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伊野孝行のブログ

残す、残る、残らない

日経ARIAというWEBメディアで、小川さやかさんの「その日暮らし」の幸福論という連載に絵をつけています。

「その日暮らし」の幸福論

毎回、タンザニア商人たちの日本人とは真逆の価値観におどろきです。

今日はブログを更新するのが甚だめんどうな気分なので、以上で終わり!
……にしようと思ったけど、もう少しダラダラ書いておくかな。
最近まわりのイラストレーターの友人たちがipadを買おうとしている。
ノートパソコンよりもさらに持ち運びに便利な板状のipadは、お絵かきに特化したソフトもあって、これがアナログと見分けのつかない出来栄えに仕上がるらしい。直接画面に描けるのがそこらのパソコンとは違うところである。昨日ちょっと試しに使わせてもらったら「あ、近々買うかも」と思った。
僕にはまだ原画信仰が根強くあり、実際、展覧会でデジタル出力を見ても感動は薄い。原画の持つ力はまだまだ大きいと感じるのだが、自分が死んだ後それらの原画はどうなるワケ?
歴史に名を残すほどの絵描きなら、遺作は売り買いの対象になり、常にどこかでだれかが持っている状態になる。だが完全に歴史に名を残している木村荘八を例にあげると、知名度がマイナーなこともあって、また作品数も多いこともあってか、新聞小説の挿絵原画は2万円くらいで買える。もっとも油彩の大作などはすごく高いと思うけど。木村荘八でその値段なんですよ。
僕のようなイラストレーターが残したイラストの原画なんてどれほどの価値があると言うのでしょう。
いや、子どもがいれば、価値はなくてもお父さんの形見だと思って押し入れに入れておいてくれるかもしれませんが、子どもがいなければ、いったいおびただしい数の絵を誰が保管しますか?
だから、ipadで絵を描いておくと、遺族や遺品整理の人に感謝されますよ。
……しかし、そんなことはどうでもいいな。死んだ後も「助かったわ〜、みんなデータで残してくれて」って感謝される生き方なんてさ。人に好かれていい子になって生きていくなんて、生きてる間だけでたくさんだ!
ところで残る残らないで言えば、ソクラテスも孔子も釈迦もキリストも、みんな共通して自分では文章を書いて残さなかった。なんかワケがあるのでしょうか。ムハンマドは文盲であったらしいけど。
対話こそ大事だから?当時は偉人たるものは自分で書かない、書いたら偉人じゃないとかあったり?
書き残す側から考えたら、自分の大好きな先生が亡くなった後、先生の言行を伝えるためには、多少は“盛る”と思いますね。あそこは取ってあそこは捨てたり、順番入れ替えたりの編集もするでしょう。生身の先生に触れたことがない人たちに、より面白く魅力を伝えるためにね。
仏教とかお釈迦さまはそんなこと言ってないのに、後世いろんな思想や世界観が後付けされて、多種多様な仏教が存在してるじゃないですか。他の宗教もそういうことあるんでしょうけど。
でも、もし、本人の文章が残ってたら、逆に広まらなかったかもしれないなぁ。あの人すっごい面白いのに、文章書いたら意外とフツーなんだよなぁ、ってパターンもありますよね。みんななぜ書き残さなかったのか?ではなく、書き残さなかったから残ったのかもしれない……んなことないか。
おわり。

新訂 日本の歴史

今日から消費税が10%に!……なんてことは誰でも知ってるけど、このブログは私の週間日記でもあるので、あとで読み返したときに、そうかこの日か、と思い出すように書いておきます。バカヤロー!

さて、韓国の話になると俄然盛り上がる大学の先輩のKさんという友達がいるのだが、Kさんは「歴史というのは例えるなら、山の稜線と、その山自体を形作っている全体だ」とよく言う。

我々が教科書なんかで知る歴史というのは、山の稜線の部分だ。今日消費税が上がったこともそこに記されるだろう。稜線の下にある山の形を作っている全体の中には、我々が生きている今の暮らしが入っている。個別にすべてを見ていくことは難しいし、仮に見れたとしてもそれだけで解明できるものでもないかもしれない。人間の人生が虚実がないまぜになって作られているように、歴史の稜線もまた生き物のように……いや、この話の広げ方は失敗だ。

今日は下書きなしで、ブログにそのまま書き込んでいるので、普段なら消去して書き直すところだが、このまま続けよう。そう、今週は歴史関係の連載を紹介したかったので、歴史に関するエピソードで導入したかったのだ。だが、失敗しました。

えっと、UCカードの会員の方に送られてくる「てんとう虫」という雑誌があるのですが、小和田哲男さんの新連載「新訂 日本の歴史」に絵をつけています。

歴史の授業で習ったことも、その後発掘調査や新史料が発見されたりして、今は違うとされてることが色々あります。この連載では、現在の歴史の”常識”を時代を下りながら紹介していきます。

第一回目は、縄文時代にすでに稲作が行われていた、という事実。

弥生時代になって稲作は始まったと習ったけどね。
縄文時代は紀元前1万年から始まってて、めちゃ長いので、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つに分けられているが、前期にはすでに稲作(陸稲)が始まっていたようです。
縄文時代、弥生時代って区切りがあるけど、実際「はい、今日から弥生時代です」ってなったわけではないので(縄文時代、弥生時代っていう呼び方も当時ないし)ゆっくりゆっくり変わって行ったんだろうね。
可能性としては親子の世代間で、縄文から弥生に変わった家族もいるかもしれないじゃん。
人間という生き物は、今も昔も「最近の若いやつは……」って絶対言うに決まってるんだから。「こんなつるつるした土器作っちゃって」とか絶対言ってたって。そんで若者は「おやじ、米は水田で作った方がいいんだよ」と言ってたと思うね。
2回目は、聖徳太子はたぶんいなかった、という事実。
すでに最近の教科書では厩戸王(聖徳太子)と書かれているらしい。もっとも厩戸王は実在の人物なのだが、我々が知る数々の業績を残した聖人、聖徳太子というのは、お札の肖像画も含めてのちに作られたものだったのだ。
たぶん、聖徳太子が実在したかしなかったかの釈明記者会見を開いたらこうなったりしてね。
聖徳太子は信仰にもなって歴史の中で一人歩きし、我々の時代まで生き長らえてきたわけだが、では誰が最初になんのために聖徳太子像を作ったんでしょう。気になりますねぇ。
1回目と2回目のタッチが違うのは、「この連載は毎回タッチを変えて描きます」と宣言したからです。

『切字と切れ』と俳号

先日、カバーの絵のお礼に一献、ということで俳人の高山れおなさんに浅草の牛鍋屋でご馳走になりました。

カバーを描いた本は『切字と切れ』。平安時代の俳句前史から現在に至るまでの切字と切字説をとりあげ、「切れ」とは何かを問いただす論考であります……と、そんな説明であってるでしょうか。帯にもそんなことが書いてあるし。

いや、本が届いてからちゃんと読みましたよ。私は俳句に関しては完全な素人なんですけど、この読み応えある本を一日で読み切ったね。

とてもおもしろかった。

ブックデザインは日下潤一さん。寺子屋の子どもたちが「切字」をお習字しています
素人がどんだけ読み込めてるかはさておき、読みやすかったというのは、問題の立て方、論じ方、くすぐりの入れ方に素人をも惹きつけるうまさがあるからですね。さすがは編集者。そう、高山さんは芸術新潮の名物編集者(本人のいない飲み会でよく話題に上がるタイプ)でもあるのです。
しかも今は、朝日俳壇の選者もやってる、著名な先生です。
そんな立派な先生が身近にいるなら、いっちょ弟子入りしとこうかなと思って、牛鍋屋で
「高山宗匠の弟子になりますから、俳号をつけてください」と酔いまかせに言ってみました。
その時はワイワイ飲んでてどういう返事をもらったか忘れてしまいました。酒の席の冗談としてお互い忘れてしまうだろうと思っていました。ところが案に相違して、帰り道にスマホがショートメッセージを受信したのです。
「早速ですが、蛾王はどうですか?伊野蛾王。画王とガオーを掛ける趣向です。画そのまんまだとなんなので他の字に置き換えたいわけですが、雅も違うでしょう。蛾の語なら伊野さんの情念にも合っているかと」
なんと、先生は私の俳号を考えてくださったではないですか。
のんきに生きてるつもりだけど、私にも情念らしきものがあるのでしょうか。確かに過去に高山さんに食ってかかった醜態もなきにしもあらず。ルサンチマンをエネルギーにしてきたところもなきにしもあらず。
他には「画報→蛾砲」「画工→蛾公」というのもありました。
「師匠!ありがとうございます。いきなり名前負けしちゃいそうですけど、師匠のつけてくれた名前ならありがたく頂戴いたします。ガオーが高貴でいいですね。王様ですし。でも自分には高貴な感じないですけど。セコくて庶民的なキャラですけど」
と、送った後で、ふと思いついたので、さらにこう返信してみました。
「蛾吐で画伯はまんまですかね?」
名前をつけてくださいとお願いしておきながら、あつかましいですね。
師匠はこう言われた。
「吐を「と」と読ませるならともかく「はく」と読ませるのは汚いですね。王は遠慮するということなら「蛾伯」または「蛾白」でいいのでは。曾我蕭白が好きなんだからどんぴしゃりでは」
「なるほど、それなら我ながら納得できる余地はあります。蛾白という字は綺麗ですね。なんか妖艶で。気に入りました」
「その屈折した受容の仕方がまさに「蛾」的な情念を感じさせます。グッドラック!」
というわけで、私は伊野蛾白になった。
自分で画伯って言うなって。
山本健吉『現代俳句』(昭和20年代の末に角川新書で2冊本で出て、その後も増補版が角川からいろんな形で出ています。新書だったことでもわかるように、入門的な名句鑑賞案内なのですが、現在から見ると入門書とはとても思えないいかつさです。文学とか芸術というものに権威があった時代の本という言い方もできるでしょう。by師匠)もちゃんと新品で買いました。
でも、まだ1ページも読んでいません。
ガオー!

日本画誕生!

いきなりクイズです。この写真の人物は誰でしょう?

答えは後ほど。

さて、数年前にある有名小説家の文庫のカバーを描いたことがありました。

その本は最初単行本になり、次に文庫化され、今度は出版元が変わって2度目の文庫化でした。

ゲラに目を通していると若い女性のTシャツの描写のところで目がとまってしまいました。〈Tシャツの胸には、浮世絵のプリント。伊藤若冲の像の絵というのが、強烈だ。〉と書いてあったからです。

いや、若冲は浮世絵ではないぞ。

この本は3度は校閲されている。いや、雑誌で連載されていたら4度はチェックされているはずです。

イラストレーターが口を出すのも僭越だと思いましたが、幾度となく校閲をかいくぐってきたマチガイを担当編集者に伝えておきました。

ひと月後、カバーを描いた文庫が届きました。どう直っているか確認してみると〈Tシャツの胸には、日本画のプリント。伊藤若冲の像の絵というのが、強烈だ。〉となっていたのです。

いや、若冲は日本画でもないのだ〜!

では「日本画」とは何でしょうか?

今発売の「芸術新潮」にはこう書いてあります。
〈日本の伝統と西洋美術のハイブリッドから生まれた新たなる日本絵画、それが「日本画」である〉
そうなのです。
日本画は明治になって西洋画に対抗すべく作られたジャンル(概念?)なのです。
美術の教科書などでは、日本画の成立は、プロデューサー役のフェノロサと岡倉天心、画家の狩野芳崖や橋本雅邦たちによって、そして東京美術学校で彼らに学んだ横山大観や菱田春草たちによって「日本画」は作られたと書いてあるんじゃないでしょうか。
今特集においては、それよりも約100年前に「写生」を武器に京都絵画界を制した円山応挙とその系譜につらなる絵師たちに「日本画」の出発点があったのだ!という、もう1つ別のルートが示されています。
実際に、明治40年に文展(文部省美術展覧会)が発足して、横山大観や菱田春草ら東京美術学校出身者と、京都の竹内栖鳳、木島櫻谷らの作品が一つの会場に並んだ時、両者の絵にたいした違いがなかったらしいんすよ。
へぇ〜、へぇ〜。面白いね。
是非お買い求めくださいな。
特集では京都の画家たちをメインに記事にして、東京の出来事はマンガでまとめて見せています。
そのマンガを担当しました。
まだ売り出し中の雑誌ですのでチラッとしか載せませんが、自分のフェノロサに対する気持ちが少しマンガに入り込んでしまいました。
フェノロサと岡倉天心が大事にしなかった画家の方が今は人気者なのです。
そのことは以前「天心が埋めて惟雄が掘る」というタイトルでブログに書きました。
奇想VS正統派ってことでしょうが、今の時代は奇想の方に軍配を上げてますかね。
でも、天邪鬼な性格の私は、だったら今の時代に正統派が本当に正統派か確認しに行くのもいいんじゃないかなと思います。
ま、京都の豪華な料亭や商家やお寺を飾る絵として描かれたりしてたんだからね。あんまり気が狂ったような絵は描かないよね。
まだ観に行ってないけど藝大の美術館でやってる展覧会「円山応挙から近代京都画壇へ」を楽しみにしています。
戦前にピークをむかえた「日本画」も、今となっては概念がよくわかりません。
金ピカの額縁で絵の具コテコテでも「日本画」だったりするし。もう「洋画」なんて区別も無意味ですしね。でも日展とかまだ「日本画」と「洋画」ってわかれてるんですね。
さてクイズの答えですが、正解は岡倉天心。
岡倉天心といえばこういうエラっそうな写真のイメージですけど、若い頃は歌舞伎役者のようなイケメンだったんですね。
もし興味があればこっちもお読みください。
おわり。

直木賞、朱肉の蓋の思い出

いや〜涼しいとどんだけでも眠れますね。春になって寝まくっていたことを思い出します。

先日、都内の某一流ホテルで第161回芥川賞・直木賞の贈呈式が開かれ、私も招待していただいたので行ってまいりました。もちろん直木賞を受賞した大島真寿美さんを寿ぐために。

いったいどんなに盛大なパーティーなんだろうと想像するとそわそわしてきて、気がつくと、家を出る予定の時間よりもずいぶん早くに用意を整え終えてしまいました。

仕方なく、近所のカフェ(週に2回、ここのおじさんとジョギングしている)に行き時間を潰しました。カフェのおじさんも、会社員時代に芥川賞・直木賞のパーティーに出たことがあると言ってました。今「日曜美術館」のホストをやっている小野正嗣さんが受賞した時に仕事終わりにかけつけたそうです。

「今月のオール讀物で、『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』がまた掲載されるんで、挿絵を描いたんだよ」
とおじさんにオール讀物を見せましたが、
おじさんはろくに見もしないで、「パーティーに行くとさ、バッヂみたいな、シールになってるやつをもらって胸に貼るんだよ。わたしは捨てないで、朱肉の蓋に貼ってある」と店の奥から朱肉を持ってきて見せてくれました。
シールは文藝春秋のマークでしょうか。日本文学振興会のマークなのかな。
それはさておき、挿絵の中の劇場の看板に注目。なんて書いてあるでしょう。
  
会場となっているホテルに着くと、ロビーでひふみん(加藤一二三名人)が談笑していました。さすが超一流ホテル。
受付をすませると、おじさんの言うようにマークのシールをもらいましたので、シャツに貼りました。
アナウンスが流れ、受賞作家の方を個人で撮影するのはNGです、SNSなどに載せないで、ということだったので授賞式の写真はありません。
ま、この氷の白鳥くらいはいいでしょ。
贈呈式が終わったあと、大島真寿美さんにご挨拶しようと思って列に並びました。実はお会いするのは初めてなのです。担当編集者の方とも。
この時にはじめて知ったのですが、2年ほど前に「小説すばる」で連載していた素人丸出しの退屈な私のエッセイ『ぼくの神保町物語』も大島さんに読んでいただいたみたいで、恥ずかしさで胸がつかえてしまいました。ゴホッゴホッ。今回の挿絵も大島さんのご指名だったと聞き、心の中で喜びの舞を踊りました。
担当さんがお三輪ちゃんの前で記念写真を撮りましょう、と言ってくれてはいパチリ。
大島真寿美先生、改めておめでとうございます!
国立劇場で文楽を見るときは、いつも後ろの方の席なので、人形を近くでまじまじと見たことはありませんでした。よく見ると、お三輪ちゃんの口から針のようなものが出ています。なんでしょう?かわいい顔に似合わない凶器。後で友達に「針は手ぬぐいや袂を咥えさせるためのものだと思う」と教えてもらいました。しかし、きれいに作られていますよね〜。
一回くらい一番前の席で観たいもんだわ。
大島真寿美先生に誘われて、来月開かれる「豊竹呂太夫師匠発声教室」というのにも申し込みました。私もうなるんでしょうか。うなってみたい気もする。
華やかな世界から貧乏くさい家に帰って、まず私がしたことはシャツの胸からシールを剥がし、朱肉の蓋に貼りなおしたことです。請求書にハンコを押すたびにこの夜のことを思い出すでしょう。
おわり。

新 弘法大師行状絵詞

30代の半ばくらいまでは、挨拶の時に「いい天気ですね〜」とか「雨がよく降りますね〜」などと言うのに抵抗があった。

そんな当たり前のわかりきったことを言いたくない。

しかし最近はその一言をつけ加えるのがむしろ好きだ。当たり前のことを言っているのではなく、それは単なる挨拶の一部だってことに気づいたからである。

近年の夏の「暑いですね〜!」は挨拶でもあるが、わかっているけど黙っていられない心の叫びだけど。

暑い暑い!

