お問い合わせは 03-3324-7949

メールソフト起動

伊野孝行のブログ

天心が埋めて惟雄が掘る

岡倉天心の写真はすごくエラっそうだ。このふんぞり返った感は俺が日本をしょって立つという明治人の気概なのかもしれない。アメリカ滞在中もここぞというときはバシッと羽織袴で決めたというし、アメリカのヤンキーに「お前たちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかわれたら「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」とペラペラの英語で当意即妙に切って返した、という逸話がある。ネットの中で見つけた。そう、引用すると負けた気がするウィキの記事の中に。それはいいのだけど、こういう話を聞くと、なかなかアッパレな漢の印象を受けるが、岡倉天心の絵を見る眼力ははなはだギモン。影響力のあった人だけに、当時も後世も岡倉天心に埋められた画家や作品が多かったんじゃないだろうか。というのは何年か前に図書館で借りてきた近藤啓太郎さんという人の本『日本画誕生』にこんなことが書いてあったからだ。

〈さて、天心は『日本美術史』で、応挙については四千五百字を費やして記述しているのに反して、宗達についてはたったの二百字である。池大雅にいたっては、逸話を記しているにすぎない。徳川家の絵師として日本画壇に君臨していた狩野派に反撥して、異端といわれた伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白など、すぐれて個性発揮の絵を描いた画家についてはほんのわずかな記述でしかないのである。従って、浮世絵は下等社会の趣味として、無視しているのは当然とも言える。そのくせ、天心は市井で「親方」と呼ばれていた工芸家をいきなり美術学校の教授にしてしまうのだから、理解に苦しむところである。〉
親方と呼ばれてた工芸家とは高村光雲かな。
それよかさ、天心が日本美術史の路地裏に追いやった画家たちって、まさに辻惟雄さんが再発見した『奇想の系譜』の画家たちじゃん!若冲、芦雪、蕭白、国芳以外に『奇想の系譜』にあげられている岩佐又兵衛、狩野山雪については岡倉天心はなんと言っているんだろうか。褒められてたら逆にくやしいけども。
芸術新潮の今月号の特集は「奇想の日本美術史」。50年前に辻惟雄さんが「奇想の系譜」で発表した奇想のスタメンに、新たに白隠慧鶴、鈴木其一などが加わり、さらに縄文から現代に至るまで、あるときはなりを潜め、あるときは爆発する奇想の血脈を紹介する。監修者の山下裕二さんが日本美術史を揉んでほぐして血行をよくするという特集だ。
私が担当したのは「奇想の8カ条」。
高札の上で高笑いする山下裕二奇想奉行。そして奇想の魂たちをあたたかく見守る辻惟雄奇想菩薩。一番右下の女性は現代の奇想美術家、風間サチコさんの似顔絵だ。
この奇想の8カ条に当てはまるような扉絵を描きたい、いや、おい、忘れちゃ困る、奇想のイラストレーターはこのオレさまだ!という気持ちで描きました。
自分の中にも奇想の血が流れている。日本美術史のようにあるときはなりを潜めて、あるときは爆発して。
高校生の時に寺山修司や横尾忠則や湯村輝彦さん、蛭子能収さん、根本敬さん、音楽でいったらエンケンさん……たちに惹かれていったのは、我が奇想の初潮にして満潮時。その後。セツ・モードセミナーに行ってからは奇想の血はややなりを潜めるも、長沢節先生自体はある意味、世間一般の奇想よりもマジで変わった人だったので、先生を観察しているだけで自分の奇想パワーは充電していたのかもしれない。
そしてようやく日本美術に興味を持ち始めた時期、つまり橋本治さんの『ひらがな日本美術史』連載中の芸術新潮、2000年2月号の「特集 仰天日本美術史『デロリ』の血脈」by責任編集 丹尾安典を読んで、再び自分の中の「へんな絵大好き!」気分が満潮かつ大潮になったのであった。
基本的に変人、へんな絵が好きな私です。
今は、自分の奇想メーターはどれくらいを指しているだろうか。
そうそう、ちょっと岡倉天心先生を褒めておこう。
同じく『日本画の誕生』の中に天心先生のユニークな「新案」という授業の様子が書かれていた。
美術学校第一回生の溝口禎次郎氏はこう語る。
〈新案というのは構図のことで、生徒に図を作らせるのです。ところが山水などなかなか図を作れるものではない。そこで各々いろいろの工夫をしたものだったが、一番面白いのは風呂敷を投げつけてその形によって山水の図を立てるといふ方法だった。これは元来芳崖さんが案出した方法らしかったが、兎に角やってみると不思議に図が出来る。柔らかな風呂敷では駄目だが、白い金巾か何かのこはい風呂敷を投げつけると、それが角張った狩野風の山に見える。さうして彼方に滝を落としたら面白かろうなどという考えが浮かぶのです。〉
この方法について著者の近藤啓太郎さんは「なんとも馬鹿々々しい話で情けなくなる」と述べているが、私に言わせりゃ、ベリーグッド!もっとも狩野芳崖の発案らしいから天心先生一人のお手柄ではないが。中国山水に似た山なんて日本の風景ではほとんどないし、かといって頭の中だけで絵を作ろうとするとどうしても観念的になる。風呂敷を投げて偶然出来る形から山水を起こそうなんて、まさに名案だ。もしかしたら狩野派では昔からやっていた方法なのかもしれないね。

あなたは暮しの手帖を読んでいますか

「安物買いの銭失い」という言葉があるが、ぼくの場合は「安物買いの物持ちいい」だろう。

ざっとわが六畳間を見渡せば、スチールの本棚4つに、カラーボックスが5つ。仕事机と椅子は20代の頃量販店で買ったもの。プリンターがおいてあるのはゴミ置場からひろってきた黒い台。実家からもってきた扇風機。

東京に来て5回くらい引っ越しているけど、新居にあそびにきた友達は口をそろえて「伊野の部屋って何回引っ越してもかわらないねー」と言う。

若いときはお金がない。「選ぶ」という余地があまりない。いつか自分の持ち家ですきなように部屋づくりができるようになるまでの、仮暮しの気分でずっといた。

ところが、五十の壁も目前にせまってきた昨今、いまさら家を買うだろうか?壁一面につくりつけの本棚をこしらえる予定があるだろうか?と自分に問う。たぶん、一生、借家暮しのような気がしている。それに、ぼくは年々老化していくのに、安物の机や椅子や本棚の朽ちないことといったら……電子レンジは30年前に上京したときに買ったものだが、毎日使いまくってもいまだにこわれる気配すらない。

いつかステキな暮しを、といった夢は、無理矢理にでももとめないと手に入らない。残りの時間をかんがえたら、無理をするのは今かもしれない。

職人さんのいい仕事に、高すぎる値段というものはない。仕事の対価であり、それを払えば、自分のものにできるのだから。少なくともぼくの絵の値段よりは適正価格だと思う。

今度からモノを買うときは、なるべくいい仕事のものを求めよう。自分も職人のはしくれだし……と、思っているのに、きのう革靴を買いに行って、2万円代後半、1万円代後半など、4足ぐらいためしてみたが、いちばん形もかわいくてピンときたのは7千円のスエード靴だった。金じゃないんだ、金じゃ。

暮しといえば、「暮しの手帖」。

20代、セツに通っていたとき、学校のロビーに「暮しの手帖」が置いてあった。長沢セツ先生と花森安治が関係あったのかどうか知らないけど、購読していたというより、送られてきてたのだろう。

「暮しの手帖」は実家にも何冊かあった。久しぶりに手にとって見たら、そのレイアウトや写真の古くさい(そのときはそう思った)ことに驚いた。え?まだこんな感じなの?とカルチャーショック。表紙も油絵で描いたような女性の人物画だったと思う(花森安治の絵ではない)。時代は90年代半ば。国民の暮しが贅沢を極めたバブルが終わって、まだ間もないころであった。

ありし日の花森安治の姿を写真で知ったのは、そのちょっと後だったかもしれない。ガマガエルのような顔でしかも妙に女装が似合っていて、男だとはなかなか信じられなかった。

花森安治の編集者としてのすごさは山本夏彦がよく書いていた。

花森安治は耳で聞いてわかる漢字しか使わない。目で読んで理解できる漢字は使わなかった。このために「暮しの手帖」の文章は読みやすい。漢字にするところと平仮名にひらくところの塩梅も絶妙、というようなことや、「商品テスト」のこと、あとは花森は戦争中は大政翼賛会にいて「欲しがりません勝つまでは」という標語を作った(公募のなかから選んだのだっけかな?)ということも、山本夏彦の本で知った。

「欲しがりません勝つまでは」は、なんというおそろしい標語だと思っていた。でも、この標語のポスターを世田谷区美術館の「花森安治の仕事」展(2017年)で見た時、あ、めっちゃいい!と思った。

おそろしい標語が書かれたおそろしいポスターをうっとりながめている自分がいたのだ。どうしてこんなにあたたかいのだろう。大政翼賛会の職員としてお国のために頑張る戦時下の花森、「暮しの手帖」編集長として庶民の暮しをたいせつに思う戦後の花森。
転向とか、今風に黒歴史などとかたづけていいものだろうか。ここでも「欲しがり/ません/勝つまで/は」というレイアウト術の妙。これが計算で割り出せないように、花森安治も単純に計算では割れないのだ。手書きの明朝の向こうから花森安治の太い肉声が聞こえてくるようだ。

パソコンが使えないとデザインができないのだろうか。フォントを持っていないと文字が使えないのだろうか。いや、筆と絵の具でただ紙に描くだけで表紙版下はできあがるのだ。そんな、あたりまえのことを、当然のごとくやっている。そのやり方しかない時代だから、という素朴さと強さの前に、パソコン小僧はフリーズした。

花森安治は「自動トースターをテストする」と題して食パン4万3千88枚を焼いて積み上げた。「暮しの手帖」の好企画として名高い「商品テスト」である。この食パン、ものをたいせつにする花森、および編集部一同があとで残さず美味しくいただきました……かどうかなんてどうでもいい。今なら炎上案件かもしれない。そんなことよりも、これがビジュアルの説得力だ!これが雑誌なのだ。「もしも石油ストーブから火が出たら」という商品テストもすごいぞ。これが本当の炎上だ!
このように花森安治は取材や文章、コピーの執筆はもちろん、写真撮影、レイアウトやロゴなどのデザイン作業、さらに絵もうまいんだからまいるよ。万能編集者でぼくにとっては同業の大先輩。熱量と質の高さにただ打ちひしがれるだけ。
25年ほど前にセツで手にしたとき、古くさいな〜と思った「暮しの手帖」だけど、今もう一度見るとどう思うだろうか。時代は変わった。もちろん「暮しの手帖」は今もなお発行されつづけているのはみなさんもご承知のとおり。古くさい感じはいっさいありません。
そして何号かまえから、「わたしの大好きな音楽」というコーナーでぼくは絵を描いているのでした。

はい、それではみなさん、石油ストーブから火が出たら、こうしましょうね!

芸人の道

日本農業新聞で連載中……ではなくて、連載していた島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」。そう、すでに去年の秋には連載が終わっていたのでした。そして気の早いことに連載中に文庫本の上巻が出て、連載が終わるやいなや、下巻も発売されていたのでした。さすが、佐賀のがばいばあちゃんスペシャルな早業。

私のブログではアップするのが遅れて、今回はやっと芸人の道に踏み出したところ。

この連載がはじまる前に担当さんから「文中に出てくるセリフを挿絵の中に入れて欲しい」というリクエストがありました。ホイホイと言うことを聞いておりましたが、物語が少年時代を経て、芸人の道に入ると、当然芸人の似顔絵の横にセリフを書く必要も出て来ます。そんな時にちょっと気になるのが、芸人を描かせたら右に出るもののいない名人イラストレーター峰岸達さんの絵に似てしまうんじゃないかな〜ということでした。

先に白状しておきましょう。なんか似てたらスミマセン。
しかも洋七さんの物語には、当然、峰岸さんの大傑作、小林信彦著「天才伝説 横山やすし」の挿絵で何度も描かれているヤッさんも登場します。
しかし比べるのが失礼というもの。
似ちゃったらどうしようかなと気にしながら描いている絵と、自分を大爆発させながら描いている絵とでは自ずと輝きが違います。
以前、峰岸さんと話しているときにこんなことをおっしゃてました。「モノマネの芸人でもさ、森進一のモノマネって、みんなやり方が似てるじゃない。あれは人がやってるモノマネを見て、自分もコツを掴むんだよね」と。
そうなんです。私も峰岸さんの絵を真似してコツをつかもうとしている。そんなことにしておいてください。
 ちょうど昨日が千秋楽やったみたいで、その日は、昨日とは違うラインナップやった。人生幸朗・生恵幸子さんのぼやき漫才でまた笑いころげた。小森さんちに帰って、会社から帰ってきた先輩にもう一回言うてみた。「先輩、俺やっぱり漫才師になりたい」
 ギターのチューニングをしていた可朝さんに、富井さんが俺を紹介してくれた。「この子、徳永くん。今日から『うめだ花月』に入ってもらうことにしたわ」「ほう、そうか。まだ若いんやろ? お笑いやりたんか?」 俺はガチガチに緊張しながら答えた。「はい、漫才師になりたいです」「ほうか。大変やけど、おもろい世界やで」 可朝さんのこの言葉を理解するには、それほど時間はかからんかった。
 電話にはお母さんが出たようで、りっちゃんは、大阪でアパートを借りたことや繊維問 屋に勤めたという近況を報告していた。お母さんは、ひとまず安心したようで、俺もほっとした。そんな俺にりっちゃんが受話 器を差し出した。「お母さんが、代われって」
 
2,3日したら、りっちゃんの家からやたらでかい荷物が届いた。包みを開けたら、ふかふかの布団が2組入ってた。お母さんがお父さんにりっちゃんの居場所が分かったことを言うたら、お父さんが「布団だけ送れ!」と怒鳴ったんやそうや。
 進行係の仕事にも慣れてきた頃、俺もそろそろ師匠につきたいと思うようになった。「誰がええかな。やすし師匠は怖そうやし、仁鶴師匠は落語やし……。そや! 島田洋之介・ 今喜多代師匠やったら優しそうやしええかもしれん」と、今思えば短絡的で失礼な判断やな(笑)。
「そや!ええこと思いついた!」俺は急な坂を一気に駆け下り、たばこ屋のおばちゃんに紙とペンを渡して代筆を頼み込んだ。おばちゃんは「何かよう分からんけど」とか言いながらも、俺の実家の住所と電話番号と「漫才師になることを承諾します」と書いてくれたんや。たった2万円やけど、去年の夏に藤本商店を辞めてから、初めて稼いだ金や。しかもこの金は。漫才師としての一歩を踏み出したというや。そう思うと、たまらん気持ちがこみ上げてきて、ボロボロ涙が止まらんかった。
俺らが初舞台と知ったルーキー新一さんは、10日間の寄席の間、舞台での姿勢やら、突っ込みのタイミング、ネタの振り方とか、細かいとこまであれこれアドバイスしてくれた。その一つ一つがものすごく勉強になったし、ルーキーさんの「君らは伸びるぞ」と言うてくれはった言葉が、大きな自信になった。「お勘定!」と、懐から分厚い財布を出して、さっと支払いを済ます豆吉さんが、これまたかっこいいんよ。豆吉さんには毎晩のように、すき焼きをごちそうしてもろた。ところが千秋楽の日、雷門助六師匠の怒鳴り声が楽屋に鳴り響いた。

