伊野孝行のブログ

令和と北尾と隠居すごろく

(注… …今回のブログの記事と絵は、まったく関係ないように見えますが、最後は関係あるようになるので、不思議がらずに読みすすめてください)

昨日、新しい元号「令和」が発表された。古典の教養などまるでなさそうな首相の口から、元号に込めた思いを聞いているうちは、ちょっと違和感もあったけど、後で、出典である万葉集の序文は王羲之の蘭亭序およびなんとかという漢籍をふまえているとか、詩が詠まれたのは太宰府の大友旅人の邸宅だとか知るうちに意味も由来も響きも悪くないと思えてきた。むしろ積極的に好きかもしれない。令和。

こういうことを書くと、僕に感心できるくらいの古典の教養があると思われるかもしれないが、全くないです。

何回か前のブログ(顔真卿の回)で、王羲之の蘭亭序のことを書いたけど、書を知ってるだけで、あとはほぼ知らない。現代において漢文の教養があるのは、ごくごく一部の人だけなので、この点においては安倍首相と同レベルだ。
そんな一億総漢文の教養ない時代に、中国を先生としていた時代の遺物、元号を続けるのはおかしくはあるけど、僕は残しておいて欲しい派だ。中国に学ぶ、真似するをずっとやってきて、明治からは西洋に学ぶ、真似するに変わり、その後、天狗になってどこにも学ばなくなったツケが今まわってきている… …んだよね?たぶん。
日本という国自体が中国文化の正倉院であり、その上に独自の特殊文化も花開いている。そういう意味で元号は初心忘れるべからず的にあり続けるのはいいと思うのです。… …しかし本家はとっくに元号(皇帝が時間を支配する)というこだわりをやめ、世界標準の西暦だけだし、今やきわめて合理主義的に世界の覇者になろうとしている。方や日本は今もなお、というよりあきらかに歴史上いまが一番、元号で盛り上がっている。大局的に眺められない小国っぽさ?… …はい、デカい話はここでやめるとして、そう、2月10日に元横綱双羽黒、北尾光司が亡くなっていたニュースにショックを受けた。
瞬時に僕の気持ちは中学生に戻る。
小学校、中学校ともに北尾光司は僕のパイセンにあたり(8歳上)、しかも小学校と一本道を挟んだ隣に中学校があったので、僕が小学校にいる時に北尾はすぐ近くにいたわけだ。中学2年で195センチあったという天才相撲少年北尾の噂は、隣の小学校にも伝わっていた… …かというと、どうだろう?少なくとも僕は知らなかった。いくら体がデカくて、相撲が強いと言っても、その時はただの中坊だからね。小学校には北尾少年が在学中に出来たという赤土の土俵があって、僕らはそこで相撲をとったりしていた。
中学校にあがり、僕が2年か3年の時に、北尾が大関に昇進した。巡業のついでに母校を訪れたことがある。この時はすでに郷土の星である。落ち着いた緑色の着物に身を包んだ北尾はものすごくデカかった。大銀杏の似合う美男であった。記念に手形の押されたサイン色紙が全員に配られたが、それは印刷だった。
北尾が大関に昇進するこの年、元横綱輪島がプロレスデビューしたと思う。輪島は僕が最初に好きになった力士なのだが、プロレスラー輪島は世間からは嘲笑されていた。よし、俺がまた輪島を応援せねば。そして、これからは北尾も熱烈に応援しようと思った。