先日、寄った京都の東寺も猛烈に暑かった!東寺が暑いのではなく、京都が暑いのだが。とある仕事のために近江八幡と大津に取材に行ったついでに(京都に比べると琵琶湖からの風が気持ちいい)足をのばしてはじめて東寺に寄ってみた。

琵琶湖の南端、大津から京都へはJRでふた駅、時間にしてたったの10分で着く。東寺は京都駅の近くです。「芸術新潮」の去る5月号で東寺の特集があって、私は空海の絵伝を描いたのだ。

せっかくだから空海のお寺、東寺へ行っておかなくてはと思ってね。

空海も密教もうすらボンヤリ知っているだけだった。編集部にレクチャーを受け、北大路欣也主演の『空海』をDVDで鑑賞し、東博で開催されていた「国宝 東寺ー空海と仏像曼荼羅」も観た。
↑東博の東寺展で見た帝釈天像
桓武天皇(映画『空海』では丹波哲郎が演じていた)の平安遷都にともない、計画された東寺は京都の数あるお寺の中でも抜群に古い。
以下、うすらボンヤリ知識で書くけど、今と違って、古代において仏教は国家運営に必須な、五穀豊穣を保証し、疫病神を追い払い、朝廷を脅かす敵を降伏させる威力があると信じられていた、と〜ってもありがたいものだったのである。(民を救う個人救済の側面が強調されるのは鎌倉時代まで待たねばならない)
「鎮護国家」という言葉を昔学校で習った覚えがあるでしょ?それですよそれ。祈祷することがマジで威力あると信じられていた時代です。
いやいやバカにしていけないよ。
「信じる」とは「考える」とも「感じる」とも違う特別な心の働きであって、今の人間にはなかなか難しいことなのです。
奈良平安時代の仏像と江戸時代の仏像を比べてみれば、その差は歴然としている。やはりこれは技術やセンスの違いじゃなしに、マジで信じているかどうかの違いではないでしょうか。近世の江戸時代はもうマジでは信じていないと思うね。
ま、信心だけでなく、世界最新最高の中華帝国を経てやってくる仏教は、新しい文化や技術ともセットになっていたわけですしね。
さて空海。
弘法大師空海はどのような生涯を送られたのでしょう。
芸新に描いた『新 弘法大師行状絵詞』で見ていきましょう。
空海は幼名を真魚(まお)と言い、774年に讃岐国(香川県)に生まれた。
母親が、天竺より聖人が飛来して自分の懐に入る夢を見て、空海を懐妊したという伝承もあるという。
15歳頃に都に上り、18歳頃大学に進学。秀才はメキメキ勉強してより秀才になり、大学を辞めて仏教を志す。
各地で修行に励むうち、土佐の室戸岬で明けの明星が口から体内に入り込んだ。
なんぞめでたいことの吉兆だろうか。絵伝では飲み込んだ星を海に向かって放出しています。
空海は日本にあって密教について調べられるだけ調べた。
いやしかしこれではまだまだ足りん、ぜひ唐に渡って直に密教の真髄を学びたい!と決意し、804年に遣唐使の船に乗る。正式に僧になったのはその直前、31歳の時、東大寺でだったんだって。
遣唐使船は暴風雨にあおられるもなんとか漂着。海賊かと怪しまれたが、そこは我らが空海、自分で書いた書状の字を見せたら役人が驚いた。
こいつは只者ではないあるね!
空海の後ろで瀕死の状態の日本人がいるが、これにはモデルがいる。誰か忘れたが映画の中で石橋蓮司が演じていた人です。どうでもいいですが。
↑本物の「弘法大師行状絵詞」に描かれた空海の書の書き方!中国人もびっくらこいた
長安では、まずインド人の僧に梵語を習った。語学の天才はあっという間にマスターし、準備は万全。いざ真言密教の第一人者、恵果阿闍梨を青龍寺に訪ねる。
ちなみに高知県にある青龍寺は横綱朝青龍の四股名の元である。どうでもいいですが。
さてさて空海は恵果阿闍梨に大歓迎されて、密教の全てを授かった。恵果阿闍梨は異国の若者になぜそこまで?と思ったけど、密教を伝えなきゃいけない使命感もあるし、日本からやって来た優秀でエネルギッシュな空海を見て、彼なら!と思ったんでしょうな。
また空海もこの密教の真髄を早く日本に伝えねばという使命感により、たった2年で日本に帰るのでした。
本当は20年間留学していなきゃいけなかったのに…。
日本に戻った空海だったが、20年留学してこなかったので平城天皇(映画では中村嘉葎雄が演じていた)にプンプンされて筑紫に留め置かれる。
しかし809年、新帝嵯峨天皇(西郷輝彦だった)から許しが出て帰京。
密教の先輩、最澄(加藤剛であった)に密教の経典を見せて欲しいと頼まれ交流も生まれる。
映画では北大路欣也演ずる空海はいつも自信満々で、加藤剛にもマウンティングしていたように見受けられたが、きっと素人目にそう見えるだけで、密教の密な交流があったのでしょう。でも、なんか感じ悪かったな。あくまで映画の話ね。
823年、西郷輝彦、いや嵯峨天皇より東寺を預かる。
私の絵伝では講堂を建立し、立体曼荼羅を納めるところを想像して楽しむ空海を描いてみました。
↑これが東寺の講堂です
813年、加藤剛、いや最澄からお経の借用の申し入れがあったが断る。最澄から預かっていた弟子が、空海の元にとどまることを希望したこともあって、二人は絶縁状態に。
821年には生まれ故郷、讃岐国の満濃池(まんのういけ)の堤防を修築。
映画では、空海は堤防を弓なりに築くことで「強さが三倍になる」と合理的なアドバイスをしていた。最新の工学知識もちゃんと伝えて、あとは不眠不休で加持祈祷。
実際に人夫に混じって陣頭指揮したり、手伝ったりはしない。
ひたすらひたすら加護を祈祷する!
そのおかげで難航していた工事も短期間のうちに終えられたのである。まさに空海の祈祷のおかげなのです。
ここに疑問を持ってはいけない。疑問を持つのは密教を理解していない人だ。疑問を持たず信じることで密教は密教なのだ。でも、空海は最新の知識も伝えているので、単なる呪術ではないですね。
私は密教の説明を読んでもむずかしくて全然よくわからないです。
とてもわかったような口はきけません。ごめんなさい。
835年、死期を悟った空海は高野山に向かい、3月21日午前4時頃、同地で入定。50日後にお体は奥之院の御廟にうつされる。
空海はいまなおここで生きて世の太平を祈願していると信じられている。
921年には朝廷から弘法大使の諡号を贈られた。
で、東寺ですが、あいにく宝物館は閉館中で、東博で見た美仏たちとも再開できなかった。
食堂に入ると、奥に異様な仏像が立っていた。
3メートルはあろうかと思われる真っ黒に焦げた四天王像。
昭和5年の食堂の火事で焼けたそうだが、きっと焼ける前より恐ろしさは倍増している。そのお姿に暑さも忘れてしばし見入ってしまいました。
下は食堂で売っていた般若心経手ぬぐい。
300円也。
とても安くてありがたい手ぬぐいです。
はい、おわり。

笑ってなんぼじゃ!(終)

日本農業新聞で連載していた島田洋七さんのハートフル自伝エッセイ『笑ってなんぼじゃ!』。連載が終わったのは去年の秋でした。あれからすでに半年以上経ちましたが、アップしないまま宿便のように残っていた挿絵をアップします。下手な挿絵は臭いものに蓋で、アップしません。まあまあうまくいったのだけ。吉本芸人も何人か描いていますが、昨日の吉本興業の記者会見を見て、そうだ今週のネタはこれにしようと思ったわけではありません。でも、挿絵を最後まで紹介し終えてスッキリしました。ちなみに島田洋七さんは漫才ブームの時は吉本を辞めていて、その後新幹線の中で偶然会った林会長直々に「ぼちぼち帰って来いひんか?」と言われて戻り、そのあとまたお辞めになり、今はオスカープロモーション所属です。
澤田さんは、俺らに声を掛けてくれた。「いつかゴールデンタイムで漫才やろな。そのときは、絶対に出してあげる。いや、ほんま。約束するよ」澤田さんといえば、あの有名な番組「てなもんや三度笠」を演出されたことでも知られている人。その澤田さんにそんなふうに言うてもろて、俺らは舞い上がった。 夜9時になり「花王名人劇場」が始まった。3組しか出てないから、1組の持ち時間が長い。20分近く何度も俺らの顔がアップで映る。周囲のお客さんがだんだん、テレビと俺らの顔を見比べるようになった。「ちょっと、あれ、あんたらやんか」「何してんねん、こんなとこで」「いや、あれ録画ですから」「おもろいな! あんたら売れるでー」戸崎事務所に入って3カ月後の給料日のことやった。当時、給料は手渡しやったんやけど、社長が「お疲れさん」と俺に差し出した封筒が、やたら分厚い。中を開けてみたら、なんとなんと、504万円も入ってたんや!「帯って何? 着物の?」ボケたんちゃうよ。月曜日から金曜日まで、同じ番組を同じ時間帯に放送する番組を「帯番組」て言うなんて、ほんまに知らんかったんや。後の「笑っていいとも!」の前身となる「笑ってる場合ですよ!」の総合司会に抜てきされた。俺は緊張しまくって何を話したんか覚えてないんやけど、俺らがしゃべっている間、裕次郎さんの後ろでずっと直立不動で立っていたのが渡哲也さん。「哲ちゃん、コーヒー入れてあげて、もう冷めているから」えええっー。渡哲也さんが哲ちゃん?
俺は急に売れだしてお金がいっぱい入ってきたけど、経理のことなんかさっぱり分からん。銀行にいくらお金があるのかも分かってないくらいやから、お金のことはほったらかしにしていた。そんなとき、テレビ局で会った加藤茶さんから聞かれた。「売れてるねえ。税金対策、ちゃんとしてる?」一生忘れられんのが、たけしと会ったころの話。「もし今、金がいっぱいあったら何に使う?」と、たけしが聞いてきた。「サバ丸ごと一匹買うて、食いたい」。子どもの頃からずっと貧乏してた俺は、サバといえば切り身しか見たことなかったから、とっさにそう言うた。たけしとの思い出は山ほどあるけど、やっぱり強く印象に残っているのが、石垣島かな。あのときたけしは、世に知られる”フライデー事件”の裁判中やった。マスコミの目を避けるために、あいつは沖縄の石垣島に身を隠してたんや。俺は何度も石垣島に足を運んだ。そうや、俺はもう頂上を十分に堪能した。写真もようけ撮った。自分で下りてきたらええんやな。そう思たら気持ちが楽になって、洋八と相談してみたら、あいつも俺の気持ちを分かってくれた。「またチャンスがあったら、一緒にやろう」たけしが先にシャワーを浴びたときに、俺はわざと湯船にお湯を入れんと「湯、沸いてるで」と言うてやった。しばらくして風呂をのぞくと、入っている。「ああ、いい湯だなー」とタオルで顔を拭いている。そして、「……入ってねえじゃねえか、このバカヤロ!」あるとき島田紳助から留守番電話が入っていた。「弟弟子の俺がこんなこと言うのは生意気やって分かってますけど、兄さんは楽してるんや。でも、もう一回売れなあきませんで。なあ、もう一回、俺と勝負しましょ。兄さんはおもろいんやから、絶対にできるって!」 最後の方は涙声やった。仕事で出会った評論家の塩田丸男さんが、さらに俺の活動の幅を広げてくれた。「洋七さんは講演はやらないの?」「講演? そんな難しい話はようしませんよ」「講演は、別に政治とか経済とかの堅苦しい話じゃなくてもいいんだよ」「え、そうなんですか?」
結局、40社以上の出版社を回ったけど、採用してくれるところはどこもなかったよ。半分近くの会社は返事すら、もらえんかった。「どこもあかんのやったら、自分で出したれ!」。俺は自費出版をすることにした。タイトルは、たけしが考えてくれた。「『振り向けば哀しくもなく』って、どうだ? メロドラマみたいでいいだろ?」「うーん、そうかなあ。まあええかも」
俺は漫才が終わると、誰もおらんようになった楽屋で一人、新喜劇が終わるのを待って、それから劇場の表にテーブルを出して本を並べて売った。俺とたけしと、たけしのかあちゃんの3人で食事したことがあるんやけど、いつもはようしゃべるたけしが、恥ずかしそうに、ずっと下向いて何もしゃべらへんねん。電話するときも「こづかいやろうか」としか切り出せない、不器用なたけし。あいつ、大好きなかあちゃんやのに、素直になれへんねんよ。ばあちゃんの葬式は豪雨の日やった。近所の公民館で葬式をしたんやけど、集まった人はみんな「ばあちゃんらしいにぎやかな日ばい」と言うてた。ものすごい雨音で、しんみりするはずの葬儀の場がにぎやかやったらしい。それに外に出ると人と会う。会話をする、刺激を受ける。うちのばあちゃんみたいに、生牡蠣をおすそ分けしてもらえるかもしれん。とにかく年をとれば取るほど、外に出てうろうろするべきなんや。当時、東京には広島のお好み焼きの店は、ほとんどなかったころやから、かあちゃんの店は大流行した。最初は、「B&Bの島田洋七の母親がやっている店」として来る人も多かったみたいやけど、そのうちに味の良さで人気が出たんや。かあちゃんは、日に日にやつれていった。見た目にも衰弱して、素人目にも、もう長くはないのが分かる。ほんまつらかった。意識が薄れているようなこともあって、そんなときは、枕元で聞いた。「かあちゃん、俺、分かる?」俺はかあちゃんが危篤とも言えず、気の利いたせりふも思いつかんまま、勧められるままに中に入れてもろた。観客席に行くと、ちょうど広島カープのチャンスやったみたいで、球場は大歓声に包まれていた。「おお!洋七さん。旗、振ってよ!」トレインマーケットも楽しかったけど、俺の一番の楽しみは、晩ご飯の後、じいちゃんとばあちゃんの話を聞くことやった。印象に残っているのは、アメリカ人がなんで、あんなにオーバーアクションなのかについての話。カウボーイといえば、アイダホのバーは、そのまんま西部劇の世界やったな。「近くのバー」と言われて、これまた20キロくらい車を走らせた所にあるバーに連れて行ってもらった。夜は真っ暗で人の気配もない。いつ動物に襲われるかもしれん。そんな中で、「銃があると寂しくない」という感覚は、経験したことのない俺には実感はできんけど、お守りのような存在やったんやろなあ、というのは想像できた。俺がまた吉本に戻ったのは、あれは漫才ブームが終わったころかなあ。新幹線でばったり、吉本の林会長に会うたんや。「ぼちぼち帰って来いひんか? 若いもんに漫才教えてやってくれ」と言われて、また吉本にお世話になることになった。その後は契約満了ということで離れることになるんやけど、俺が今あるのは吉本のおかげやと思てるよ。中田カウス・ボタンのカウスさんが、オチを言うた後で、一瞬の間を空けてから自分で笑わはるねん。そうするとお客さんもつられて笑う。あれは、カウスさんの師匠の中田ダイマル・ラケットさんの芸なんやな。それをついこないだ、カウスさんに言うたら「おまえは細かいとこ、よう見てるなあ」と感心されたよ。楽屋に届いたチャーシュー麺とラーメンを前にしたやすしさんは、そこで初めて「間違えた!」と思たんやろな。けど、動揺も見せんとラーメンをチャーシュー麺につけて食べ始めた。「こういう食べ方もあるんや」新聞を読んでたら、福岡の三越で鶴太郎の絵の個展が開かれることが書いてあった。ちょうどそのとき、俺も佐賀にいるスケジュールやったから鶴太郎に連絡して、福岡で飯を食うことになった。すし好きな俺やから、当然すし屋に行く。そこで鶴太郎に言うた。「おい、カニ食え」「変わってませんねえ」と言うた鶴太郎は大爆笑。
若手芸人が漫才するバーというのは分かるんやけど、俺が女装してたとこだけぱっと見た、明石家さんまとフジテレビの三宅ディレクターがやって来た。「兄さん、何してはりますのん。女装までして。そんなに金に困ってはるんやったら貸しますよ」とか言いよる。「よし、これならいける!」と、所沢にラーメン屋「まぼろし軒」を開店した。店の名前は、ビートたけしが「夕方まぼろしのように現れて、明け方まぼろしのように消えていく。いつ消えてもいいように」という意味を込めてつけてくれた。そしたら、映画の評判がよかったこともあって、「テレビドラマにしないか」という話が持ち上がったんや。話を持ってきたんは、佐賀の民放テレビ局・サガテレビを系列局に抱えているフジテレビ。メインロケ地は、市長さんが中心になって誘致を進めた佐賀の武雄市が選ばれたんやけど、武雄市には「佐賀のがばいばあちゃん課」まで設置されたんやで。
そんなわけあらへんやろ! と思たんやけど「周りを全部、うまい役者さんでそろえるので大丈夫ですよ」とか言われて、断るに断れんようになって、俺がばあちゃん役として舞台に立つことになった。
まあ、なんとかなるやろと思て迎えた舞台の初日。そもそも、俺はどんな舞台や収録でも緊張というもんはせえへんのやけど、幕が開く3分前に突然不安になった。
この連載は、自分の集大成やと思て臨んだ仕事やから、これまでどこにもしゃべったことない話や、書いたことのないエピソードも、正直に全部書かせてもろた。    俺自身も今までの人生を丁寧に振り返る機会になったよ。何十年ぶりに思い出したエピソードもたくさんあって、ほんまにいい経験になりました。
以上で 『笑ってなんぼじゃ!』の挿絵紹介もおわりです。
で、日本農業新聞では週一で『笑ってなんぼじゃ!世相編』と題して主に時事問題を取り上げたエッセイが始まっています。そこでも挿絵を描いてます。

あっちをとればこっちをとれず

不思議と、さあブログを書こう!というモチベーションの日がたまにあるのだが、あいにく今週もそうじゃない。

このブログはWordPressというソフトで書いている。それとは別に、ホームページのリニューアルに向けて、毎日まだ公開されていない新ホームページ内にコツコツコツコツ作品をアップしている。これもWordPressというソフトを使っている。そのせいか、もうWordPressの管理画面を見るのがイヤになっているので、それも原因かもしれない。

今のホームページはちょうど12年前、2007年に作った。当時は最新式だったのに今ではすっかり古くなってしまった。すでにスマホでは作品ページがうまく表示されない。テレビが今後4Kになるように、最近はスマホやパソコンの画面の解像度も上がってきているので、これからは低い解像度だときれいに見れない。

今までブログを更新し続けてきたのでウェブ用の画像はいっぱいあるのだけど、どれもサイズが足りなくて、また全部用意しなければいけないのだ。スキャンし直して画像補正するのが超めんどう!チッキショー!