進行係の頃はまだ給料はあったけど、漫才の修業だけになると、収入はほとんどない。当時はりっちゃんの月4万円の給料だけが頼りの綱やった。何にも食うもんがなくて、寛平と2人でマヨネーズとケチャップをちゅうちゅうと吸ったこともあったよ。

舞台が終わった後、座席をぐるっとひと回りすると、封がされたままのお菓子や折り詰め弁当、パンが結構残ってたんや。食べ物を見つけると、まず清掃係のおばちゃんに見せに行く。「おばちゃん、これ食べられるかな?」するとおばちゃんは、くんくんと匂いをかいで、ジャッジしてくれる。

 ある日、俺と寛平が、楽屋でいつものように緑色のおかゆを食べていると、新喜劇で「くっさー、えげつなー」のギャグでおなじみの奥目の八ちゃんこと、岡八郎さんが入ってきた。「何、食うてんの?うまそうやな」俺は芸名を書いてもらうために、美術部の部屋を訪ねた。そこで「めくり」の担当の人につい言うてしもたんや。「芸名は団順一・島田洋七です。それから上に『B&B』って入れてください」「B&B?何や、それ」「お前の名前の上についてるB何とかって、あれ、何や?」「いや、実は宣伝部の人から、同じ一門やないし、名前がばらばらで分かりにくいと言われまして……。二人で何とかというコンビ名があった方がええんちゃうかということになりまして……」「分かりやすいのか、あれは。何の意味があるんや?」「はい。B&Bは、ボーイ&ボーイという意味です」苦しまぎれのでまかせやった。
 舞台の“トリ”は笑福亭仁鶴師匠。「お疲れ様でした!」と師匠を送った後、いつものように「また明日な」と萩原芳樹くんと別れた。それが彼と交わした最後の言葉になるとは、このときは思いもよらんかったよ。なんと、次の日の舞台の時間になっても萩原くんは劇場におらん。
萩原くんがいなくなって、ちょっとの間は落ち込んでいた俺やけど、師匠をはじめ、いろんな人に相方を探していると伝えていた。そしたら、松竹芸能から吉本に移籍してきた上方真一というやつが、俺とコンビを組みたいと言うてるらしい。上方真一は、後に西川のりおと「西川のりお・上方よしお」でコンビを組むことになる。
 いよいよ予定日を迎えた。俺は一人でいるのが落ち着かんかって、ボタンさんにご飯連れてってもろた後、ボタンさんの行きつけのスナックで待機することにした。そわそわしながら酒を飲んでいたら、りっちゃんのお母さんから電話が入った。「生まれた!女の子や!」あるとき、桂文珍さんにも聞かれた。「お前、若いのにクーラー買うたらしいな。ちょっと見せてくれ」あるときトラックを運転してたら、再放送やったんやろな。ラジオからB&Bの漫才が流れてきたんや。「これ俺やん?俺、今、バイトしてるっちゅうねん!」とツッコミながら大笑いしたことあるよ。
 「ばあちゃん、なんで俺だけこんなについてないと? ちっちゃい頃から、かあちゃんと離れて寂しかった。野球も頑張ったのにあかんかった。漫才師で頑張ろうと思たのに……。なんでや!なんで俺だけ、こんなんなんや。もう辞めたい」「分かった」「何が、分かったと?」「お前の気持ちはよう分かったから、よかと。電話代がもったいないから切るよ」ガチャン。ツー、ツー、ツー。コンビ解消のショックとばあちゃんへ八つ当たりした後悔の気持ちで、落ち込んだまま数日が過ぎていった。そんなある日、ばあちゃんから手紙が届いた。「昭広へ この間は電話をくれたのに、すぐに切ってしまってごめんね」
師匠のお供で花月に行ったとき、当時は桂三枝という名前だった文枝さんが声を掛けてくれはった。「コンビ解消したらしいな」「はい、相方探してます」「そうか、あいつ、どうや?」文枝さんが指したのは、進行係をやっていた藤井健次という男やった。
 「漫才の方がええで。2人でやれるし、楽しいって。芝居は大変やぞ。売れるかどうかも分からんし。でも、漫才やったら、俺ちょっとやってたし、自信あるねん。なんやったら、俺が1人でしゃべるし、黙ってうなずいてくれてるだけでもええから、大丈夫やって」有川さんと授賞式の打ち合わせをしているときにぽろっと、嫁さんと子どもがいることを打ち明けたんよ。「それ、いただき!」指をぱちんと鳴らした有川さん。授賞式には当然、島田洋之助師匠も来る。そこで師匠に打ち明けて、その場にりっちゃんと尚美を呼ぼうということになった。
洋之介師匠は、驚きながらも、「何で、今まで黙ってたんや。嫁はおるわ、子どもまでいるわ。でも、よかった。よう言うてくれた」と、涙を浮かべて俺の肩を抱いてくれた。大きく目を見開いて、怒ったような顔をしてた今喜多代師匠は、「もう!何よ、何も知らなかったわよ!早く言いなさいよ、もう」と、笑顔になった。
当時、うちの師匠と並んで大御所といわれてたんは、夢路いとし・喜味こいし師匠。いとし・こいしさんの漫才は、台本通りに隙なく演じるきちっとした芸で、話術の素晴らしさでは群を抜いていた。あるとき、漫談の滝あきらさんが「巡業で師匠にお世話になったから」と、俺に肉をごちそうしてくれると言う。「そうか、滝君、すまんな」と師匠も喜んで送り出してくれた。さあ、どんなビフテキが食えるんやろと楽しみにしてついて行ったところ、なんと牛丼の吉野家(笑)。島田洋之介・今喜多代師匠の弟子はいっぱいいたけど、なかでも有名になったんが、今いくよ・くるよさん、俺、そして島田紳助やった。
 あるとき、そんな俺らを見ていた横山やすし師匠が俺に声を掛けた。「おい。洋七。お前、ちょっとこっち来い」「なんですか?」「失敗しても怒らんでええんや。あいつがうまいことしゃべれへんのやったら、しゃべらんでええ漫才をやれ」
やすし師匠に会ったとき、聞かれた。「あの消防士のネタ、誰が考えたんや?」「俺です。師匠に言われた通り、テンポ上げて、それからいろんな人の漫才の間やスタイルをパクりまくりました」そしたら、やすし師匠、おなじみの人差し指を立てたポーズで言わはった。
 MBS(毎日放送)の「ヤングおー!おー!」は桂三枝さん、笑福亭仁鶴さん、横山やすし・西川きよしさんが司会する若者向けの番組として絶大な人気を誇っていた。番組内で月亭八方さん、桂文珍さん、桂きん枝さん、4代目林家小染さんからなるユニット「ザ・パンダ」はすごい人気で、後に明石家さんまが加入して「SOS」に改名。
※洋七さんも「いろんな人の漫才の間やスタイルをパクリまくりました」と言ってるように、芸事の基本は真似る、真似ぶ、学ぶ……要するにパクリなのだから、峰岸さんと多少似てても許されるだろう。
※「ザ・パンダ」を調べていてわかったが、当時の桂文珍さんは長髪であった。洋七さんの新婚家庭にクーラーを涼みに来た際の文珍さんの髪型を短髪で描いてしまったが、たぶん間違ってると思う。

買っておきたい手ぬぐい

年の瀬です。今年のうちにやっておかねばならないことは色々ありますね。

みなさん、芸術新潮12月号をお買い忘れではありませんか?何?まだお買い求めになっていない?それはいけませんね〜。あと10日もすると来月号が出てしまいますから、買うのなら今のうちです。

特集は「これだけは見ておきたい2109年美術展ベスト25」で、来年必見の展覧会の見どころが老舗美術専門誌ならではの切り口で切りそろえられてズラリ並んでおります。……いや、なに、この来年必見の美術展特集というのは「日経おとなのOFF」や「美術の窓」でもやっており、なぜかよく売れる企画らしいのです。三雑誌をそれぞれ見比べて買うのもよろしいが、今年は買うなら絶対「芸術新潮」!

なぜなら私デザインの謹製手ぬぐいがついてくるからじゃ〜!買わなきゃついて来ない。図書館で借りてもついて来ない。多分中古で買ってもついて来ないんじゃない?今、売ってる時に買わないと!

手ぬぐいの絵柄に登場するのは、来年開かれる展覧会の画家や作品たち。「手ぬぐいだから銭湯か温泉に入ってる絵なんてどうです?」と言い出したのは自分なのだけど、いざ下絵を考える段になって、考え改めた。なぜなら、北斎、ベラスケス、ゴッホ、クリムト、バスキア、応挙などを描くときに風呂の設定だと裸にしなきゃいけないわけで、なんだかおっさんやジジイのきたない裸なんて絵柄にしても、販売促進にならないんじゃないかと思ったからです。
それで違う絵柄でラフを出したのだが、「自分で温泉か銭湯って言ってたじゃん!これはボツ!」ということになって、結局裸の親父たちを描きました。銭湯にすると男湯女湯で分けなきゃいけないので構図が作りにくく、露天風呂設定にしました。マルガリータを脱がせるわけにもいないので女子たちは今から入るところ。
クリムトなんてほんと気持ち悪いおっさんなんですから。本人の写真を知らない人は画像検索してください。でも、ホラ、かわいいにゃん?
題材は親父たちの裸であっても、かわいくしなければなりません。2色使えるということだったのですが、迷い迷って10パターンも作ってしまいました。でも、どうもどれもピンと来ず、ようやく11番目に紺と赤の配色にした時、ようやくピン!ときました。 
私はイラストレーターとして仕事がこなかった時期がえらい長いのですが、その理由として考えられるのは、描く世界が「なんか変」なので使いづらいのではないかということです。だから、私は、言いたいことはそのままに、でも世の中にも受け入れられるようになんとかすり寄ろうとしてきたのです。実際どのようにすり寄ってきたかは、あんまり自分でもわかってないんですけど。
で、今回、芸術新潮というメジャー美術誌の手ぬぐいを作って、思ったことは……全然、世の中にすり寄る必要がなかった!この手ぬぐいなんて20年くらい前から描いてる絵の世界と何にも変わっていない!……ということでした。
さて、もう一つお買い忘れではないですか?「ビッグイシュー」のリレーインタビューに出ました。今売ってる号の二つくらい前になってるかもしれませんが、多分バックナンバーも扱っていると思うので、街角で販売者を見つけたら買いましょう。人助けです。子供の頃に読んだ「笠地蔵」を思い出しましょう。一冊買うと350円のうち180円が販売者のホームレスの人の収入になります。
ボブ・ディランの表紙の号には南伸坊さん、エルヴィス・コステロの表紙の号には北尾トロさんのインタビューが載っています。私が載ってるのは野菜号です。

八百屋から漫才師へ

日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」の挿絵から。島田洋七さんが八百屋さん(藤本商店)に住み込んで働いている頃の話から漫才師になる決心をするところまで。
ある寒い日の朝、じいちゃんが風邪で高熱を出して起き上がれんようになってしもた。それで俺に「一人でせりに行ってこい」と言う。「せりなんて、したことない。俺にはまだ無理じゃ」(中略)「藤本さん、ハクサイを950ケースもどうするの?」「950ケース?!」そんなに買った覚えはない。俺が買ったのは95ケースのはずやった。俺はめまいがしそうになった。
「アキやん、今日はどうやった?」「ごめん。ハクサイを買いすぎてしもうた」「ちょっとくらいええ。どれくらい買うたんじゃ?」「950ケース……」その途端、爺ちゃんは頭からすっぽり布団をかぶって、そのまま出てこんようになってしもた。
「それや!」俺はパチンと指を鳴らして立ち上がり、ばあちゃんに2000円もろて、布団屋と電気屋に走った。布団屋で買うた白い敷布とさらしに「産地直送 藤本商店」と書いてのぼりと幕を作った。そして電気屋で買うたマイクとスピーカーをトラックに取り付けた。
住み込みで、食費もただ。飲みに行くときは、まっさんがごちそうしてくれるし、たまに服を買う以外は、ほとんどお金を使うこともないから、自然と貯金が増えて、そのお金で俺は車を買うた。4気筒2000ccのセドリック130型、発売価格は百万円以上もする高級車。
8月の暑い日。関東、関西の大学に行っている元野球部の連中が夏休みで広島に帰ってきた。(中略)俺も野球のことを忘れかけていたけど、みんなも、そう。野球の話は、全然せんかった。その代わりに関東に大学に行ったやつらがするのは「東京」の話やった。「新宿のさあ……」とか「渋谷でさあ……」とか、関東の大学に行ったやつらの話が弾んだ。言葉が標準語になっているせいか、みんな心なしか垢抜けて見える。
藤本商店では、ほんまにいろんなことを勉強させてもろた。仕事も楽しかった。このままずっと八百屋をやってもええと思てた時期もあった。それだけに、辞めると決めたものの、俺もものすごく寂しかった。
東京に行きたい! という勢いで藤本商店を辞めたものの、貯金を計算してみたら、上京するにはまだもうちょっとお金を貯めなあかんことがわかった。 そこで兄ちゃんの会社でアルバイトをすることにした。ガス、水道の設備会社に就職していた兄ちゃんは、その会社で工事担当の部長になっていた。俺は仕事の合間に2日に一度、ジャンク屋に鉛管を売っては、夕方に肉と一升瓶を持って現場に戻る。みんなで焼き肉をして、たらふく食べた。
俺がユンボに乗って道路を掘っていたときのことやった。道端の家のおばちゃんが工事の音がうるさいと俺を怒鳴りつけたのがことの発端。「うるさい! がまんしとったら、ええ気になりよって」俺はその言い方にカチンときた。「うるさいもクソもあるか。こっちは正式に手続きして工事しとるんじゃ!」
あるとき、中学の同級生と喫茶店でお茶を飲んでいたら、デパートの玉屋に勤めるという5人の女の子たちと知り合った。話が盛り上がって、俺はその中の一人にちょっと好意を持った。確か「ネクタイ売り場にいる」とか言うてたから、次の日に玉屋のネクタイ売り場に行ってみたんや。
一ヶ月半後。俺はりっちゃんに会うために、クラウンで佐賀に向かった。玉屋の前に車をとめて待っていたけど、いつまでたってもりっちゃんは現れん。いや、正直に言うたら、顔を忘れてたんや(笑)。
りっちゃんは最小限の荷物だけ持って、いつものように会社に行くふりをして家を出てきたのだと言う。会社には朝、普段通りに出社して、昼休み前に上司にいうたらしい。「私、会社辞めたいんです」
上司は冗談やと思たんやろね。笑いながら昼飯を食べに行った。そのすきにりっちゃんは、荷物をまとめて出てきたんや。佐賀駅には、りっちゃんの友達3人が見送りにきていた。
浜松町、田町、品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿、渋谷……。野球部のやつらが言っていた街が、車窓を流れていく。「これが東京かあ」「なんかすごかね」
「隣の人も、だからさーとか、どこどこ行っちゃってさーとか言うてるから、最後に『さ』をつけたらいいんや」「うん、分かった!」りっちゃんは真剣な顔をしてうなずくと、手を上げて店員さんに叫んだ。
俺たちはタクシーに乗ることにした。「どちらまで?」「ニューオータニ」俺は東京のホテルといえば、テレビドラマによく出てきたニューオータニしか知らんかった。東京にはニューオータニしかホテルはないと思てたんや。
「こんなとこにいたら、あっという間にお金がなくなってしまうぞ」「ここだけじゃなか。東京にいるだけで、すぐお金がなくなるばい」「とにかく、はよ仕事を見つけんといけん」俺はフロントに電話して、その日の新聞を全部持ってきてもろた。
「まあとにかく、早く広島に帰ったほうがいいよ。心配しているだろうから、家に連絡だけでもしときなよ」「そうですよねえ。あ、Aさん、あれなんですか?」俺が指をさしたテレビを見て、Aさんは言うた。「ん?あれは漫才だよ」
俺は文房具屋で履歴書を買うて、まずホテルから一番近いタクシー会社で面接を受けた。(中略)後で考えたら、悪くない話やったんやけど、おじさんの早口の東京弁にあがってしまった俺は、何がなんやらよくわからんようになって、とにかく「俺の免許ではいけん」と言うことだけは理解できた。
俺は明子おばさんに電話をした。「明子おばさん?俺、昭広」「あら、昭広ちゃん!久しぶりね」「実は今、立川にいるんです」「ええ?」明子おばさんはかなり驚いてたけど、すぐにおじさんと一緒に駅まで迎えにきてくれた。
おばさんが、「ちょっと」とおじさんを呼んで、廊下で何やらひそひそと話をしている。俺とりっちゃんは顔を見合わせた。流れる不穏な空気。茶の間に戻ってきたおばさんは、特に変わった様子はなかったんやけど、「明日、どこに行くの?」としきりに聞いてくる。「あかん、これはバレた」と俺は直感した。
野球部の小森先輩は「とにかくいっぺん、大阪に来いや。ほんで大阪見物でもして広島に帰れや」と快く受け入れてくれた。俺はりっちゃんと生まれて初めて新幹線に乗って大阪に向かった。東京や大阪の大学に行った連中が「速い、速い」と言うてた新幹線。田舎の在来線とちごて、外の景色がものすごい速さで流れていく。
翌朝、小森さんが仕事に出かけると、奥さんが赤ちゃんをあやしながら「せっかく大阪に来たんやし、吉本でも行ってきたら? 私はこの子がいてるし、一緒に行ってあげられへんけど」「吉本って何ですか?」「知らんのん? 新喜劇いうて、めっちゃおもろい芝居とか、漫才とか落語とかやってるねんよ」
ギャグ連発の吉本新喜劇も笑いっぱなしやったけど、やすしきよしのきよしさんのポケットミュージカルに、中田カウスボタンさんの漫才、そして笑福亭仁鶴さんの落語は、飛び抜けておもしろかった。とにかく人生でこんなに大笑いしたんは初めてちゃうか、というくらいのおもしろさやった。衝撃やった。「俺、あんなんになりたい」と舞台を指さして、りっちゃんに言うた。「あんなん? うん、なれるかも」と、りっちゃんも言うてくれた。その日の夜、小森さんに言うたんや。「先輩、俺、人生決めました」「そら、よかった。ほんで何すんねん」「漫才師になります」「おい、ちょっと待て。お前、本気か?」「はい」「そやけど漫才師て、そんな簡単になれるもんやないで」
ちょうど時間となりました。この続きはまたのご縁とお預かり〜。