優勝しなくても横綱になれるくらいのトントン拍子で相撲界の頂点に立った双羽黒こと北尾光司は郷土ではスターだが、僕が高校に進学すると話は微妙に違う。同じ三重県といえども、他の学区や市や村からきてる級友たちにとっては、横綱の品位や成績を保てない双羽黒はからかいのネタだった。付け人を空気銃で打ったり、サバイバルナイフで脅かしたりして、騒がれるたびに僕は双羽黒のことをかばわねばならなかった。同時に輪島のこともかばわねばならない。これもファンの務めなのだ。
北尾のことを思い出したついでに、ヘンな思い出も蘇ってきた。高校1年の時だったが、休み時間になると、地味な男子生徒数名が僕の机の周りに集まり、なぜか「おはじき」に興じていた。僕は一番でかいおはじきに修正ペンで「双羽黒」と書いて戦わせていた… …休憩時間の過ごし方があまりにしょっぱい。やってることが小学生みたいでおぼこい。
そこまでして応援する私の気も知らず、双羽黒はちゃんこの味に文句を言って、女将さんを突き飛ばし部屋を出たきり、あっという間に廃業。北尾は「スポーツ冒険家」と名のり、また友達のからかいのネタになった。そして、ついに北尾は輪島のようにプロレスラーになった。
高校3年の受験で上京し、池袋のホテルに泊まったとき、ちょうど北尾光司のプロレスデビュー戦が行われた。髷を落とした北尾は幼い顔のとっちゃん坊やで、なんとも垢抜けなく、リングコスチュームもぜんぜん似合わなかった。それでも、対戦相手のクラッシャー・バンバン・ビガロを倒した瞬間、僕はホテルのベッドの上で何度もジャンプして喝采を送った。その日は2月10日だったはずだ。北尾がなくなった日はプロレスデビュー戦と同日だったと報道にあったから。
その後、僕は東京に出てきて一人暮らしをはじめ、北尾の応援も熱心でなくなった。相撲と違ってプロレスはなんでもありだから、問題児も埋没してしまうというか。優勝14回の輪島が借金を返すために、裸一貫になってまた頑張る、みたいな昭和なドラマが新人類北尾にはなかった。方や相撲界は、若貴ブームで空前の人気だったが、僕はそんなに相撲が好きではなくなっていた。僕がまた相撲が大好きになるのは、平成の問題児、朝青龍の登場を待たなくてはいけない。
輪島、双羽黒、朝青龍、と問題を起こす力士になぜか惹かれるようだ。問題を起こしてもファンはファンを絶対に辞めない。
さて、プロレスでもうまく花が開かなかった北尾は、引退後何をしているんだろうと時々思っていたが、15年?くらい前に立浪部屋のアドバイザーに就任したと知って、ちょっとホッとした。しかし、今回の死去の報道をきっかけにわかった事実は、立浪部屋のアドバイザーをしていたのはほんの一瞬だけで、あとは部屋とも連絡をとっていないようだった。
199センチもある巨体で、元横綱という抜群の知名度を持ち、プロレス引退後の人生をどうやって過ごしていたのか。体の存在感があるだけに、想像するとよけいにしんみりしてしまう。
ずっと前に『下足番になった横綱』という男女ノ川の評伝を前に読んだことがある。男女ノ川という人も194センチあった巨人で、なんでも引退後相撲協会からも退職し、サラリーマンや保険の外交員、探偵(!)などもやって、晩年は料亭の下足番をしていたみたいだ。普通の体格だったらひっそりと人生を送ることもできるが、どこに行っても目立ってしまう。
引退後、つまり退職後、昔で言うところの隠居の身。
江戸時代、巣鴨のある大店の主人が隠居した。本人は隠居生活をエンジョイするつもりだったが、思わぬ方向に人生のすごろくが進む… …という西條奈加さんの新刊『隠居すごろく』のカバーを描きました。
ブログに書きたい文章とブログで紹介したい絵が違うので、今回は無理やり縫い合わせてみましたが、そんなところで、また来週。

