。そしたら、映画の評判がよかったこともあって、「テレビドラマにしないか」という話が持ち上がったんや。話を持ってきたんは、佐賀の民放テレビ局・サガテレビを系列局に抱えているフジテレビ。メインロケ地は、市長さんが中心になって誘致を進めた佐賀の武雄市が選ばれたんやけど、武雄市には「佐賀のがばいばあちゃん課」まで設置されたんやで。
そんなわけあらへんやろ! と思たんやけど「周りを全部、うまい役者さんでそろえるので大丈夫ですよ」とか言われて、断るに断れんようになって、俺がばあちゃん役として舞台に立つことになった。
まあ、なんとかなるやろと思て迎えた舞台の初日。そもそも、俺はどんな舞台や収録でも緊張というもんはせえへんのやけど、幕が開く3分前に突然不安になった。
この連載は、自分の集大成やと思て臨んだ仕事やから、これまでどこにもしゃべったことない話や、書いたことのないエピソードも、正直に全部書かせてもろた。    俺自身も今までの人生を丁寧に振り返る機会になったよ。何十年ぶりに思い出したエピソードもたくさんあって、ほんまにいい経験になりました。
以上で 『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵紹介もおわりです。
で、日本農業新聞では週一で『笑ってなんぼじゃ!世相編』と題して主に時事問題を取り上げたエッセイが始まっています。そこでも挿絵を描いてます。

あっちをとればこっちをとれず

不思議と、さあブログを書こう!というモチベーションの日がたまにあるのだが、あいにく今週もそうじゃない。

このブログはWordPressというソフトで書いている。それとは別に、ホームページのリニューアルに向けて、毎日まだ公開されていない新ホームページ内にコツコツコツコツ作品をアップしている。これもWordPressというソフトを使っている。そのせいか、もうWordPressの管理画面を見るのがイヤになっているので、それも原因かもしれない。

今のホームページはちょうど12年前、2007年に作った。当時は最新式だったのに今ではすっかり古くなってしまった。すでにスマホでは作品ページがうまく表示されない。テレビが今後4Kになるように、最近はスマホやパソコンの画面の解像度も上がってきているので、これからは低い解像度だときれいに見れない。

今までブログを更新し続けてきたのでウェブ用の画像はいっぱいあるのだけど、どれもサイズが足りなくて、また全部用意しなければいけないのだ。スキャンし直して画像補正するのが超めんどう!チッキショー!