カネの話。マネーの絵。

あ〜今日はブログの更新休みたい。

あ〜今日は仕事行きたくないってことあるでしょう。

仕事と違ってブログ書いてもおカネもらえないし。読んでる人だって少ないし。いや、昨日から何か書く事考えてて、2回くらい下書きを書き始めたんだけど、面白くないからボツにしちゃった。今週はマネー雑誌や保険のチラシに描きちらした絵を載せて、それに何か文章をつけようと思ったんだけど、面白いものが全然思いつかない。

カネの話。みんなが大好きなマネーの話。カネが入ったらバッと使う人と、貯める分を残しておく人とで言えば、僕は完全に後者であり、そのおかげで人生で貯金がゼロになったことはない。ただ、あえて貯めるのではなく、物欲がないので自然に余剰が出るだけの話。といっても41歳までバイトしていたので、中途半端なしれた額だ。貯金は自分が死ぬときにきっちり全部使いたい。借金を残して死ぬ可能性だってある。自分が死ぬときにちょうど蓄えが尽きる、そんなうまいこと絶対にいかない。

 上の絵の依頼者は妹であった。妹夫婦は数年前から三重県四日市市で保険の会社をやっている。保険の会社って言ってもフリーの営業所?みたいなものか。そこのパンフレットに頼まれたもの。印刷物を送ってこない。これを読んだら送ってくるように。保険も入ってあげた。もちろん絵のギャラはいただいているが。
こちらの絵はダイヤモンド社の「ダイヤモンド・ザイ」という雑誌に描いたもの。いつもの黒い線に飽きて、線を青くしてみたんだけど、あまりうまくいかなかったかも。こちらは「日経マネー」という雑誌に描いたもの。この雑誌にはマツコの番組でブレイクした桐谷さんがよく登場するのだが、桐谷さんのお面を子供がかぶっている絵、なんのこっちゃ。
この木の絵も「ダイヤモンド・ザイ」に描いたもの。木は投資信託を現しているんだっけっかな。
はい、とりあえず更新はした。荷が下りた。
あ、そうそう、伸坊さんとの対談更新されてます。
ついに最終回。昨日前篇が更新されました。お読みくださいませ。
この対談もきっかけはブログだったんですよ。
だから嫌でも飽きてもネタがなくても毎週更新しないとね!
〈でも、ひっくり返して言うと、「イラストレーション」という言葉を軸にすると、あらゆる絵を扱えるってことでもあるわけですよね。そこがこの連載の素晴らしいところです(笑)〉

新・三十六歌仙

もう先月の話になってしまいましたが、芸術新潮9月号「いまこそ読みたい新・三十六歌仙」という特集に歌仙の絵を12人描きました。

他の24人は丹下京子画仙と谷山彩子画仙が担当されております。丹下画仙はおそらくゴリゴリ描いてくるだろう。谷山画仙はどういうタッチでくるのだろう。なるべく被らないようにしたい。いつも芸新から依頼されるのは漫画とか、細かい肩のこる仕事が多いので、今回は思いっきりのびのびしてみよう、そんな気持ちでした。

私が高校の時に寺山修司にハマっていたのはこのブログでも何度か書いたと思います。寺山修司といえば芝居や映画も手がけていますが、やはり出発点は俳句と短歌。特に短歌が素晴らしい。短歌なんて百人一首の世界しか知らなかった高校生にとって、寺山修司の前衛短歌は頭がジンと痺れるくらいにカッコよかったのです。

今でもスラスラ諳んじれます。
例えば「田園に死す」という映画の中にも登場した短歌。
大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ
新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥 
たった一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
こういうのもあれば
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らん
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
こういうのもある。
で、今回の新・三十六歌仙中には寺山修司は入っていない(笑)。でも塚本邦雄は入っている(ただし私ではなく谷山画仙担当)。塚本邦雄、岡井隆、春日井健という前衛短歌の歌人の名前も寺山つながりで覚えました。……なんて書いていると文学青年のように思われるかもしれませんが、私は高校2年でドストエフスキーの「罪と罰」を読むまで一冊の小説も読んだことがなかったのです(やや大げさだけどそんな感じ)。
谷山彩子画仙のよる塚本邦雄。
丹下京子画仙による伊勢。
以下は私の歌仙の絵です。
今回の歌仙の割り振りがどういう理由に基づいていたのか忘れましたが、橘曙覧(たちばなのあけみ)が入っていたのは嬉しかった。「伊野さん好きでしょ?やっぱり」と担当さんは得意顔でした。
たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無かりし花の咲ける見る時
たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草すふとき
たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來たりて錢くれし時
とくに
たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
などは私と言わず、絵や書を書く人は誰でもたのしい時でしょう。
さて話はいきなり変わりますが、この度、雑誌を編集してみました。もちろん一人でやったわけではありません。
私も所属している東京イラストレーターズ・ソサエティから刊行される「TIS Magazine 2018-19」です。
イラストレーターがイラストレーターのために作った雑誌なので、イラストレーター以外の人が読んで面白いかどうか知りません。でもイラストレーター以外の人にも読んでほしい。我々が一体何ものであるか知ってほしい。
編集の仕事というのはやってみると、とにかく雑用が多いですね。企画たてるときが一番楽しいです。依頼が超苦手。あとはひたすら雑用。取材は楽しい。あとはひたすら雑用。原稿書くときも楽しい。あとはひたすら雑用。修正願いは精神的緊張が高まる。あとはひたすら雑用。阿吽の呼吸で進むとうれしい。あとはひたすら雑用……という感じでしたね。
時間的余裕はあったし、仕事の合間を見てやってたし、今回だけのことだから楽しめました。でも、これを毎月やるってのは結構大変ですね。編集者の苦労がしのばれます。
10月4日発売ですが、よかったら1冊いかがでしょうか。

ブレーメンの愚連隊

こんにちは。今週は先週の続きで「昔話法廷」の「ブレーメンの音楽隊裁判」の絵です。さっそく絵を載せましょう。ありがとうございました。え?盗賊の息子が全然外人ぽくないって?そう、なぜなら日本人俳優が演じますから。はい、いつもなら「ここで余談でも……」という運びになりますが、今週はこれでオシマイ。理由はネタを何も考えてなかったのと、今日は下高井戸シネマで映画が1000円で見られる日なので、12時5分から『15時17分、パリ行き』を見たいからです。バイバ〜イ!

昔話法廷「赤ずきん」裁判

先週、先々週と2週も続けてブログの更新をサボってしまった。一応、夏休みということでサボったのだが、僕自身に夏休みがあったわけではなかった。

唯一の夏休みがブログを休むということ。

なんて味気ないことだろう。今年の夏は本業(しがないイラスト仕事)以外のことで何かと忙しくて……。
しかし、振り返れば僕の人生は、前半がほぼ夏休みだったようなものだし、あと10年も経てば人生の冬休みが早々とやってくるかもしれないので、今、やることがあるのは悪いことじゃない。
でも、一息ついて、畳の上に寝転んだときには「ああ、この姿勢こそ自分本来の姿だ」と思う。つねに寝転んでいたい。
ここ4年、毎年蒸し暑くなってくると始まる仕事がEテレの「昔話法廷」だ。当初は2年で終わりだと聞いていたが、去年もう1年伸びて3年目に突入。去年で正真正銘、最後のはずだったが、今年もまたやるという。今年こそ最後だというが本当なのだろうか。こうなったら来年はぜひウソつき少年が主人公の「オオカミ少年」をやって欲しい。
今年は「赤ずきん」と「ブレーメンの音楽隊」だった。今週は「赤ずきん」の絵を載せよう。
この仕事は最近の自分にはめずらしく、全編ほぼアナログで、紙に絵の具で描いている。色もだいたい固有色に基づいているし、描写も特にこれといった工夫もなく描いている感じなのだが、20代の頃(必死に自分なりのスタイルを探していた頃)の僕が見たらなんと言うだろうか。絵の説得力において何が重要か、わかってきたようで、いまだにわかっていない。
先週の火曜は京都に行っていた。日帰りだった。そのせいでブログもお休みしたのだった。京都へは雑誌の対談と、新聞社の取材、クラウドファンディグの取材のために行った。朝、東京駅に早く着いたので、朝ごはんに鯛茶漬けを食べて、さらにコーヒーとチョコクロワッサンも食べたので、お腹がいっぱいであったが、雑誌の編集の方がお昼ご飯用にミックスサンドを買ってくれた。新幹線の車中で食べないまま、カバンに入れておいた。
京都の大徳寺で仕事をしている間も、サンドイッチはカバンの中に入ったままだった。京都は本当に暑い。蒸し器の中にいるようだ。体の外側よりも内側のTシャツの中に、汗が流れる。用事をすべて終えて夕方、大徳寺から北大路の駅へ歩いている時に、ミックスサンドが気になってきた。この暑さでもういたんでいるのではないだろうか。京都駅で何か美味しいものを食べたいが、かと言って、ミックスサンドを捨ててしまうのは気が咎める。そして何よりお腹が減ってきた。朝ごはん以降、口にしたものといえば、お寺で出された羊羹一切れだけだった。ミックスサンドの消費期限が限界に達し、そろそろ腐ってしまうような気がしてならない。僕は歩きながら、ミックスサンドを食べ出した。よかった。まだ腐ってはいないようだ。腹が減っているのでうまい。しかし、京都まで来て、行儀悪く、なんで歩きながらサンドイッチを食べているんだろう。この場合、どういう選択が正しかったのだろうか。
はい、この時の朝日新聞の取材がネットにあがっております。よろしければご覧ください。

やつらの印象派物語

3ヶ月も前に「芸術新潮」でやった仕事をいまさら紹介。

印象派のことがだいたいわかる漫画を描きました。

僕も印象派のことはだいたい知ってるつもりになっていましたが、ドガがわりと中心的なというか、そのために嫌われたりして、ま、やな奴だったみたいで、そういう事情は初めて知りましたね。

漫画は全部で3見開き描きました。一つ目は『やつらの「印象派」前夜』です。
 後に印象派と呼ばれる人たちは、サロンに落選した人たちだったわけです。いや、正確にいうとたまに入選したりもした。新しい時代のものごとは、新しい時代の方法で描きたい。でも、そうやって描いた絵はなかなか入選にならなかった。
ドガ「保守的なアカデミーのやつらには、もう我慢ならん!マネさん協力してくれますよね?」
マネ「ドガくん、まあそういきり立つことはない。体制を覆すにはまず相手の懐に入らなければ。そのためにもやっぱり、サロンにはこだわらないといけないぜ」
モネ「でも、このままじゃまずいよ」
ルノアール「みんなでお金を出し合って、無審査のグループ展をやろう!」
カフェ・ゲルボアに木曜の夜に集まっては、こういう相談をしていたのです(たぶん)。
 二つ目の漫画は『「印象派展」全8回のすったもんだ』です。
僕はグループ展をするなら、印象派展を見習うべきだと思っています。一人の力じゃ弱いけど、みんなでやれば運動になる。印象派展は会場を変えながら、全部で8回開かれました。
第1回展は、写真家ナダールのスタジオ。写真の登場で絵が変わり始めたのが、つまり印象派なわけですが、記念すべき最初の展覧会は写真家のスタジオで開いたんですね。詳しい経緯は知らないけど、おもしろいですね。
第5回展からドガが性格の悪さを発揮しだし、第7回ではハブにされちゃう。でも最後の第8回展にはまた戻ってくる。ま、前衛芸術といえども人間関係から自由になることはできないのです。
ポスト印象派のゴーギャンは第4回展あたりからすでに参加してる。その第4回展を見にきて感動した画学生がスーラ。
7年後の第8回展にはスーラが出品者として参加している。他にはシニャックも。いわゆる「新印象派」と呼ばれる人たちです。あと意外なところではルドンも参加している。
こう見ていくと、印象派展は若い画家たちに強烈に支持されてる感じだし、彼らは先輩に倣うだけでなく、オレはこうやってみたい、というのをやりだしてる。
そんな若者の一人、ゴッホはこの年パリにやってきた。第8回展を見て感激してこう言った。
ゴッホ「それぞれの人が、より崇高で素晴らしい目的のために、情熱を持って争っている!」
  三つ目の漫画は『宴のあとのそれぞれの道』
印象派展が終わる2年前、これまたサロンに対抗したアンデパンダン展がスタートする。ここには、ゴッホ、ルソー、ロートレック、マティスなどが参加しました。
若い画家たちを一喜一憂させ、反発させてきたサロンですが、徐々に命脈はつきようとしていました。
そこに新たに登場してきたのが画商です。画商ポール・デュランは印象派の作品をアメリカに持って行って売った。モネの「積みわら」シリーズは3日で完売。当時のマスコミは印象派には基本辛口でしたが、評価してくれた批評家もいました。ゾラやデュレやマルラメ達です。
今や、現代美術は一点で何億円、何十億円もする、ある意味狂った世界になっていますが、画家と画商と批評家が一緒になって価値を上げていく方法の原点がここにあるのではないでしょうか。
そのへんのことなどを南伸坊さんとのWEB対談で話していますのでよかったらお読みください。
オマケに印象派たちの似顔絵を。