別冊太陽・柳家小三治

もう4月になるというのに、去年の仕事を引っ張り出してくるのもなんですが、「永久保存版」と銘打ってあるから、いつ紹介したって鮮度は落ちていないはず。今週は、別冊太陽「十代目 柳家小三治」に描いた挿絵のことでも。

小三治さんを愛する5人の方々の寄稿文「わたしの好きな小三治の一席」に絵を頼まれたのですが、5人のラインナップを見て、「おおっ、ついにこの日が来たか」と思いました。
いや、あまり話を期待されると困るのですが……その5人の中に南伸坊さんが入っていたのです。今でこそ、伸坊さんとは対談させてもらったり、展示をご一緒したり、お酒をのんだりしています。もうずいぶん前に「ぼくは伊野君のこと友達と思ってんだよ」とおっしゃてたので、私も堂々と「オレ、南伸坊と友だちー」と自慢しても差し支えないくらいの、間柄ではあります。でも、伸坊さんのエッセイに自分が絵をつける、ということは何かしら感慨深いものがありました。ついにこの日が来た……というのは、ただそれだけのことなんだけど。
伸坊さんは「E・S・モースと柳家小三治」という文章を寄せています。
そうそう、伸坊さんには、自ら装丁した本について語る『装丁/南伸坊』という本があり、そこで小三治さんの『ま・く・ら』を装丁した時のことが書かれていました。
別冊太陽では、その後日譚として、続編『もひとつ ま・く・ら』を装丁したことや、最初使う予定だったけど借りられなかった、モースの箱枕について詳しく書かれています。
担当編集者さんからは「『ま・く・ら』と『もひとつ ま・く・ら』の書影のかわりになるようなイラストはどうでしょう」と提案があったので、ついにこの日が来たと言っても、案外そんな時って腕のふるいようがなかったりするものなのかもしれないなと思いながら、私も即物的にまくらの絵にしました。小三治さんの似顔絵にしても伸坊さんが描いた方がはるかに可愛いから、腕をふるえなくてよかったのかもしれないなー。
柄本佑さんの「はぁー……すげぇー」という寄稿文につけたのが下の絵です。
この絵は松岡修造さんの「僕にはない熱さでできている」につけたもの。
粗忽長屋の場面は、小林聡美さんの寄稿文「入我我入って、小三治の落語みたいだな、と思った」に。
「こんなことがあった」by鈴木敏夫さんには「千早振る」をカルタっぽく。
他には「小三治に聞く142の質問」というコーナーも面白いし
古今亭文菊さんとの対談もめっちゃヒリヒリして読むのがこわいくらい。文菊さんが思いっきりダメ出しされてて、たぶん、収録現場は息が止まるような緊張感だったのではないかと想像します。そんだけ期待されてるということでもありますが、オレだったらへこむな(笑)。でも自分の仕事について真剣に正直に語り合えるのは最高なことだと思います。古今亭文菊さんは原田治さんが贔屓にしていて、パレットクラブの寄席で見たことがあります。その時はまだ二つ目でしたが、いい噺家さんだと思いました。
当たり前だけど、お二人とも着物が似合う。いや、当たり前なんだ、日本人なんだから。着物を着るのに理由がいる、なんで着てるの?って聞かれる(特に男性は)というのは、悲しいことではないですか。僕も着たいんだけど、やはり着る機会がないですよね。前に伸坊さんがあるイベントで浴衣を着て来た時、普段の洋服のかわいさとはうって変わって「大師匠」とでも呼びたいような雰囲気ありましたね。ま、オレなんて着物を着ても、万年「二つ目」だろうけどね。
はい、以上、ブログ更新リハビリ中につき、たいした内容はありませんが、これにて御免蒙る。

ワガママでなければ

さ、今週はちゃんと更新するぞ、と思って何日か前に下書きをしたはずなんだけど、メールボックス(いつもメールソフトで下書きしてる)を探しても見当たらない。

カックンショック!

大量に絵を描く仕事は一段落つき、いまは平常運転なのだけど、昨日はあることで心がずっと緊張していて、あまり眠れず、また一からブログの文章をひねるのがとても億劫だ。
それでも今朝は近所のおじさんと一緒にランニングもしたし、走る道すがらオオゼキ松原店(新しく建て直すために長らく工事中で、シートに覆われていた)がついのその全貌を表しているのを見たとき、かたまっていた心が一瞬弾んだ。スーパーの中で一番好きなスーパーオオゼキ。新しいオオゼキは深みのある煉瓦色だった。
10年続けたブログを5週間サボったわけだが(実際には更新はし続けているけど)、サボりぐせがついた今、5週間前の自分を尊敬しはじめている。そんなに毎週何を言うことがあったのだろうか。5週間前のブログからしばらく遡ると、1月の記事はやけに長い。これは1月がわりかしヒマだったからだ。
人生の畑はヒマなときにほどよく耕せるのである。我ヒマを愛す。ヒマに勝る至福の時間なし。
はい。いきなりなんだけど、まだブログで紹介していなかったブックカバーの仕事を。
ズッコケ三人組シリーズでおなじみの、那須正幹さんの『ばけばけ』(ポプラ社刊)という本です。髪の毛がうまく描けてませんか?そんなことない?
実はこの髪の毛、描いてるんじゃなくて消してるんです。鉛筆で黒く塗りつぶしたところを消しゴムの角でスーッと。たまたま思いついた技法だけど、これから使うことあるかな?
僕はいろんなタッチで描いてますが、それは一つのスタイルでやることに飽きちゃうからだし、スタイルを作ることや維持することが絵を描く目的ではないからだし、イラストレーターは色々描けた方がアプローチの仕方も増えるからだし、だし、だし、なんだけど、あまりに器用に描いた絵って、なんか物足りないんですよね。
絵はワガママであった方が魅力的だと思う。ワガママ言ってない絵はつまんないなって最近思うなー。ワガママな絵ってなんでしょうね。
『ばけばけ』の絵はワガママ言ってるんだろうか。技法を一つ発明したことで、描くときの新鮮さはあった。
絵のワガママっていうのは結局……とここからどうやって理屈を展開していこうかと思ったが、今日はリハビリということで、ここで終わりにしよう。
目標!
来週もちゃんと更新すること。
ではまた!