リニューアルについては「あっちをとればこっちをとれない」問題がいろいろあって、果たして今の終わりの見えない作業がむくわれるかどうか疑問に思うこともある。
「あっちをとればこっちをとれない」問題というのは、たとえば、ホームページやブログを自前で作るのではなくて、Tumblrやscrapboxなどの既存のサービスを使った方が、シェアされやすく広がりがいいだろう。このブログだって僕は独自ドメインを取得して自前ではじめたけど、今はnoteというサービスを使った方が広がると思う。ただ、ホームページに足を踏み入れたときの第一印象やいかに効果的に見せるかということも大事なので、既存のサービスでは物足りない。
常々「他のヤツとは全然違うから素晴らしいのだ!」ということが大事だと思い、何でもかんでも自分の色をつけようとしてきたが、そんなことを言っているとリニューアルをお願いしているウェブデザイナーのOさんに「伊野さん、ウェブの世界は古いやり方でやってると存在してないのと同じですから…苦しいだけです」とたしなめられるのだ。
リニューアル後はもう一つ「対談」というページを増やすのだが、そこではnoteを使うことにした。改心します。
なんかフツーのこと書いてるなぁ。こんなことは書くほどのことでもないし、読むほどのことでもないじゃないか。
よし、ついでに普段は書かないお金の話でも書こうかな。こういう仕事もしたことだし。
去年、「日経おとなのOFF」で仕事をもらって打ち合わせをした時に「フリーの人は絶対絶対イデコに入った方がいいですよ」と言われた。
ちょうどお金の特集だった。
50歳までならイデコ、50歳超えてたらニーサがおすすめらしい。どちらも運用して増えた利益が非課税なのがポイント。
これは「年金で面倒見きれないので自分でなんとかしてください、その代わり税金はいただきません」という国の方針のようだ。もちろん運用するということは元本割れする可能性もなきにしもあらずだが、そんなことよりも、イデコがいいと思うのは、掛け金が全額控除になるので、確定申告の時に収入金額から堂々と差し引ける。
毎月イデコのためにお金を用意しなければいけないのはきついかもしれないが、もし当面使う予定のない貯金があるのなら、そこから月々イデコに移すという風に考えれば、自分の貯金が全部控除扱いになるわけだ。貯金が必要経費に変身!みたいなもんだ。ということは万が一、元本割れしても節税分だけでけっこう得すると思って、私も入ったのだ。
金の話をしてブログの品格を下げてしまった。ちなみに私はバイト時代も無職の時も貯金がゼロになったことがないケチで用心深い男なのです。あしからず。
今週アップした仕事は<NewsPicksのもう一つの編集部、NewsPicks Brand Designから、新媒体「NewsPicks Brand Magazine」が誕生した。Vol.1のテーマは「新時代のお金の育て方」。金融庁発の「老後2000万円問題」が紛糾する中、お金に関する不安から自由になるために若手ビジネスパーソンは何をすべきかを、徹底的に考え抜いた一冊だ>というものです。
知的でもありお茶目でもあるような誰でもない外国人というオーダーで、例えとしてあげられた人物の中に、ウッディ・アレンがいた。だからこの絵は断じて微妙に似てないウッデイ・アレンの似顔絵ではない。
あと、誰もわからないとは思うがこの絵は油絵の具で描いた。
実に四半世紀ぶりに油絵の具を使ったが、めちゃくちゃ描きやすい。
アクリル絵の具はすぐ乾くので、グラデーションを作るのが難しいが、油絵は簡単にできる。絵の具ののびがとてもいい。乾いても色が変わらない。
というわけで、イデコと油絵の具をオススメして今週は終わるよ。

妹背山婦女庭訓魂結び

南伸坊さんの新刊『私のイラストレーション史』はもうお読みでしょうか。今週は誰にも頼まれていない書評を書こうと思ったのですが、準備ができずに来週以降に繰り越しました(笑)。
となるとどうしましょう。
また実家の猫の写真でも載せようか。瞬く間に体重も1キロほど増え、ぬいぐるみ状態からすっかり子猫らしくなってきている。いやいや、ネコの写真はもう載せないと決めたんだ。
そうそう、6人の候補者が全員女性ということで話題になっていた直木賞ですが、6人の中に大島真寿美さんがいらっしゃるじゃないですか。大島さんの新作『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』が候補作です。読めないでしょ?タイトル。渦は「うず」だけど、その後は、「いもせやまおんなていきんたまむすび」と読みます。
私はこれ最初っからスラスラ読めました。実はこの小説が連載されたときに挿絵を担当してたんですが、だから読めるんじゃなくて担当する前から読めてたの。
もう何年前かな?5 、6年前かな?それくらい前から国立劇場でやってる文楽公演に通っているのですが、一番最初に観た演目が「妹背山婦女庭訓」だったんですよ。後半の三段目と四段目を見たんだと思います。
はじめての文楽鑑賞の感想は、イヤホンガイドを聞きながら、目は舞台上の人形と人形遣い、舞台の袖でうなってる義太夫さんや三味線奏者を行き来して、で、ときどき舞台の左右に出る字幕やパンフレットも見てたんで、なんだかいそがしく、「……しまった、最初から全部キチンと見ようとしすぎだ。こんな見方は間違っている」と後悔しました。今はイヤホンガイドだけで観てます。
この「妹背山婦女庭訓」の作者、近松半二の生涯を描いたのが『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』であります。
まあ、ざっと挿絵を見てください。この人形浄瑠璃の芝居小屋の建物は間違っている。明治以降の資料を使ってしまったようだ。なので真似をしてはいけません。

江戸時代の人形浄瑠璃の芝居小屋はこういう感じだったようだ。たぶん正解。小説誌の挿絵くらいでは時代考証の専門家はついてくれないので、絵描き任せなのだ。僕も含めて挿絵には間違いは多いと思う。しかし、時代考証など全く無視してるのが文楽や歌舞伎なのでした。

〈江戸時代、芝居小屋が立ち並ぶ大坂・道頓堀。
大阪の儒学者・穂積以貫の次男として生まれた成章。
末楽しみな賢い子供だったが、浄瑠璃好きの父に手をひかれて、芝居小屋に通い出してから、浄瑠璃の魅力に取り付かれる。
近松門左衛門の硯を父からもらって、物書きの道へ進むことに。
弟弟子に先を越され、人形遣いからは何度も書き直しをさせられ、それでも書かずにはおられなかった半二。
著者の長年のテーマ「物語はどこから生まれてくるのか」が、義太夫の如き「語り」にのって、見事に結晶した長編小説。
筆の先から墨がしたたる。
やがて、わしが文字になって溶けていく──〉
文藝春秋のサイトからの引用ですが、このような内容です。文楽を作った人のことまで考えたことなかったけど、半二やこの時代に人形浄瑠璃を作ってた人たちに共感するぜ。工夫ですよね、工夫。大事なのは。大島真寿美さんのこの小説もすごく工夫されてます。

先月の文楽の東京公演は「妹背山婦女庭訓」の通し狂言でした。第1部と第2部を通しで観ると丸一日かかるのですが、僕が観たのは第1部の方。最初の文楽鑑賞で「妹背山婦女庭訓」を観たのは後半だったので、まだ未見の前半を観たのです。これで一応通して観たことになりました。
天智天皇と中臣鎌足、蘇我蝦夷に蘇我入鹿親子が出てくるので、時代は大化の改新、飛鳥時代かと思いきや、奈良の都はすでにできており、描き割りには興福寺も描かれている。と思いきや、登場人物の衣装は江戸時代で、話の舞台が町や村に移ると完全に建物、調度品なども江戸時代。これは「妹背山婦女庭訓」に限ったことではなく、文楽も歌舞伎もみんなそうだし、昔は時代考証という研究自体が進んでいなかったし、逆に時代考証をやったところで当時のお客さんには響かなかったかもしれない。また忠臣蔵のようにあえて他の時代に置き換えなければやりにくい事情もあったでしょう。
忠義のために自分の幼い子供を殺すなんていうのもよく出てくる場面で、今の時代からすると共感度ゼロなんだけど、この全体通して滅茶苦茶な感じが、物語にロケットエンジンを搭載させてるようでもあり、昔の人は基本今よりぶっ飛んでるなぁと妙に感心します。でも、今の我々の胸を打ったり締めつけたりしてくる人情への働きかけもあり、ご先祖さまたちと同じように感動してしまうこともあります。
我々にとって奇異であり、今もどこかで繋がっている古典芸能。
今でも上演できるってことはすごいことだよ。
しかし、僕は文楽を見に行くと必ず1回は居眠りをしてしまいます。
原因は退屈なのか気持ちいいのかよくわかりませんが、退屈の質もまた現代とは違うんじゃないかなという気はします。
『渦 妹背山婦女庭訓魂結び』として単行本になった時は、カバーの絵は頼まれなかったので、結局、縁はあんまりなかったというか、ま、これはよくあることなんで気にしてませんが(だったら書くな 笑)、直木賞取ったら、マジ嬉しいっす!

祝・国際エミー賞最終候補

先週、ブログをちゃんと書く時間がなかったんで、実家で飼い始めたネコの写真をアップしたところ、普段の記事よりはるかに多い「いいね」やコメントをいただき、アクセス数も伸びていました。

…………ったくさぁ、なんなのよ、ネコってやつは。というか、普段の自分のブログ記事はなんなのよ、って話ですけどね。

いやいや、単なる数字の話でしょ。ネコの写真をあげる方が数字が伸びると言って、そんなことばっかりやってたら仕事なくなっちゃうんですから。

しかし、会う人会う人、「ネコかわいいね」って言ってくるんですよ。いつもはブログの感想なんて言わないのに。

まだ僕も写真で見てるだけだから、思い入れは他の人と変わらないと思うんですよ。だから、飼い主ならではの贔屓目で見てない。冷静に判断できると思ってるんですよね。

客観的に見て……やっぱりウチのネコはかわいいよね?

それは置いといて。もうネコの話しませんから。
本業の話をしましょう。
先日、NHKの近くの某レストランで「昔話法廷」スッタフの打ち上げ的な会がありました。
知らない人に手短に説明すると、「昔話法廷」は裁判員制度導入で一般人も裁判員になるかもしれないというこの時代に、作るべくして作られた傑作番組です。
昔話の登場人物動物が裁判に出廷。それを裁く裁判員はキミだ!ということで、教室で大いにディスカッションしてもらうために作られた教材でもあります。ウェブの「NHK for School」でいつでも番組は見ることができます。
で、この番組は優秀で、第1シリーズでは、グッドデザイン賞(一応、私も対象デザイナーになっているのよ)。そしてドイツ・ミュンヘンで2年に一度行われる子ども番組のコンクール「プリ・ジュネス」で国際子ども審査員賞も獲得しているのです。
で、またまた今度は第3シリーズが国際エミー賞( 世界の優れた番組に贈られる歴史ある賞)の子ども番組部門のファイナリストに選出され、ま、結果は惜しくも受賞には至らなかったんですが、ディレクターのHさん(番組の企画者でもある)がカンヌから持ち帰ったワンセットしかない表彰状とメダルをみんなで変わりばんこに記念撮影したんです。
この写真だけ見ると受賞しました感が溢れちゃっていますが、ファイナリストに選出された賞状とメダルですので。
僕はカンヌに行ってるわけじゃないですよ、渋谷です。
この絵は「アリとキリギリス裁判」から。アリとキリギリスは幼少の頃は仲が良かった。二人で虫のくせに虫取りに出かけるの図。アリのTシャツにはANT(アリ)と書いてある。
「伊野さんはすきあらばこういうネタをぶっこんでくる人です」とディレクターのHさんはみんなの前で紹介してくれたけど、打ち合わせの時に毎回乗せてくるのはHさんなのでした。
我々スタッフはお互い初めての人もいるので、自己紹介タイムや質問タイムがありました(胸に名札シールをつけてたのもそのため)。みんなのエピソードなどを面白おかしくいじりつつ紹介し、進行をしてくれたのもディレクターのHさんでした。
この番組をやっていた4年間、僕はHさんとしかやりとりしてなかったんですが、打ち上げでは、ぬいぐるみを作った方々、ぬいぐるみの中に入っていた役者さんたち、脚本家さん、監修の弁護士さん、編集さん、音効さん……たちと一堂に会することができました。
あと、番組を仕上げる前に学校で模擬放送みたいなことをして様子を見る(判決が一方にかたよらないようにするため、生徒たちの反応を見る)らしいのですが、そこで協力してくださった小中高大学の先生たちもお見えになりました。
この絵は「さるかに合戦裁判」より。人間でこれを描写したらエライことになるが、カニならオッケー。サルに柿を思いっきりぶつけられたらカニはどうなるか?絵本で描かれないリアルドキュメント描写ができるのもこの番組ならではのところです。またこういった描写がなければ裁判の判決が一方に片寄る可能性もあるのです。
実際に完成したこの番組を使って、授業でディスカッションしてるところもディレクターのHさんが取材に行って、その様子を映像で流してくれました。
感激でしたね。
「ああ、こうやって見てくれてるんだ」って。
ディスカッションを重ねると途中で意見が変わる生徒も出てくるらしいんですよ。それっていまの分断化が進む社会に一番必要なことじゃん?
ほんと有意義ないい番組に関われたと思いましたよ。
そして、もうひとつおもしろいVTRがありました。
この番組が大好きだっていう小学生の女の子が、番組宛になんとオリジナル「ピーターパン裁判」の脚本を送ってきたんだって。
将来は弁護士になりたいというその子の家にもHさんは取材に行って、彼女の脚本でプチ昔話法廷「ピーターパン裁判」を作っちゃったんだから。それは彼女へのサプライズであると同時に、我々へのサプライズでもあったんです。
僕は内容を知らされないまま、頼まれたピーターパンのワンシーンを描き下ろしました。
ビデオ映像を見ながら、みんなマジ感激&感心。
単なる打ち上げではない素敵な宴を開いてくれたHさんと、このあったかくなってたまらない気持ちを分かち合いたい。お礼を言いたい。
さあ、もう一度乾杯だ!
と僕は歓談タイムに席を立って、Hさんのところに行き、
「いや〜どうもどうも、Hさん、ありがとうございます!お疲れ様です!」
って言って、グラスをカチンとしました。
で、その後にHさんなんて言ったと思います?
「伊野さんのネコかわいいですね」
って(笑)。
ああ、もう……どんだけネコなんだよ。ネコは仕事の邪魔してくんじゃないよ!
というわけで、ネコの写真、もう上げないですから。

