伊野孝行のブログ

興福寺火事絵巻その4

南 いま展覧会に行くと、人がすごいじゃない。最近は、何かで人気に火がつくと、集まりすぎ。イヤホンつけて、ひとっところにじっと溜まる。あれはなんとかしてほしいな。あれも、ちょっとね。あれ、最初に別室で映像見ながらイヤホンガイドで言ってるようなこと勉強して、それから実物を見るようにしてほしい。
伊野 なんとか混まない工夫をして欲しいですね。美術館は、空いてるのがいいんですから。空いてなければ美術館じゃないっていうか、美術館に行った気がしないというか。以前、阿修羅展に行ったら、阿修羅像のまわりがぐるっと三六〇度ライブハウスみたいにすし詰め状態でした。
編集部 混雑がすごいときは、一時間以上並んだりすることもあるみたいですね。
伊野 動員数のランキングが出たりして、人が来るのがいい展覧会みたいな風潮が最近はありますよね。
 若い人よりも、年配の人のほうが多いんじゃない? オレと同じくらいの(笑)。
伊野 阿修羅展は高齢者のすし詰め状態だったから、ヤバかったっすよ。
(「望星」4月号掲載、南伸坊さんとの対談「絵?好きに見てください」より)
この対談で話題に出した阿修羅展というのは、2009年に東京国立博物館で開催された興福寺の創建1300年記念「国宝・阿修羅展」のことです。マジで具合が悪くなっちゃう人が出ちゃうんじゃないの?という混みようで、国立の博物館の商いって、こんなのでいいのか?って呆れました。
ところがこの展示、とにかくいっぱいお客さんに見てもらわなきゃいけない切実な理由もあったんですね。
さて、NHK「歴史秘話ヒストリア」のために描いた絵を元にお届けしている「興福寺火事絵巻」も今回が最終回。
七転び八起きの7回目の火災です。
奈良時代に建てられた興福寺は、平安から室町にかけて6回焼けて7回建て直しているのですが、意外にも戦国時代は焼けていない。
あーよかった、よかった。確かにそれはよかった。でも戦乱の世が過ぎ、徳川の世になる頃にはすっかり興福寺の威光は衰えていたのです。
7回目の火事が襲ったのはそんな時代。
1717(享保2)年、正月4日、中金堂の背後の講堂に盗賊が忍びこみました。
灯した蝋燭を落として引火。
 「まずい!」
「逃げろッ! 」
講堂の内陣から上がった炎は 、たちまちのうちに中金堂へと燃え広がった。
火付盗賊改の長谷川平蔵?
んなわけない。火消装束に身を包んで駆けつけたのは大和小泉藩の藩士たち!
「あっ!中金堂がッ!!」
「東金堂にも火の粉がかかっておるッ!」
東金堂にかかった火を必死になって止めます。
時代は江戸まで下ったといっても、消防技術はこんなもの。江戸の町の火消たちも燃えそうな家を破壊することによって火事の広がりを防いでいたわけですが、さすがに興福寺をぶっ壊すわけにもいきません。
「なんとか消えたか…」
「いかん!今度は西金堂じゃッ!」
やばいっす、やばいっす。西金堂には阿修羅像もあります。実際に興福寺に行くとわかりますが、中金堂、東金堂、西金堂はけっこう離れてるんですよ。火事の熱風というのは恐ろしいですね。
「手をお貸し下され!」
「承知!」