天心が埋めて惟雄が掘る

岡倉天心の写真はすごくエラっそうだ。このふんぞり返った感は俺が日本をしょって立つという明治人の気概なのかもしれない。アメリカ滞在中もここぞというときはバシッと羽織袴で決めたというし、アメリカのヤンキーに「お前たちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかわれたら「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」とペラペラの英語で当意即妙に切って返した、という逸話がある。ネットの中で見つけた。そう、引用すると負けた気がするウィキの記事の中に。それはいいのだけど、こういう話を聞くと、なかなかアッパレな漢の印象を受けるが、岡倉天心の絵を見る眼力ははなはだギモン。影響力のあった人だけに、当時も後世も岡倉天心に埋められた画家や作品が多かったんじゃないだろうか。というのは何年か前に図書館で借りてきた近藤啓太郎さんという人の本『日本画誕生』にこんなことが書いてあったからだ。

〈さて、天心は『日本美術史』で、応挙については四千五百字を費やして記述しているのに反して、宗達についてはたったの二百字である。池大雅にいたっては、逸話を記しているにすぎない。徳川家の絵師として日本画壇に君臨していた狩野派に反撥して、異端といわれた伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白など、すぐれて個性発揮の絵を描いた画家についてはほんのわずかな記述でしかないのである。従って、浮世絵は下等社会の趣味として、無視しているのは当然とも言える。そのくせ、天心は市井で「親方」と呼ばれていた工芸家をいきなり美術学校の教授にしてしまうのだから、理解に苦しむところである。〉
親方と呼ばれてた工芸家とは高村光雲かな。
それよかさ、天心が日本美術史の路地裏に追いやった画家たちって、まさに辻惟雄さんが再発見した『奇想の系譜』の画家たちじゃん!若冲、芦雪、蕭白、国芳以外に『奇想の系譜』にあげられている岩佐又兵衛、狩野山雪については岡倉天心はなんと言っているんだろうか。褒められてたら逆にくやしいけども。
芸術新潮の今月号の特集は「奇想の日本美術史」。50年前に辻惟雄さんが「奇想の系譜」で発表した奇想のスタメンに、新たに白隠慧鶴、鈴木其一などが加わり、さらに縄文から現代に至るまで、あるときはなりを潜め、あるときは爆発する奇想の血脈を紹介する。監修者の山下裕二さんが日本美術史を揉んでほぐして血行をよくするという特集だ。
私が担当したのは「奇想の8カ条」。
高札の上で高笑いする山下裕二奇想奉行。そして奇想の魂たちをあたたかく見守る辻惟雄奇想菩薩。一番右下の女性は現代の奇想美術家、風間サチコさんの似顔絵だ。
この奇想の8カ条に当てはまるような扉絵を描きたい、いや、おい、忘れちゃ困る、奇想のイラストレーターはこのオレさまだ!という気持ちで描きました。
自分の中にも奇想の血が流れている。日本美術史のようにあるときはなりを潜めて、あるときは爆発して。
高校生の時に寺山修司や横尾忠則や湯村輝彦さん、蛭子能収さん、根本敬さん、音楽でいったらエンケンさん……たちに惹かれていったのは、我が奇想の初潮にして満潮時。その後。セツ・モードセミナーに行ってからは奇想の血はややなりを潜めるも、長沢節先生自体はある意味、世間一般の奇想よりもマジで変わった人だったので、先生を観察しているだけで自分の奇想パワーは充電していたのかもしれない。
そしてようやく日本美術に興味を持ち始めた時期、つまり橋本治さんの『ひらがな日本美術史』連載中の芸術新潮、2000年2月号の「特集 仰天日本美術史『デロリ』の血脈」by責任編集 丹尾安典を読んで、再び自分の中の「へんな絵大好き!」気分が満潮かつ大潮になったのであった。
基本的に変人、へんな絵が好きな私です。
今は、自分の奇想メーターはどれくらいを指しているだろうか。
そうそう、ちょっと岡倉天心先生を褒めておこう。
同じく『日本画の誕生』の中に天心先生のユニークな「新案」という授業の様子が書かれていた。
美術学校第一回生の溝口禎次郎氏はこう語る。
〈新案というのは構図のことで、生徒に図を作らせるのです。ところが山水などなかなか図を作れるものではない。そこで各々いろいろの工夫をしたものだったが、一番面白いのは風呂敷を投げつけてその形によって山水の図を立てるといふ方法だった。これは元来芳崖さんが案出した方法らしかったが、兎に角やってみると不思議に図が出来る。柔らかな風呂敷では駄目だが、白い金巾か何かのこはい風呂敷を投げつけると、それが角張った狩野風の山に見える。さうして彼方に滝を落としたら面白かろうなどという考えが浮かぶのです。〉
この方法について著者の近藤啓太郎さんは「なんとも馬鹿々々しい話で情けなくなる」と述べているが、私に言わせりゃ、ベリーグッド!もっとも狩野芳崖の発案らしいから天心先生一人のお手柄ではないが。中国山水に似た山なんて日本の風景ではほとんどないし、かといって頭の中だけで絵を作ろうとするとどうしても観念的になる。風呂敷を投げて偶然出来る形から山水を起こそうなんて、まさに名案だ。もしかしたら狩野派では昔からやっていた方法なのかもしれないね。