リニューアルについては「あっちをとればこっちをとれない」問題がいろいろあって、果たして今の終わりの見えない作業がむくわれるかどうか疑問に思うこともある。
「あっちをとればこっちをとれない」問題というのは、たとえば、ホームページやブログを自前で作るのではなくて、Tumblrやscrapboxなどの既存のサービスを使った方が、シェアされやすく広がりがいいだろう。このブログだって僕は独自ドメインを取得して自前ではじめたけど、今はnoteというサービスを使った方が広がると思う。ただ、ホームページに足を踏み入れたときの第一印象やいかに効果的に見せるかということも大事なので、既存のサービスでは物足りない。
常々「他のヤツとは全然違うから素晴らしいのだ!」ということが大事だと思い、何でもかんでも自分の色をつけようとしてきたが、そんなことを言っているとリニューアルをお願いしているウェブデザイナーのOさんに「伊野さん、ウェブの世界は古いやり方でやってると存在してないのと同じですから…苦しいだけです」とたしなめられるのだ。
リニューアル後はもう一つ「対談」というページを増やすのだが、そこではnoteを使うことにした。改心します。
なんかフツーのこと書いてるなぁ。こんなことは書くほどのことでもないし、読むほどのことでもないじゃないか。
よし、ついでに普段は書かないお金の話でも書こうかな。こういう仕事もしたことだし。
去年、「日経おとなのOFF」で仕事をもらって打ち合わせをした時に「フリーの人は絶対絶対イデコに入った方がいいですよ」と言われた。
ちょうどお金の特集だった。
50歳までならイデコ、50歳超えてたらニーサがおすすめらしい。どちらも運用して増えた利益が非課税なのがポイント。
これは「年金で面倒見きれないので自分でなんとかしてください、その代わり税金はいただきません」という国の方針のようだ。もちろん運用するということは元本割れする可能性もなきにしもあらずだが、そんなことよりも、イデコがいいと思うのは、掛け金が全額控除になるので、確定申告の時に収入金額から堂々と差し引ける。
毎月イデコのためにお金を用意しなければいけないのはきついかもしれないが、もし当面使う予定のない貯金があるのなら、そこから月々イデコに移すという風に考えれば、自分の貯金が全部控除扱いになるわけだ。貯金が必要経費に変身!みたいなもんだ。ということは万が一、元本割れしても節税分だけでけっこう得すると思って、私も入ったのだ。
金の話をしてブログの品格を下げてしまった。ちなみに私はバイト時代も無職の時も貯金がゼロになったことがないケチで用心深い男なのです。あしからず。
今週アップした仕事は<NewsPicksのもう一つの編集部、NewsPicks Brand Designから、新媒体「NewsPicks Brand Magazine」が誕生した。Vol.1のテーマは「新時代のお金の育て方」。金融庁発の「老後2000万円問題」が紛糾する中、お金に関する不安から自由になるために若手ビジネスパーソンは何をすべきかを、徹底的に考え抜いた一冊だ>というものです。
知的でもありお茶目でもあるような誰でもない外国人というオーダーで、例えとしてあげられた人物の中に、ウッディ・アレンがいた。だからこの絵は断じて微妙に似てないウッデイ・アレンの似顔絵ではない。
あと、誰もわからないとは思うがこの絵は油絵の具で描いた。
実に四半世紀ぶりに油絵の具を使ったが、めちゃくちゃ描きやすい。
アクリル絵の具はすぐ乾くので、グラデーションを作るのが難しいが、油絵は簡単にできる。絵の具ののびがとてもいい。乾いても色が変わらない。
というわけで、イデコと油絵の具をオススメして今週は終わるよ。

妹背山婦女庭訓魂結び

南伸坊さんの新刊『私のイラストレーション史』はもうお読みでしょうか。今週は誰にも頼まれていない書評を書こうと思ったのですが、準備ができずに来週以降に繰り越しました(笑)。
となるとどうしましょう。
また実家の猫の写真でも載せようか。瞬く間に体重も1キロほど増え、ぬいぐるみ状態からすっかり子猫らしくなってきている。いやいや、ネコの写真はもう載せないと決めたんだ。
そうそう、6人の候補者が全員女性ということで話題になっていた直木賞ですが、6人の中に大島真寿美さんがいらっしゃるじゃないですか。大島さんの新作『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』が候補作です。読めないでしょ?タイトル。渦は「うず」だけど、その後は、「いもせやまおんなていきんたまむすび」と読みます。
私はこれ最初っからスラスラ読めました。実はこの小説が連載されたときに挿絵を担当してたんですが、だから読めるんじゃなくて担当する前から読めてたの。
もう何年前かな?5 、6年前かな?それくらい前から国立劇場でやってる文楽公演に通っているのですが、一番最初に観た演目が「妹背山婦女庭訓」だったんですよ。後半の三段目と四段目を見たんだと思います。
はじめての文楽鑑賞の感想は、イヤホンガイドを聞きながら、目は舞台上の人形と人形遣い、舞台の袖でうなってる義太夫さんや三味線奏者を行き来して、で、ときどき舞台の左右に出る字幕やパンフレットも見てたんで、なんだかいそがしく、「……しまった、最初から全部キチンと見ようとしすぎだ。こんな見方は間違っている」と後悔しました。今はイヤホンガイドだけで観てます。
この「妹背山婦女庭訓」の作者、近松半二の生涯を描いたのが『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』であります。
まあ、ざっと挿絵を見てください。この人形浄瑠璃の芝居小屋の建物は間違っている。明治以降の資料を使ってしまったようだ。なので真似をしてはいけません。

江戸時代の人形浄瑠璃の芝居小屋はこういう感じだったようだ。たぶん正解。小説誌の挿絵くらいでは時代考証の専門家はついてくれないので、絵描き任せなのだ。僕も含めて挿絵には間違いは多いと思う。しかし、時代考証など全く無視してるのが文楽や歌舞伎なのでした。