興福寺火事絵巻その4

南 いま展覧会に行くと、人がすごいじゃない。最近は、何かで人気に火がつくと、集まりすぎ。イヤホンつけて、ひとっところにじっと溜まる。あれはなんとかしてほしいな。あれも、ちょっとね。あれ、最初に別室で映像見ながらイヤホンガイドで言ってるようなこと勉強して、それから実物を見るようにしてほしい。
伊野 なんとか混まない工夫をして欲しいですね。美術館は、空いてるのがいいんですから。空いてなければ美術館じゃないっていうか、美術館に行った気がしないというか。以前、阿修羅展に行ったら、阿修羅像のまわりがぐるっと三六〇度ライブハウスみたいにすし詰め状態でした。
編集部 混雑がすごいときは、一時間以上並んだりすることもあるみたいですね。
伊野 動員数のランキングが出たりして、人が来るのがいい展覧会みたいな風潮が最近はありますよね。
 若い人よりも、年配の人のほうが多いんじゃない? オレと同じくらいの(笑)。
伊野 阿修羅展は高齢者のすし詰め状態だったから、ヤバかったっすよ。
(「望星」4月号掲載、南伸坊さんとの対談「絵?好きに見てください」より)
この対談で話題に出した阿修羅展というのは、2009年に東京国立博物館で開催された興福寺の創建1300年記念「国宝・阿修羅展」のことです。マジで具合が悪くなっちゃう人が出ちゃうんじゃないの?という混みようで、国立の博物館の商いって、こんなのでいいのか?って呆れました。
ところがこの展示、とにかくいっぱいお客さんに見てもらわなきゃいけない切実な理由もあったんですね。
さて、NHK「歴史秘話ヒストリア」のために描いた絵を元にお届けしている「興福寺火事絵巻」も今回が最終回。
七転び八起きの7回目の火災です。
奈良時代に建てられた興福寺は、平安から室町にかけて6回焼けて7回建て直しているのですが、意外にも戦国時代は焼けていない。
あーよかった、よかった。確かにそれはよかった。でも戦乱の世が過ぎ、徳川の世になる頃にはすっかり興福寺の威光は衰えていたのです。
7回目の火事が襲ったのはそんな時代。
1717(享保2)年、正月4日、中金堂の背後の講堂に盗賊が忍びこみました。
灯した蝋燭を落として引火。
 「まずい!」
「逃げろッ! 」
講堂の内陣から上がった炎は 、たちまちのうちに中金堂へと燃え広がった。
火付盗賊改の長谷川平蔵?
んなわけない。火消装束に身を包んで駆けつけたのは大和小泉藩の藩士たち!
「あっ!中金堂がッ!!」
「東金堂にも火の粉がかかっておるッ!」
東金堂にかかった火を必死になって止めます。
時代は江戸まで下ったといっても、消防技術はこんなもの。江戸の町の火消たちも燃えそうな家を破壊することによって火事の広がりを防いでいたわけですが、さすがに興福寺をぶっ壊すわけにもいきません。
「なんとか消えたか…」
「いかん!今度は西金堂じゃッ!」
やばいっす、やばいっす。西金堂には阿修羅像もあります。実際に興福寺に行くとわかりますが、中金堂、東金堂、西金堂はけっこう離れてるんですよ。火事の熱風というのは恐ろしいですね。
「手をお貸し下され!」
「承知!」
阿修羅像などの十大弟子像は乾漆造で軽いので、救出は容易です。だから今まで残っているわけですが、今でこそ仏像界のスーパースター阿修羅像も、当時は脇仏の一つに過ぎません。阿修羅よりも大切なのは御本尊。でも御本尊は中が空っぽの乾漆造ではなく、木像なのでとてもじゃないけど持ち出せない。
「残るは御本尊さまだッ」
「ああ、お堂の中に火がッ!」
近所の町人も駆けつけています。
「こんな大きな御像をどうやって!?もう間に合いませぬ!」
「なんとかして、なんとかして、お顔だけでもお助けするのだッ!」
この時に救い出されたのが、運慶のデビュー作だった西金堂仏頭です。これですね。
7回目の火災では中金堂・西金堂・講堂・南円堂などが焼失。鎌倉再建の北円堂・三重塔・ 食堂、そして室町再建の東金堂・五重塔は無事でした。
ところがっすな、興福寺の力は衰えてますから再建は難航します。
当時の将軍は徳川吉宗。享保の改革をはじめ、財政を引き締め出したところ。
なにとぞお力添えを〜と頼んでも、にべもなく断られます。
「ならぬ。寺より財政の立て直しじゃ」
興福寺は藤原氏の氏寺でありますが、藤原の末裔、京都の公家たちも…。
「助けて欲しいんは、まろたちの方や」
幕府も朝廷もあてにできない中、 興福寺は民間から資金を集めるため、当時流行していた「出開帳」を行います。
出開帳とは寺の外に仏像や寺宝を持ち出し、公開して寄付を募ること。
江戸の浅草寺の境内で80日間行ったけれど、集まったお金は再建費用には程遠かった…。
火災から百年以上経って、 ようやく中金堂の基壇の上に仮堂が作られました。 本来の中金堂とは規模も質も違うので「仮堂」ね。
まーったく覚えてないけど、興福寺は小中学校の間に修学旅行か社会見学で行ってるはず。
私はたぶん、この仮堂を見てる気がするんだけど。
で、時代は明治になり、廃仏毀釈で興福寺的にはさらにさらに厳しい状況になります。
天平の栄華を誇った興福寺もついに断絶!
鎌倉時代に建てた食堂も取り壊され、こんなもんあったてしょうがねえだろってことで塀や門も撤去、境内が奈良公園になり、仏像が撤去された仮堂は役場として使われ…。
その後、1881年に「興福寺再興願」が内務省に受理され、14年ぶりに復活。
時は流れて平成に。
2000年に仮堂が解体され、 翌年から発掘調査が始まりました。出てきた礎石66個のうち、なんと!ナント!南都!64個が天平創建当時のものだったのです。
天平の夢をもう一度見たい!!
でも、文化財の修復には国から補助金が出るけど、新しく中金堂を作るのには出ないらしいんっすよ。
つーわけで、このブログの冒頭を思い出してください。
平成の「出開帳」をということに相成りまして、開かれたのが「国宝・阿修羅展」なんですね〜!
そっか、そっか、それなら仕方ないや。我慢しよう。入場券など、わずかばかりのお金ですが、私も中金堂の再建に役立ったわけですね。一昨年やってた「運慶展」も見にいったな。そこでも少し貢献してたわけだ。
ついに去年、興福寺は七転び八起きして中金堂は完成!
9年前に「阿修羅展」を見にいった時は、興福寺は名前くらいしか知らなかった。修学旅行で行ったかなぁ?程度。そんな私が興福寺の火事絵巻を描くことになるとはねぇ。明日の天気はわからない。人生、先のことを考えるのはやめよう。
ちなみに阿修羅像がふだん展示されている興福寺の「国宝館」は空いててすんごく見やすいですよ。オススメ〜。(完)

興福寺火事絵巻その3

興福寺火事絵巻、今週はその3!
5回目の火災は、運慶たちが参加した再建からおよそ80年後に起こりました。
健治3年(1277年)7月26日の夕刻、ビカビカ!ドンガラガッシャーンガラガラガラ!雷の閃光が中金堂の近くの僧坊に落ちました!たちまち上がる炎!
「た、助けてくれ!」「ああ!中金堂が燃えている!」
自然災害による5回目の火災では伽藍の中央が焼け、北円堂などは残りました。
火災から6年後、建設中の中金堂の前庭を裹頭(かとう)した衆徒が埋め尽くしております。再建の中心に立ったのは、衆徒堂衆たちでした。
ここで豆知識。武蔵坊弁慶やいわゆる僧兵たちがかぶっているのは、実は袈裟なのです。それを裹頭と言います。
議題は再建工事に必要な人夫の確保でした。時は鎌倉、武士の時代。平安時代のように朝廷や藤原氏が全面支援してくれる時代ではありませんでした。

「伽藍再興 のための土打役を大和国一国すべてに課すべし」
「もっとも!」
「権門勢家の領土だろうと気にせず、催促せよ」
「こっちの言うことを聞かなかったら、どうする!?」
※このシーンは使い回しに見えてそうではありません。人数が増えているよ!
村が燃えていますね。あら、人々が襲われている。
そうなのです。人夫を出すことを拒否した寺社の荘園は、決議どおり、衆徒たちによって焼き打ちされたのでございます。ベンベン。
こうして衆徒は時に武力を行使して再建のための人とカネを集め、 1300年に落慶法要にこぎつけました。 焼失から23年6か月がたっていました。
これが5回目の火災の顛末でした。
しかしその27年後、またまたまたまたまた6回目の火災が起こるのでございます。
鎌倉時代末期、興福寺では内部抗争が激化。堂衆の武力が寺の中の勢力争いに使われたのです。
そしてなんと!ナント!南都!あろうことか興福寺の境内で合戦が始まったのでございます!ベンベン!
1327年のことでございます。
「かくなるうえは中金堂へ…」
「籠城じゃ!奴らもここは攻められまい!」

そこに追っ手が現れます。
「罰当りどもめ!中金堂に立てこもるとは…」
「かまわん!攻め込めぃ!」
さあさあ、中金堂で合戦がはじまった!

攻め手が矢を放ち、守り手も応戦!
矢に打たれた衆徒が「アッ…」とたいまつを落とす。その火が楯に燃え移る!
「いかん!!火が…!」
「いくさしてるばあいかッ!火を消せッ!」
「ええぃッ!消えぬ!」
「なんとしたこと。わしらが中金堂を焼いてしもうた…」
6回目の火災は僧自らが燃やしてしまうという…あぁ、後悔先に立たず。興福寺後に建たず。
いや、それでも悔いた衆徒堂衆たちの尽力で、まもなく再建工事が始まりました。
しかし時代は急速に変化します。火災の6年後1333年に鎌倉幕府が滅亡。やがて続く南北朝の戦いで再建作業は進みません。
1392年足利義満が南北朝の合一を果たし、ようやく平和の日々が戻ってまいります。
3年後、再建工事の続く興福寺に義満がやってきました。
これは寺にとっては援助を頼む絶好のチャーンス!
「義満おもてなし計画」のひとつには世阿弥の舞もありました。
世阿弥は義満のお気に入りの役者だったのです。興福寺の衆徒たちは義満の歓心を買おうとしたのかもしれません。しめしめ。将軍様はご満悦じゃ。
世阿弥の舞のパートはパラパラ漫画みたいに描いたので、試しにGIFアニメにしてみました。ただつなげただけなので本当はこういう動きじゃないけどね。
さて、宴の後、衆徒代表が世阿弥に声をかけます。
「三郎、さきほどの舞、見事じゃった」
「猿楽師は、神事をつとめ、貴人の御意に従いまする。その心得ゆえ、当たり前のことをしたまで」
世阿弥の肖像画は残っていませんが、ものすご〜くイケメンだったとのこと。
度重なるおもてなしが功を奏したのか、義満が興福寺の再建を積極的に支援してくれたおかげでついに1399年再建工事が終わり、まってました落慶法要!合戦による消失から実に72年ぶり!
はい、この絵は使い回しじゃございませんよ。前回の絵と見比べてください。中金堂の屋根が大きくなって、勾配もきつくなっているのです。屋根の高さも高い。気づかなかったでしょう?気づいたら相当の興福寺マニアだぜ。
このお坊さんは誰であろう。出家した足利義満なんですね。
1回目の火災から中金堂の落慶法要まではたったの1年3ヶ月しかかかっていないことを考えると、72年は長〜いですね。時代が下るたびに長〜くなる。
現存する東金堂はこの室町の再建です。ほら、東金堂も屋根の勾配がきついでしょ。東金堂は中金堂の16年後、そして五重塔は約30年後に建てられたのです。今、我々が見上げることのできる五重塔を、世阿弥も見上げたに違いありません。この時世阿弥は60を過ぎています。
「命は終わりあり。能には…興福寺には…果てあるべからず」
そう、一言つぶやいたかもしれませんね。
「興福寺 七転び八起き」ということはあと一回燃えるんですが、今週はちょうど時間となりました。ベンベン!

興福寺火事絵巻その2

先週に引きつづきNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」のアニメパートに描いた絵から。

七転び八起きというのは、まさに7回火事になって8回建て直したからですが、先週は3回目の火事までやったので、今週は4回目からはじめましょう。

3回目の火事(1096年)より4たび蘇った興福寺。

完成したのは火災から6年10ヶ月後の1103年。そこから78年間は無事でございました。しかし源平の戦いの最中1181年に4回目の火災が起きました。これがかの有名な大惨事、平家の南都焼き討ちであります。時は治承4年12月28日、反平家の立場をとった興福寺の僧兵を攻撃するために、平清盛の5男、平重衡が大軍を率いて南都へ進みます。対する興福寺はじめ南都の僧兵は、京都と奈良をつなぐ奈良坂に集結。押し寄せた平家の大軍と激しい戦いが続き、夜になりました。般若寺の門の前に待機する平氏軍。「暗さも暗し。火を出だせ」「おうっ!」と 楯を割って作ったたいまつを民家に投げて放火します。瞬く間に燃え広がる火!「これ、いささか強すぎじゃ」照明がわりにつけた火のはずが、 折からの強い北風にあおられ、大火炎となって南へ南へと燃え広がる。

やべえ!やべえ!これを見た僧兵たちも、戦どころじゃないね。「まるで地獄の業火じゃ!炎が飛んでいく」
「見よ。あの紅蓮の火柱を!あれは、東大寺の大仏殿ではないか!」 「わめき叫ぶ声が…焼き殺されておるのだ…」
「急ぎ興福寺へ!」
しかし、時すでに遅し…というか火が早し。

「ああ。中金堂に…。火が…」こちらは西金堂。すでに火の手はまわっています。

「運慶? 運慶か!」
「おお、おぬしらか!手伝うてくれ!仏様をお救いするのだッ!」
「おう!」

阿修羅像などは中を空洞にする「乾漆造」で軽かったのです。幾度の火災にあいながら今日まで残っているのはそのためです。アニメに描いたように運慶が実際に運び出していたとしても不思議ではないでしょう。

翌朝、おそろしい光景が広がっておりました。なんと!ナント!南都!ほぼすべての堂塔が焼け落ち、興福寺に逃げ込んでいた人々の骸八百体が残されていたのです。
「南無……」
小さな仏像は救い出されたものの、 大きな仏像のほとんどが焼けてしまい、新たに作り直さざるをえま せんでした。
焼き打ちの翌年、再建計画が始動します。宮中に公卿たちが集まり、再建の分担を決めました。
「造営の割り振りは、これでよろしな」
割り振り図をよくご覧ください。中金堂などは国家プロジェクトで再建されます。 講堂や南円堂は藤原氏が担当。 食堂などは寺が担当することになりました。しかし、東金堂と西金堂は割当てからもれてしまったのです。それを聞いた堂衆たちは…。
「… とあいなった」
「わしらの西金堂は?」
「割当てからもれた」
「なんと! 」「この条いわれなし ! 」
「いわれなし! 」
「西金堂は打ち捨てる気か!」
「わしらの儀式はどうなる?」
「みな、聞いてくれ!わしらの力で再建してはどうじゃ?」
「わしらで?」
「そうじゃ!堂衆の底力、見せてくれようぞ!」
「もっとも ! 」
「もっともじゃ!」
「もっともじゃ!」
この人は運慶です。この堂衆の中に運慶もいたかもしれないのです。いや、いたね、きっと。ところで僧兵たちが顔に巻いているものは袈裟なんですよ。番組では実際に袈裟で巻いてるところやってましたね。
堂衆たちは貴族たちから寄付金を募って、そのお金で再建を進め、 なんと!ナント!南都!国家事業である中金堂よりも早く完成させたのであります。
平家滅亡の翌年には、堂内に新しく作った本尊を運び入れました。
この本尊を作ったのが、当時まだ無名だった運慶でした。
運慶は興福寺の別当(一番偉い人)から褒美に馬を賜りました。
焼き討ちから13年経った1194年、ついに中金堂も完成。落慶法要も5度目です。さて、あなたの興福寺”通”度合いがわかるクイズです。この一見使い回しに見える落慶法要の絵、どこが今までと違うでしょう?
正解は「屋根の上に乗っている鴟尾(しび)がない」です。
建築現場シーンも鴟尾がないバージョンになっているのです。お気づきでしたでしょうか。
鴟尾は魔除けや防火のまじないとしてつけられたものらしいですが、これだけ火事にあってんだから、まじないも効き目がないと思ってやめにした?いや、それともなんでしょう、単にもう流行らなくなったから?たしかに鴟尾は廃れます。室町時代に建てられた現存する東金堂にも鴟尾がありません。後世、天守閣にシャチホコを飾るのが流行ります。シャチホコは蘇った鴟尾なのでしょうか。去年完成した中金堂には金色の鴟尾が輝いています。
今週は「仏師運慶デビュー秘話とそして鴟尾はなくなったの巻」でございました。
ではまた来週!

興福寺火事絵巻その1

GWいかがお過ごしでしたでしょうか。私は寝たり起きたりの生活でした。体の調子が悪かったというわけじゃなくてね。無為に過ごすという。無為とはダラダラと無駄に過ごすことでもあるけど、仏教で無為といえば不生不滅の存在のことであり、老子でいうところの理想の境地でもあるわけですが、もちろんダラダラ過ごす方のネ。

言葉が物事を区別するものなら、同じ言葉に良い意味と悪い意味があるのがややこしいんだけど、もしかしてダラダラ過ごすことが実は真理に近いんじゃないかと思ったりしない?あと、眠るときに見る支離滅裂な物語と、将来の願望が同じく「夢」と呼ぶのもどうしてだろう。

過ぎ去ったことも夢のようだと言ったりする。

奈良の興福寺は、710年に創建されてから現在までなんと!ナント!南都!7回も火事にあっている。その度に再建されてきたわけだが、江戸の火事で中金堂が焼けた後は、ややみすぼらしい仮堂のままで今日に至っていた。しかし去年、中金堂は創建当時の姿のままで再建され(8回目)、天平の夢をもう一度我々に見せてくれたのだ。

そんな興福寺の歴史を追ったのが先週放送されたNHK歴史秘話ヒストリア「興福寺 七転び八起き 日本の文化はここで生まれた」。ふだんは再現ドラマで見せるパートを今回はアニメでやりました。

その火事絵巻を何週かに渡って紹介いたします。

はじまりはじまり〜。

時は飛鳥時代末期(700年頃)。平城京の場所を決める時、藤原不比等は春日野に近い小高い丘を通りかかった。
「うまし丘よ。ここなら都が一望できよう。ここに我ら藤原氏の氏寺を建てようぞ」
まだ都のできる前の奈良盆地。
中金堂が完成したのは714年。その6年後に不比等は亡くなる。以降、北円堂、東金堂、五重塔、西金堂が建てられた。
さて、興福寺1回目の火災はどうやって起こったか。
平安時代中期永承元年(1046年)12月。夜深い11時ごろ。興福寺の西隣にあった里の1軒の民家が放火された。
火はまたたくまにあたりに燃え広がり、折からの強い西風にあおられて火の粉が 興福寺境内へと飛んでいく。
「あぁっ、西金堂がッ!」
「中金堂も火の手がーッ!」
天平創建以来、300年間無傷だった伽藍が、たちまち炎に包まれていった。
講堂・東金堂・西金堂・南円堂・鐘楼・経蔵・南大門・中門・僧坊など、北円堂や蔵をのぞくほぼすべてが焼失した。
私は原画を描いて、それをアニメーターの幸洋子さんが動かしてくれるのだが、実際放映された火事表現はもっと迫力がある。それを静止画で見せるのもなんだけどこんな感じだ。
さて火災の翌日、京の都に興福寺消失の報告があがる。
時の関白は 藤原道長の子、頼通。
「申し上げます。こ、興福寺がー!」
「いかがした」
「燃え落ちてしまいました…」
「燃えた!?」
「伽藍ことごとく灰に…。まさに末法の世…」
「…ええい、嘆いてなんになる。建て直しじゃ。我が信心の証を見せん!」
こうして頼通は強気で再建を命じた。
なんと!ナント!南都!わずか1年3ヶ月後に中金堂は完成し、落慶法要が行われた。考えられないスピードである。ちなみに平成の中金堂は2010年着工2018年落慶だそうです。
で、1回目の火災が再建からわずか12年後、康平3年(1060年)5月4日の夜に2度目の火災は起こるのである。
それは中金堂本尊にあげた灯明の火から延焼した。
「あっ!」
「ああ、火が!火が!」
落ちた灯明の炎はあっという間に広がり、まだ丹の色も鮮やかな中金堂の柱に燃え移り中金堂が焼失した。
最初の火災から12年後なのでまだ関白は藤原頼通。
この人、人生で2回も興福寺を再建しているのです。頼通12年後バージョンも描いたけど、尺の都合で放送ではあえなくカット。ま、頼通と妻が老けただけのバージョンですが。
で、放送ではこの後もう一度再建シーンと落慶法要のシーンがくりかえされます。
ちなみにこの藤原頼通の話を歴史好きの友達に話したら「頼通は父ちゃんの道長が創建した法成寺もまるっと再建しとるんすよ(これも巨大寺院よ)。再建請負人かぁ」とのこと。
頼通エライ!
創建から300年後に1回目の火災、2回目はその12年後、では3回目がいつかというと、その29年後でした。
嘉保3年9月の夜のこと、僧坊(中金堂と講堂を取り囲むように並んでいたお坊さんの宿舎)から出火し、中金堂が炎上。
「助けてくれーッ!」
「僧坊から火が出たぞーッ!」
創建から300年無傷だったのにここにきて半世紀で3度の火災。
原因は貴族の生活が朝方から夜型へと変わり、儀式も夜に行われることも多くなったからだそうだ。
ちなみに朝に仕事するから朝廷って言うんだってね。
昔は消防車なんてないから、燃えたら最後、神か仏にお祈りするしかなかったのです。
アニメの原画を描く前に絵コンテを描くのですが、こんな感じです。
私はアニメの勉強とかしたことがないので、絵コンテの描きかたが変かもしれない。ひとつ思ったのは、これくらい小さいサイズで絵を描くほうが(本番はA4サイズで描いてますよ)いろんな構図を思いつくということ。不思議なんだが、最初からA4の紙に描くとヨリヒキにバリエーションが出ないんだよなぁ。
というわけで今週はここまで。
あ、そうそう今日5月7日の午後3時08分~ 午後4時00分に再放送があるんだ。ぜひ見てね!