阿修羅像などの十大弟子像は乾漆造で軽いので、救出は容易です。だから今まで残っているわけですが、今でこそ仏像界のスーパースター阿修羅像も、当時は脇仏の一つに過ぎません。阿修羅よりも大切なのは御本尊。でも御本尊は中が空っぽの乾漆造ではなく、木像なのでとてもじゃないけど持ち出せない。
「残るは御本尊さまだッ」
「ああ、お堂の中に火がッ!」
近所の町人も駆けつけています。
「こんな大きな御像をどうやって!?もう間に合いませぬ!」
「なんとかして、なんとかして、お顔だけでもお助けするのだッ!」
この時に救い出されたのが、運慶のデビュー作だった西金堂仏頭です。これですね。
7回目の火災では中金堂・西金堂・講堂・南円堂などが焼失。鎌倉再建の北円堂・三重塔・ 食堂、そして室町再建の東金堂・五重塔は無事でした。
ところがっすな、興福寺の力は衰えてますから再建は難航します。
当時の将軍は徳川吉宗。享保の改革をはじめ、財政を引き締め出したところ。
なにとぞお力添えを〜と頼んでも、にべもなく断られます。
「ならぬ。寺より財政の立て直しじゃ」
興福寺は藤原氏の氏寺でありますが、藤原の末裔、京都の公家たちも…。
「助けて欲しいんは、まろたちの方や」
幕府も朝廷もあてにできない中、 興福寺は民間から資金を集めるため、当時流行していた「出開帳」を行います。
出開帳とは寺の外に仏像や寺宝を持ち出し、公開して寄付を募ること。
江戸の浅草寺の境内で80日間行ったけれど、集まったお金は再建費用には程遠かった…。
火災から百年以上経って、 ようやく中金堂の基壇の上に仮堂が作られました。 本来の中金堂とは規模も質も違うので「仮堂」ね。
まーったく覚えてないけど、興福寺は小中学校の間に修学旅行か社会見学で行ってるはず。
私はたぶん、この仮堂を見てる気がするんだけど。
で、時代は明治になり、廃仏毀釈で興福寺的にはさらにさらに厳しい状況になります。
天平の栄華を誇った興福寺もついに断絶!
鎌倉時代に建てた食堂も取り壊され、こんなもんあったてしょうがねえだろってことで塀や門も撤去、境内が奈良公園になり、仏像が撤去された仮堂は役場として使われ…。
その後、1881年に「興福寺再興願」が内務省に受理され、14年ぶりに復活。
時は流れて平成に。
2000年に仮堂が解体され、 翌年から発掘調査が始まりました。出てきた礎石66個のうち、なんと!ナント!南都!64個が天平創建当時のものだったのです。
天平の夢をもう一度見たい!!
でも、文化財の修復には国から補助金が出るけど、新しく中金堂を作るのには出ないらしいんっすよ。
つーわけで、このブログの冒頭を思い出してください。
平成の「出開帳」をということに相成りまして、開かれたのが「国宝・阿修羅展」なんですね〜!
そっか、そっか、それなら仕方ないや。我慢しよう。入場券など、わずかばかりのお金ですが、私も中金堂の再建に役立ったわけですね。一昨年やってた「運慶展」も見にいったな。そこでも少し貢献してたわけだ。
ついに去年、興福寺は七転び八起きして中金堂は完成!
9年前に「阿修羅展」を見にいった時は、興福寺は名前くらいしか知らなかった。修学旅行で行ったかなぁ?程度。そんな私が興福寺の火事絵巻を描くことになるとはねぇ。明日の天気はわからない。人生、先のことを考えるのはやめよう。
ちなみに阿修羅像がふだん展示されている興福寺の「国宝館」は空いててすんごく見やすいですよ。オススメ〜。(完)