〈江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、芝居小屋に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
近松門左衛門の硯を父からもらって、物書きの道へ進むことに。
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった半二。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した長編小説。
筆の先から墨がしたたる。
やがて、わしが文字になって溶けていく──〉
文藝春秋のサイトからの引用ですが、このような内容です。文楽を作った人のことまで考えたことなかったけど、半二やこの時代に人形浄瑠璃を作ってた人たちに共感するぜ。工夫ですよね、工夫。大事なのは。大島真寿美さんのこの小説もすごく工夫されてます。

先月の文楽の東京公演は「妹背山婦女庭訓」の通し狂言でした。第1部と第2部を通しで観ると丸一日かかるのですが、僕が観たのは第1部の方。最初の文楽鑑賞で「妹背山婦女庭訓」を観たのは後半だったので、まだ未見の前半を観たのです。これで一応通して観たことになりました。
天智天皇と中臣鎌足、蘇我蝦夷に蘇我入鹿親子が出てくるので、時代は大化の改新、飛鳥時代かと思いきや、奈良の都はすでにできており、描き割りには興福寺も描かれている。と思いきや、登場人物の衣装は江戸時代で、話の舞台が町や村に移ると完全に建物、調度品なども江戸時代。これは「妹背山婦女庭訓」に限ったことではなく、文楽も歌舞伎もみんなそうだし、昔は時代考証という研究自体が進んでいなかったし、逆に時代考証をやったところで当時のお客さんには響かなかったかもしれない。また忠臣蔵のようにあえて他の時代に置き換えなければやりにくい事情もあったでしょう。
忠義のために自分の幼い子供を殺すなんていうのもよく出てくる場面で、今の時代からすると共感度ゼロなんだけど、この全体通して滅茶苦茶な感じが、物語にロケットエンジンを搭載させてるようでもあり、昔の人は基本今よりぶっ飛んでるなぁと妙に感心します。でも、今の我々の胸を打ったり締めつけたりしてくる人情への働きかけもあり、ご先祖さまたちと同じように感動してしまうこともあります。
我々にとって奇異であり、今もどこかで繋がっている古典芸能。
今でも上演できるってことはすごいことだよ。
しかし、僕は文楽を見に行くと必ず1回は居眠りをしてしまいます。
原因は退屈なのか気持ちいいのかよくわかりませんが、退屈の質もまた現代とは違うんじゃないかなという気はします。
『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』として単行本になった時は、カバーの絵は頼まれなかったので、結局、縁はあんまりなかったというか、ま、これはよくあることなんで気にしてませんが(だったら書くな 笑)、直木賞取ったら、マジ嬉しいっす!

祝・国際エミー賞最終候補

先週、ブログをちゃんと書く時間がなかったんで、実家で飼い始めたネコの写真をアップしたところ、普段の記事よりはるかに多い「いいね」やコメントをいただき、アクセス数も伸びていました。

…………ったくさぁ、なんなのよ、ネコってやつは。というか、普段の自分のブログ記事はなんなのよ、って話ですけどね。

いやいや、単なる数字の話でしょ。ネコの写真をあげる方が数字が伸びると言って、そんなことばっかりやってたら仕事なくなっちゃうんですから。

しかし、会う人会う人、「ネコかわいいね」って言ってくるんですよ。いつもはブログの感想なんて言わないのに。

まだ僕も写真で見てるだけだから、思い入れは他の人と変わらないと思うんですよ。だから、飼い主ならではの贔屓目で見てない。冷静に判断できると思ってるんですよね。

客観的に見て……やっぱりウチのネコはかわいいよね?