令和おじさんモノマネ

先日、不動産屋に行き、手続きの書類を書き終え、カウンターで待っているときだった。

カウンター越しに座った不動産屋のおじさんが、ヒゲ剃り跡の濃い口元を動かしたかと思うと、「新しい元号は令和であります」と菅官房長官そっくりの声で言ったのだ。突然のモノマネに驚きの色を隠せず、僕はおじさんの方に向き直り、「え?いま、令和おじさんのモノマネしました?めちゃくちゃ似てるじゃないですか。もう一回やってくださいよ」とお願いした。

書類を待っている間のシーンとした時間に、絶妙なタイミングで放り込まれたモノマネ。名人は意外なところにいるもんだ。
おじさんはちょっと照れていた。「いや〜すごい似てましたよ、もう一回聞きたい」とさらにせがんだ。するとおじさんは、先ほどと同じように、僕の右横の誰もいない空間に視線を向けたまま、今度はニュース番組の司会者とコメンテーターのやりとりを、一人二役で落語のようにしはじめた。
これがまた抜群にうまい。コメンテーターは誰かわからないが、司会者はどうやら森本哲郎のようである。名前を名乗らずとも誰かわかるのだから相当な名人だ。でも、僕は早く「新しい元号は令和であります」を聞きたかった。それを知ってじらすかのように、おじさんはなかなかサビには入らず、ニュース番組の再現を続けるのだった。そんなもったいぶりもまた可笑しくって、僕は腹をよじって「はははは、全然、ははは、言いそうに、はは、ないですね」と笑い声と言葉を同時に吐き出すのに苦労した。
と、そのとき突然暗転した。状況についていけない僕は、ボーっとした頭で、なんとか把握しようとつとめた。
……僕の頭は枕の上にある。枕元のラジオからはTBSの朝の番組『森本毅郎スタンバイ』が流れていた。
つまり、夢であった。
この日は元号が発表された次の日で、菅官房長官の「新しい元号は令和であります」という音声を流した後に、スタジオで森本毅郎とゲストコメンテーターが喋っていたのだ。ラジオの音がそのまま夢の中の音になっていた。同時に夢の中では勝手なシチュエーションが作られていた。
こういう経験はみなさんもありますか?ただの夢よりも不思議ですよね。
二度寝したときに、よくこういうことがある。脚本をもらって瞬時に映画を撮っているみたいで、我ながら我が無意識に感心します。ふだん、無意識を意識することは難しいですが、夢と現のはざまで生きるというのはこういうことなんですね。
さて、『通販生活』夏号の特集「読者が繰り返し見る夢」で絵を描きました。読者が繰り返しよく見る夢ベスト1は「間に合わない」夢だそうです。水辺の夢も世界共通で女性が多く見る夢だそうです。「空を飛ぶ夢」の飛び方はその人が「自分は人生をうまくコントロールしている」という満足度を表しているんだそうです。死んだ人が夢の中で生きているという夢は、女性に多いそうです。不測の事態の夢を繰り返し見るのは、危機管理能力の高さの表れだそうです。
とまあ、詳しいことは『通販生活』を買って読みましょう。180円です!「人生の失敗」というコーナーでは籠池夫妻も登場してます!

リリーさんに気持ちよくなる

いったいこのブログはいつまで続けるつもりなのだろうか。

臨終間際まで続けるならそれはそれで価値もあるかもしれない。というわけでたまに休むのは良しとしても、ポッカリあいだを空けるのはダメだ、今週も更新しなければ……。飼い猫が捕ったネズミを見せにくるように、「こんな仕事したんだよ、見て欲しいニャー」と自慢したいときは、ただそれを書けばいい。でも仕事というのはだいたい似たような依頼が多く、そういうのばかり載せているだけでは「はいはい、またネズミね」と飽きられるんじゃないか、と心配である。情報スピードが早いと、消費される速度も早くなり、イラストレーターとしての賞味期限もいたずらに短くなってしまう。それではイカン。史上最長寿のイラストレーターとして、このブログを臨終間際まで毎週更新する予定なのだから。

同じような絵の更新が続くときは、せめて文章で違うことを言って、感心させなければ……それが無理でも、せめて憩いのひと時を……しかし、仕事で描いた絵に引っ掛けて文章をひねるとなると、これもまた内容がマンネリになるのだ。
革新的な仕事を成し遂げた天才でさえも、よく見たら同じところをぐるぐる回っているだけである。ましてや凡才はまわる直径が短いから、マンネリズムは余計に肝に銘じなくてはいけない。
……というようなことを書くのもこれが初めてではなく、もう何回も言い訳的に書いている。
はぁ〜、今週はどんな内容にしようかなぁ。
最近テレビドラマが面白くていい。最後の方ですごく退屈になっていった『まんぷく』がようやく終わって始まった『なつぞら』もいい。『きのう何食べた?』もいいし、もちろん『いだてん』もいい。先日見た『離婚なふたり』がまた素晴らしい。
脚本も演出もいいに違いないが、役者の演技を見ているのが気持ちいいっていうのも大きい。とくに『離婚なふたり』のリリー・フランキーを見てるのがめちゃ気持ちいい。『なつぞら』に出ている高畑淳子と比べると、リリー・フランキーの演技の方がより自然で、大げさでなく、とにかく気持ちいい。高畑淳子は気持ちいいまでいかない。……ったくオレみたいな素人がこういう意見をわざわざネットに書き込むのは慎みたいと思っているんだけど、一応、絵もそうじゃないですか、うまいが気持ちいいにまさるってことあんまりないでしょ?
うまさが気持ちよさに直結している部分もあるけど、ただ一つのツボを押してるだけにすぎないと思う。同時にいくつかのツボを押されないと「あ〜気持ちいい〜」とはならない。
僕は今だにどんな時でも線は手描きなのだけど、そうしてる理由は、単純に気持ちいいからだ。とくに毛筆で描く快感は絵を描く気持ち良さの大きな割合をしめている。最初から線を描くのは気持ちいいものだったが、10年20年続けてきて、だんだん快感の回路が作られて来た感じだ。筆によってもかなり違う。紙質も多少ある。便利と引き換えに、この快感をパソコン作業に置き換えることは非常にもったいない。
けど、パソコンでしか引けない気持ちのいい線もあって、実はちょっとやってみたい。また肉筆浮世絵よりも版画浮世絵の方が気持ちいいのはなぜか。別に肉筆だろうが電筆だろうが相手を気持ちよくさせればどっちでもいい。本人が快感を得られるからといって、絵を見る人が気持ちいいかどうかは別だ。ここがなんぎである。自分がやることによって得られる快感を、やってない人にも感じさせる。そんなツボを探そう。おわり。今週の絵は描き下ろしです。

令和と北尾と隠居すごろく

(注… …今回のブログの記事と絵は、まったく関係ないように見えますが、最後は関係あるようになるので、不思議がらずに読みすすめてください)

昨日、新しい元号「令和」が発表された。古典の教養などまるでなさそうな首相の口から、元号に込めた思いを聞いているうちは、ちょっと違和感もあったけど、後で、出典である万葉集の序文は王羲之の蘭亭序およびなんとかという漢籍をふまえているとか、詩が詠まれたのは太宰府の大友旅人の邸宅だとか知るうちに意味も由来も響きも悪くないと思えてきた。むしろ積極的に好きかもしれない。令和。

こういうことを書くと、僕に感心できるくらいの古典の教養があると思われるかもしれないが、全くないです。

何回か前のブログ(顔真卿の回)で、王羲之の蘭亭序のことを書いたけど、書を知ってるだけで、あとはほぼ知らない。現代において漢文の教養があるのは、ごくごく一部の人だけなので、この点においては安倍首相と同レベルだ。
そんな一億総漢文の教養ない時代に、中国を先生としていた時代の遺物、元号を続けるのはおかしくはあるけど、僕は残しておいて欲しい派だ。中国に学ぶ、真似するをずっとやってきて、明治からは西洋に学ぶ、真似するに変わり、その後、天狗になってどこにも学ばなくなったツケが今まわってきている… …んだよね?たぶん。
日本という国自体が中国文化の正倉院であり、その上に独自の特殊文化も花開いている。そういう意味で元号は初心忘れるべからず的にあり続けるのはいいと思うのです。… …しかし本家はとっくに元号(皇帝が時間を支配する)というこだわりをやめ、世界標準の西暦だけだし、今やきわめて合理主義的に世界の覇者になろうとしている。方や日本は今もなお、というよりあきらかに歴史上いまが一番、元号で盛り上がっている。大局的に眺められない小国っぽさ?… …はい、デカい話はここでやめるとして、そう、2月10日に元横綱双羽黒、北尾光司が亡くなっていたニュースにショックを受けた。
瞬時に僕の気持ちは中学生に戻る。
小学校、中学校ともに北尾光司は僕のパイセンにあたり(8歳上)、しかも小学校と一本道を挟んだ隣に中学校があったので、僕が小学校にいる時に北尾はすぐ近くにいたわけだ。中学2年で195センチあったという天才相撲少年北尾の噂は、隣の小学校にも伝わっていた… …かというと、どうだろう?少なくとも僕は知らなかった。いくら体がデカくて、相撲が強いと言っても、その時はただの中坊だからね。小学校には北尾少年が在学中に出来たという赤土の土俵があって、僕らはそこで相撲をとったりしていた。
中学校にあがり、僕が2年か3年の時に、北尾が大関に昇進した。巡業のついでに母校を訪れたことがある。この時はすでに郷土の星である。落ち着いた緑色の着物に身を包んだ北尾はものすごくデカかった。大銀杏の似合う美男であった。記念に手形の押されたサイン色紙が全員に配られたが、それは印刷だった。
北尾が大関に昇進するこの年、元横綱輪島がプロレスデビューしたと思う。輪島は僕が最初に好きになった力士なのだが、プロレスラー輪島は世間からは嘲笑されていた。よし、俺がまた輪島を応援せねば。そして、これからは北尾も熱烈に応援しようと思った。
優勝しなくても横綱になれるくらいのトントン拍子で相撲界の頂点に立った双羽黒こと北尾光司は郷土ではスターだが、僕が高校に進学すると話は微妙に違う。同じ三重県といえども、他の学区や市や村からきてる級友たちにとっては、横綱の品位や成績を保てない双羽黒はからかいのネタだった。付け人を空気銃で打ったり、サバイバルナイフで脅かしたりして、騒がれるたびに僕は双羽黒のことをかばわねばならなかった。同時に輪島のこともかばわねばならない。これもファンの務めなのだ。
北尾のことを思い出したついでに、ヘンな思い出も蘇ってきた。高校1年の時だったが、休み時間になると、地味な男子生徒数名が僕の机の周りに集まり、なぜか「おはじき」に興じていた。僕は一番でかいおはじきに修正ペンで「双羽黒」と書いて戦わせていた… …休憩時間の過ごし方があまりにしょっぱい。やってることが小学生みたいでおぼこい。
そこまでして応援する私の気も知らず、双羽黒はちゃんこの味に文句を言って、女将さんを突き飛ばし部屋を出たきり、あっという間に廃業。北尾は「スポーツ冒険家」と名のり、また友達のからかいのネタになった。そして、ついに北尾は輪島のようにプロレスラーになった。
高校3年の受験で上京し、池袋のホテルに泊まったとき、ちょうど北尾光司のプロレスデビュー戦が行われた。髷を落とした北尾は幼い顔のとっちゃん坊やで、なんとも垢抜けなく、リングコスチュームもぜんぜん似合わなかった。それでも、対戦相手のクラッシャー・バンバン・ビガロを倒した瞬間、僕はホテルのベッドの上で何度もジャンプして喝采を送った。その日は2月10日だったはずだ。北尾がなくなった日はプロレスデビュー戦と同日だったと報道にあったから。
その後、僕は東京に出てきて一人暮らしをはじめ、北尾の応援も熱心でなくなった。相撲と違ってプロレスはなんでもありだから、問題児も埋没してしまうというか。優勝14回の輪島が借金を返すために、裸一貫になってまた頑張る、みたいな昭和なドラマが新人類北尾にはなかった。方や相撲界は、若貴ブームで空前の人気だったが、僕はそんなに相撲が好きではなくなっていた。僕がまた相撲が大好きになるのは、平成の問題児、朝青龍の登場を待たなくてはいけない。
輪島、双羽黒、朝青龍、と問題を起こす力士になぜか惹かれるようだ。問題を起こしてもファンはファンを絶対に辞めない。
さて、プロレスでもうまく花が開かなかった北尾は、引退後何をしているんだろうと時々思っていたが、15年?くらい前に立浪部屋のアドバイザーに就任したと知って、ちょっとホッとした。しかし、今回の死去の報道をきっかけにわかった事実は、立浪部屋のアドバイザーをしていたのはほんの一瞬だけで、あとは部屋とも連絡をとっていないようだった。
199センチもある巨体で、元横綱という抜群の知名度を持ち、プロレス引退後の人生をどうやって過ごしていたのか。体の存在感があるだけに、想像するとよけいにしんみりしてしまう。
ずっと前に『下足番になった横綱』という男女ノ川の評伝を前に読んだことがある。男女ノ川という人も194センチあった巨人で、なんでも引退後相撲協会からも退職し、サラリーマンや保険の外交員、探偵(!)などもやって、晩年は料亭の下足番をしていたみたいだ。普通の体格だったらひっそりと人生を送ることもできるが、どこに行っても目立ってしまう。
引退後、つまり退職後、昔で言うところの隠居の身。
江戸時代、巣鴨のある大店の主人が隠居した。本人は隠居生活をエンジョイするつもりだったが、思わぬ方向に人生のすごろくが進む… …という西條奈加さんの新刊『隠居すごろく』のカバーを描きました。
ブログに書きたい文章とブログで紹介したい絵が違うので、今回は無理やり縫い合わせてみましたが、そんなところで、また来週。

別冊太陽・柳家小三治

もう4月になるというのに、去年の仕事を引っ張り出してくるのもなんですが、「永久保存版」と銘打ってあるから、いつ紹介したって鮮度は落ちていないはず。今週は、別冊太陽「十代目 柳家小三治」に描いた挿絵のことでも。

小三治さんを愛する5人の方々の寄稿文「わたしの好きな小三治の一席」に絵を頼まれたのですが、5人のラインナップを見て、「おおっ、ついにこの日が来たか」と思いました。
いや、あまり話を期待されると困るのですが……その5人の中に南伸坊さんが入っていたのです。今でこそ、伸坊さんとは対談させてもらったり、展示をご一緒したり、お酒をのんだりしています。もうずいぶん前に「ぼくは伊野君のこと友達と思ってんだよ」とおっしゃてたので、私も堂々と「オレ、南伸坊と友だちー」と自慢しても差し支えないくらいの、間柄ではあります。でも、伸坊さんのエッセイに自分が絵をつける、ということは何かしら感慨深いものがありました。ついにこの日が来た……というのは、ただそれだけのことなんだけど。
伸坊さんは「E・S・モースと柳家小三治」という文章を寄せています。
そうそう、伸坊さんには、自ら装丁した本について語る『装丁/南伸坊』という本があり、そこで小三治さんの『ま・く・ら』を装丁した時のことが書かれていました。
別冊太陽では、その後日譚として、続編『もひとつ ま・く・ら』を装丁したことや、最初使う予定だったけど借りられなかった、モースの箱枕について詳しく書かれています。
担当編集者さんからは「『ま・く・ら』と『もひとつ ま・く・ら』の書影のかわりになるようなイラストはどうでしょう」と提案があったので、ついにこの日が来たと言っても、案外そんな時って腕のふるいようがなかったりするものなのかもしれないなと思いながら、私も即物的にまくらの絵にしました。小三治さんの似顔絵にしても伸坊さんが描いた方がはるかに可愛いから、腕をふるえなくてよかったのかもしれないなー。
柄本佑さんの「はぁー……すげぇー」という寄稿文につけたのが下の絵です。
この絵は松岡修造さんの「僕にはない熱さでできている」につけたもの。
粗忽長屋の場面は、小林聡美さんの寄稿文「入我我入って、小三治の落語みたいだな、と思った」に。
「こんなことがあった」by鈴木敏夫さんには「千早振る」をカルタっぽく。
他には「小三治に聞く142の質問」というコーナーも面白いし
古今亭文菊さんとの対談もめっちゃヒリヒリして読むのがこわいくらい。文菊さんが思いっきりダメ出しされてて、たぶん、収録現場は息が止まるような緊張感だったのではないかと想像します。そんだけ期待されてるということでもありますが、オレだったらへこむな(笑)。でも自分の仕事について真剣に正直に語り合えるのは最高なことだと思います。古今亭文菊さんは原田治さんが贔屓にしていて、パレットクラブの寄席で見たことがあります。その時はまだ二つ目でしたが、いい噺家さんだと思いました。
当たり前だけど、お二人とも着物が似合う。いや、当たり前なんだ、日本人なんだから。着物を着るのに理由がいる、なんで着てるの?って聞かれる(特に男性は)というのは、悲しいことではないですか。僕も着たいんだけど、やはり着る機会がないですよね。前に伸坊さんがあるイベントで浴衣を着て来た時、普段の洋服のかわいさとはうって変わって「大師匠」とでも呼びたいような雰囲気ありましたね。ま、オレなんて着物を着ても、万年「二つ目」だろうけどね。
はい、以上、ブログ更新リハビリ中につき、たいした内容はありませんが、これにて御免蒙る。

ワガママでなければ

さ、今週はちゃんと更新するぞ、と思って何日か前に下書きをしたはずなんだけど、メールボックス(いつもメールソフトで下書きしてる)を探しても見当たらない。

カックンショック!