興福寺火事絵巻その3

興福寺火事絵巻、今週はその3!
5回目の火災は、運慶たちが参加した再建からおよそ80年後に起こりました。
健治3年(1277年)7月26日の夕刻、ビカビカ!ドンガラガッシャーンガラガラガラ!雷の閃光が中金堂の近くの僧坊に落ちました!たちまち上がる炎!
「た、助けてくれ!」「ああ!中金堂が燃えている!」
自然災害による5回目の火災では伽藍の中央が焼け、北円堂などは残りました。
火災から6年後、建設中の中金堂の前庭を裹頭(かとう)した衆徒が埋め尽くしております。再建の中心に立ったのは、衆徒堂衆たちでした。
ここで豆知識。武蔵坊弁慶やいわゆる僧兵たちがかぶっているのは、実は袈裟なのです。それを裹頭と言います。
議題は再建工事に必要な人夫の確保でした。時は鎌倉、武士の時代。平安時代のように朝廷や藤原氏が全面支援してくれる時代ではありませんでした。

「伽藍再興 のための土打役を大和国一国すべてに課すべし」
「もっとも!」
「権門勢家の領土だろうと気にせず、催促せよ」
「こっちの言うことを聞かなかったら、どうする!?」
※このシーンは使い回しに見えてそうではありません。人数が増えているよ!
村が燃えていますね。あら、人々が襲われている。
そうなのです。人夫を出すことを拒否した寺社の荘園は、決議どおり、衆徒たちによって焼き打ちされたのでございます。ベンベン。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
これが5回目の火災の顛末でした。
しかしその27年後、またまたまたまたまた6回目の火災が起こるのでございます。
鎌倉時代末期、興福寺では内部抗争が激化。堂衆の武力が寺の中の勢力争いに使われたのです。
そしてなんと!ナント!南都!あろうことか興福寺の境内で合戦が始まったのでございます!ベンベン!
1327年のことでございます。
「かくなるうえは中金堂へ…」
「籠城じゃ!奴らもここは攻められまい!」

そこに追っ手が現れます。
「罰当りどもめ!中金堂に立てこもるとは…」
「かまわん!攻め込めぃ!」
さあさあ、中金堂で合戦がはじまった!

攻め手が矢を放ち、守り手も応戦!
矢に打たれた衆徒が「アッ…」とたいまつを落とす。その火が楯に燃え移る!
「いかん!!火が…!」
「いくさしてるばあいかッ!火を消せッ!」
「ええぃッ!消えぬ!」
「なんとしたこと。わしらが中金堂を焼いてしもうた…」
6回目の火災は僧自らが燃やしてしまうという…あぁ、後悔先に立たず。興福寺後に建たず。
いや、それでも悔いた衆徒堂衆たちの尽力で、まもなく再建工事が始まりました。
しかし時代は急速に変化します。火災の6年後1333年に鎌倉幕府が滅亡。やがて続く南北朝の戦いで再建作業は進みません。
1392年足利義満が南北朝の合一を果たし、ようやく平和の日々が戻ってまいります。
3年後、再建工事の続く興福寺に義満がやってきました。
これは寺にとっては援助を頼む絶好のチャーンス!
「義満おもてなし計画」のひとつには世阿弥の舞もありました。
世阿弥は義満のお気に入りの役者だったのです。興福寺の衆徒たちは義満の歓心を買おうとしたのかもしれません。しめしめ。将軍様はご満悦じゃ。
世阿弥の舞のパートはパラパラ漫画みたいに描いたので、試しにGIFアニメにしてみました。ただつなげただけなので本当はこういう動きじゃないけどね。
さて、宴の後、衆徒代表が世阿弥に声をかけます。
「三郎、さきほどの舞、見事じゃった」
「猿楽師は、神事をつとめ、貴人の御意に従いまする。その心得ゆえ、当たり前のことをしたまで」
世阿弥の肖像画は残っていませんが、ものすご〜くイケメンだったとのこと。
度重なるおもてなしが功を奏したのか、義満が興福寺の再建を積極的に支援してくれたおかげでついに1399年再建工事が終わり、まってました落慶法要!合戦による消失から実に72年ぶり!
はい、この絵は使い回しじゃございませんよ。前回の絵と見比べてください。中金堂の屋根が大きくなって、勾配もきつくなっているのです。屋根の高さも高い。気づかなかったでしょう?気づいたら相当の興福寺マニアだぜ。
このお坊さんは誰であろう。出家した足利義満なんですね。
1回目の火災から中金堂の落慶法要まではたったの1年3ヶ月しかかかっていないことを考えると、72年は長〜いですね。時代が下るたびに長〜くなる。
現存する東金堂はこの室町の再建です。ほら、東金堂も屋根の勾配がきついでしょ。東金堂は中金堂の16年後、そして五重塔は約30年後に建てられたのです。今、我々が見上げることのできる五重塔を、世阿弥も見上げたに違いありません。この時世阿弥は60を過ぎています。
「命は終わりあり。能には…興福寺には…果てあるべからず」
そう、一言つぶやいたかもしれませんね。
「興福寺 七転び八起き」ということはあと一回燃えるんですが、今週はちょうど時間となりました。ベンベン!