惰性の法則

あー、今日もジョギングをしてきた。

暑かったが、まあまあ走りやすかった。そして、半分惰性で見てる朝ドラ「半分、青い」に付き合い、朝ごはんを食べ、ブログの文章を書いている次第です。

このブログも惰性でやっていて、最近は、実人生も惰性で生きていると言ってもいい。
人工衛星は軌道に乗ったらあとは慣性の法則に従って、ぐるぐる地球の周りをまわり続ける。しかし宇宙空間と違って色々抵抗の多い地上世界では、惰性で生きているとそのうち駄目になってしまう。これが惰性の法則である。
「自分の人生、なんとか軌道に乗せてやる!」と、魂にロケット噴射をかけていた頃に比べたら、やっぱり今は惰性だ。いや、自分なりに日々頑張っているつもりではある。でも惰性なんだ。
…と、前置きし、仕事で描いた絵を載せよう。これも惰性の産物なのだろうか?
いや、あらがうことはかえって身を滅ぼす要因で、流れに身を任せ、漂うように生きることこそ、真理の道に近いのだろうか。
『MONOQLO the MONEY』という投資信託や株式などマネー情報を紹介する隔月月刊誌に描いた絵です。お金に執着して財布を逆さまにしている愚者。まわりには「投資信託で資産を100倍に!」「投資信託で億万長者!」みたいなうさんくさい本が。お金にとらわれず悠々自適に過ごすお金の賢者。「え、運用?ほったらかしだよ」みたいな余裕。お金儲けして喜んでいる自分を思い浮かべる失敗例。新商品だからという理由だけでプレゼント箱に飛びつこうとする失敗例。
目の前の値動きに一喜一憂する失敗例。まだ利益が小さくしか出ていないのに、すぐに売ろうとする失敗例。1年後には花が咲いているのに。
お次は『通販生活』に描いた「秘密厳守のあの仕事の中身はどうなっているんだろう?」という特集の挿絵。週刊誌のスクープ
証言してくれる人物と会う際の場所選びも重要になってくる。内部告発の場合、情報提供者も危険に晒されており、記者と接触した事実も秘密にしておかなければならない。話を聞くのは必ず個室。時にはドラマのワンシーンのように、人気のない埠頭で落ち合うこともある。企業秘密
秘密防衛の肝は、従業員を監視すること。具体的な対策として、オフィスに監視カメラを設置する企業も増えているが、やりすぎてしまうと社内がギクシャクしてしまう。特に、社員数が少ない中小企業ではなかなかやりづらい。元号制定
元号には「俗用されていない」という条件があるため、商標登録されていないか、会社名や商品名に使われていないかなど、ラーメン店の屋号に至るまで候補の段階で調べる必要がある。元号制定は時間が必要な作業なのだ。裁判員
開始から10年目に入った裁判員制度。裁判員は一生にわたり「守秘義務」を負うことになる。しかも裁判員裁判は重大犯罪に限って開かれるので、裁判員にかかる精神的な負担は大きい。「裁判のことを誰かに聞いて欲しいが、守秘義務があるから話せない」と思いつめる経験者も少なくない。核輸送燃料
核兵器にも転用可能なプルトニウムが、万が一テロリストの手に渡っては大変。運搬に使われるのは7000トン級の専用大型輸送船で、船尾には機銃も備えてある。運搬は常に2隻で行い、一方は空にしてどちらにプルトニウムが積まれているかわからないようにしている。

友達からもらった仕事

僕は美大ではなくて、いわゆる普通の大学に行ってました。

学部には友達はいなくて、仲のいいのは美術部の仲間だった。美術部といってもただの趣味サークルだから真剣に描いてませんでした。

何を勘違いしたか、卒業後イラストレーターになろうと一念発起した僕は、紆余曲折、一進一退、20年近くもかかってどうにかイラストレーターになれました。

誰にでもある話だけど、友達が気にかけて仕事をくれることってありますよね。
さて先日、実に卒業後25年目にして、美術部仲間のMくんが仕事をくれました。
彼は印刷会社に勤めていて、そこそこエラくなっています。クライアントと直接やり取りしているのが彼で、彼の下に制作スタッフがいます。つまり彼は最終チェックをする立場。だから「上がこう言ってるんで…」っていう心配がない。しかも今回のクライアントはものすごく理解があるっていうか、ノリのいいお方のようでした。
とある団体の募集活動をする人がやってはいけないこと、守るべきことをマンガで紹介する冊子のお仕事でした。
最初の目次のページに入ってるのがいきなり、ヒョウ柄セーターのおばさん。
このおばさんこそ冊子を熟読すべき人なのです。
 さてちょっと中身を見ていきますか。
 このおばさん、めちゃめちゃ態度悪いです。ヒョウ柄だけど、Mくんは「トラ子」と命名していました。「なんでヒョウ柄なのにトラ子って呼ぶんだよ」と聞いてもMくんは「いいじゃないですか」とのこと。ま、これはMくんと僕の間で勝手に呼んでるだけなので、なんでもいいんですが。
 そしてこの出っ歯の人は通称「イヤミ子」です。キャラはみんなMくんが考えています。ちょっと古いね、名前が。
 このちょっとバブリーなおばさんは通称「バブリ子」。
 嘘をついたりするとすぐ汗をかく「汗かき子」。わかりやす〜い。
 で、この人のやることはすべて正しい「天使のおばさん」。
天使のおばさんの正しい行いと、他のみんなの悪い行いを通して、きちんと学ぼうという趣旨です。
当ブログの読者様は募集活動員ではないので、学ぶ必要はありません。
必要以上の口数をとってはいけません。
  誤解を招くような比較をしてはいけません。
 不当な切り返し、引き抜きをしてはいけません。
この耳と尻尾のついたおばさんはその名も「悪魔子」。そんなに悪い人に見えない?いえいえ、そのうち尻尾を出しますよ。
 断られた相手に再度勧誘してはいけません。
 個室などに誘って勧誘してはいけません。
 つきまとい行為はいけま せん。
 居座りなど迷惑なことをして契約締結させてはいけません。
 不確定なことを断言してはいけません。
募集資格者ではない人は契約締結をしてはいけません。
……驚愕の事実発覚!トラ子は募集資格者ではなかった(笑)!
 判断力不足に乗じて契約締結させてはいけません。
 勝手に名前を使ったり、契約を変えたりしてはいけません。
 契約書に事実と違うことを書かせてはいけません。
 本人に代わって申込書に記入してはいけません。
 締結できるまで粘ってはいけません。
 お客様のお金や持ち物に手をつけてはいけません。
悪魔子の本領発揮です。
 解約の際は本人確認が必要です。
 解約依頼を引き延ばしたり、渋ってはいけません。
 解約手続きのために来社を強要してはいけません。
 解約手数料の説明を怠ってはいけません。
加入契約書を持ち歩く際は、絶対に手元から離してはいけません。
 個人のパソコンや携帯 にお客様の情報を入力してはいけません。
申し遅れましたが、デジタル機器に強くてお色気作戦も辞さないこの子の名前は「デジ子」。安易です。
 会社を辞めたらお客様の個人情報は引き渡さなければいけません。
 相談・苦情には真摯に対応しましょう。
 名義を借りて契約してはいけません。
……ちなみにヒロシはMくんの似顔絵になっています。カメオ出演ってことで。
また仕事ください〜。

笑なん八百屋時代

日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの自伝的エッセイ「笑ってなんぼじゃ!」の挿絵から。洋七さんが高校を卒業し、八百屋に勤めだすあたりのお話です。夜の7時半か8時くらいから、最初のステージが始まった。ピンクやブルーや黄色やらのカラフルな照明が瞬く広いホールには、きれに着飾ったホステスさんたちがズラリ。もう初めて経験する大人の世界に胸がドキドキしたのを覚えている。しばらくすると内山田さんたちの歌が始まった。(内山田さんたちというのは内山田洋とクール・ファイブのことです)東は歌が好きで好奇心が人一倍強かった。そんな東がある日、ジャズ喫茶に行こうといい出した。「今、バーブ佐竹が出とう!」
興奮すると、故郷の姫路弁が出る東。「ほんまか、すごいな。でも、高いのんとちゃう?」「2000円や。ほんまやったら3000円以上、いやもっとするやろけど、とにかく2000円や!」「君ら、ほんまにバーブ佐竹を聴きにきたんか?」 横に座ってたおじさんがニヤニヤして聞いてきた。俺らがきょとんとしていると、おじさんは「あそこ見てみぃ」と、入り口のポスターを指差したんや。あるとき事務所の人から「大分先の話なんだけど」と幕前の仕事の依頼があった。「北海道で2日間、2箇所のクール・ファイブの幕前の仕事があるんだけど、洋ちゃん行ける?」突然楽屋に入ってきていきなり叫んだ俺に、全員が俺を指差して言うた。「だろ~!」「君、国際楽器店で会って、楽器運んでくれたよね」と内山田さん。「はい!」「みんなでB&Bを見ながら、この右側の方、どっかで見たことあるよな~と言ってたんだよ。やっぱりそうか! あれから何年になる?」「10年くらいですかね」それから1ヶ月もせんうちに、テレビ番組『日本全国ひる休み』のロケで、四国に行った。 ロケが終わって、ご飯を食べているときに、店の人との何気ない会話で「今日の昼、内山田洋とクール・ファイブのショーをやってたよ」という話が出たんよ。俺は辺りのホテルに片っ端から電話して、会いに行ったよ。内山田さんは、「おお! どうした、こんなところに」と笑顔で迎えてくれた。オマケ。内山田洋とクールファイブです。たぶん今のオレよりみんな年下なんだろうな〜。河井は広島からヤクルトへ移籍して、1974年に引退。引退後は広島で「焼肉河井」をやっている。有名人が名前だけ貸しているような店やなくて、ほんまに旨い店やねん。カープやヤクルトの選手もよく来ているよ。河井とは今でも仲良くて、広島に行ったら顔出して、昔話しに花を咲かせている。俺の自慢の友達や!相手のベンチの真上で「広陵勝て!」と叫んでいる俺を、周囲の人は「なんやこいつ」みたいな目で睨んでいた。

この挿絵2枚分の原稿をミスって消去してしまったので文章はナシ!免許もとったし、お母さんに八百屋への就職を勧められるとこですね。俺はかあちゃんと一緒に藤本商店に挨拶に行った。藤本商店は間口五間の大きな店で、建物は二階建てになっていた。二階は倉庫と従業員の広い部屋。俺が明日から寝起きするのは、この部屋らしい。みんな気が荒いから運んでいるトロ箱とトロ箱がぶつかったとか言うては、しょっちゅう喧嘩。ときに殴り合いにまで発展することもあるんやけど、武器が大根やったり、白菜、ごぼうとかやったりするから、笑ってしもた。鮭切り包丁は、長さが1メートル以上もある刀のようなでっかい包丁。それを振り上げて追いかけてくるもんやから、びっくりしたよ。俺は、そこらへんのダンボールを蹴散らかして一目散に逃げた。 藤本商店のご飯はとにかく豪華やった。「アキやん、今晩何食べたい?」と娘の和子さんが聞いてきたので、何気なく「肉がいいなあ」と言うた。「ほな、これで買うてきて。いつもの言うたらわかるから」と言われて、手渡されたのは、なんと1万円。あっけにとられて、肉屋に行くと「あ、藤本さんね」と、肉屋のおっちゃんは、慣れた手つきで霜降りの特上肉を分厚くステーキ用にスライスしている。 朝の4時に起きて、夜の10時に寝るまで、一時も休むことなく、黙々と働き通しやったよ。生活も質素で遊びに行ったりすることもなく、風呂なんかでも俺がタオルに石鹸をごしごしこすりつけていたら、よう怒られた。あるとき、お客さんがりんごを持ってきて「このりんご、家に帰ってからみたら、ここのところがちょっと傷んでたわ」と言われたことがある。「すいません、じゃあこれで」と代わりのりんごを1つあげようとしたんや。そしたら奥からおばあさんが出てきて「まあまあ、すみません」と言うて、お客さんにりんごを2個あげた。「アキやん、お前、袋に入れるときいつも1個落としてるじゃろ」うわ、見つかった。怒られるかなと思ったんやけど、「お前、上手いな」とニヤっと笑った。俺と和子さんはウマがあって、今でもそうやけど、まるで姉と弟みたいな関係やった。言いたいことも自由に言い合って、しょっちゅうじゃれあいのような喧嘩もしていた。俺がからかったりすると、物を投げながら追っかけてくるんやけど、投げるのはいつもじゃがいもか玉ねぎ。間違ってもトマトや桃は投げん。そうや! 敵の懐柔作戦や。まず、そっと静かに戸を開けて、細心の注意を払って音を立てないようにガラスの陳列ケースに近寄って、店で売っているちくわを犬に食べさせて黙らせる。そして犬がちくわに夢中になっているうちに、足音を忍ばせて二人に気づかれることなく2階に上がっていくんや。配達を頼むのは、裕福な家かお年寄り。例外として一軒、女子大があって、ここは俺が一番苦手な配達先やった。家政科の調理実習で使う食材を買ってくれていたんやけど、実習室には俺と同じ年頃の女子大生がズラーっと座っていて、俺が「ちわーっ!」とドアを開けると、みんなが一斉に振り向くんや。俺は考えた。野菜を買ってもらう代わりにいろいろ用事を手伝ってあげたらどうやろう、と。それから俺は配達のついでに肉屋から肉を買って届けたり、クリーニング屋に毛布を出してあげたり、お医者さんから薬をもらってきてあげたりするようになった。「おい! お前、何しとるんや!」と声をかけると男はビクッとして、その場に立ちすくんだ。狭い露地の奥で、男は逃げる場がなかった。「おい。自分が悪いことをしているんは、わかってるんやろな。警察行こか」藤本商店のお得意さんには社長さんの家も多かった。社名を言うたら、誰もが知ってるある大企業の社長さんの家に、年末に御用聞きにいったときのこと。奥さんからインターホン越しに「相談したいことがあるの」と言われた。何やろ、と門をを開けて中に入ると、奥さんは、広い敷地の中にある倉庫に俺を案内した。この倉庫がすごかった!「ここは体育館かい!」と言いたいくらいのでかい建物やった。そのでかい倉庫の中には、みかん、ハム、ソーセージ、新巻鮭、お菓子、ウイスキー、サラダ油、牛肉の味噌漬け、海苔、缶詰なんかが箱のまま山積みされていた。ビールや日本酒、醤油なんかもケースのまま、どーんと積まれて、まさにお歳暮の山ができていた。「これ、全部、お宅で引き取ってもらえないかしら」