あなたは暮しの手帖を読んでいますか

「安物買いの銭失い」という言葉があるが、ぼくの場合は「安物買いの物持ちいい」だろう。

ざっとわが六畳間を見渡せば、スチールの本棚4つに、カラーボックスが5つ。仕事机と椅子は20代の頃量販店で買ったもの。プリンターがおいてあるのはゴミ置場からひろってきた黒い台。実家からもってきた扇風機。

東京に来て5回くらい引っ越しているけど、新居にあそびにきた友達は口をそろえて「伊野の部屋って何回引っ越してもかわらないねー」と言う。

若いときはお金がない。「選ぶ」という余地があまりない。いつか自分の持ち家ですきなように部屋づくりができるようになるまでの、仮暮しの気分でずっといた。

ところが、五十の壁も目前にせまってきた昨今、いまさら家を買うだろうか?壁一面につくりつけの本棚をこしらえる予定があるだろうか?と自分に問う。たぶん、一生、借家暮しのような気がしている。それに、ぼくは年々老化していくのに、安物の机や椅子や本棚の朽ちないことといったら……電子レンジは30年前に上京したときに買ったものだが、毎日使いまくってもいまだにこわれる気配すらない。

いつかステキな暮しを、といった夢は、無理矢理にでももとめないと手に入らない。残りの時間をかんがえたら、無理をするのは今かもしれない。

職人さんのいい仕事に、高すぎる値段というものはない。仕事の対価であり、それを払えば、自分のものにできるのだから。少なくともぼくの絵の値段よりは適正価格だと思う。

今度からモノを買うときは、なるべくいい仕事のものを求めよう。自分も職人のはしくれだし……と、思っているのに、きのう革靴を買いに行って、2万円代後半、1万円代後半など、4足ぐらいためしてみたが、いちばん形もかわいくてピンときたのは7千円のスエード靴だった。金じゃないんだ、金じゃ。

暮しといえば、「暮しの手帖」。

20代、セツに通っていたとき、学校のロビーに「暮しの手帖」が置いてあった。長沢セツ先生と花森安治が関係あったのかどうか知らないけど、購読していたというより、送られてきてたのだろう。

「暮しの手帖」は実家にも何冊かあった。久しぶりに手にとって見たら、そのレイアウトや写真の古くさい(そのときはそう思った)ことに驚いた。え?まだこんな感じなの?とカルチャーショック。表紙も油絵で描いたような女性の人物画だったと思う(花森安治の絵ではない)。時代は90年代半ば。国民の暮しが贅沢を極めたバブルが終わって、まだ間もないころであった。

ありし日の花森安治の姿を写真で知ったのは、そのちょっと後だったかもしれない。ガマガエルのような顔でしかも妙に女装が似合っていて、男だとはなかなか信じられなかった。

花森安治の編集者としてのすごさは山本夏彦がよく書いていた。

花森安治は耳で聞いてわかる漢字しか使わない。目で読んで理解できる漢字は使わなかった。このために「暮しの手帖」の文章は読みやすい。漢字にするところと平仮名にひらくところの塩梅も絶妙、というようなことや、「商品テスト」のこと、あとは花森は戦争中は大政翼賛会にいて「欲しがりません勝つまでは」という標語を作った(公募のなかから選んだのだっけかな?)ということも、山本夏彦の本で知った。

「欲しがりません勝つまでは」は、なんというおそろしい標語だと思っていた。でも、この標語のポスターを世田谷区美術館の「花森安治の仕事」展(2017年)で見た時、あ、めっちゃいい!と思った。

おそろしい標語が書かれたおそろしいポスターをうっとりながめている自分がいたのだ。どうしてこんなにあたたかいのだろう。大政翼賛会の職員としてお国のために頑張る戦時下の花森、「暮しの手帖」編集長として庶民の暮しをたいせつに思う戦後の花森。
転向とか、今風に黒歴史などとかたづけていいものだろうか。ここでも「欲しがり/ません/勝つまで/は」というレイアウト術の妙。これが計算で割り出せないように、花森安治も単純に計算では割れないのだ。手書きの明朝の向こうから花森安治の太い肉声が聞こえてくるようだ。