興福寺火事絵巻その2

先週に引きつづきNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」のアニメパートに描いた絵から。

七転び八起きというのは、まさに7回火事になって8回建て直したからですが、先週は3回目の火事までやったので、今週は4回目からはじめましょう。

3回目の火事(1096年)より4たび蘇った興福寺。

完成したのは火災から6年10ヶ月後の1103年。そこから78年間は無事でございました。しかし源平の戦いの最中1181年に4回目の火災が起きました。これがかの有名な大惨事、平家の南都焼き討ちであります。時は治承4年12月28日、反平家の立場をとった興福寺の僧兵を攻撃するために、平清盛の5男、平重衡が大軍を率いて南都へ進みます。対する興福寺はじめ南都の僧兵は、京都と奈良をつなぐ奈良坂に集結。押し寄せた平家の大軍と激しい戦いが続き、夜になりました。般若寺の門の前に待機する平氏軍。「暗さも暗し。火を出だせ」「おうっ!」と 楯を割って作ったたいまつを民家に投げて放火します。瞬く間に燃え広がる火!「これ、いささか強すぎじゃ」照明がわりにつけた火のはずが、 折からの強い北風にあおられ、大火炎となって南へ南へと燃え広がる。

やべえ!やべえ!これを見た僧兵たちも、戦どころじゃないね。「まるで地獄の業火じゃ!炎が飛んでいく」
「見よ。あの紅蓮の火柱を!あれは、東大寺の大仏殿ではないか!」 「わめき叫ぶ声が…焼き殺されておるのだ…」
「急ぎ興福寺へ!」
しかし、時すでに遅し…というか火が早し。

「ああ。中金堂に…。火が…」こちらは西金堂。すでに火の手はまわっています。

「運慶? 運慶か!」
「おお、おぬしらか!手伝うてくれ!仏様をお救いするのだッ!」
「おう!」

阿修羅像などは中を空洞にする「乾漆造」で軽かったのです。幾度の火災にあいながら今日まで残っているのはそのためです。アニメに描いたように運慶が実際に運び出していたとしても不思議ではないでしょう。

翌朝、おそろしい光景が広がっておりました。なんと!ナント!南都!ほぼすべての堂塔が焼け落ち、興福寺に逃げ込んでいた人々の骸八百体が残されていたのです。
「南無……」
小さな仏像は救い出されたものの、 大きな仏像のほとんどが焼けてしまい、新たに作り直さざるをえま せんでした。
焼き打ちの翌年、再建計画が始動します。宮中に公卿たちが集まり、再建の分担を決めました。
「造営の割り振りは、これでよろしな」
割り振り図をよくご覧ください。中金堂などは国家プロジェクトで再建されます。 講堂や南円堂は藤原氏が担当。 食堂などは寺が担当することになりました。しかし、東金堂と西金堂は割当てからもれてしまったのです。それを聞いた堂衆たちは…。
「… とあいなった」
「わしらの西金堂は?」
「割当てからもれた」
「なんと! 」「この条いわれなし ! 」
「いわれなし! 」
「西金堂は打ち捨てる気か!」
「わしらの儀式はどうなる?」
「みな、聞いてくれ!わしらの力で再建してはどうじゃ?」
「わしらで?」
「そうじゃ!堂衆の底力、見せてくれようぞ!」
「もっとも ! 」
「もっともじゃ!」
「もっともじゃ!」
この人は運慶です。この堂衆の中に運慶もいたかもしれないのです。いや、いたね、きっと。ところで僧兵たちが顔に巻いているものは袈裟なんですよ。番組では実際に袈裟で巻いてるところやってましたね。
堂衆たちは貴族たちから寄付金を募って、そのお金で再建を進め、 なんと!ナント!南都!国家事業である中金堂よりも早く完成させたのであります。
平家滅亡の翌年には、堂内に新しく作った本尊を運び入れました。
この本尊を作ったのが、当時まだ無名だった運慶でした。
運慶は興福寺の別当(一番偉い人)から褒美に馬を賜りました。
焼き討ちから13年経った1194年、ついに中金堂も完成。落慶法要も5度目です。さて、あなたの興福寺”通”度合いがわかるクイズです。この一見使い回しに見える落慶法要の絵、どこが今までと違うでしょう?
正解は「屋根の上に乗っている鴟尾(しび)がない」です。
建築現場シーンも鴟尾がないバージョンになっているのです。お気づきでしたでしょうか。
鴟尾は魔除けや防火のまじないとしてつけられたものらしいですが、これだけ火事にあってんだから、まじないも効き目がないと思ってやめにした?いや、それともなんでしょう、単にもう流行らなくなったから?たしかに鴟尾は廃れます。室町時代に建てられた現存する東金堂にも鴟尾がありません。後世、天守閣にシャチホコを飾るのが流行ります。シャチホコは蘇った鴟尾なのでしょうか。去年完成した中金堂には金色の鴟尾が輝いています。
今週は「仏師運慶デビュー秘話とそして鴟尾はなくなったの巻」でございました。
ではまた来週!