それは置いといて。もうネコの話しませんから。
本業の話をしましょう。
先日、NHKの近くの某レストランで「昔話法廷」スッタフの打ち上げ的な会がありました。
知らない人に手短に説明すると、「昔話法廷」は裁判員制度導入で一般人も裁判員になるかもしれないというこの時代に、作るべくして作られた傑作番組です。
昔話の登場人物動物が裁判に出廷。それを裁く裁判員はキミだ!ということで、教室で大いにディスカッションしてもらうために作られた教材でもあります。ウェブの「NHK for School」でいつでも番組は見ることができます。
で、この番組は優秀で、第1シリーズでは、グッドデザイン賞(一応、私も対象デザイナーになっているのよ)。そしてドイツ・ミュンヘンで2年に一度行われる子ども番組のコンクール「プリ・ジュネス」で国際子ども審査員賞も獲得しているのです。
で、またまた今度は第3シリーズが国際エミー賞( 世界の優れた番組に贈られる歴史ある賞)の子ども番組部門のファイナリストに選出され、ま、結果は惜しくも受賞には至らなかったんですが、ディレクターのHさん(番組の企画者でもある)がカンヌから持ち帰ったワンセットしかない表彰状とメダルをみんなで変わりばんこに記念撮影したんです。
この写真だけ見ると受賞しました感が溢れちゃっていますが、ファイナリストに選出された賞状とメダルですので。
僕はカンヌに行ってるわけじゃないですよ、渋谷です。
この絵は「アリとキリギリス裁判」から。アリとキリギリスは幼少の頃は仲が良かった。二人で虫のくせに虫取りに出かけるの図。アリのTシャツにはANT(アリ)と書いてある。
「伊野さんはすきあらばこういうネタをぶっこんでくる人です」とディレクターのHさんはみんなの前で紹介してくれたけど、打ち合わせの時に毎回乗せてくるのはHさんなのでした。
我々スタッフはお互い初めての人もいるので、自己紹介タイムや質問タイムがありました(胸に名札シールをつけてたのもそのため)。みんなのエピソードなどを面白おかしくいじりつつ紹介し、進行をしてくれたのもディレクターのHさんでした。
この番組をやっていた4年間、僕はHさんとしかやりとりしてなかったんですが、打ち上げでは、ぬいぐるみを作った方々、ぬいぐるみの中に入っていた役者さんたち、脚本家さん、監修の弁護士さん、編集さん、音効さん……たちと一堂に会することができました。
あと、番組を仕上げる前に学校で模擬放送みたいなことをして様子を見る(判決が一方にかたよらないようにするため、生徒たちの反応を見る)らしいのですが、そこで協力してくださった小中高大学の先生たちもお見えになりました。
この絵は「さるかに合戦裁判」より。人間でこれを描写したらエライことになるが、カニならオッケー。サルに柿を思いっきりぶつけられたらカニはどうなるか?絵本で描かれないリアルドキュメント描写ができるのもこの番組ならではのところです。またこういった描写がなければ裁判の判決が一方に片寄る可能性もあるのです。
実際に完成したこの番組を使って、授業でディスカッションしてるところもディレクターのHさんが取材に行って、その様子を映像で流してくれました。
感激でしたね。
「ああ、こうやって見てくれてるんだ」って。
ディスカッションを重ねると途中で意見が変わる生徒も出てくるらしいんですよ。それっていまの分断化が進む社会に一番必要なことじゃん?
ほんと有意義ないい番組に関われたと思いましたよ。
そして、もうひとつおもしろいVTRがありました。
この番組が大好きだっていう小学生の女の子が、番組宛になんとオリジナル「ピーターパン裁判」の脚本を送ってきたんだって。
将来は弁護士になりたいというその子の家にもHさんは取材に行って、彼女の脚本でプチ昔話法廷「ピーターパン裁判」を作っちゃったんだから。それは彼女へのサプライズであると同時に、我々へのサプライズでもあったんです。
僕は内容を知らされないまま、頼まれたピーターパンのワンシーンを描き下ろしました。
ビデオ映像を見ながら、みんなマジ感激&感心。
単なる打ち上げではない素敵な宴を開いてくれたHさんと、このあったかくなってたまらない気持ちを分かち合いたい。お礼を言いたい。
さあ、もう一度乾杯だ!
と僕は歓談タイムに席を立って、Hさんのところに行き、
「いや〜どうもどうも、Hさん、ありがとうございます!お疲れ様です!」
って言って、グラスをカチンとしました。
で、その後にHさんなんて言ったと思います?
「伊野さんのネコかわいいですね」
って(笑)。
ああ、もう……どんだけネコなんだよ。ネコは仕事の邪魔してくんじゃないよ!
というわけで、ネコの写真、もう上げないですから。