パソコンが使えないとデザインができないのだろうか。フォントを持っていないと文字が使えないのだろうか。いや、筆と絵の具でただ紙に描くだけで表紙版下はできあがるのだ。そんな、あたりまえのことを、当然のごとくやっている。そのやり方しかない時代だから、という素朴さと強さの前に、パソコン小僧はフリーズした。

花森安治は「自動トースターをテストする」と題して食パン4万3千88枚を焼いて積み上げた。「暮しの手帖」の好企画として名高い「商品テスト」である。この食パン、ものをたいせつにする花森、および編集部一同があとで残さず美味しくいただきました……かどうかなんてどうでもいい。今なら炎上案件かもしれない。そんなことよりも、これがビジュアルの説得力だ!これが雑誌なのだ。「もしも石油ストーブから火が出たら」という商品テストもすごいぞ。これが本当の炎上だ!
このように花森安治は取材や文章、コピーの執筆はもちろん、写真撮影、レイアウトやロゴなどのデザイン作業、さらに絵もうまいんだからまいるよ。万能編集者でぼくにとっては同業の大先輩。熱量と質の高さにただ打ちひしがれるだけ。
25年ほど前にセツで手にしたとき、古くさいな〜と思った「暮しの手帖」だけど、今もう一度見るとどう思うだろうか。時代は変わった。もちろん「暮しの手帖」は今もなお発行されつづけているのはみなさんもご承知のとおり。古くさい感じはいっさいありません。
そして何号かまえから、「わたしの大好きな音楽」というコーナーでぼくは絵を描いているのでした。

はい、それではみなさん、石油ストーブから火が出たら、こうしましょうね!

芸人の道

日本農業新聞で連載中……ではなくて、連載していた島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」。そう、すでに去年の秋には連載が終わっていたのでした。そして気の早いことに連載中に文庫本の上巻が出て、連載が終わるやいなや、下巻も発売されていたのでした。さすが、佐賀のがばいばあちゃんスペシャルな早業。

私のブログではアップするのが遅れて、今回はやっと芸人の道に踏み出したところ。

この連載がはじまる前に担当さんから「文中に出てくるセリフを挿絵の中に入れて欲しい」というリクエストがありました。ホイホイと言うことを聞いておりましたが、物語が少年時代を経て、芸人の道に入ると、当然芸人の似顔絵の横にセリフを書く必要も出て来ます。そんな時にちょっと気になるのが、芸人を描かせたら右に出るもののいない名人イラストレーター峰岸達さんの絵に似てしまうんじゃないかな〜ということでした。

先に白状しておきましょう。なんか似てたらスミマセン。
しかも洋七さんの物語には、当然、峰岸さんの大傑作、小林信彦著「天才伝説 横山やすし」の挿絵で何度も描かれているヤッさんも登場します。
しかし比べるのが失礼というもの。
似ちゃったらどうしようかなと気にしながら描いている絵と、自分を大爆発させながら描いている絵とでは自ずと輝きが違います。
以前、峰岸さんと話しているときにこんなことをおっしゃてました。「モノマネの芸人でもさ、森進一のモノマネって、みんなやり方が似てるじゃない。あれは人がやってるモノマネを見て、自分もコツを掴むんだよね」と。
そうなんです。私も峰岸さんの絵を真似してコツをつかもうとしている。そんなことにしておいてください。
 ちょうど昨日が千秋楽やったみたいで、その日は、昨日とは違うラインナップやった。人生幸朗・生恵幸子さんのぼやき漫才でまた笑いころげた。小森さんちに帰って、会社から帰ってきた先輩にもう一回言うてみた。「先輩、俺やっぱり漫才師になりたい」
 ギターのチューニングをしていた可朝さんに、富井さんが俺を紹介してくれた。「この子、徳永くん。今日から『うめだ花月』に入ってもらうことにしたわ」「ほう、そうか。まだ若いんやろ? お笑いやりたんか?」 俺はガチガチに緊張しながら答えた。「はい、漫才師になりたいです」「ほうか。大変やけど、おもろい世界やで」 可朝さんのこの言葉を理解するには、それほど時間はかからんかった。
 電話にはお母さんが出たようで、りっちゃんは、大阪でアパートを借りたことや繊維問 屋に勤めたという近況を報告していた。お母さんは、ひとまず安心したようで、俺もほっとした。そんな俺にりっちゃんが受話 器を差し出した。「お母さんが、代われって」
 