大量に絵を描く仕事は一段落つき、いまは平常運転なのだけど、昨日はあることで心がずっと緊張していて、あまり眠れず、また一からブログの文章をひねるのがとても億劫だ。
それでも今朝は近所のおじさんと一緒にランニングもしたし、走る道すがらオオゼキ松原店(新しく建て直すために長らく工事中で、シートに覆われていた)がついのその全貌を表しているのを見たとき、かたまっていた心が一瞬弾んだ。スーパーの中で一番好きなスーパーオオゼキ。新しいオオゼキは深みのある煉瓦色だった。
10年続けたブログを5週間サボったわけだが(実際には更新はし続けているけど)、サボりぐせがついた今、5週間前の自分を尊敬しはじめている。そんなに毎週何を言うことがあったのだろうか。5週間前のブログからしばらく遡ると、1月の記事はやけに長い。これは1月がわりかしヒマだったからだ。
人生の畑はヒマなときにほどよく耕せるのである。我ヒマを愛す。ヒマに勝る至福の時間なし。
はい。いきなりなんだけど、まだブログで紹介していなかったブックカバーの仕事を。
ズッコケ三人組シリーズでおなじみの、那須正幹さんの『ばけばけ』(ポプラ社刊)という本です。髪の毛がうまく描けてませんか?そんなことない?
実はこの髪の毛、描いてるんじゃなくて消してるんです。鉛筆で黒く塗りつぶしたところを消しゴムの角でスーッと。たまたま思いついた技法だけど、これから使うことあるかな?
僕はいろんなタッチで描いてますが、それは一つのスタイルでやることに飽きちゃうからだし、スタイルを作ることや維持することが絵を描く目的ではないからだし、イラストレーターは色々描けた方がアプローチの仕方も増えるからだし、だし、だし、なんだけど、あまりに器用に描いた絵って、なんか物足りないんですよね。
絵はワガママであった方が魅力的だと思う。ワガママ言ってない絵はつまんないなって最近思うなー。ワガママな絵ってなんでしょうね。
『ばけばけ』の絵はワガママ言ってるんだろうか。技法を一つ発明したことで、描くときの新鮮さはあった。
絵のワガママっていうのは結局……とここからどうやって理屈を展開していこうかと思ったが、今日はリハビリということで、ここで終わりにしよう。
目標!
来週もちゃんと更新すること。
ではまた!

天心が埋めて惟雄が掘る

岡倉天心の写真はすごくエラっそうだ。このふんぞり返った感は俺が日本をしょって立つという明治人の気概なのかもしれない。アメリカ滞在中もここぞというときはバシッと羽織袴で決めたというし、アメリカのヤンキーに「お前たちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかわれたら「我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?」とペラペラの英語で当意即妙に切って返した、という逸話がある。ネットの中で見つけた。そう、引用すると負けた気がするウィキの記事の中に。それはいいのだけど、こういう話を聞くと、なかなかアッパレな漢の印象を受けるが、岡倉天心の絵を見る眼力ははなはだギモン。影響力のあった人だけに、当時も後世も岡倉天心に埋められた画家や作品が多かったんじゃないだろうか。というのは何年か前に図書館で借りてきた近藤啓太郎さんという人の本『日本画誕生』にこんなことが書いてあったからだ。

〈さて、天心は『日本美術史』で、応挙については四千五百字を費やして記述しているのに反して、宗達についてはたったの二百字である。池大雅にいたっては、逸話を記しているにすぎない。徳川家の絵師として日本画壇に君臨していた狩野派に反撥して、異端といわれた伊藤若冲、長沢芦雪、曾我蕭白など、すぐれて個性発揮の絵を描いた画家についてはほんのわずかな記述でしかないのである。従って、浮世絵は下等社会の趣味として、無視しているのは当然とも言える。そのくせ、天心は市井で「親方」と呼ばれていた工芸家をいきなり美術学校の教授にしてしまうのだから、理解に苦しむところである。〉
親方と呼ばれてた工芸家とは高村光雲かな。
それよかさ、天心が日本美術史の路地裏に追いやった画家たちって、まさに辻惟雄さんが再発見した『奇想の系譜』の画家たちじゃん!若冲、芦雪、蕭白、国芳以外に『奇想の系譜』にあげられている岩佐又兵衛、狩野山雪については岡倉天心はなんと言っているんだろうか。褒められてたら逆にくやしいけども。
芸術新潮の今月号の特集は「奇想の日本美術史」。50年前に辻惟雄さんが「奇想の系譜」で発表した奇想のスタメンに、新たに白隠慧鶴、鈴木其一などが加わり、さらに縄文から現代に至るまで、あるときはなりを潜め、あるときは爆発する奇想の血脈を紹介する。監修者の山下裕二さんが日本美術史を揉んでほぐして血行をよくするという特集だ。
私が担当したのは「奇想の8カ条」。
高札の上で高笑いする山下裕二奇想奉行。そして奇想の魂たちをあたたかく見守る辻惟雄奇想菩薩。一番右下の女性は現代の奇想美術家、風間サチコさんの似顔絵だ。
この奇想の8カ条に当てはまるような扉絵を描きたい、いや、おい、忘れちゃ困る、奇想のイラストレーターはこのオレさまだ!という気持ちで描きました。
自分の中にも奇想の血が流れている。日本美術史のようにあるときはなりを潜めて、あるときは爆発して。
高校生の時に寺山修司や横尾忠則や湯村輝彦さん、蛭子能収さん、根本敬さん、音楽でいったらエンケンさん……たちに惹かれていったのは、我が奇想の初潮にして満潮時。その後。セツ・モードセミナーに行ってからは奇想の血はややなりを潜めるも、長沢節先生自体はある意味、世間一般の奇想よりもマジで変わった人だったので、先生を観察しているだけで自分の奇想パワーは充電していたのかもしれない。
そしてようやく日本美術に興味を持ち始めた時期、つまり橋本治さんの『ひらがな日本美術史』連載中の芸術新潮、2000年2月号の「特集 仰天日本美術史『デロリ』の血脈」by責任編集 丹尾安典を読んで、再び自分の中の「へんな絵大好き!」気分が満潮かつ大潮になったのであった。
基本的に変人、へんな絵が好きな私です。
今は、自分の奇想メーターはどれくらいを指しているだろうか。
そうそう、ちょっと岡倉天心先生を褒めておこう。
同じく『日本画の誕生』の中に天心先生のユニークな「新案」という授業の様子が書かれていた。
美術学校第一回生の溝口禎次郎氏はこう語る。
〈新案というのは構図のことで、生徒に図を作らせるのです。ところが山水などなかなか図を作れるものではない。そこで各々いろいろの工夫をしたものだったが、一番面白いのは風呂敷を投げつけてその形によって山水の図を立てるといふ方法だった。これは元来芳崖さんが案出した方法らしかったが、兎に角やってみると不思議に図が出来る。柔らかな風呂敷では駄目だが、白い金巾か何かのこはい風呂敷を投げつけると、それが角張った狩野風の山に見える。さうして彼方に滝を落としたら面白かろうなどという考えが浮かぶのです。〉
この方法について著者の近藤啓太郎さんは「なんとも馬鹿々々しい話で情けなくなる」と述べているが、私に言わせりゃ、ベリーグッド!もっとも狩野芳崖の発案らしいから天心先生一人のお手柄ではないが。中国山水に似た山なんて日本の風景ではほとんどないし、かといって頭の中だけで絵を作ろうとするとどうしても観念的になる。風呂敷を投げて偶然出来る形から山水を起こそうなんて、まさに名案だ。もしかしたら狩野派では昔からやっていた方法なのかもしれないね。

あなたは暮しの手帖を読んでいますか

「安物買いの銭失い」という言葉があるが、ぼくの場合は「安物買いの物持ちいい」だろう。

ざっとわが六畳間を見渡せば、スチールの本棚4つに、カラーボックスが5つ。仕事机と椅子は20代の頃量販店で買ったもの。プリンターがおいてあるのはゴミ置場からひろってきた黒い台。実家からもってきた扇風機。

東京に来て5回くらい引っ越しているけど、新居にあそびにきた友達は口をそろえて「伊野の部屋って何回引っ越してもかわらないねー」と言う。

若いときはお金がない。「選ぶ」という余地があまりない。いつか自分の持ち家ですきなように部屋づくりができるようになるまでの、仮暮しの気分でずっといた。

ところが、五十の壁も目前にせまってきた昨今、いまさら家を買うだろうか?壁一面につくりつけの本棚をこしらえる予定があるだろうか?と自分に問う。たぶん、一生、借家暮しのような気がしている。それに、ぼくは年々老化していくのに、安物の机や椅子や本棚の朽ちないことといったら……電子レンジは30年前に上京したときに買ったものだが、毎日使いまくってもいまだにこわれる気配すらない。

いつかステキな暮しを、といった夢は、無理矢理にでももとめないと手に入らない。残りの時間をかんがえたら、無理をするのは今かもしれない。

職人さんのいい仕事に、高すぎる値段というものはない。仕事の対価であり、それを払えば、自分のものにできるのだから。少なくともぼくの絵の値段よりは適正価格だと思う。

今度からモノを買うときは、なるべくいい仕事のものを求めよう。自分も職人のはしくれだし……と、思っているのに、きのう革靴を買いに行って、2万円代後半、1万円代後半など、4足ぐらいためしてみたが、いちばん形もかわいくてピンときたのは7千円のスエード靴だった。金じゃないんだ、金じゃ。

暮しといえば、「暮しの手帖」。

20代、セツに通っていたとき、学校のロビーに「暮しの手帖」が置いてあった。長沢セツ先生と花森安治が関係あったのかどうか知らないけど、購読していたというより、送られてきてたのだろう。

「暮しの手帖」は実家にも何冊かあった。久しぶりに手にとって見たら、そのレイアウトや写真の古くさい(そのときはそう思った)ことに驚いた。え?まだこんな感じなの?とカルチャーショック。表紙も油絵で描いたような女性の人物画だったと思う(花森安治の絵ではない)。時代は90年代半ば。国民の暮しが贅沢を極めたバブルが終わって、まだ間もないころであった。

ありし日の花森安治の姿を写真で知ったのは、そのちょっと後だったかもしれない。ガマガエルのような顔でしかも妙に女装が似合っていて、男だとはなかなか信じられなかった。

花森安治の編集者としてのすごさは山本夏彦がよく書いていた。

花森安治は耳で聞いてわかる漢字しか使わない。目で読んで理解できる漢字は使わなかった。このために「暮しの手帖」の文章は読みやすい。漢字にするところと平仮名にひらくところの塩梅も絶妙、というようなことや、「商品テスト」のこと、あとは花森は戦争中は大政翼賛会にいて「欲しがりません勝つまでは」という標語を作った(公募のなかから選んだのだっけかな?)ということも、山本夏彦の本で知った。

「欲しがりません勝つまでは」は、なんというおそろしい標語だと思っていた。でも、この標語のポスターを世田谷区美術館の「花森安治の仕事」展(2017年)で見た時、あ、めっちゃいい!と思った。

おそろしい標語が書かれたおそろしいポスターをうっとりながめている自分がいたのだ。どうしてこんなにあたたかいのだろう。大政翼賛会の職員としてお国のために頑張る戦時下の花森、「暮しの手帖」編集長として庶民の暮しをたいせつに思う戦後の花森。
転向とか、今風に黒歴史などとかたづけていいものだろうか。ここでも「欲しがり/ません/勝つまで/は」というレイアウト術の妙。これが計算で割り出せないように、花森安治も単純に計算では割れないのだ。手書きの明朝の向こうから花森安治の太い肉声が聞こえてくるようだ。

パソコンが使えないとデザインができないのだろうか。フォントを持っていないと文字が使えないのだろうか。いや、筆と絵の具でただ紙に描くだけで表紙版下はできあがるのだ。そんな、あたりまえのことを、当然のごとくやっている。そのやり方しかない時代だから、という素朴さと強さの前に、パソコン小僧はフリーズした。

花森安治は「自動トースターをテストする」と題して食パン4万3千88枚を焼いて積み上げた。「暮しの手帖」の好企画として名高い「商品テスト」である。この食パン、ものをたいせつにする花森、および編集部一同があとで残さず美味しくいただきました……かどうかなんてどうでもいい。今なら炎上案件かもしれない。そんなことよりも、これがビジュアルの説得力だ!これが雑誌なのだ。「もしも石油ストーブから火が出たら」という商品テストもすごいぞ。これが本当の炎上だ!
このように花森安治は取材や文章、コピーの執筆はもちろん、写真撮影、レイアウトやロゴなどのデザイン作業、さらに絵もうまいんだからまいるよ。万能編集者でぼくにとっては同業の大先輩。熱量と質の高さにただ打ちひしがれるだけ。
25年ほど前にセツで手にしたとき、古くさいな〜と思った「暮しの手帖」だけど、今もう一度見るとどう思うだろうか。時代は変わった。もちろん「暮しの手帖」は今もなお発行されつづけているのはみなさんもご承知のとおり。古くさい感じはいっさいありません。
そして何号かまえから、「わたしの大好きな音楽」というコーナーでぼくは絵を描いているのでした。

はい、それではみなさん、石油ストーブから火が出たら、こうしましょうね!

芸人の道

日本農業新聞で連載中……ではなくて、連載していた島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」。そう、すでに去年の秋には連載が終わっていたのでした。そして気の早いことに連載中に文庫本の上巻が出て、連載が終わるやいなや、下巻も発売されていたのでした。さすが、佐賀のがばいばあちゃんスペシャルな早業。

私のブログではアップするのが遅れて、今回はやっと芸人の道に踏み出したところ。

この連載がはじまる前に担当さんから「文中に出てくるセリフを挿絵の中に入れて欲しい」というリクエストがありました。ホイホイと言うことを聞いておりましたが、物語が少年時代を経て、芸人の道に入ると、当然芸人の似顔絵の横にセリフを書く必要も出て来ます。そんな時にちょっと気になるのが、芸人を描かせたら右に出るもののいない名人イラストレーター峰岸達さんの絵に似てしまうんじゃないかな〜ということでした。

先に白状しておきましょう。なんか似てたらスミマセン。
しかも洋七さんの物語には、当然、峰岸さんの大傑作、小林信彦著「天才伝説 横山やすし」の挿絵で何度も描かれているヤッさんも登場します。
しかし比べるのが失礼というもの。
似ちゃったらどうしようかなと気にしながら描いている絵と、自分を大爆発させながら描いている絵とでは自ずと輝きが違います。
以前、峰岸さんと話しているときにこんなことをおっしゃてました。「モノマネの芸人でもさ、森進一のモノマネって、みんなやり方が似てるじゃない。あれは人がやってるモノマネを見て、自分もコツを掴むんだよね」と。
そうなんです。私も峰岸さんの絵を真似してコツをつかもうとしている。そんなことにしておいてください。
 ちょうど昨日が千秋楽やったみたいで、その日は、昨日とは違うラインナップやった。人生幸朗・生恵幸子さんのぼやき漫才でまた笑いころげた。小森さんちに帰って、会社から帰ってきた先輩にもう一回言うてみた。「先輩、俺やっぱり漫才師になりたい」
 ギターのチューニングをしていた可朝さんに、富井さんが俺を紹介してくれた。「この子、徳永くん。今日から『うめだ花月』に入ってもらうことにしたわ」「ほう、そうか。まだ若いんやろ? お笑いやりたんか?」 俺はガチガチに緊張しながら答えた。「はい、漫才師になりたいです」「ほうか。大変やけど、おもろい世界やで」 可朝さんのこの言葉を理解するには、それほど時間はかからんかった。
 電話にはお母さんが出たようで、りっちゃんは、大阪でアパートを借りたことや繊維問 屋に勤めたという近況を報告していた。お母さんは、ひとまず安心したようで、俺もほっとした。そんな俺にりっちゃんが受話 器を差し出した。「お母さんが、代われって」
 
2,3日したら、りっちゃんの家からやたらでかい荷物が届いた。包みを開けたら、ふかふかの布団が2組入ってた。お母さんがお父さんにりっちゃんの居場所が分かったことを言うたら、お父さんが「布団だけ送れ!」と怒鳴ったんやそうや。
 進行係の仕事にも慣れてきた頃、俺もそろそろ師匠につきたいと思うようになった。「誰がええかな。やすし師匠は怖そうやし、仁鶴師匠は落語やし……。そや! 島田洋之介・ 今喜多代師匠やったら優しそうやしええかもしれん」と、今思えば短絡的で失礼な判断やな(笑)。
「そや!ええこと思いついた!」俺は急な坂を一気に駆け下り、たばこ屋のおばちゃんに紙とペンを渡して代筆を頼み込んだ。おばちゃんは「何かよう分からんけど」とか言いながらも、俺の実家の住所と電話番号と「漫才師になることを承諾します」と書いてくれたんや。たった2万円やけど、去年の夏に藤本商店を辞めてから、初めて稼いだ金や。しかもこの金は。漫才師としての一歩を踏み出したというや。そう思うと、たまらん気持ちがこみ上げてきて、ボロボロ涙が止まらんかった。
俺らが初舞台と知ったルーキー新一さんは、10日間の寄席の間、舞台での姿勢やら、突っ込みのタイミング、ネタの振り方とか、細かいとこまであれこれアドバイスしてくれた。その一つ一つがものすごく勉強になったし、ルーキーさんの「君らは伸びるぞ」と言うてくれはった言葉が、大きな自信になった。「お勘定!」と、懐から分厚い財布を出して、さっと支払いを済ます豆吉さんが、これまたかっこいいんよ。豆吉さんには毎晩のように、すき焼きをごちそうしてもろた。ところが千秋楽の日、雷門助六師匠の怒鳴り声が楽屋に鳴り響いた。