興福寺火事絵巻その1

GWいかがお過ごしでしたでしょうか。私は寝たり起きたりの生活でした。体の調子が悪かったというわけじゃなくてね。無為に過ごすという。無為とはダラダラと無駄に過ごすことでもあるけど、仏教で無為といえば不生不滅の存在のことであり、老子でいうところの理想の境地でもあるわけですが、もちろんダラダラ過ごす方のネ。

言葉が物事を区別するものなら、同じ言葉に良い意味と悪い意味があるのがややこしいんだけど、もしかしてダラダラ過ごすことが実は真理に近いんじゃないかと思ったりしない?あと、眠るときに見る支離滅裂な物語と、将来の願望が同じく「夢」と呼ぶのもどうしてだろう。

過ぎ去ったことも夢のようだと言ったりする。

奈良の興福寺は、710年に創建されてから現在までなんと!ナント!南都!7回も火事にあっている。その度に再建されてきたわけだが、江戸の火事で中金堂が焼けた後は、ややみすぼらしい仮堂のままで今日に至っていた。しかし去年、中金堂は創建当時の姿のままで再建され(8回目)、天平の夢をもう一度我々に見せてくれたのだ。

そんな興福寺の歴史を追ったのが先週放送されたNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」。ふだんは再現ドラマで見せるパートを今回はアニメでやりました。

その火事絵巻を何週かに渡って紹介いたします。

はじまりはじまり〜。

時は飛鳥時代末期(700年頃)。平城京の場所を決める時、藤原不比等は春日野に近い小高い丘を通りかかった。
「うまし丘よ。ここなら都が一望できよう。ここに我ら藤原氏の氏寺を建てようぞ」
まだ都のできる前の奈良盆地。
中金堂が完成したのは714年。その6年後に不比等は亡くなる。以降、北円堂、東金堂、五重塔、西金堂が建てられた。
さて、興福寺1回目の火災はどうやって起こったか。
平安時代中期永承元年(1046年)12月。夜深い11時ごろ。興福寺の西隣にあった里の1軒の民家が放火された。
火はまたたくまにあたりに燃え広がり、折からの強い西風にあおられて火の粉が 興福寺境内へと飛んでいく。
「あぁっ、西金堂がッ!」
「中金堂も火の手がーッ!」
天平創建以来、300年間無傷だった伽藍が、たちまち炎に包まれていった。
講堂・東金堂・西金堂・南円堂・鐘楼・経蔵・南大門・中門・僧坊など、北円堂や蔵をのぞくほぼすべてが焼失した。
私は原画を描いて、それをアニメーターの幸洋子さんが動かしてくれるのだが、実際放映された火事表現はもっと迫力がある。それを静止画で見せるのもなんだけどこんな感じだ。
さて火災の翌日、京の都に興福寺消失の報告があがる。
時の関白は 藤原道長の子、頼通。
「申し上げます。こ、興福寺がー!」
「いかがした」
「燃え落ちてしまいました…」
「燃えた!?」
「伽藍ことごとく灰に…。まさに末法の世…」
「…ええい、嘆いてなんになる。建て直しじゃ。我が信心の証を見せん!」
こうして頼通は強気で再建を命じた。
なんと!ナント!南都!わずか1年3ヶ月後に中金堂は完成し、落慶法要が行われた。考えられないスピードである。ちなみに平成の中金堂は2010年着工2018年落慶だそうです。
で、1回目の火災が再建からわずか12年後、康平3年(1060年)5月4日の夜に2度目の火災は起こるのである。
それは中金堂本尊にあげた灯明の火から延焼した。
「あっ!」
「ああ、火が!火が!」
落ちた灯明の炎はあっという間に広がり、まだ丹の色も鮮やかな中金堂の柱に燃え移り中金堂が焼失した。
最初の火災から12年後なのでまだ関白は藤原頼通。
この人、人生で2回も興福寺を再建しているのです。頼通12年後バージョンも描いたけど、尺の都合で放送ではあえなくカット。ま、頼通と妻が老けただけのバージョンですが。
で、放送ではこの後もう一度再建シーンと落慶法要のシーンがくりかえされます。
ちなみにこの藤原頼通の話を歴史好きの友達に話したら「頼通は父ちゃんの道長が創建した法成寺もまるっと再建しとるんすよ(これも巨大寺院よ)。再建請負人かぁ」とのこと。
頼通エライ!
創建から300年後に1回目の火災、2回目はその12年後、では3回目がいつかというと、その29年後でした。
嘉保3年9月の夜のこと、僧坊(中金堂と講堂を取り囲むように並んでいたお坊さんの宿舎)から出火し、中金堂が炎上。
「助けてくれーッ!」
「僧坊から火が出たぞーッ!」
創建から300年無傷だったのにここにきて半世紀で3度の火災。
原因は貴族の生活が朝方から夜型へと変わり、儀式も夜に行われることも多くなったからだそうだ。
ちなみに朝に仕事するから朝廷って言うんだってね。
昔は消防車なんてないから、燃えたら最後、神か仏にお祈りするしかなかったのです。
アニメの原画を描く前に絵コンテを描くのですが、こんな感じです。
私はアニメの勉強とかしたことがないので、絵コンテの描きかたが変かもしれない。ひとつ思ったのは、これくらい小さいサイズで絵を描くほうが(本番はA4サイズで描いてますよ)いろんな構図を思いつくということ。不思議なんだが、最初からA4の紙に描くとヨリヒキにバリエーションが出ないんだよなぁ。
というわけで今週はここまで。
あ、そうそう今日5月7日の午後3時08分~ 午後4時00分に再放送があるんだ。ぜひ見てね!