2,3日したら、りっちゃんの家からやたらでかい荷物が届いた。包みを開けたら、ふかふかの布団が2組入ってた。お母さんがお父さんにりっちゃんの居場所が分かったことを言うたら、お父さんが「布団だけ送れ!」と怒鳴ったんやそうや。
 進行係の仕事にも慣れてきた頃、俺もそろそろ師匠につきたいと思うようになった。「誰がええかな。やすし師匠は怖そうやし、仁鶴師匠は落語やし……。そや! 島田洋之介・ 今喜多代師匠やったら優しそうやしええかもしれん」と、今思えば短絡的で失礼な判断やな(笑)。
「そや!ええこと思いついた!」俺は急な坂を一気に駆け下り、たばこ屋のおばちゃんに紙とペンを渡して代筆を頼み込んだ。おばちゃんは「何かよう分からんけど」とか言いながらも、俺の実家の住所と電話番号と「漫才師になることを承諾します」と書いてくれたんや。たった2万円やけど、去年の夏に藤本商店を辞めてから、初めて稼いだ金や。しかもこの金は。漫才師としての一歩を踏み出したというや。そう思うと、たまらん気持ちがこみ上げてきて、ボロボロ涙が止まらんかった。
俺らが初舞台と知ったルーキー新一さんは、10日間の寄席の間、舞台での姿勢やら、突っ込みのタイミング、ネタの振り方とか、細かいとこまであれこれアドバイスしてくれた。その一つ一つがものすごく勉強になったし、ルーキーさんの「君らは伸びるぞ」と言うてくれはった言葉が、大きな自信になった。「お勘定!」と、懐から分厚い財布を出して、さっと支払いを済ます豆吉さんが、これまたかっこいいんよ。豆吉さんには毎晩のように、すき焼きをごちそうしてもろた。ところが千秋楽の日、雷門助六師匠の怒鳴り声が楽屋に鳴り響いた。

進行係の頃はまだ給料はあったけど、漫才の修業だけになると、収入はほとんどない。当時はりっちゃんの月4万円の給料だけが頼りの綱やった。何にも食うもんがなくて、寛平と2人でマヨネーズとケチャップをちゅうちゅうと吸ったこともあったよ。

舞台が終わった後、座席をぐるっとひと回りすると、封がされたままのお菓子や折り詰め弁当、パンが結構残ってたんや。食べ物を見つけると、まず清掃係のおばちゃんに見せに行く。「おばちゃん、これ食べられるかな?」するとおばちゃんは、くんくんと匂いをかいで、ジャッジしてくれる。