進行係の頃はまだ給料はあったけど、漫才の修業だけになると、収入はほとんどない。当時はりっちゃんの月4万円の給料だけが頼りの綱やった。何にも食うもんがなくて、寛平と2人でマヨネーズとケチャップをちゅうちゅうと吸ったこともあったよ。

舞台が終わった後、座席をぐるっとひと回りすると、封がされたままのお菓子や折り詰め弁当、パンが結構残ってたんや。食べ物を見つけると、まず清掃係のおばちゃんに見せに行く。「おばちゃん、これ食べられるかな?」するとおばちゃんは、くんくんと匂いをかいで、ジャッジしてくれる。

 ある日、俺と寛平が、楽屋でいつものように緑色のおかゆを食べていると、新喜劇で「くっさー、えげつなー」のギャグでおなじみの奥目の八ちゃんこと、岡八郎さんが入ってきた。「何、食うてんの?うまそうやな」俺は芸名を書いてもらうために、美術部の部屋を訪ねた。そこで「めくり」の担当の人につい言うてしもたんや。「芸名は団順一・島田洋七です。それから上に『B&B』って入れてください」「B&B?何や、それ」「お前の名前の上についてるB何とかって、あれ、何や?」「いや、実は宣伝部の人から、同じ一門やないし、名前がばらばらで分かりにくいと言われまして……。二人で何とかというコンビ名があった方がええんちゃうかということになりまして……」「分かりやすいのか、あれは。何の意味があるんや?」「はい。B&Bは、ボーイ&ボーイという意味です」苦しまぎれのでまかせやった。
 舞台の“トリ”は笑福亭仁鶴師匠。「お疲れ様でした!」と師匠を送った後、いつものように「また明日な」と萩原芳樹くんと別れた。それが彼と交わした最後の言葉になるとは、このときは思いもよらんかったよ。なんと、次の日の舞台の時間になっても萩原くんは劇場におらん。
萩原くんがいなくなって、ちょっとの間は落ち込んでいた俺やけど、師匠をはじめ、いろんな人に相方を探していると伝えていた。そしたら、松竹芸能から吉本に移籍してきた上方真一というやつが、俺とコンビを組みたいと言うてるらしい。上方真一は、後に西川のりおと「西川のりお・上方よしお」でコンビを組むことになる。
 いよいよ予定日を迎えた。俺は一人でいるのが落ち着かんかって、ボタンさんにご飯連れてってもろた後、ボタンさんの行きつけのスナックで待機することにした。そわそわしながら酒を飲んでいたら、りっちゃんのお母さんから電話が入った。「生まれた!女の子や!」あるとき、桂文珍さんにも聞かれた。「お前、若いのにクーラー買うたらしいな。ちょっと見せてくれ」あるときトラックを運転してたら、再放送やったんやろな。ラジオからB&Bの漫才が流れてきたんや。「これ俺やん?俺、今、バイトしてるっちゅうねん!」とツッコミながら大笑いしたことあるよ。
 「ばあちゃん、なんで俺だけこんなについてないと? ちっちゃい頃から、かあちゃんと離れて寂しかった。野球も頑張ったのにあかんかった。漫才師で頑張ろうと思たのに……。なんでや!なんで俺だけ、こんなんなんや。もう辞めたい」「分かった」「何が、分かったと?」「お前の気持ちはよう分かったから、よかと。電話代がもったいないから切るよ」ガチャン。ツー、ツー、ツー。コンビ解消のショックとばあちゃんへ八つ当たりした後悔の気持ちで、落ち込んだまま数日が過ぎていった。そんなある日、ばあちゃんから手紙が届いた。「昭広へ この間は電話をくれたのに、すぐに切ってしまってごめんね」
師匠のお供で花月に行ったとき、当時は桂三枝という名前だった文枝さんが声を掛けてくれはった。「コンビ解消したらしいな」「はい、相方探してます」「そうか、あいつ、どうや?」文枝さんが指したのは、進行係をやっていた藤井健次という男やった。
 「漫才の方がええで。2人でやれるし、楽しいって。芝居は大変やぞ。売れるかどうかも分からんし。でも、漫才やったら、俺ちょっとやってたし、自信あるねん。なんやったら、俺が1人でしゃべるし、黙ってうなずいてくれてるだけでもええから、大丈夫やって」有川さんと授賞式の打ち合わせをしているときにぽろっと、嫁さんと子どもがいることを打ち明けたんよ。「それ、いただき!」指をぱちんと鳴らした有川さん。授賞式には当然、島田洋之助師匠も来る。そこで師匠に打ち明けて、その場にりっちゃんと尚美を呼ぼうということになった。
洋之介師匠は、驚きながらも、「何で、今まで黙ってたんや。嫁はおるわ、子どもまでいるわ。でも、よかった。よう言うてくれた」と、涙を浮かべて俺の肩を抱いてくれた。大きく目を見開いて、怒ったような顔をしてた今喜多代師匠は、「もう!何よ、何も知らなかったわよ!早く言いなさいよ、もう」と、笑顔になった。
当時、うちの師匠と並んで大御所といわれてたんは、夢路いとし・喜味こいし師匠。いとし・こいしさんの漫才は、台本通りに隙なく演じるきちっとした芸で、話術の素晴らしさでは群を抜いていた。あるとき、漫談の滝あきらさんが「巡業で師匠にお世話になったから」と、俺に肉をごちそうしてくれると言う。「そうか、滝君、すまんな」と師匠も喜んで送り出してくれた。さあ、どんなビフテキが食えるんやろと楽しみにしてついて行ったところ、なんと牛丼の吉野家(笑)。島田洋之介・今喜多代師匠の弟子はいっぱいいたけど、なかでも有名になったんが、今いくよ・くるよさん、俺、そして島田紳助やった。
 あるとき、そんな俺らを見ていた横山やすし師匠が俺に声を掛けた。「おい。洋七。お前、ちょっとこっち来い」「なんですか?」「失敗しても怒らんでええんや。あいつがうまいことしゃべれへんのやったら、しゃべらんでええ漫才をやれ」
やすし師匠に会ったとき、聞かれた。「あの消防士のネタ、誰が考えたんや?」「俺です。師匠に言われた通り、テンポ上げて、それからいろんな人の漫才の間やスタイルをパクりまくりました」そしたら、やすし師匠、おなじみの人差し指を立てたポーズで言わはった。
 MBS(毎日放送)の「ヤングおー!おー!」は桂三枝さん、笑福亭仁鶴さん、横山やすし・西川きよしさんが司会する若者向けの番組として絶大な人気を誇っていた。番組内で月亭八方さん、桂文珍さん、桂きん枝さん、4代目林家小染さんからなるユニット「ザ・パンダ」はすごい人気で、後に明石家さんまが加入して「SOS」に改名。
※洋七さんも「いろんな人の漫才の間やスタイルをパクリまくりました」と言ってるように、芸事の基本は真似る、真似ぶ、学ぶ……要するにパクリなのだから、峰岸さんと多少似てても許されるだろう。
※「ザ・パンダ」を調べていてわかったが、当時の桂文珍さんは長髪であった。洋七さんの新婚家庭にクーラーを涼みに来た際の文珍さんの髪型を短髪で描いてしまったが、たぶん間違ってると思う。

買っておきたい手ぬぐい

年の瀬です。今年のうちにやっておかねばならないことは色々ありますね。

みなさん、芸術新潮12月号をお買い忘れではありませんか?何?まだお買い求めになっていない?それはいけませんね〜。あと10日もすると来月号が出てしまいますから、買うのなら今のうちです。

特集は「これだけは見ておきたい2109年美術展ベスト25」で、来年必見の展覧会の見どころが老舗美術専門誌ならではの切り口で切りそろえられてズラリ並んでおります。……いや、なに、この来年必見の美術展特集というのは「日経おとなのOFF」や「美術の窓」でもやっており、なぜかよく売れる企画らしいのです。三雑誌をそれぞれ見比べて買うのもよろしいが、今年は買うなら絶対「芸術新潮」!

なぜなら私デザインの謹製手ぬぐいがついてくるからじゃ〜!買わなきゃついて来ない。図書館で借りてもついて来ない。多分中古で買ってもついて来ないんじゃない?今、売ってる時に買わないと!

手ぬぐいの絵柄に登場するのは、来年開かれる展覧会の画家や作品たち。「手ぬぐいだから銭湯か温泉に入ってる絵なんてどうです?」と言い出したのは自分なのだけど、いざ下絵を考える段になって、考え改めた。なぜなら、北斎、ベラスケス、ゴッホ、クリムト、バスキア、応挙などを描くときに風呂の設定だと裸にしなきゃいけないわけで、なんだかおっさんやジジイのきたない裸なんて絵柄にしても、販売促進にならないんじゃないかと思ったからです。
それで違う絵柄でラフを出したのだが、「自分で温泉か銭湯って言ってたじゃん!これはボツ!」ということになって、結局裸の親父たちを描きました。銭湯にすると男湯女湯で分けなきゃいけないので構図が作りにくく、露天風呂設定にしました。マルガリータを脱がせるわけにもいないので女子たちは今から入るところ。
クリムトなんてほんと気持ち悪いおっさんなんですから。本人の写真を知らない人は画像検索してください。でも、ホラ、かわいいにゃん?
題材は親父たちの裸であっても、かわいくしなければなりません。2色使えるということだったのですが、迷い迷って10パターンも作ってしまいました。でも、どうもどれもピンと来ず、ようやく11番目に紺と赤の配色にした時、ようやくピン!ときました。 
私はイラストレーターとして仕事がこなかった時期がえらい長いのですが、その理由として考えられるのは、描く世界が「なんか変」なので使いづらいのではないかということです。だから、私は、言いたいことはそのままに、でも世の中にも受け入れられるようになんとかすり寄ろうとしてきたのです。実際どのようにすり寄ってきたかは、あんまり自分でもわかってないんですけど。
で、今回、芸術新潮というメジャー美術誌の手ぬぐいを作って、思ったことは……全然、世の中にすり寄る必要がなかった!この手ぬぐいなんて20年くらい前から描いてる絵の世界と何にも変わっていない!……ということでした。
さて、もう一つお買い忘れではないですか?「ビッグイシュー」のリレーインタビューに出ました。今売ってる号の二つくらい前になってるかもしれませんが、多分バックナンバーも扱っていると思うので、街角で販売者を見つけたら買いましょう。人助けです。子供の頃に読んだ「笠地蔵」を思い出しましょう。一冊買うと350円のうち180円が販売者のホームレスの人の収入になります。
ボブ・ディランの表紙の号には南伸坊さん、エルヴィス・コステロの表紙の号には北尾トロさんのインタビューが載っています。私が載ってるのは野菜号です。

八百屋から漫才師へ

日本農業新聞で連載中の島田洋七さんの半生記「笑ってなんぼじゃ!」の挿絵から。島田洋七さんが八百屋さん(藤本商店)に住み込んで働いている頃の話から漫才師になる決心をするところまで。
ある寒い日の朝、じいちゃんが風邪で高熱を出して起き上がれんようになってしもた。それで俺に「一人でせりに行ってこい」と言う。「せりなんて、したことない。俺にはまだ無理じゃ」(中略)「藤本さん、ハクサイを950ケースもどうするの?」「950ケース?!」そんなに買った覚えはない。俺が買ったのは95ケースのはずやった。俺はめまいがしそうになった。
「アキやん、今日はどうやった?」「ごめん。ハクサイを買いすぎてしもうた」「ちょっとくらいええ。どれくらい買うたんじゃ?」「950ケース……」その途端、爺ちゃんは頭からすっぽり布団をかぶって、そのまま出てこんようになってしもた。
「それや!」俺はパチンと指を鳴らして立ち上がり、ばあちゃんに2000円もろて、布団屋と電気屋に走った。布団屋で買うた白い敷布とさらしに「産地直送 藤本商店」と書いてのぼりと幕を作った。そして電気屋で買うたマイクとスピーカーをトラックに取り付けた。
住み込みで、食費もただ。飲みに行くときは、まっさんがごちそうしてくれるし、たまに服を買う以外は、ほとんどお金を使うこともないから、自然と貯金が増えて、そのお金で俺は車を買うた。4気筒2000ccのセドリック130型、発売価格は百万円以上もする高級車。
8月の暑い日。関東、関西の大学に行っている元野球部の連中が夏休みで広島に帰ってきた。(中略)俺も野球のことを忘れかけていたけど、みんなも、そう。野球の話は、全然せんかった。その代わりに関東に大学に行ったやつらがするのは「東京」の話やった。「新宿のさあ……」とか「渋谷でさあ……」とか、関東の大学に行ったやつらの話が弾んだ。言葉が標準語になっているせいか、みんな心なしか垢抜けて見える。
藤本商店では、ほんまにいろんなことを勉強させてもろた。仕事も楽しかった。このままずっと八百屋をやってもええと思てた時期もあった。それだけに、辞めると決めたものの、俺もものすごく寂しかった。
東京に行きたい! という勢いで藤本商店を辞めたものの、貯金を計算してみたら、上京するにはまだもうちょっとお金を貯めなあかんことがわかった。 そこで兄ちゃんの会社でアルバイトをすることにした。ガス、水道の設備会社に就職していた兄ちゃんは、その会社で工事担当の部長になっていた。俺は仕事の合間に2日に一度、ジャンク屋に鉛管を売っては、夕方に肉と一升瓶を持って現場に戻る。みんなで焼き肉をして、たらふく食べた。
俺がユンボに乗って道路を掘っていたときのことやった。道端の家のおばちゃんが工事の音がうるさいと俺を怒鳴りつけたのがことの発端。「うるさい! がまんしとったら、ええ気になりよって」俺はその言い方にカチンときた。「うるさいもクソもあるか。こっちは正式に手続きして工事しとるんじゃ!」
あるとき、中学の同級生と喫茶店でお茶を飲んでいたら、デパートの玉屋に勤めるという5人の女の子たちと知り合った。話が盛り上がって、俺はその中の一人にちょっと好意を持った。確か「ネクタイ売り場にいる」とか言うてたから、次の日に玉屋のネクタイ売り場に行ってみたんや。
一ヶ月半後。俺はりっちゃんに会うために、クラウンで佐賀に向かった。玉屋の前に車をとめて待っていたけど、いつまでたってもりっちゃんは現れん。いや、正直に言うたら、顔を忘れてたんや(笑)。
りっちゃんは最小限の荷物だけ持って、いつものように会社に行くふりをして家を出てきたのだと言う。会社には朝、普段通りに出社して、昼休み前に上司にいうたらしい。「私、会社辞めたいんです」
上司は冗談やと思たんやろね。笑いながら昼飯を食べに行った。そのすきにりっちゃんは、荷物をまとめて出てきたんや。佐賀駅には、りっちゃんの友達3人が見送りにきていた。
浜松町、田町、品川、大崎、五反田、目黒、恵比寿、渋谷……。野球部のやつらが言っていた街が、車窓を流れていく。「これが東京かあ」「なんかすごかね」
「隣の人も、だからさーとか、どこどこ行っちゃってさーとか言うてるから、最後に『さ』をつけたらいいんや」「うん、分かった!」りっちゃんは真剣な顔をしてうなずくと、手を上げて店員さんに叫んだ。
俺たちはタクシーに乗ることにした。「どちらまで?」「ニューオータニ」俺は東京のホテルといえば、テレビドラマによく出てきたニューオータニしか知らんかった。東京にはニューオータニしかホテルはないと思てたんや。
「こんなとこにいたら、あっという間にお金がなくなってしまうぞ」「ここだけじゃなか。東京にいるだけで、すぐお金がなくなるばい」「とにかく、はよ仕事を見つけんといけん」俺はフロントに電話して、その日の新聞を全部持ってきてもろた。
「まあとにかく、早く広島に帰ったほうがいいよ。心配しているだろうから、家に連絡だけでもしときなよ」「そうですよねえ。あ、Aさん、あれなんですか?」俺が指をさしたテレビを見て、Aさんは言うた。「ん?あれは漫才だよ」
俺は文房具屋で履歴書を買うて、まずホテルから一番近いタクシー会社で面接を受けた。(中略)後で考えたら、悪くない話やったんやけど、おじさんの早口の東京弁にあがってしまった俺は、何がなんやらよくわからんようになって、とにかく「俺の免許ではいけん」と言うことだけは理解できた。
俺は明子おばさんに電話をした。「明子おばさん?俺、昭広」「あら、昭広ちゃん!久しぶりね」「実は今、立川にいるんです」「ええ?」明子おばさんはかなり驚いてたけど、すぐにおじさんと一緒に駅まで迎えにきてくれた。
おばさんが、「ちょっと」とおじさんを呼んで、廊下で何やらひそひそと話をしている。俺とりっちゃんは顔を見合わせた。流れる不穏な空気。茶の間に戻ってきたおばさんは、特に変わった様子はなかったんやけど、「明日、どこに行くの?」としきりに聞いてくる。「あかん、これはバレた」と俺は直感した。
野球部の小森先輩は「とにかくいっぺん、大阪に来いや。ほんで大阪見物でもして広島に帰れや」と快く受け入れてくれた。俺はりっちゃんと生まれて初めて新幹線に乗って大阪に向かった。東京や大阪の大学に行った連中が「速い、速い」と言うてた新幹線。田舎の在来線とちごて、外の景色がものすごい速さで流れていく。
翌朝、小森さんが仕事に出かけると、奥さんが赤ちゃんをあやしながら「せっかく大阪に来たんやし、吉本でも行ってきたら? 私はこの子がいてるし、一緒に行ってあげられへんけど」「吉本って何ですか?」「知らんのん? 新喜劇いうて、めっちゃおもろい芝居とか、漫才とか落語とかやってるねんよ」
ギャグ連発の吉本新喜劇も笑いっぱなしやったけど、やすしきよしのきよしさんのポケットミュージカルに、中田カウスボタンさんの漫才、そして笑福亭仁鶴さんの落語は、飛び抜けておもしろかった。とにかく人生でこんなに大笑いしたんは初めてちゃうか、というくらいのおもしろさやった。衝撃やった。「俺、あんなんになりたい」と舞台を指さして、りっちゃんに言うた。「あんなん? うん、なれるかも」と、りっちゃんも言うてくれた。その日の夜、小森さんに言うたんや。「先輩、俺、人生決めました」「そら、よかった。ほんで何すんねん」「漫才師になります」「おい、ちょっと待て。お前、本気か?」「はい」「そやけど漫才師て、そんな簡単になれるもんやないで」
ちょうど時間となりました。この続きはまたのご縁とお預かり〜。