ある時「ナガイモ半分、配達してね」と注文してきた奥さんがいた。俺は1メートルほどあるナガイモの両端をちょっとだけ切り落としたのを持って行った。「奥さん、ナガイモ半分、お届けにあがりました」と俺が言うと、「まあ、これで半分?ナガイモってほんとに長いのね」と、にこにこ笑っていた。

『短歌倶楽部』終わる。

UCカードの会員の人に送られてくる「てんとう虫」という雑誌で2016年からつい最近まで連載していた、歌人の福島泰樹さんのエッセイ『短歌倶楽部』につけていた絵です。

エッセイの多くは死んでいった友への惜別録でもありました。私の絵に冗談は一切求められてません。冗談なしの縛りが結構キツくて、毎回悩みました。

ギャグが禁じ手ならポエジーで勝負しなくてはいけないのです。ヘタなんだよね〜、僕ポエジー出すの。

ちなみに福島さんは過激で情念豊かな歌人、僧侶、ボクシングレフリー免許保持者です。「絶叫コンサート」で有名な方です。

今までにこのブログに載せた絵もありますが、最後ということで重複をお許しください。エッセイの中には毎回幾つかの素晴らしい短歌も挿入されていました。絵は短歌に合わせて描いたわけではないのですが、ご一緒にどうぞ。

悲しみのパンツは脱ごうあたたかに涙は溢れているのであった

茫漠の星を宿して帰還せず 六年二組をいでし男ら

あおぞらにトレンチコート羽撃けよ 寺山修司さびしきかもめ

 桜吹雪く校庭を駆けゆきしまま黒きマントに歳月やふる一期は夢なれどくるわずおりしかば花吹雪せよ ひぐれまで飲む

絢爛と散りゆくものをあわれめば四月自刃の風の悲鳴よ

敗北の涙ちぎれて然れども凜々しき旗をはためかさんよ

ひたぶるの青春なりきサンドバッグ叩かん明日の荒野は知らず

立松和平とのぼりし坂をくだりゆく四十年は逆巻く霧か

時代とこころの闇にむかって書いてきた光の雨よ若き死者たち

 黙ふかく悲しみふかくやわらかき女体のごとく雪にまみれよ

水底の砂に埋もれ死んでゆく 十一歳のあわれわが詩は

目をつむればみなもに浮かび漂える夕日のなかの赤いサンダル

御徒町のガードの上をゆく雲の大原病院 跡形もなく

愛と死のアンビヴァレンツ落下する花恥じらいのヘルメット脱ぐ

鯖のごとくカブト光れり われ叛逆すゆえにわれあり存在理由【レーゾン・デートル】

ポーランドの雪原走る二筋の黒い鉄路の行く先知らず

追憶は白い手袋ふっていた霙に濡れたガラス窓から

中也死に京都寺町今出川 スペイン式の窓に風吹く

喇叭飲みしつつ歩けばびしょびしょに濡れてワイシャツ滴しずくを散らす

 見上げれば青雲たなびきおりしかな雀荘「四万露」窓の彼方に

力道山そしてケネディー濛々と 時代を黒き霧が覆わん

脱ぐなむね ちぎれた君のアノラック俺が真水を汲 んでくるまで

「朝日のあたる家」を出なば刺草の辛き荒野の涯なる夢よ

 一期は夢なれどくるわずおりしかば花吹雪せよ日暮れまで飲む

 懐かしいなどとほざいて振り向けばタールのような夜がきている

女二人眠る部屋より春嵐はげしき 路地へ逃れ来たれり

君の席あわれと思いつくりやる花 散り急ぐ 四月九日

魂の奥底ふかき挫折さえ乗り越えて来し霧のリングよ

愛しきは酒と稲妻、なやましく丼に酒あふれせしめよ

上を向いて歩けば涙は星屑のごとく光りてワイシャツ濡らす

小劇場澁谷ジァン・ジァン打揚げの三平酒寮の灯も遠く去る

野枝さんよ「虐殺エロス」脚細く光りて冬の螺旋階段

しなやかな華奢なあなたの胸乳の闇の桜が散らずにあえぐ

切なさや漣のように襞をなし押し寄せてくる憶い出なるよ

もう誰も知らないだろう六〇年代戦死者の花雨に濡れおる

敗北の涙ちぎれて然れども凜々しき旗をはためかさんよ

稿用紙の上にたばしる時雨あらば孤立無援よ濡れてゆくべし

升酒やあかるいひかりてらしてよ力石徹 ウルフ金串

笑うため仰向いて飲む冷酒や酒のコップ三杯さよならを言う

順序を逆に最終回から第1回までの絵を見ていただきました。今までも原稿の声に耳を澄ましそれに応じてタッチも変える方法でやっていました。それでも同じ連載の中でのタッチは統一していたものです。この連載に限っては、もはやそれすらどうでもいいのではないかと思い、何も統一しませんでした。

時代考証秘話その2

さてさて、神仏習合を正面から取り上げた画期的な番組、歴史秘話ヒストリア「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」の時代考証に触れながら描いた絵をふりかえる第2弾でございます。

第1弾を終えた時点では、続けて第2弾をやる気だったんですが、時間が過ぎるとともにだんだん気持ちが失せてきて……いや、でも途中でやめるのも気持ち悪いしな……。

はい!

では、行きましょう〜!

時は748年、場所は大分県の宇佐。八幡宮の原型?のような神社が舞台です。

聖武天皇の使が唐に渡る前、宇佐に立ち寄り、祈った。

使はこう祈った。「無事に唐へ行って、黄金をもって帰ってこれますように」

さてここの時代考証。

八幡の巫女、大神杜女(おおがのもりめ)は鉄鐸から変わって「咒師の鈴」を持っています。

建築考証の先生からのアドバイス。

「社殿は中型で三間社、朱塗り、切妻造、階段はない。その前に簡素な土間床の三間の建物、いわば拝殿を作り、そこに空座の四角い畳をおいてはどうかと思います。そこに神を迎えて祭りを行うと考えます。」

と言われても全然わからん……。担当ディレクターの丁寧な説明と解説、資料の提供、そして考証の先生直々のラフスケッチを参考にして、はじめて絵に起こすことができました。この絵に至るまでに3回ほど修正をしたと思います。はい、では続きを。

すると八幡神が大神杜女(おおがのもりめ)におりてきて、お告げをくだした。

「汝らが求めるところの黄金はまさにこの国より出るであろう。使いを唐に送ってはならぬ」

「な、なんと」

すると翌年、陸奥国で金が発見されたのだ。

聖武天皇は大喜び。「は、八幡神の仰せのとおりじゃ!これで光り輝く大仏が造れようぞ」

さてここでの時代考証。

大仏は初代大仏です。現在の大仏とは違います。

写真はNHKのドラマ「大仏開眼」の時に作られた初代大仏の模型。

聖武天皇が頭にかぶっている冠(なんて名前だったかな)にぶら下がっている玉のジャラジャラ(たぶん正式名称はあると思います)の数は前、後ろとも12本づつなのが正解です。でもドラマなどでは、12本たらすと顔が隠れてしまい、俳優さんが嫌がるので本数を減らしてしまうことがあるのだそうです(本来、玉のジャラジャラは顔を隠すためにあるのでしょう)。

「装束考証の先生は12本ないのがちょっと不満だそうですよ」とディレクターにささやかれたので「だったらきっちり描きましょう!」と請けあいました。みなさん、12本ですからね。正確に描きましょう。

作画の資料を探しているうちに見つけました! 考証の先生をがっかりさせたのはこの俳優さんでしょうか。ジャラジャラは8本です!

次に「聖武天皇」と入れて検索すれば出てくるこの絵、立派な絵なのにジャラジャラは10本!惜しい!

しかし、ドラマ「大仏開眼」で孝謙天皇を演じた石原さとみのジャラジャラは12本あります!さすがです!でもかわいいお顔を見せるためちょっと短いのかな?

はい、粗探しはやめて次に行きましょう。

時は翌749年。

陸奥から黄金が見つかると、また八幡神にお告げがあった。

「われ都に行って大仏を拝むぞ」

一行は宇佐を立ち、奈良の都へ向かった。

一条大路を進む紫の輿に乗っているのは、八幡神。ただし人に見えるのは、巫女であり、尼でもある大神杜女(おおがのもりめ)の姿。 

輿は資料があります。

色はこんな感じだったようです。

「ようこそおいでくださいました」

転害門(てがいもん)で文武百官に出迎えられた輿は、大仏の前へと向かった。

転害門はほらこの通り現存しております。

「八幡の大神(おおかみ)、お待ちしておりました」 

聖武上皇と孝謙天皇の出迎えを受けた八幡神は、大仏を拝んだ。

天皇は聖武から娘の孝謙へと変わっています。石原さとみの役ですね。

そのあと僧5000人が読経し

唐の音楽や舞が披露され、八幡神をもてなしたのじゃ。

「そのあと僧5000人が読経し

唐の音楽や舞が披露され、八幡神をもてなしたのじゃ」と

セリフでいうと2行ですが、絵に描くのは大変です。

しかも映るのは1秒〜3秒くらいだったかな。

テレビの仕事は大勢の人に見てもらえるのが嬉しいのですが、一枚の絵はちょっとしか写りません。

まだ続きます。

次は神仏習合において、なるへそな大発明、本地垂迹説の説明パートです。

場所は須弥山世界。

世界の中心に須弥山という大きな大きな山がある。そのはるか上空に、仏や菩薩たちがおられる。

そんな須弥山世界を描いたアニメのワンシーン。

ちっちゃくてわからないけど、薬師如来、阿弥陀如来、大日如来、普賢菩薩、弥勒菩薩、地蔵菩薩、千手観音菩薩、如意輪観音菩薩がいます。

「仏の姿に間違いがあってはならぬ」という事で、ちゃんと描いています。でも、ほとんど映っていないけど。

いいのです。まっとうな仕事というのはこういう事です。

でも、ブログでは「ちゃんと描いとるぞ〜」と載せておきます。

仏たちは遠く東の、粟粒が散らばったような小さな島々の民、つまり日本の人々を救いたいとお思いであった。

釈迦「さいはての民は悟りから遠い。とはいえ我らがこの姿のまま現れても、彼らは驚くばかりでうまくいくまい。どうしたものか…」

文殊「お釈迦さま、これならいかがでしょう。我ら本来の光り輝く姿を隠し、彼らに親しみ深い〈神〉として姿をあらわせば」

釈迦「確かに、このままではさいはての民にはまぶしすぎようぞ。よきかなよきかな。では早速、ヘンシーン!」

文殊「ヘンシーン!」

観音「ヘンシーン!」

かくして仏や菩薩は日本の民を救うために、神の姿に身をやつして現れた。だから神々は実は仏が変じたお姿なのじゃ。なんとありがたいことではないか。

救いを求める日本人の絵。

アニメーターの幸洋子さんのアニメートで素晴らしいカクカクアホラシアニメに仕上がっていました。

ここまで書いて、かなり疲れてきました。

でも頑張ろう。あと少し!

時は鎌倉時代初期。

ここの時代考証は簡単です。「春日権現験記絵」をそのまま描き写せばいいのです。

奈良のとある寺の僧(頓覚坊)が、深く悩んでいた。

「春日大明神、お助けください」 

夜遅く春日に詣で、瑞垣のうちに入り込み、本殿のすぐ近くで法華経をよんだ。そして夜が明ける前に帰っていった。これを百日続けた。

百日目。疲れた僧は読経しながらつい眠ってしまった。

夢の中に美しい若君(春日神)が現れ、僧のひざのうえで遊んでいる。見ると髪の毛が濡れていた。

「どうして髪の毛が濡れているのですか?」

「おまえがよむ法華経がうれしくて、喜びの涙で濡れたのだ。でも法華経はライバル比叡山で大切にしているお経だよ。興福寺が大事にする唯識論だったらもっとうれしかったのに」

「それによく聞け。あまり近すぎるのはよくないぞ。これからは瑞垣の外でよんでね」

「はい、そういたします!」

僧侶がそう答えると、ひざがすっと軽くなった。

ここもアニメーターの幸洋子さんの力によるところ大です。

さあ、最後のパートです。

時は1868年3月。

場所は神祇事務局(二条城か吉田神社におかれていた可能性が高いのだそうです)。

 樹下茂国(じゅげしげくに)「諸悪の根源は、神道に仏教が混じってしもうたためじゃ」

国学者「けがらわしい!我が国の将来のため、仏教など払いのけよ!」

樹下茂国「神道を純粋なる頃に戻すべし!」

樹下茂国ともう一人神職の衣装は「狩衣(かりぎぬ)」です。

「直衣(のうし)」ではありません。違いは、狩衣は肩に切れ込みがあることです。直衣には切れ込みはありません。

ま、このようにして奈良時代から始まった神仏習合は明治の世に神仏分離させられたわけです。

本当に明治時代ってさぁ……ま、いいや。

前にも書きましが、神仏習合とはいい加減をええ加減に保つように工夫し努力してきた日本人の精神史そのものである!と私は主張したいですね。

あ〜ブログ長かった。

更新するの疲れた。

読むのも疲れたでしょ?

終わりだ!終わりだ!