令和おじさんモノマネ

先日、不動産屋に行き、手続きの書類を書き終え、カウンターで待っているときだった。

カウンター越しに座った不動産屋のおじさんが、ヒゲ剃り跡の濃い口元を動かしたかと思うと、「新しい元号は令和であります」と菅官房長官そっくりの声で言ったのだ。突然のモノマネに驚きの色を隠せず、僕はおじさんの方に向き直り、「え?いま、令和おじさんのモノマネしました?めちゃくちゃ似てるじゃないですか。もう一回やってくださいよ」とお願いした。

書類を待っている間のシーンとした時間に、絶妙なタイミングで放り込まれたモノマネ。名人は意外なところにいるもんだ。
おじさんはちょっと照れていた。「いや〜すごい似てましたよ、もう一回聞きたい」とさらにせがんだ。するとおじさんは、先ほどと同じように、僕の右横の誰もいない空間に視線を向けたまま、今度はニュース番組の司会者とコメンテーターのやりとりを、一人二役で落語のようにしはじめた。
これがまた抜群にうまい。コメンテーターは誰かわからないが、司会者はどうやら森本哲郎のようである。名前を名乗らずとも誰かわかるのだから相当な名人だ。でも、僕は早く「新しい元号は令和であります」を聞きたかった。それを知ってじらすかのように、おじさんはなかなかサビには入らず、ニュース番組の再現を続けるのだった。そんなもったいぶりもまた可笑しくって、僕は腹をよじって「はははは、全然、ははは、言いそうに、はは、ないですね」と笑い声と言葉を同時に吐き出すのに苦労した。
と、そのとき突然暗転した。状況についていけない僕は、ボーっとした頭で、なんとか把握しようとつとめた。
……僕の頭は枕の上にある。枕元のラジオからはTBSの朝の番組『森本毅郎スタンバイ』が流れていた。
つまり、夢であった。
この日は元号が発表された次の日で、菅官房長官の「新しい元号は令和であります」という音声を流した後に、スタジオで森本毅郎とゲストコメンテーターが喋っていたのだ。ラジオの音がそのまま夢の中の音になっていた。同時に夢の中では勝手なシチュエーションが作られていた。
こういう経験はみなさんもありますか?ただの夢よりも不思議ですよね。
二度寝したときに、よくこういうことがある。脚本をもらって瞬時に映画を撮っているみたいで、我ながら我が無意識に感心します。ふだん、無意識を意識することは難しいですが、夢と現のはざまで生きるというのはこういうことなんですね。
さて、『通販生活』夏号の特集「読者が繰り返し見る夢」で絵を描きました。読者が繰り返しよく見る夢ベスト1は「間に合わない」夢だそうです。水辺の夢も世界共通で女性が多く見る夢だそうです。「空を飛ぶ夢」の飛び方はその人が「自分は人生をうまくコントロールしている」という満足度を表しているんだそうです。死んだ人が夢の中で生きているという夢は、女性に多いそうです。不測の事態の夢を繰り返し見るのは、危機管理能力の高さの表れだそうです。
とまあ、詳しいことは『通販生活』を買って読みましょう。180円です!「人生の失敗」というコーナーでは籠池夫妻も登場してます!