カネの話。マネーの絵。

あ〜今日はブログの更新休みたい。

あ〜今日は仕事行きたくないってことあるでしょう。

仕事と違ってブログ書いてもおカネもらえないし。読んでる人だって少ないし。いや、昨日から何か書く事考えてて、2回くらい下書きを書き始めたんだけど、面白くないからボツにしちゃった。今週はマネー雑誌や保険のチラシに描きちらした絵を載せて、それに何か文章をつけようと思ったんだけど、面白いものが全然思いつかない。

カネの話。みんなが大好きなマネーの話。カネが入ったらバッと使う人と、貯める分を残しておく人とで言えば、僕は完全に後者であり、そのおかげで人生で貯金がゼロになったことはない。ただ、あえて貯めるのではなく、物欲がないので自然に余剰が出るだけの話。といっても41歳までバイトしていたので、中途半端なしれた額だ。貯金は自分が死ぬときにきっちり全部使いたい。借金を残して死ぬ可能性だってある。自分が死ぬときにちょうど蓄えが尽きる、そんなうまいこと絶対にいかない。

 上の絵の依頼者は妹であった。妹夫婦は数年前から三重県四日市市で保険の会社をやっている。保険の会社って言ってもフリーの営業所?みたいなものか。そこのパンフレットに頼まれたもの。印刷物を送ってこない。これを読んだら送ってくるように。保険も入ってあげた。もちろん絵のギャラはいただいているが。
こちらの絵はダイヤモンド社の「ダイヤモンド・ザイ」という雑誌に描いたもの。いつもの黒い線に飽きて、線を青くしてみたんだけど、あまりうまくいかなかったかも。こちらは「日経マネー」という雑誌に描いたもの。この雑誌にはマツコの番組でブレイクした桐谷さんがよく登場するのだが、桐谷さんのお面を子供がかぶっている絵、なんのこっちゃ。
この木の絵も「ダイヤモンド・ザイ」に描いたもの。木は投資信託を現しているんだっけっかな。
はい、とりあえず更新はした。荷が下りた。
あ、そうそう、伸坊さんとの対談更新されてます。
ついに最終回。昨日前篇が更新されました。お読みくださいませ。
この対談もきっかけはブログだったんですよ。
だから嫌でも飽きてもネタがなくても毎週更新しないとね!
〈でも、ひっくり返して言うと、「イラストレーション」という言葉を軸にすると、あらゆる絵を扱えるってことでもあるわけですよね。そこがこの連載の素晴らしいところです(笑)〉

新・三十六歌仙

もう先月の話になってしまいましたが、芸術新潮9月号「いまこそ読みたい新・三十六歌仙」という特集に歌仙の絵を12人描きました。

他の24人は丹下京子画仙と谷山彩子画仙が担当されております。丹下画仙はおそらくゴリゴリ描いてくるだろう。谷山画仙はどういうタッチでくるのだろう。なるべく被らないようにしたい。いつも芸新から依頼されるのは漫画とか、細かい肩のこる仕事が多いので、今回は思いっきりのびのびしてみよう、そんな気持ちでした。

私が高校の時に寺山修司にハマっていたのはこのブログでも何度か書いたと思います。寺山修司といえば芝居や映画も手がけていますが、やはり出発点は俳句と短歌。特に短歌が素晴らしい。短歌なんて百人一首の世界しか知らなかった高校生にとって、寺山修司の前衛短歌は頭がジンと痺れるくらいにカッコよかったのです。

今でもスラスラ諳んじれます。
例えば「田園に死す」という映画の中にも登場した短歌。
大工町寺町米町仏町老母買う町あらずやつばめよ
新しき仏壇買ひに行きしまま行くえ不明のおとうとと鳥 
たった一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
こういうのもあれば
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駆けて帰らん
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや
ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし
こういうのもある。
で、今回の新・三十六歌仙中には寺山修司は入っていない(笑)。でも塚本邦雄は入っている(ただし私ではなく谷山画仙担当)。塚本邦雄、岡井隆、春日井健という前衛短歌の歌人の名前も寺山つながりで覚えました。……なんて書いていると文学青年のように思われるかもしれませんが、私は高校2年でドストエフスキーの「罪と罰」を読むまで一冊の小説も読んだことがなかったのです(やや大げさだけどそんな感じ)。
谷山彩子画仙のよる塚本邦雄。
丹下京子画仙による伊勢。
以下は私の歌仙の絵です。
今回の歌仙の割り振りがどういう理由に基づいていたのか忘れましたが、橘曙覧(たちばなのあけみ)が入っていたのは嬉しかった。「伊野さん好きでしょ?やっぱり」と担当さんは得意顔でした。
たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無かりし花の咲ける見る時
たのしみは心にうかぶはかなごと思ひつゞけて煙草すふとき
たのしみは錢なくなりてわびをるに人の來たりて錢くれし時
とくに
たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時
などは私と言わず、絵や書を書く人は誰でもたのしい時でしょう。
さて話はいきなり変わりますが、この度、雑誌を編集してみました。もちろん一人でやったわけではありません。
私も所属している東京イラストレーターズ・ソサエティから刊行される「TIS Magazine 2018-19」です。
イラストレーターがイラストレーターのために作った雑誌なので、イラストレーター以外の人が読んで面白いかどうか知りません。でもイラストレーター以外の人にも読んでほしい。我々が一体何ものであるか知ってほしい。
編集の仕事というのはやってみると、とにかく雑用が多いですね。企画たてるときが一番楽しいです。依頼が超苦手。あとはひたすら雑用。取材は楽しい。あとはひたすら雑用。原稿書くときも楽しい。あとはひたすら雑用。修正願いは精神的緊張が高まる。あとはひたすら雑用。阿吽の呼吸で進むとうれしい。あとはひたすら雑用……という感じでしたね。
時間的余裕はあったし、仕事の合間を見てやってたし、今回だけのことだから楽しめました。でも、これを毎月やるってのは結構大変ですね。編集者の苦労がしのばれます。
10月4日発売ですが、よかったら1冊いかがでしょうか。

ブレーメンの愚連隊

こんにちは。今週は先週の続きで「昔話法廷」の「ブレーメンの音楽隊裁判」の絵です。さっそく絵を載せましょう。ありがとうございました。え?盗賊の息子が全然外人ぽくないって?そう、なぜなら日本人俳優が演じますから。はい、いつもなら「ここで余談でも……」という運びになりますが、今週はこれでオシマイ。理由はネタを何も考えてなかったのと、今日は下高井戸シネマで映画が1000円で見られる日なので、12時5分から『15時17分、パリ行き』を見たいからです。バイバ〜イ!

昔話法廷「赤ずきん」裁判

先週、先々週と2週も続けてブログの更新をサボってしまった。一応、夏休みということでサボったのだが、僕自身に夏休みがあったわけではなかった。

唯一の夏休みがブログを休むということ。

なんて味気ないことだろう。今年の夏は本業(しがないイラスト仕事)以外のことで何かと忙しくて……。
しかし、振り返れば僕の人生は、前半がほぼ夏休みだったようなものだし、あと10年も経てば人生の冬休みが早々とやってくるかもしれないので、今、やることがあるのは悪いことじゃない。
でも、一息ついて、畳の上に寝転んだときには「ああ、この姿勢こそ自分本来の姿だ」と思う。つねに寝転んでいたい。
ここ4年、毎年蒸し暑くなってくると始まる仕事がEテレの「昔話法廷」だ。当初は2年で終わりだと聞いていたが、去年もう1年伸びて3年目に突入。去年で正真正銘、最後のはずだったが、今年もまたやるという。今年こそ最後だというが本当なのだろうか。こうなったら来年はぜひウソつき少年が主人公の「オオカミ少年」をやって欲しい。
今年は「赤ずきん」と「ブレーメンの音楽隊」だった。今週は「赤ずきん」の絵を載せよう。
この仕事は最近の自分にはめずらしく、全編ほぼアナログで、紙に絵の具で描いている。色もだいたい固有色に基づいているし、描写も特にこれといった工夫もなく描いている感じなのだが、20代の頃(必死に自分なりのスタイルを探していた頃)の僕が見たらなんと言うだろうか。絵の説得力において何が重要か、わかってきたようで、いまだにわかっていない。
先週の火曜は京都に行っていた。日帰りだった。そのせいでブログもお休みしたのだった。京都へは雑誌の対談と、新聞社の取材、クラウドファンディグの取材のために行った。朝、東京駅に早く着いたので、朝ごはんに鯛茶漬けを食べて、さらにコーヒーとチョコクロワッサンも食べたので、お腹がいっぱいであったが、雑誌の編集の方がお昼ご飯用にミックスサンドを買ってくれた。新幹線の車中で食べないまま、カバンに入れておいた。
京都の大徳寺で仕事をしている間も、サンドイッチはカバンの中に入ったままだった。京都は本当に暑い。蒸し器の中にいるようだ。体の外側よりも内側のTシャツの中に、汗が流れる。用事をすべて終えて夕方、大徳寺から北大路の駅へ歩いている時に、ミックスサンドが気になってきた。この暑さでもういたんでいるのではないだろうか。京都駅で何か美味しいものを食べたいが、かと言って、ミックスサンドを捨ててしまうのは気が咎める。そして何よりお腹が減ってきた。朝ごはん以降、口にしたものといえば、お寺で出された羊羹一切れだけだった。ミックスサンドの消費期限が限界に達し、そろそろ腐ってしまうような気がしてならない。僕は歩きながら、ミックスサンドを食べ出した。よかった。まだ腐ってはいないようだ。腹が減っているのでうまい。しかし、京都まで来て、行儀悪く、なんで歩きながらサンドイッチを食べているんだろう。この場合、どういう選択が正しかったのだろうか。
はい、この時の朝日新聞の取材がネットにあがっております。よろしければご覧ください。

やつらの印象派物語

3ヶ月も前に「芸術新潮」でやった仕事をいまさら紹介。

印象派のことがだいたいわかる漫画を描きました。

僕も印象派のことはだいたい知ってるつもりになっていましたが、ドガがわりと中心的なというか、そのために嫌われたりして、ま、やな奴だったみたいで、そういう事情は初めて知りましたね。

漫画は全部で3見開き描きました。一つ目は『やつらの「印象派」前夜』です。
 後に印象派と呼ばれる人たちは、サロンに落選した人たちだったわけです。いや、正確にいうとたまに入選したりもした。新しい時代のものごとは、新しい時代の方法で描きたい。でも、そうやって描いた絵はなかなか入選にならなかった。
ドガ「保守的なアカデミーのやつらには、もう我慢ならん!マネさん協力してくれますよね?」
マネ「ドガくん、まあそういきり立つことはない。体制を覆すにはまず相手の懐に入らなければ。そのためにもやっぱり、サロンにはこだわらないといけないぜ」
モネ「でも、このままじゃまずいよ」
ルノアール「みんなでお金を出し合って、無審査のグループ展をやろう!」
カフェ・ゲルボアに木曜の夜に集まっては、こういう相談をしていたのです(たぶん)。
 二つ目の漫画は『「印象派展」全8回のすったもんだ』です。
僕はグループ展をするなら、印象派展を見習うべきだと思っています。一人の力じゃ弱いけど、みんなでやれば運動になる。印象派展は会場を変えながら、全部で8回開かれました。
第1回展は、写真家ナダールのスタジオ。写真の登場で絵が変わり始めたのが、つまり印象派なわけですが、記念すべき最初の展覧会は写真家のスタジオで開いたんですね。詳しい経緯は知らないけど、おもしろいですね。
第5回展からドガが性格の悪さを発揮しだし、第7回ではハブにされちゃう。でも最後の第8回展にはまた戻ってくる。ま、前衛芸術といえども人間関係から自由になることはできないのです。
ポスト印象派のゴーギャンは第4回展あたりからすでに参加してる。その第4回展を見にきて感動した画学生がスーラ。
7年後の第8回展にはスーラが出品者として参加している。他にはシニャックも。いわゆる「新印象派」と呼ばれる人たちです。あと意外なところではルドンも参加している。
こう見ていくと、印象派展は若い画家たちに強烈に支持されてる感じだし、彼らは先輩に倣うだけでなく、オレはこうやってみたい、というのをやりだしてる。
そんな若者の一人、ゴッホはこの年パリにやってきた。第8回展を見て感激してこう言った。
ゴッホ「それぞれの人が、より崇高で素晴らしい目的のために、情熱を持って争っている!」
  三つ目の漫画は『宴のあとのそれぞれの道』
印象派展が終わる2年前、これまたサロンに対抗したアンデパンダン展がスタートする。ここには、ゴッホ、ルソー、ロートレック、マティスなどが参加しました。
若い画家たちを一喜一憂させ、反発させてきたサロンですが、徐々に命脈はつきようとしていました。
そこに新たに登場してきたのが画商です。画商ポール・デュランは印象派の作品をアメリカに持って行って売った。モネの「積みわら」シリーズは3日で完売。当時のマスコミは印象派には基本辛口でしたが、評価してくれた批評家もいました。ゾラやデュレやマルラメ達です。
今や、現代美術は一点で何億円、何十億円もする、ある意味狂った世界になっていますが、画家と画商と批評家が一緒になって価値を上げていく方法の原点がここにあるのではないでしょうか。
そのへんのことなどを南伸坊さんとのWEB対談で話していますのでよかったらお読みください。
オマケに印象派たちの似顔絵を。

惰性の法則

あー、今日もジョギングをしてきた。

暑かったが、まあまあ走りやすかった。そして、半分惰性で見てる朝ドラ「半分、青い」に付き合い、朝ごはんを食べ、ブログの文章を書いている次第です。

このブログも惰性でやっていて、最近は、実人生も惰性で生きていると言ってもいい。
人工衛星は軌道に乗ったらあとは慣性の法則に従って、ぐるぐる地球の周りをまわり続ける。しかし宇宙空間と違って色々抵抗の多い地上世界では、惰性で生きているとそのうち駄目になってしまう。これが惰性の法則である。
「自分の人生、なんとか軌道に乗せてやる!」と、魂にロケット噴射をかけていた頃に比べたら、やっぱり今は惰性だ。いや、自分なりに日々頑張っているつもりではある。でも惰性なんだ。
…と、前置きし、仕事で描いた絵を載せよう。これも惰性の産物なのだろうか?
いや、あらがうことはかえって身を滅ぼす要因で、流れに身を任せ、漂うように生きることこそ、真理の道に近いのだろうか。
『MONOQLO the MONEY』という投資信託や株式などマネー情報を紹介する隔月月刊誌に描いた絵です。お金に執着して財布を逆さまにしている愚者。まわりには「投資信託で資産を100倍に!」「投資信託で億万長者!」みたいなうさんくさい本が。お金にとらわれず悠々自適に過ごすお金の賢者。「え、運用?ほったらかしだよ」みたいな余裕。お金儲けして喜んでいる自分を思い浮かべる失敗例。新商品だからという理由だけでプレゼント箱に飛びつこうとする失敗例。
目の前の値動きに一喜一憂する失敗例。まだ利益が小さくしか出ていないのに、すぐに売ろうとする失敗例。1年後には花が咲いているのに。
お次は『通販生活』に描いた「秘密厳守のあの仕事の中身はどうなっているんだろう?」という特集の挿絵。週刊誌のスクープ
証言してくれる人物と会う際の場所選びも重要になってくる。内部告発の場合、情報提供者も危険に晒されており、記者と接触した事実も秘密にしておかなければならない。話を聞くのは必ず個室。時にはドラマのワンシーンのように、人気のない埠頭で落ち合うこともある。企業秘密
秘密防衛の肝は、従業員を監視すること。具体的な対策として、オフィスに監視カメラを設置する企業も増えているが、やりすぎてしまうと社内がギクシャクしてしまう。特に、社員数が少ない中小企業ではなかなかやりづらい。元号制定
元号には「俗用されていない」という条件があるため、商標登録されていないか、会社名や商品名に使われていないかなど、ラーメン店の屋号に至るまで候補の段階で調べる必要がある。元号制定は時間が必要な作業なのだ。裁判員
開始から10年目に入った裁判員制度。裁判員は一生にわたり「守秘義務」を負うことになる。しかも裁判員裁判は重大犯罪に限って開かれるので、裁判員にかかる精神的な負担は大きい。「裁判のことを誰かに聞いて欲しいが、守秘義務があるから話せない」と思いつめる経験者も少なくない。核輸送燃料
核兵器にも転用可能なプルトニウムが、万が一テロリストの手に渡っては大変。運搬に使われるのは7000トン級の専用大型輸送船で、船尾には機銃も備えてある。運搬は常に2隻で行い、一方は空にしてどちらにプルトニウムが積まれているかわからないようにしている。