カーペンターズ・エッセイ

今、道を挟んだ向かいに家を三軒建てている。

別々の家なので進行具合もズレていて、うるさいを通り越して、ちょっとしたノイズオーケストラだ。

あまりに気にならない時と、耐えられない時がある。すべては心持ち次第。耐えられない時っていうのは、仕事や人間関係などの気にかかる案件で、すでに心の目盛りはあふれそうになっている。

「うるさーい!」と部屋の中で叫ぶが、どうにもならない。

解体をし、地面をならしをし、基礎を作り、家の骨組み作り、外壁を貼っていく……それぞれを専門用語で何というのか知らないが、これらの工程は完全に分業化されている。家というのは、棟梁とその下で働く大工さんたちによって一貫して建てられていくものではすでにない。

解体の時は外国人労働者が来ていた。ヨイトマケの唄は彼らのお国のものだろう。解体の騒音にまじって、アラブの旋律が細い路地に響き渡る。

そのあとの基礎作りに来ていた人たちはやたらに仲が良く、朝の集合時間からすでに笑いが絶えない。仕事中も邪魔にならないくらいの軽口をずっと叩いている。

かと思えば、もう一方の家の基礎作りには年老いた職人と中年の職人の二人組がやってきた。中年による老人への当たりがキツイ。

「ねえ!〇〇さん、急がないでいいから丁寧にやってよ、危ないし」

「だからさ、〇〇さん、さっきも言っじゃん……」

注意に対する老人の返事は聞き取りにくく、そのたびに中年に「え?」と聞き返される。中年がイライラしているのがわかる。

僕も昔バイトでこうやってずーっとマークされて注意を受け続けたことがあった。そういう時ってすべてが裏目に出る。なんだかせつなくなってしまう。

そして今日は、朝からエグザイルのような集団がやってきて、ものすごい勢いで、柱を建てている。

ダンダンダン!トンカントンカン!と木を打つ音、電動ノコギリの音、柱を釣り上げるクレーンのエンジン音、それらが凄まじいハーモニーとなって襲いかかる。

なんと午前中で2階まで組み上げてしまった。

職人が入れ替わり立ち替わり現れては消えていく。現代の棟梁は、住宅会社の事務所の机に座っているのだろうか。

職人たちをまとめ、材料を吟味し、金の計算をし、お客の顔色も伺って……と、すべてを把握しなければならなかった昔の大工の棟梁には「辺りを払う威厳があった」と山本夏彦の本に書いてあった。その風貌も今はおいそれとは見れなくなってしまったということだ。

黒澤明の話を思い出した。世界のクロサワも最初は当然助監督だった。山本嘉次郎についていた。毎回怒られる。今日こそはこれでカンペキと思ってもまた怒られる。どうしてだろう?と悩んでいたが、自分が監督になってその理由がわかったという。自分の記憶が曖昧なので、ざっくりとしか言えないけど、「一番上の監督という立場に立たない限り、見えないものがある」ってことだっと思う。

ま、この先自分がそういう立場に立つことはないけどね……。

……って、今週は先週の続き、「歴史秘話ヒストリア」の時代考証苦労話を書くつもりだったのに、朝から騒音を聞いてパソコンに向かってたら、エッセイを書いてしまったではないか!そしてもう3階までできている!

今から、「歴史秘話ヒストリア」の話を始めると、分量が長くなるので今週は違うのを載せよう。

キングレコードから出た『りゅうぞう&かづとの おどってあそんで Hello! Going! 』のジャケットです。こちらは裏ジャケットです。

また来週!

時代考証秘話その1

先週の歴史秘話ヒストリア「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」はご覧いただけましたか?

神仏習合を正面から取り上げた画期的な番組でした。しかも内容が神回、いや仏回?と言ってもいい素晴らしい出来でした。自分の参加した番組をそんなに褒めるなって?いや、でもマジですごく面白い番組だったから褒めさせて。

番組を見て私はしみじみ思いました。

神仏習合とはいい加減をええ加減に保つように工夫し努力してきた日本人の精神史そのものだと言っても過言ではないでしょう。

なかなか難しいテーマかもしれませんが、この番組をきっかっけとし、神仏習合で5時間くらいの特番を作って欲しいです。

さ、今週はけっこう大変だった時代考証を交えながら、アニメのために描いた絵を紹介しましょう。苦労したからブログのネタとして引っ張るぞ〜。

しばらく先週アップした絵と同じのが続きますがご容赦を。

まずこの絵に描かれたのは古墳時代末期(5世紀〜6世紀前半)の祭祀の様子です。

場所は今の三重県の北部、桑名の多度です。多度大社のある場所です。その昔は神社の建物はありませんでした。

大きい岩は岩座(いわくら)と言ってこの前で祭祀をとりおこなうのです。

巫女がもつのは鉄鐸です。これは実際に発掘されたものがあります。たぶんこういう風にジャラジャラ鳴らしていたのではないかということです。

日本書紀を書き換えたバージョンの一つ「古語拾遺」には、天の岩戸の前で、アマノウズメが「矛に鉄鐸を付けて樽の上で踊った」とあるそうです。そういうところからもイメージしたりして、古代祭祀の様子を描いていきました。お供え物もどこらへんにあるかははっきりわかりませんが、たぶん岩座の周りではないかということです。器の発掘事例でいくと、壷のようなものやたかつきのようなものはない。酒など液体を入れるには漆の木器はあったかもしれない。魚やアケビなどの木の実、穀物が土器に盛られていたと考えられます。

こちらは仏教伝来の絵です。

日本書紀によれば552年。

欽明天皇が百済からの使節に謁見しています。この当時は天皇という呼び名ではなく大王(おおきみ)ですね。

時代は少し下りますがモッくん主演のドラマ「聖徳太子」をある程度参考にしています。でも、絵は簡略化してるので、だいたいなんとなくです。欽明天皇の冠とか、なんとなくこんな感じ?って。一応埴輪が当時の姿をかたどってはいるようですが、デフォルメされているのでよくはわかりません。天皇が座ってる椅子も実はややテキトウ。

経典は紙ではなく、木(竹だっけ?)です。仏像は船形の光背がついたお姿だったようです。これだって欽明天皇に贈られた仏像が残っているわけではないので、たぶんこういうのだっただろうってことね。さて、場所は多度に戻りますが時代は763年。

以前は何もなかった岩座の上に見世棚造の小型社殿が置かれています。それらを朱塗りの垣が囲んでいます。お供え物は八足台の上にあります。だいぶ変わりましたね。これとて資料写真があるわけではないので、建築考証の先生のご意見を伺いながら描いております。

そうだ、建築の考証の先生は私の高校の先輩だってディレクターから聞いたな。センパイお世話になっております。巫女の髪型はどうでしょう、こんなので良かったかな?巫女の前にいるのは豪族ですが、豪族の服の色は装束の考証の先生からの指示があります。多度の聖なる杜の中を歩いてくるのは、満願上人という神仏習合の歴史おけるスーパー僧侶です。満願上人の立ち姿として参考にしたのは興福寺の十大弟子像。くるぶしくらいまでの僧服の上に「九条袈裟」というものをまとっています。また、この袈裟のまとい方ってのが仏像や写真じゃよくわかりにくいんだ。袈裟の色もいろいろあるが、ここは無難にブラック&ベージュにしておけば問題ないだろうということでした、ディレクターはこの袈裟を調べるために、装束考証の先生の指示で「袈裟史」というシブい本を読んで勉強されたということです。大変だー、ちゃんと仕事をするのは。

満願上人は神の住まう山の木を切って、小さなお堂を建てた。その後、地元の豪族たちが鐘や塔を寄進して、神社の聖域の中に神宮寺が建てられた……というのをだんだん建物が増えていく様子で現した絵。この絵に至るまでに何回も考証の先生とやり取りをしていたのですが、結局番組の尺に収まらなさそうということで、ラフ止まりで本番の作画にはいたりませんでした。

いかんいかん、この調子で紹介していくと4週くらいに渡ってしまいそうだ。当分ブログのネタに困らないけど、誰かついてきてくれる人はいるでしょうかね……。来週も続けていいかな?いいとも〜!

ヒストリアだよ神仏習合!

今週のNHK「歴史秘話ヒストリア」は神仏習合をテーマにした「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」です(水曜 午後10時25分 | 再放送 毎週土曜 午前10時05分)。

歴史秘話ヒストリア「神と仏のゴチャマゼ千年 謎解き!ニッポンの信仰心」

ディレクターの角野さんは20年前から「神仏習合」をテーマに番組が作れないか考えていたようです。

角野さんは自身の FBでこう書かれています。

〈神仏習合そして神仏分離・廃仏毀釈は、神社側にとって触れられるのはタブー的なところがありまして、あきらめました。しかし911以降の「文明の衝突」への危機感から神仏習合の再評価が進み、肯定的にとらえる神社も増えてきました。〉

なるほど、20年越しに企画が実現できたのは単なる偶然ではなく、世の流れの必然とも言えるでしょう。今やるべき企画、必要とされる番組、ということですね。私も大いにはりきって絵を描きました。初詣で神社やお寺に行くと、どっちも賽銭箱に小銭を入れて拝むスタイルなので、いくつも回ってるうちにごっちゃになって、お寺なのについ柏手を打ったりした経験ありませんか?私はあります。それは私がうかつだからでしょうか。

いや、それは私がうかつではなく、ご先祖様が長い時間をかけてゴチャマゼにしようと努力をしてきた結果なのかもしれません。

「神仏習合」と「廃仏毀釈」は一応学校で習いました。

「廃仏毀釈」は明治政府が神と仏を無理やり分離させたやつですね。この時は仏の方が悲惨な目にあって、仏師、高村光雲の自伝には、光雲がお手本のようにしてた仏像が燃やされたり、二束三文で売り飛ばされたりして、大いに嘆く場面があったように記憶しています。

廃仏毀釈になった時、神仏習合していた証拠の多くは破壊されてしまったようです。我々は当時の様子をなかなか知ることができません。だが、今回、春日大社など有名社寺の協力で、封印された歴史をついに公開!なのです。これはもう日本人全員見るしかありません!!!

日本人全員必見の番組にどうして私が絵を描くことになったとかと言いますと……ここでまた角野さんの FBから引用しましょう。

〈「歴史秘話ヒストリア」って基本は再現ドラマをやるんです。けど今回はやめました。だって内容が・神が憑依する・またもや神が憑依する・仏が神に変身する・夢に神が現れるですからね…でもってアニメにしました。〉

というわけです。

NHKの歴史番組ですからイラストも歴史的に正しくないといけません。時代考証は装束や建築の先生がいて、きびしいチェックが入ります。何度もラフを描きました。すごく勉強になりました。今週は放送前なので全部載せませんが、来週のブログでは番組に描き下ろした歴史的に正しい絵の数々を載せましょう。誰かが検索してたどりここに着いた時に、私の絵が参考になるはずです。えっへん。

絵の動きはアニメーターの幸洋子さんがつけてくれました。幸さんのつける動きは、名前の通り人を幸せな気持ちにしてくれます。そして神や仏や天皇役のアフレコをゆりやんレトリィバァさんが担当してくれています。これもまた見ものでしょう。

ゆりやんレトリィバァに 神が降臨!?

『おしらさま』

イラストレーションの仕事は出されたお題に対する「答え」であるが、自分にしか答えられない「答え」になっているといい。いいんだけど、テーマの中でやる仕事なので、ストライクゾーンを出ないように、コントロールを効かせなければならないのである。

でも、エポックメイキングな仕事は思いっきりストライクゾーンをぶっちぎって、新たなストライクゾーンを作るくらいの気持ちがないとできない。

そんなチャンスはなかなか来ない。だが、この仕事はまさに”それ”だった。

もうそろそろ汐文社から発売になる「京極夏彦のえほん遠野物語」シリーズの6冊目『おしらさま』だ。

既刊の5冊を見るとみんな自由に描いている。京極先生も絵描きさんにおまかせって感じみたい。

絵本が難しいのは、子どもに向けて作らなければいけないところだ。でもこのシリーズは子どもに限らずいろんな世代に向けている。それもこれも人気作家の京極夏彦先生だからできる「遊び」かもしれない。

唯一出されたお題は「怖い絵本」であることだ。

さあ、その怖いってことが自分にはちょっと難しかった。今回は笑いは封印したつもりだったんだけど、なぜか浮き出てしまう。どうしてなんだろう。たけしの映画のように、恐怖と笑いは相性の良いものではあるらしいんだけど……。でもどうだったかな。絵のタッチもいろいろ混在させているし、怖がらせてるのか笑わせてるのか、いったい読んだ人はどんな気分になるのだろう。やや破綻しているのではないか心配だ。エポックメイキングな仕事には……あ〜、いや、ちょっと冒頭で風呂敷広げすぎたかなぁ……ま、そういうチャンスの仕事だったってことですよ。審判を下せるのは絵本『おしらさま』をお買い上げくださった方だけです。立ち読みだけの人は私にキツいことは言わないでね。いつもは描かないタイプの女性。ベニヤ板にアクリル絵の具で描いてます。この娘は馬と結婚するのです。怪奇ものの挿絵みたいな感じにしたかったのですが……おお、娘と馬はどうなったのだ!こんな絵も描きました。これはどういう場面でしょう。さ、見開きで絵を見せていると全部のせちゃいそうなので、あとは、トリミングした部分を載せましょう。説明もなしです。

まあ、こんな感じでなんすが、面白そうだと思われたら、ぜひ買ってやってください。

こちらのサイトでは、試し読みや、他の遠野物語シリーズがご覧いただけます。

京極夏彦のえほん遠野物語

どうぞみなさまなにとぞよろしくお願いします。

ペコリ。ペコリ。

おひさま/井上堯之さん

3年前の5月に福音館書店の「こどものとも」として発売された『おべんとうをたべたかったおひさまのはなし』(文・本田いづみさん)がハードカバーで再発になりました。と言っても、他の絵本と10冊セットになった「おいしいえほんの時間」というボックスで幼稚園、保育園に直接販売するものなので、一般書店では売ってません。

この写真いいでしょ?これは「こどものとも」版発売時に福音館書店のfacebookに掲載されていた写真なのですが、あまりにいい写真なので許可を得てハードカバー版絵本を無理やり合成してみたものです。おひさまがタケノコ掘りに来たおじいさんのおべんとうを見つけて、どうしても食べたくなっちゃいます。おひさまの熱と光で地中からタケノコを生えさせ、それにおべんとうの包みを引っ掛けて天まで届けさせるという壮大なおはなしです。

さあ、おひさまは無事おべんとうを食べられたかな?あれ?おべんとうを食べられちゃったおじいさんは大丈夫?それは絵本でのお楽しみ。一般書店では売ってないので、念力で読んでください。

※  ※  ※  ※  ※  ※  ※

先週、井上堯之さんがお亡くなりになりました。井上堯之(いのうえたかゆき)と伊野孝行(いのたかゆき)、名前が似てるので昔から勝手に親近感を抱いていたのですが、実は近年、井上さんには間接的にお世話になっていたのです。

Eテレのアニメ『オトナの一休さん』のはじまりはなんと井上堯之さんだったのです。

ディレクターの藤原さんが別番組の取材で井上堯之さんにお会いした時、雑談の中(?)で井上さんが「一休さんて、かなりヤバいお坊さんだったんだよ」とおっしゃったそうです。

で、後日、番組企画会議の日のこと、ネタに困っていた藤原さんはフト井上さんから聞いた一休さんの話を思い出し、パパパッと即席に企画書を書きました。それが「オトナの一休さん」だったのです。井上さんの一言がなければ、たぶんアニメもないし、私が大徳寺・真珠庵の襖に絵を描くこともなかったでしょう。因縁に心から感謝申し上げます。合掌。

研究生活

「通販生活」夏号に描いた絵です。「通販生活」で仕事をした人はわかるだろうが、イラストレーターにとってありがたい雑誌である。多くは語らずともわかっていただけるだろうか。

それはさておき、私が描いた特集は「追求する人々」という内容だった。そんな研究をして何になるのか?と思わずツッコミたくなる研究をしている方々へのインタビュー。そに添えたたいしたことのないイラストだ。カエルは「かえるのうた」みたいに本当に輪唱していることを突き詰めたのは筑波大学助教授の先生。確かにこの研究が一体何に応用されるのか、なかなか凡人には見通せないが、真理は万物に共通するからいずれ我々に恩恵をもたらすはずだ。宇宙人が現れたらどうやって挨拶するのか?を考えているのは京都大学の教授。「言葉が通じず、文化も異なる相手と出会ったとき、相手のマネをすることもファースト・コンタクトにおける一つの定義」だそうです。一人だけの味気ない食事も鏡を見たらおいしく感じる」という研究成果を発表したのは名古屋大学大学院の研究員の方。全然関係ない話だけど、同じ食事をするにしても外食って疲れません?家で食べると体も休まるよね。私はそう思います。全国に散らばる資料を解析して忍者・忍術の実態に迫るのは三重大学の教授。三重といえば私の地元。地元だが三重大学に受かるような成績ではなかったので、縁遠いところだ。忍者のふるさと伊賀では「堅焼きせんべい」なるお菓子がある。これは忍者の非常食とされるもので、めちゃくちゃに硬い。特に伊賀の店で売られているものがより硬質である。どれくらい硬いかというと菓子袋に小さい木槌がおまけで付いてくるくらいに硬い。木槌で割って食べるのである。せんべいと言っても味はほんのり甘いクッキーのようでたいへん美味である。ニンニン。「クサいものに蓋」ではなく、混ぜていいニオイに変える、という大胆な手に出たのは東邦車輌と凸版印刷のお二人。バキュームカーのニオイを変えた画期的な方法は、車輌の排気にデオマジックという香料(?)を混ぜることで完全にニオイが臭くなくなるというもの。既に実用化されている。どれくらい効果的かというとこの絵の通り!……かどうかは知らないが、たぶんいいとこついていると思う。特集を通してなんとか及第点に達したイラストはこの絵くらいのもんだった。精進、精進。

さて夏号の表紙は「自撮りのキミちゃん」こと西本喜美子さん(5月で90歳)。日本人なら一度くらいはキミちゃんの自撮りをご覧になっているはず。自撮りを始めるまではただのおばあさんだったのだが……。いや、「通販生活」を読むとただのおばあさんではなかった。キミちゃんは若い頃なんと競輪の選手だったのだ!