リリーさんに気持ちよくなる

いったいこのブログはいつまで続けるつもりなのだろうか。

臨終間際まで続けるならそれはそれで価値もあるかもしれない。というわけでたまに休むのは良しとしても、ポッカリあいだを空けるのはダメだ、今週も更新しなければ……。飼い猫が捕ったネズミを見せにくるように、「こんな仕事したんだよ、見て欲しいニャー」と自慢したいときは、ただそれを書けばいい。でも仕事というのはだいたい似たような依頼が多く、そういうのばかり載せているだけでは「はいはい、またネズミね」と飽きられるんじゃないか、と心配である。情報スピードが早いと、消費される速度も早くなり、イラストレーターとしての賞味期限もいたずらに短くなってしまう。それではイカン。史上最長寿のイラストレーターとして、このブログを臨終間際まで毎週更新する予定なのだから。

同じような絵の更新が続くときは、せめて文章で違うことを言って、感心させなければ……それが無理でも、せめて憩いのひと時を……しかし、仕事で描いた絵に引っ掛けて文章をひねるとなると、これもまた内容がマンネリになるのだ。
革新的な仕事を成し遂げた天才でさえも、よく見たら同じところをぐるぐる回っているだけである。ましてや凡才はまわる直径が短いから、マンネリズムは余計に肝に銘じなくてはいけない。
……というようなことを書くのもこれが初めてではなく、もう何回も言い訳的に書いている。
はぁ〜、今週はどんな内容にしようかなぁ。
最近テレビドラマが面白くていい。最後の方ですごく退屈になっていった『まんぷく』がようやく終わって始まった『なつぞら』もいい。『きのう何食べた?』もいいし、もちろん『いだてん』もいい。先日見た『離婚なふたり』がまた素晴らしい。
脚本も演出もいいに違いないが、役者の演技を見ているのが気持ちいいっていうのも大きい。とくに『離婚なふたり』のリリー・フランキーを見てるのがめちゃ気持ちいい。『なつぞら』に出ている高畑淳子と比べると、リリー・フランキーの演技の方がより自然で、大げさでなく、とにかく気持ちいい。高畑淳子は気持ちいいまでいかない。……ったくオレみたいな素人がこういう意見をわざわざネットに書き込むのは慎みたいと思っているんだけど、一応、絵もそうじゃないですか、うまいが気持ちいいにまさるってことあんまりないでしょ?
うまさが気持ちよさに直結している部分もあるけど、ただ一つのツボを押してるだけにすぎないと思う。同時にいくつかのツボを押されないと「あ〜気持ちいい〜」とはならない。
僕は今だにどんな時でも線は手描きなのだけど、そうしてる理由は、単純に気持ちいいからだ。とくに毛筆で描く快感は絵を描く気持ち良さの大きな割合をしめている。最初から線を描くのは気持ちいいものだったが、10年20年続けてきて、だんだん快感の回路が作られて来た感じだ。筆によってもかなり違う。紙質も多少ある。便利と引き換えに、この快感をパソコン作業に置き換えることは非常にもったいない。
けど、パソコンでしか引けない気持ちのいい線もあって、実はちょっとやってみたい。また肉筆浮世絵よりも版画浮世絵の方が気持ちいいのはなぜか。別に肉筆だろうが電筆だろうが相手を気持ちよくさせればどっちでもいい。本人が快感を得られるからといって、絵を見る人が気持ちいいかどうかは別だ。ここがなんぎである。自分がやることによって得られる快感を、やってない人にも感じさせる。そんなツボを探そう。おわり。今週の絵は描き下ろしです。