 ある日、俺と寛平が、楽屋でいつものように緑色のおかゆを食べていると、新喜劇で「くっさー、えげつなー」のギャグでおなじみの奥目の八ちゃんこと、岡八郎さんが入ってきた。「何、食うてんの?うまそうやな」俺は芸名を書いてもらうために、美術部の部屋を訪ねた。そこで「めくり」の担当の人につい言うてしもたんや。「芸名は団順一・島田洋七です。それから上に『B&B』って入れてください」「B&B?何や、それ」「お前の名前の上についてるB何とかって、あれ、何や?」「いや、実は宣伝部の人から、同じ一門やないし、名前がばらばらで分かりにくいと言われまして……。二人で何とかというコンビ名があった方がええんちゃうかということになりまして……」「分かりやすいのか、あれは。何の意味があるんや?」「はい。B&Bは、ボーイ&ボーイという意味です」苦しまぎれのでまかせやった。
 舞台の“トリ”は笑福亭仁鶴師匠。「お疲れ様でした!」と師匠を送った後、いつものように「また明日な」と萩原芳樹くんと別れた。それが彼と交わした最後の言葉になるとは、このときは思いもよらんかったよ。なんと、次の日の舞台の時間になっても萩原くんは劇場におらん。
萩原くんがいなくなって、ちょっとの間は落ち込んでいた俺やけど、師匠をはじめ、いろんな人に相方を探していると伝えていた。そしたら、松竹芸能から吉本に移籍してきた上方真一というやつが、俺とコンビを組みたいと言うてるらしい。上方真一は、後に西川のりおと「西川のりお・上方よしお」でコンビを組むことになる。
 いよいよ予定日を迎えた。俺は一人でいるのが落ち着かんかって、ボタンさんにご飯連れてってもろた後、ボタンさんの行きつけのスナックで待機することにした。そわそわしながら酒を飲んでいたら、りっちゃんのお母さんから電話が入った。「生まれた!女の子や!」あるとき、桂文珍さんにも聞かれた。「お前、若いのにクーラー買うたらしいな。ちょっと見せてくれ」あるときトラックを運転してたら、再放送やったんやろな。ラジオからB&Bの漫才が流れてきたんや。「これ俺やん?俺、今、バイトしてるっちゅうねん!」とツッコミながら大笑いしたことあるよ。
 「ばあちゃん、なんで俺だけこんなについてないと? ちっちゃい頃から、かあちゃんと離れて寂しかった。野球も頑張ったのにあかんかった。漫才師で頑張ろうと思たのに……。なんでや!なんで俺だけ、こんなんなんや。もう辞めたい」「分かった」「何が、分かったと?」「お前の気持ちはよう分かったから、よかと。電話代がもったいないから切るよ」ガチャン。ツー、ツー、ツー。コンビ解消のショックとばあちゃんへ八つ当たりした後悔の気持ちで、落ち込んだまま数日が過ぎていった。そんなある日、ばあちゃんから手紙が届いた。「昭広へ この間は電話をくれたのに、すぐに切ってしまってごめんね」
師匠のお供で花月に行ったとき、当時は桂三枝という名前だった文枝さんが声を掛けてくれはった。「コンビ解消したらしいな」「はい、相方探してます」「そうか、あいつ、どうや?」文枝さんが指したのは、進行係をやっていた藤井健次という男やった。
 「漫才の方がええで。2人でやれるし、楽しいって。芝居は大変やぞ。売れるかどうかも分からんし。でも、漫才やったら、俺ちょっとやってたし、自信あるねん。なんやったら、俺が1人でしゃべるし、黙ってうなずいてくれてるだけでもええから、大丈夫やって」有川さんと授賞式の打ち合わせをしているときにぽろっと、嫁さんと子どもがいることを打ち明けたんよ。「それ、いただき!」指をぱちんと鳴らした有川さん。授賞式には当然、島田洋之助師匠も来る。そこで師匠に打ち明けて、その場にりっちゃんと尚美を呼ぼうということになった。
洋之介師匠は、驚きながらも、「何で、今まで黙ってたんや。嫁はおるわ、子どもまでいるわ。でも、よかった。よう言うてくれた」と、涙を浮かべて俺の肩を抱いてくれた。大きく目を見開いて、怒ったような顔をしてた今喜多代師匠は、「もう!何よ、何も知らなかったわよ!早く言いなさいよ、もう」と、笑顔になった。
当時、うちの師匠と並んで大御所といわれてたんは、夢路いとし・喜味こいし師匠。いとし・こいしさんの漫才は、台本通りに隙なく演じるきちっとした芸で、話術の素晴らしさでは群を抜いていた。あるとき、漫談の滝あきらさんが「巡業で師匠にお世話になったから」と、俺に肉をごちそうしてくれると言う。「そうか、滝君、すまんな」と師匠も喜んで送り出してくれた。さあ、どんなビフテキが食えるんやろと楽しみにしてついて行ったところ、なんと牛丼の吉野家(笑)。島田洋之介・今喜多代師匠の弟子はいっぱいいたけど、なかでも有名になったんが、今いくよ・くるよさん、俺、そして島田紳助やった。
 あるとき、そんな俺らを見ていた横山やすし師匠が俺に声を掛けた。「おい。洋七。お前、ちょっとこっち来い」「なんですか?」「失敗しても怒らんでええんや。あいつがうまいことしゃべれへんのやったら、しゃべらんでええ漫才をやれ」
やすし師匠に会ったとき、聞かれた。「あの消防士のネタ、誰が考えたんや?」「俺です。師匠に言われた通り、テンポ上げて、それからいろんな人の漫才の間やスタイルをパクりまくりました」そしたら、やすし師匠、おなじみの人差し指を立てたポーズで言わはった。
 MBS(毎日放送)の「ヤングおー!おー!」は桂三枝さん、笑福亭仁鶴さん、横山やすし・西川きよしさんが司会する若者向けの番組として絶大な人気を誇っていた。番組内で月亭八方さん、桂文珍さん、桂きん枝さん、4代目林家小染さんからなるユニット「ザ・パンダ」はすごい人気で、後に明石家さんまが加入して「SOS」に改名。
※洋七さんも「いろんな人の漫才の間やスタイルをパクリまくりました」と言ってるように、芸事の基本は真似る、真似ぶ、学ぶ……要するにパクリなのだから、峰岸さんと多少似てても許されるだろう。
※「ザ・パンダ」を調べていてわかったが、当時の桂文珍さんは長髪であった。洋七さんの新婚家庭にクーラーを涼みに来た際の文珍さんの髪型を短髪で描いてしまったが、たぶん間違ってると思う。