……とそんなことまで知れる「通販生活」夏号をよろしく!

そういえば伊野孝行×南伸坊「イラストレーションについて話そう」も更新されてますんで、よかったらお読みください。

第10回前編 ヘタうま① 意識で描くことを離れ「無意識の力」を引き出す|イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談

第10回後編 ヘタうま② 「ゆるさ」を絵の魅力と捉える価値観|イラストレーションについて話そう 伊野孝行×南伸坊:WEB対談

現代ものと時代もの

「小説現代」の今月号読み切り小説、佐藤多佳子さんの『三振の記憶』の扉絵と中面の挿絵です。

現代ものの小説の挿絵はいつも出来上がるまでの時間が読めないんだよなー。連載だと毎回そう悩まないと思うんだけど、読み切りの現代ものは特に悩む。今回も扉絵は5パターンくらい構図を作ってみて、タッチも2、3パターン試した。時代ものの場合は、読み切りでもあまり悩まずに描ける。描き上がるまでの時間も読める。

この違いはなんでしょう?

恥ずかしながら時代考証は別段一生懸命やっていない。だいたいの時代の雰囲気、例えば、江戸時代だったら前期か中期か幕末かくらいは気にするけど、封建の世の中というのは、身分によって髪型や着物が決まっている。おなじ町人の若者でも、遊び人と実直な人を描き分ける時にはパターンのようなものがある。仕草などもそう。つまり時代劇の演じ分けみたいなもの。

ところが現代ものの小説だと、同じ若者でも個人個人でバラバラだから、そこから考えないと絵が描けない(小説の中に詳しく書いてあれば考えなくてもいいけど)。あと、同じ現代でも10年前と今とでは流行も違うから、そこでも立ち止まる。

あと筆のタッチが強いとなんか渋くなっちゃいすぎとか?いろいろ悩むポイントが多くて時間が読めない。

思いついたところをあげてみたけど、他にも何か理由があるかな?他のみんなはどうなんでしょう。時代ものと現代ものどっちが時間がかかりますか?

今週は自分で考えを深めないで投げ出す形で終わります。

以下は「オール讀物」で連載中の大島真寿美さん『妹背山婦女庭訓 魂結び』の扉絵です。

白隠ゑかくかく描けり

新潮社「とんぼの本」シリーズの新刊『禅のこころを描く 白隠』でオマケ漫画を描いてます。漫画を全部載せちゃうと悪いので、ネームなしの漫画原稿をアップしときます。ぜひ買ってネーム入りの漫画をお読みください。禅画を漫画で解説するという新しい試みなのですが……絵だけ見ても絶対に内容はわからないという自信があります。ネームとあわせて読んでもわかんなかったりして(汗)。ジョンもジョブズもハマったZEN。ジョン・レノンは日本に来た時に白隠の禅画を買って帰った。山下裕二さんによるとあの「イマジン」の歌詞は白隠の墨跡《南無地獄大菩薩(地獄も極楽も人間の心に映る影のようなもの)》と同じことを言っているのだという。確かに「想像してごらん」を頭にくっつければ「イマジン」の歌詞そのものだ。

 白隠 慧鶴(1685- 1768)は日本の禅の中興の祖と呼ばれる。独学の絵は隙だらけの無技巧だが、描きたいことであふれている。この存在感はプロの絵師には出せない。一万点を越えるという量からしても日本美術史に比類がない。本書には白隠の友達、池大雅の絵も載っているので見比べてほしい。一目瞭然で質の違いがお分りなるだろう。どうしてこんな絵が描けるのだろうと池大雅も思ったはずだ。私もそう思う。

「いいな」「すげえな」と思うことが私にとっての「理解」である。その意味で私は白隠をよくわかっている。でも白隠禅画は賛と絵が一つになって意味がわかるいわば一コマ漫画。そこに込められたメッセージとなるとさっぱりわからない。そもそも書いてある文字が読めない。白隠にとって禅画は思想を伝える手段なのに、私は絵だけを見て「わかる」と言っちゃってるわけだ。そんな私にうってつけなのが本書の芳澤勝弘さんによる白隠禅画解読である。禅の開祖達磨はもちろん、乞食姿の大燈国師、ハマグリになった観音様、布袋さんにすたすた坊主……多彩なキャラクターが登場する絵画世界を吉澤さんは「白隠劇場」と呼ぶ。白隠が漫画的キャラを操って説こうとした深い禅の思想とはなんだったのか?白隠はそれまで貴族的だった禅を民衆にひろめた人で、我々がよくわからないままに禅だZENだと言ってるのも、ジョン・レノンが「イマジン」を作ったのも、白隠さんのお陰かもしれないのだ。白隠は公案(いわゆる禅問答の問い)も自ら考えた。有名なものに「隻手の声」というのがある。「両手を打ち合わせると音が鳴るが、では片手の音とはどんなものか」という謎かけだ。作麼生!皆さんならなんと答えますか?

 余談になるが、芳澤さんと私はEテレの五分間アニメ『オトナの一休さん』(ただいま絶賛再放送中)の監修者と作画担当者という縁で結ばれていた。本書の元になっている「芸術新潮」の白隠特集の時は、私は一読者に過ぎなかったのだが、因縁が私を呼んだ。「白隠の禅画は誰のために描かれたのか不明なものが多い。伊野さん、そこを想像して漫画に描いてみませんか?」と芳澤さんに頼まれた。これが禅問答なみの難問だった。巻末についているオマケ漫画『白隠ゑかくかく描けり』がそれです。

 あ、そうそう、禅問答には答えなどないのです。筋道だった答えを用意しても「喝!」なのです。禅の公案とは澄んだ自由な精神を手にするための使い捨ての道具にすぎないのだそうだ。さて、私の漫画はそんな自由な答えになっているのだろうか……。ちなみにこの方が吉澤先生です。漫画の出来は自分じゃ判断できないが、先生の似顔絵は自信アリ。今日のブログの文章は新潮社の PR誌「波」のレビューのために書いたものです。ぜひ『禅のこころを描く 白隠』をお買い求めください。どうぞよろしくお願いします。

『卜伝飄々』全部のせ!

文春文庫の新刊、風野真知雄さんの『卜伝飄々』のカバー、扉絵を描きました。デザインは中川真吾さん。この手のタイプの絵はラフとか下書きとかそういうのは一切なしのぶっつけ本番。3時間くらい集中して、自動筆記的にらくがきを続ける。うまく描けたと思うものが後から見ると平凡だったり、こりゃいくらなんでもテキトーすぎるかなと思ったものが、わりとイケてたりもする。らくがき特有の無責任な気ままさが出せたとき、塚原卜伝という剣客と対峙できるのだ……とかなんとか偉そうなこと言ってますが、自分にとっては一番楽しいラクチンなやり方なのだ。たくさん描くと選ぶのがタイヘン。というわけでセレクトはデザイナーの中川さんに丸投げしてしまった。らくがきに失敗も成功もない。描いたもの全てを中川さんに送った。そういうわけで今週は、『卜伝飄々』のために描いた絵を全部載せます。

三遊亭圓朝の同期生

今売りの『小説現代』は「落語小説特集」。土橋章宏さんの『下町の神様』の挿絵を描いた。

落語のネタのノベライズである。この2枚の絵だけを見て「ああ、あの話か」と思った人は落語通?いや、あまりに有名な話なので通とは言えないのか。リード文には〈年の瀬に、カネを失った男ふたりが「神様」に会う。〉とある。確かに『下町の神様』というネーミングは元ネタの小説版タイトルとしてぴったり。元ネタはもうお分かりですか?……そう三遊亭圓朝作『文七元結』です。

僕はずっと勘違いをしていたのだが、『文七元結』とか『芝浜』のような話を「人情話(噺)」というのかと思っていた。だって人情にグッとくるじゃん。ところがもともとは武家の話の「時代物」に対して、町人の話の「世話物」の、その中でも長〜い演目、例えば『塩原多助一代記』『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵』みたいなのを「人情話」と言うようだ。えー!と思ったね。『牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』なんかは怪談噺で、今の感覚で使う「人情」っていう言葉がなかなか当てはまらないから。どっちかっていうと刃傷沙汰の「にんじょう」の方だよ、内容的に。

もっとも広い意味では『文七元結』や『芝浜』も人情話のカテゴリーに含まれるようだし、「人情」を心の動きと捉えれば、何もほろっとさせるだけが人情ではないかもしれない。江戸から現代にかけて言葉の感覚が変わってきているのも面白いと思った。

あ、乏しい僕の落語知識の中からたまたまここにあげた演目は全て三遊亭圓朝の作である。三遊亭圓朝ってすごい人だな。4、5年前に何を思ったか三遊亭圓朝の肖像画を描いて、描いたっきり誰にも見せずに押し入れにしまっていたのを思い出した。久しぶりに出して見たけど、お蔵入りした理由がなんとなく分かる絵だ……。圓朝の後ろにあらわれた幽霊は河鍋暁斎の幽霊画からとった。

なんと三遊亭圓朝(1839年生まれ)は12歳の時(1851年)に歌川国芳の内弟子になっている。河鍋暁斎も同じく国芳の弟子だった。圓朝が弟子入りした時は暁斎はもう20歳だった。暁斎は6歳で国芳に入門し、3年後には国芳の元を離れたので弟子時代の二人に直接の関係はないだろう。しかし圓朝とほとんど同時に国芳に入門した人がいる。月岡芳年だ。入門したのは1年違いの1850年だという。生まれも圓朝と同じく1839年生まれ。この二人の関係を知りたくて正岡容の『小説 圓朝』という本を読んだことがあるけど、どんなことが書いてあったか忘れてしまった。本もすぐに見つからない。またそのうち調べよう。

(佐川氏の証人喚問を聞きながら記す)

春の「笑なん」

日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの自伝エッセイ「笑ってなんぼじゃ!」略して「笑なん」。洋七さんは高校野球の強豪校、広島広陵高校に進学します。中学ではキャプテンだった洋七さんですが、広陵高校野球部でレギュラーの座を取れるでしょうか。そんな頃のお話です。佐賀では、ばあちゃんの掃除の仕事についていった以外は、特に何もしてんへんかったんやけど、1回だけ城南中学の野球部の練習を見に行った。皆で飲んで騒いでいたときに、突然A君が泣き出した。「どないしたんや? 何泣いてる?」「やっぱりキャプテンは今でもキャプテンや」「ん? どういうこっちゃ?」「俺、正直に言うけど、実は詐欺罪で警察に捕まったことがあるんや」「刑務所ではテレビも見せてもらえるんやけど、そこでもしょっちゅうキャプテンが出てる。コマーシャルにも出てる。毎日、キャプテンの顔を見てた。徳永くん、あんなに頑張っているのに、俺は……」短い春休みも終わって、いよいよ待ちに待った広陵高校に入学や!入学式には、かあちゃんも来てくれた。着物姿で父兄の席に座るかあちゃんを見たときは、やっぱりうれしかったなあ。その数は30とか50やないよ。ざっと数えて250人。一学年がだいたい700人やから、三分の一が野球部に入部希望やったんよ。実際に目の前で河井を見て、俺は心の底から『二塁にしといてよかった』と思ったよ(笑)。俺の身長は164センチ。そびえるような大男に見えた河井も175センチと、それほど大柄ではなかった。けど、がっちりとした体格で、「とても太刀打ちできん」と思わせるようなオーラが全身を覆ってたんや。 広陵高校の野球部は、設備もすごかった。その頃は、本物のプロ野球のキャンプやら練習場は見たことないから、比べられんのやけど、広陵の練習場を見て「プロ並や!」と思った。ボールは毎日、縫い目の破れや糸のほつれを点検し、破れているボールは、新入生が家に持って帰って補修せんといかん。また、このボールの数が半端ないんや。かっ飛ばした球が、ときに金網を越えて、近所の屋根を直撃して瓦を割ってしまうことがあるんや。そのために部室の裏には瓦が何枚も積んであった。怒られたことはいっぺんもなかった。そこのお家も慣れているのか、「暑いのに大変やね」と、逆にねぎらってくれて、冷たい麦茶なんかを飲ませてくれるんよ。これが楽しみで楽しみで。さすがスポーツの強い広陵だけに先生も心得たもんや。「成績は試験の点数だけじゃないけん。悪いことをせんで、毎日、さぼらんと授業に出席してりゃ、それも成績として評価せにゃいかんことやとわしは思っとる」と俺ら運動部の生徒を安心させてくれた。街を歩いていても、広陵の野球部だとわかると、女子高生たちの間から「キャーッ!」と黄色い歓声が上がるくらいやもん。そこで重要になってくるのが野球部のバッチや。河村さんの荷物を持つのは1年生の2人で、2年生の先輩は自分のバッグだけでよかった。“かっぽん”と呼ばれる河村さんは、旅館の息子で、「食っていけよ」と、旅館のまかないを振る舞ってくれることも多かった。野球部と応援団は、バス15台に分乗して甲子園に向かった。先頭のバスは監督とレギュラー選手と補欠。2台目と3台目は俺たち、“その他大勢”の部員。先頭を走るバスを見ながら、小さな声で誰かが言うた。レギュラー選手は連盟指定の旅館に泊まり、俺ら“その他大勢”は、あちこちの宿屋に分かれて泊まった。昭和40年8月。俺は、夢にまで見た阪神甲子園球場にいた。学校帰りは、どこにも寄り道せず、ほとんど毎日、かあちゃんが働く蘇州飯店に立ち寄って一緒にご飯を食べた。だって寄り道する体力なんてないのよ。「うどんの中に髪の毛が入っていると言うたら、もう一杯食えるんちゃうか?」「おお、それええかも」と誰からとなく声があがった。マネージャーは、自分の髪の毛を抜いてうどんの中に入れた。「おっちゃん、おっちゃん~!」クレームを言うんやからと、ちょっと険しい声で呼んでみた。すると、厨房の向こうからのれん越しのおっちゃんが顔を出した。店の中は真っ暗闇。「何も見えんな」「どうしよう」そんなことを小声でささやき合っていたときに、誰かが言うた。「チャンス!」その意味は、全員がすぐに理解した。俺らは一斉に出口に向かってダッシュした。ベースランニングの練習のときより、俊敏に体が動いた(笑)。「危ないっ!」俺は、大声でショートに声をかけた。その時やった。別の打球が俺をめがけて飛んできた。ショートに向かってグローブを差し出した俺の左の肘を打球が直撃したんや。「うっ!」俺は肘を抱えて、その場にうずくまるしかなかった。痛いけれども、まだ、これくらいは平気やと俺は思ってたんや。ところが、腫れはなかなか引かずに、痛みもずっと続いた。俺はまた不安になって別の病院に行った。そしたら、そこのお医者さんは、「肘の軟骨にひびが入っているかもしれん。でも、2、3ヶ月もしたら治るやろ」と言うてくれた。もう野球ができんようになるかと思ったら、涙が止まらんかった。なぜか自然に足が太田川の河原に向かっていた。 誰もおらん地面に座り込んで、俺は泣いた。拭いても拭いても涙があふれてきた。俺はけがのことをばあちゃんに報告せんといかんと思って、近くで八百屋をしている親戚のところに電話を借りに行くことにした。電話をかけたら、ばあちゃんはいた。「ばあちゃん、俺、もうあかん」おじさんは何も言わずに立ち上がり「アキやん、これ、飲め」と、涙でくしゃくしゃになった顔で、店のジュースの栓を抜いて俺にくれた。野球部を辞めてからは、何もする気にならんで、退屈しのぎに近くの高速道路の橋脚の壁を相手に毎日キャッチボールをして過ごした。タートルネックのセーターにブレザーを着ていた河井は、ずいぶん大人びて見えた。髪も少し伸びている。背が高い河井がそんな格好をして俺と並んだら、まるで大人と子供やった。試合なんてとても見に行く気分にはならんから、毎日、新聞で試合結果をチェックした。広陵は一回戦、二回戦と順調に勝ち進んでいた。ところが三回戦でつまづいてしもた。「強豪広陵三回戦で敗退」新聞の地方版では、そこそこ大きく報道された。その文字を見たとき、残念な気持ち半分、ほっとした気持ちが半分。

やっては、いけない!

マガジンハウスの雑誌『ターザン』で「やっては、いけない!」という特集の絵を描きました。

一部の与党議員のために決裁文書を改ざんするという「やってはいけない」ことが明るみになり、さあ、どうする?どうする?と盛り上がってまいりました。

森友問題の方はだいたいの察しはついてたし、やっぱりね、って感じだけど、貴乃花親方がこれからどこに向かおうとしているのかよくわかりません。親方、職場に戻りましょう。親方には相撲しかないのです。

弟子を長い間部屋に閉じ込めたり、力士会を欠席させたり、親方がそんなことを「やってはいけない」のではないでしょうか。親方なのに無断で職場を休んだり、果ては春場所中はぜんぜん出勤しないなんてことも「やってはいけない」んじゃないかな〜て思います。

いや、でも、私が見ている大相撲と、貴乃花親方の宇宙の中に存在する大相撲はもう別のものなのかもしれません。親方は相撲道を極めると宇宙の真理もわかると思ってやってらっしゃるのだと思います。いつか親方を理解してくれる生命体が宇宙から迎えに来て、親方は金色に輝くUFOに乗り、全宇宙大相撲の土俵に上がるのだと思います。

明日に迫った確定申告。どうしても今日中に「やらなければいけない」ということで、ブログの更新はあっさり目で終わります。それではみなさんごきげんよう。

なんとかなるわよ

KKベストセラーズから発売された野村克也さんの新刊『野村の哲学ノート「なんとかなるわよ」』のカバーの絵を描きました。

南海ホークスのプレーイング・マネージャー、ノムさんこと野村克也(35歳)は東京遠征に来る時、表参道にある旅館を定宿にしていた。宿の近くのお気に入りの中華料理屋で、ノムさんがマネージャーと二人でフカヒレそばをすすっている時、「ママ〜、お腹すいた〜」と店に入ってきたのが後のサッチーこと伊藤沙知代(38歳)だった。

これが二人の出会いである。1970年の話。どこの中華料理屋だろう。当時は表参道にも旅館があったんですね。そりゃそうか、何せ48年も前の話だもの。

当時、サッチーはボウリング用品の輸入販売会社の社長。ノムさんはサッチーの真っ黒に日焼けした姿を見て「世の中にはこんなに活発な女性もいるのか。俺にないものをたくさん持っている人だな」と思ったのが第一印象。一方サッチーはノムさんが監督と聞いてもピンときていない様子。「雨が降ったら商売になりませんよ」とひねった第二ヒントをノムさんが伝えると、工事現場の監督ね、と答えたらしい。

そんなふたりの出会いから去ること16年前、高校を卒業したノムさんは南海ホークスにテスト入団が決まっていた。ノムさんは地元の京都府網野町から球団がある大阪まで、野球部の恩師清水先生と一緒に電車に乗って出かけた。その途中で清水先生が「野村、プロ野球という厳しい世界に入るんだし、仕事運を一度見てもらったほうがいい。よく当たる占い師が祇園にいるから、ちょっと行ってみよう」と言い出し、ノムさんは言われるままに京都駅で途中下車し、占い師の元を訪れた。

そこで白ひげの老占い師に「将来、あなたが何かで失敗するとしたら、その原因は女性でしょう」と言われたという。

ノムさんは自分はマイナス思考で、サッチーは「地球は自分を中心に回っている」くらいのプラス思考だ、と本書で語っている。サッチーが原因で監督を二度も辞めることになるのだが、その一度目の時(南海ホークス解任時)の後日譚もなかなかだ。

「大阪なんて大嫌い。東京に行こう!」と言い出したサッチーを乗せてノムさんは東名高速道路を走っていた。日頃から「野村ー野球=ゼロ」と公言していたノムさんは「ああ厄年って本当にあるんだな……」と心の底からしょげまくっていた。運転中にも愚痴ばかりこぼしていたという。その様子を見たサッチーは「ただ野球の仕事を失っただけなのに『何よ、この男?』」と思った。そして車の中で、一声大きな声で言った言葉が「なんとかなるわよ」だったのである。

この夫婦はすごい。マイナス思考とプラス思考だからうまくいくというのを通り越しているように思える。夫婦に限らず人間関係において「ありがとう」「ごめんね」という言葉をかけるのは必須だとされているが、長い夫婦生活の中でノムさんはサッチーから「ありがとう」「ごめんね」は一回きりしか言われていないのである。それはどんな時に言われたのか?詳しくは本を買って読んでもらうことにしましょう。

このブログでは前にも書いたと思うけど、僕は子どもの頃から球技が苦手で嫌いだった。当然野球もソフトボールも嫌い。でも友達と遊ぶ以上はやらざるをえず、仕方なくやっていた。いわば社交のためだ。子どもにも当然社会がありつき合いがある。ヘタクソだからつねにチームの厄介者になっているという思いがあった。他人の顔色を伺わなければいけない。野球が好きなふりもしなければいけない。あの時は「オレ野球嫌いだから…」なんて言い出せなかった。

しかし、野球選手や監督は、話やエピソードの面白さで、ずっと興味のある対象だった。ぼくは野村監督もサッチーも好きだ。サッチーが突然亡くなった時の野村監督の顔が忘れられない。

お二人を絵にかけたことを光栄に思います。

デザインは日下潤一先生です(担当編集者の方がメールで日下先生と書いていたのでマネしてみました)。ありがとうございました。

着せ替えられる服のごとし

小説が世に出る形はいろいろありますが、たとえばまず、小説誌で連載されるとします。

イラストレーターはその時に挿絵を頼まれます。

次に小説誌での連載が終わり単行本として出版されることが決まった時、今度はカバーの絵をまかされる……かといえば必ずしもそうではありません。本屋に行って、「あれ?これって挿絵描いてたあの小説だよな」と、違うイラストレーターの手になるカバー絵を見つめながら、「やっぱり俺の絵じゃ売れないんだろうか」と肩を落としたことも何度かありますね。

でも、逆パターンもあるのでお互い様です。

同じようなことは単行本から文庫化される時にも起こります。

単行本のカバーと文庫本のカバーでは、違うイラストレーターが描いている場合も珍しくありません。「装いも新たに」というやつです。

余談ですが、小説が映画化されると、急遽、期間限定の新しい帯が巻かれます。最近はその帯の幅がはほぼ本のサイズで、いや正確に言うと本のサイズより数ミリ短く、本来のカバーが帯の上からちょっとだけ見えている、みたいなのもあります。さすがにこのやり方を最初に見た時は、「えげつな〜」と思いましたが、とにかく本が売れない、本が売れない、本が売れない、本が売れない……と呪文のように聞かせれている昨今にあっては、そのいじらしさに笑ってしまいました。

私は自分の職業を卑下する気持ちはコレッポッチもありませんが、所詮は服のように着せ替えられるものなのだ、とも思っております。

そう考えると、小説誌→単行本→文庫本とずっと頼まれるのは稀なことに思えてきました。

前置きが長くなりましたが、今週は幾多の障害を乗り越えめでたく文庫まで頼まれ続けた、今月発売の梶ようこさん『立身いたしたく候』のカバー絵についてです。

当ブログでも連載時や単行本発売のタイミングで宣伝していましたが、もう一度イチから載せちゃっていいですか?

まずは「小説現代」で連載したいた2013年当時の挿絵でござ候。

して、これは2014年に単行本化された時のカバーに候。

さあさあ、パソコンの前のお坊ちゃん、スマホを握るお嬢ちゃん、ホレホレ見なはれこの通り、2018年2月にめでたく文庫化されたカバーはこうなって候〜。江戸時代の就職活動の話ですが、文庫のカバーは現代の就職活動風景と混ぜたものにしたいとの申し出があり、他に城の出世階段を駆け上がる案と履歴書案もござ候。

さてもう一つ。

これは単行本から文庫本にする際、絵をちょっとだけ変えて使われたものです。群ようこさんの『うちのご近所さん』。今月発売です。メインのおばさんの服の色が違うのと、表4にいた人たちが表にまわってきました。この小説はもともと連載されていたものだったか、書き下ろしだったか忘れましたが、もし連載されてたものだったら、その時挿絵を描かれていた人がいらっしゃるかもしれません。すんませんね。ま、これもお互い様だということで。

神様の髪型と亀違い

NHK Eテレ 『趣味どきっ!福を呼ぶ!ニッポン神社めぐり』で神話の絵を描いてます。2月26日まで毎週月曜日(午後9:30 )にやってます。私は仏教のことも日本の神様のこともよくわからないままに生きてきた。日常生活に支障はない。まー、私のような日本人は実はいっぱいいると思う。別に知らなくていいとさえ思っていた。でも、最近は日本の仏教や神道はすごく曖昧なものらしいっていうところに惹きつけられる。自分たちがどこから来たのか知りたくなる年頃でもある。もともとがいい加減だったなんて聞くと、ホッとするなー。

さて、そう思っているからか、時々、神様や仏様お坊様を描く仕事が舞い込んでくる。絵に描くとなると、具体的な形にしないといけない。

服装などもある程度は調べる。もっとも、時代考証は雰囲気程度にしかやっていないし、かなりテキトー。なぜか枚数の多い仕事を頼まれることが多いので、描きやすいように簡略化して、装飾品もごく少なめにしてしまう。だからたとえ NHKで放送されたとはいえ、私の絵を参考資料にしない方がいいですよ。

この間も雑誌で地蔵菩薩に螺髪(らほつ、大仏様などにあるパンチパーマ状の巻き髪)を描いてしまい修正が入った。菩薩は人間が仏になろうと修行を積んでいるとこなので、まだクリクリなのであった。これなどは初歩的なミスだと思う。仏教は調べればだいたい答えは出てくるのではないだろうか(あまり詳しく調べたことないけども。「オトナの一休さん」で描いていた袈裟なんてめちゃくちゃいい加減だった)。

ところが調べたってわからないのが、日本の神話の神々の姿。例えばどんな髪型をしていたかは、誰にもわからない。わかるわけがない。よく日本の神様の髪型は、頭の両サイドで髪を結う「みづら」という形で描かれる場合も多いが、同じ神様でも描かれる絵や時代によって様々である。

「みづら」は古墳時代の人の髪型である。したがって、神話に出てくる神様も古墳時代っぽい雰囲気の衣装が多いのだが、このイメージで描かれるようになったのも明治30年頃からだそうだ。それまでは髪を垂らしている姿の方が多い。

「みづら」は埴輪の頭の造形を基にして推測された髪型だ。下の画像は1921年の本の復元図だ。…ってこの画像は、及川智早さんの『日本神話はいかに描かれてきたか』及川智早著(新潮選書)から抜き出したものです(この本も今回の仕事用に買って、結局ちゃんと読む前に仕事を終えてしまった。何のために買ったのだろう)。

ネットを検索してたら、土浦市のホームページに1983年に古墳から発掘された「みづら」の写真が載っていた。髪の毛がそのまま発掘されたようだ。おお、やっぱりこんな髪型してたんだ。埴輪から推測した人スゴいね。

ところで、歌舞伎や文楽で、源平合戦の頃のお話なのに、登場人物は堂々と江戸時代の風俗でやってたりする。また、西洋の宗教画では、紀元後間もない中東の宗教家であるイエス様の絵が、思いっきり中世のイタリアの風俗で描かれてたりする。親しみやすくするためだったかもしれない。観客や信者に考証に疑問を抱く知識はなかったかもしれない。だいたい昔は時代考証の資料なんてものは作り手も手にすることは困難だっただろう。

幕末から明治初期にかけて活躍した絵師、菊池容斎は『考証前賢故実』全11巻というのを出して、それは当時の画家が歴史物の絵を描くときに参考にするバイブルであったそうな。この頃になると考証の研究はある程度進んできたとみえる。

去年ある美術館で尾形月耕の描いた浦島太郎の絵を見て、思わずツッコんでしまった。この絵だ。

う~ん、亀が海亀ではなく、沼亀である。イシガメだろうか。

今調べて知ったのだが、尾形月耕は菊池容斎に私淑していたらしいじゃないか。菊池容斎のお手本にこういう亀が描かれていたのだろうか。亀好きとしてはちょっと気になるところである。

ではまた!

【追記】

伊野孝行×南伸坊 WEB対談『イラストレーションについて話そう』更新されております〜。

第6回前編

第6回後編

よろしく!